第四十二話 満たされし世界のエトセトラ
数年単位でご無沙汰しております。
本業とプライベートで色々あり、連載が止まっておりましたこと、お詫び申し上げます。
事情については活動報告にて。
秘密の視察を終えて神殿に戻った少女は、己の見聞したことを密やかに日記へとしたためた。
ドゥナテリウスが下々の者たちからも称賛されていること、活気あふれる下働きたちの様子。ひとつひとつ思い出しながら筆を走らせていたが、その手は厩舎へ向かったときのことに差し掛かって止まってしまった。
「あの子供……あの哀れな環境から救い出してあげたいわ」
あのような環境、境遇では怪我も日常茶飯事であろうし、病気にもなってしまうだろう。厩舎番の長の話では自ら汚れをかぶり、湯浴みも拒絶しているというが、幼くして母を亡くし、魔獣にいつ食べられるともしれない恐怖の中で生きてきて、心が壊れてしまっているのかもしれない。
「まっとうな環境さえ整えてあげれば、きっと今の状況が間違っていると気付いてくれる筈だわ」
少女は独り言ちて、引き出しから民の陳情書に使われているものと同じ便箋を取り出した。
「私が直接見たとはかけないから……ええと……」
第三者の目撃談として、もしくはルキフェリスの名を借りても良いかもしれない。彼はあの場にいたのだから、もしドゥナテリウスが事実関係を問いただしたとしても見たことを伝えてくれるだろう。
「厩舎の……いいえ、この際だから下々の者たちの衛生環境が良くなるよう、下働き全員への石鹸の配布と湯浴みの義務化を進言しましょう。毎日体を清潔にすれば病気も防げるし、みんな心地よく過ごせるようになるはずだわ」
少女は今日であった下働きの者たちの笑顔を思い浮かべながら、弾むような筆遣いで陳情書を書き上げた。
それからも、少女は度々神殿を抜け出してはルキフェリスと共に時には城下町へも足を延ばし、見聞きしたものから改善してあげたいと思った事柄を陳情書の形でドゥナテリウスへと届け続けた。
少女が願った通り、下働きの居住区は近づくだけでさわやかな花の香りが漂うようになり、清潔で着心地の良い服が支給されるようになったと下女たちが涙を流して喜び、少女の胸も熱くなった。
弾むような気持で厩舎に向かうと、見違えるほどに身なりの良くなった厩舎番の長が恭しくルキフェリスと少女を迎えた。
「皇帝陛下からの命令で魔獣への餌代も増やされ、我々にもこんなに良い服や石鹼が支給されるようになりました。それもこれも全てルキフェリス様のおかげでございます」
「実はあの提案なんだが、僕ではなくこちらの……侍女殿の訴えから実現したものだ。感謝の言葉なら彼女に伝えてやってくれ」
「おお、あなたはいつぞやの。ルキフェリス様の侍女様でしたか……なるほど……どおりで……」
長の視線がいやにねっとりと絡みつくのを不思議に思いながら少女はきょろきょろとあたりを見回した。入口から見える小屋の中にも、厩舎の周囲にも、それらしい影は見当たらない。
「あの……先日こちらにいた……少年は今どちらに……?」
今は休憩時間と聞いてきたのだが、厩舎番の詰所の中には大柄な男たちばかりで子供の姿はない。
「少年……? あ、あぁ!! あの獣の子でしたら養子にもらわれていきましたよ! お嬢さんの提案であいつも無理やり風呂に入れて磨き上げたんですが、そうしましたら見違えるほどに……」
そう言うと男は一瞬言葉を切って何かを思い浮かべ、喉の奥でくっと笑った。
「……まあ、それでぜひ養子としてもらい受けたいっていう商人がいたので、こんなところで魔獣の臓物に塗れているよりはずっと幸せだろうって話がまとまりまして。いやあ、お嬢さんのおかげでいい生活が送れるようになるってあいつも感謝してますよ」
「まあ、それはよかったわ。……できることならもう一度くらい会いたかったけれど」
少女の記憶の中ではあの少年は本来の髪の色も肌の色もわからないほどに汚れ切っていたのだ。清潔な身なりと、暴力のない環境を得て嬉しそうに笑ってくれるところが見たかったと思いつつ、少女は晴れやかな気持ちで厩舎で馬を借りるとルキフェリスに乗せてもらい、城下町への視察へ赴いた。
「最近城内や城下町がどんどん華やかになっていると大臣や騎士たちからも言われるようになった。姫の、いや、姫が挙げてきてくれる民からの陳情のおかげかな?」
とある晩餐の席でドゥナテリウスが嬉しそうに話すのを、少女は誇らしげな気持ちで聞いた。
「お兄様の治世が慈愛に満ちているからこそですわ。民の声を聴き、民のために政を施す。私はそのお手伝いをしているに過ぎません」
「姫は謙虚だね。ルークにも感謝をしないといけないな」
唐突にルキフェリスの名が出て少女は秘密の外出がバレたのかとひやりとする。
ドゥナテリウスはそんな少女に気づいた様子はなく。
「あいつも陳情書など使わず直接私に言ってくれればいいのに。姫の神殿への陳情という形で意見書を提出してくるなんて、遠慮しすぎだと思うのだけれどね」
「その……ルーク様、というのはどなたですの?」
少女は精一杯知らないふりをして尋ねる。
「ああ、姫にはまだ紹介していなかったね。黒曜騎士団の団長をしている青年でね、私が最も信頼している騎士の一人だよ。そうだ、今度の神獣の神殿への慰問の時に紹介するよ。私たちの護衛としてついてきてくれるはずだから」
「神獣の神殿への慰問……! ではまたあの神々しい神獣の方々に会えるのですね!!」
神獣の神殿への慰問は、少女にとって数少ない神殿の外へでる機会であった。
帝国の四方、国境近くにそびえたつ巨大な神殿に祀られた四頭の神獣は神殿から国を守護するための神気を放ち、帝国全土を覆う結界を張っている。そのため帝国は外敵の攻撃を受けることなく安全で、平和な国として大陸に君臨しているのだ。
その神獣の神殿を詣で、聖女として祈りを捧げる。聖女の祈りを受けて神獣はその神気を発揮するとされており、少女が訪れると深く頭をたれ、祈りの間はうっとりと目を閉じて聞き入っている。大きく力も強いため、近づいたり触れたりすることはできないが、キラキラと輝く鱗やつややかにたなびく毛並は美しく、少女はいつか触ってみたいと常々思っていた。
「もし許されるのでしたら神獣の方々を撫でて差し上げたいですわ。国を守ってくれている大切な方たちに感謝の気持ちを伝えたいんですの」
「う~ん、神獣は大きく、ちょっとした身じろぎで人間一人踏み潰してしまいかねないから危ないと思うのだけれどね。でも姫がそんなに望むのなら……私が彼らを動かないように魔法で抑えるからひと撫でだけ触れてみるかい?」
ドゥナテリウスの提案に少女の瞳が輝く。
「まあ! 本当ですの?! お兄様!! 嬉しい!!」
「でもちょっとだけだよ。私以外のものをいとおしげに撫でているのを見たら、私が嫉妬してしまうかもしれないからね」
「まあ、お兄様ったら」
少女はドゥナテリウスの冗談にころころと笑い声をあげ、久方ぶりの公式での外出へと胸を弾ませた。
すべてが順調で、すべてが穏やかで、すべてが輝いていた。
皇帝に一身に愛され、神獣の加護を受け、民に崇拝され、美しい花の香りに包まれた場所で美しいものに囲まれ、何の不満もなく、何の不安もなく、少女はただ幸せを、愛する人とこの国の民の幸せを祈っていた。




