三十四話 幻影と現実のエトセトラ
震える足で一歩一歩踏みしめるように進む。
一歩進むたびに鼓動が跳ね、息が苦しくなる。
「ねえ、獣、あの塔はなぜあんなに低いの?」
形は古い城郭によく見られる尖塔の先端に似ているけれど、見たところ先端部分しかないかのように高さがない。
魔導帝国時代の建築様式では高さが不要だったのだろうか。
そんな疑問は当の入り口にたどり着いた時に解明された。
「これは……沈んでいる? 倒れたり崩れ落ちることなくそのまま地面に塔が沈んでいるのね」
入り口に見えた場所は灯り取りの窓とおぼしき場所で、中を覗きこめば、内壁をらせん状に階段が深く地中に続いていた。
塔の中は静かで、生きているものの気配は感じられない。
「獣、ここを下るの……?」
暗闇に溶け込むように深く続く階段に、廊下の掃除で疲れ果てていた身体が萎えそうになる。
けれど、獣は先導するように階段を数歩降り、こちらを振り返る。
「ねえ獣、お前は先ほどわたくしに触れることができたのだから、ここからわたくしを乗せて運んだりはできないの?」
疲れ切った身体でこの階段を降りるのはいくら獣の頼みでもおいそれとは聞けない。
そもそもわたくしは人並み以下の体力しかないのだ。
そう思いながら問えば、獣は何故か少し迷うように視線を彷徨わせていたが、やがて身体を伏せて背中へとわたくしを促した。
乗馬の要領で大きな背中によじ登るが、鞍が無いので上手く跨がれない。
不格好ではあるが獣の背に腹這いに伏せるように乗り上げてその首にしっかりとしがみついた。獣が一瞬ビクリと震えた気がしたが、嫌がる様子はないので、毛が引っ張られて痛いというわけではなさそうだ。
ふかふかの毛並みは柔らかく、暖かで、実体がない魂の存在とは思えない程だった。
「乗れたわ。連れて行ってちょうだい」
わたくしの言葉に獣がゆっくりと起き上がり、階段を降り始める。
その歩みは慎重で、揺らさないように気を使っているのが感じられる動きだった。
少しぎこちない動きなのは人を乗せることに慣れていないからか、もしくは緊張しているのかもしれない。
「……むかし、こんな風にお兄様に背負われて散歩したことがあったわ。お兄様もわたくしが揺れるのを怖がるだろうって、とてもゆっくり歩かれて……」
思い出話をポツリポツリと話していると、なんだかお兄様の背で揺られていた感覚を思い出した。温もりと、ミルク色がかった銀灰色に見える毛並みが似ていたせいかもしれない。
しばらくはそうして獣の背に揺られていたけれど、途中で何かの結界を通り抜ける感覚がしたかと思うと、塔の底がもう目の前にあった。
どうやら階段の途中に魔法的な仕掛けが施されているらしい。見た目通りに全段を降りる必要はなかったようだ。
「それならそうと言ってくれればいいのに……」
話せない獣相手に理不尽なことは承知のうえでモフモフの毛束を少し引っ張ったが獣はくすぐったそうに身をくねらせるだけだった。
その背から降りて辺りを窺う。
真っ暗に見えた其処にはうっすらと光を放つ苔が生えており、何か大きな塊がゴロゴロと転がっているのがうっすらと見えた。
「灯りが必要ね。このくらいなら……」
小さく呪文を唱え、手の先に光の玉を発生させる。その光に照らされて、目に飛び込んできたのは、苔と小さな花で覆われた床に散らばる大小の白い塊。
それは、何か大きくて長い、巨大な生き物の骨だった。
「これは……」
衝撃的な光景に立ち竦むわたくしの脳裏に、幼い少女の声が響き渡る。
『やめて! 殺さないで!!』
「誰?! この声は何なの?! 獣? 何処にいるの?!」
いつの間にか傍らにいたはずの温もりが感じられなくなっている。
景色が歪んで、ねじれ、ブレ、別の光景が重なって見え始めた。吐き気を催す臭気が鼻の奥を突き抜け、剣戟の音が耳の奥に響く。
「これは?! なんなの?! 獣? 何処に行ったの?!」
不安が押し寄せてきて、叫ばずにはいられない。
ぼやけていた景色がくっきりと像を結んだとき、目に飛び込んできたのはあまりにも凄惨な、血の海だった。
『やめて! その子は何も悪くないの!! 殺さないで!!』
何処からか聞こえる幼い少女の悲鳴のなか、白銀の鎧に身を包んだ男たちが虹色の光を帯びた剣で胴を切断しようとしていたのは、部屋を埋め尽くすほどに長く巨大な身体をぐるりととぐろに巻いた、大蛇だった。
その鱗は紫色に光を放ち、瞳は済んだ水の色をしていた。
シュウシュウと威嚇するように響く音は弱々しく、その命が今断たれようとしているのが分かった。
『何でこんなことをするの?! お城を開きたいなら、鎖を断つだけでいいからって言ったのに!!』
『こんな化け物を野に放てるか。魔導王を討つ前に化け物共は皆殺しだ』
『嫌ぁ―――――――――!!』
少女の悲鳴と共に肉を裂く音、骨を断つ音が響き、ゴトリと音を立てて大蛇の首が床に転がった。
空虚を見る目から光が失われていく直前に、その瞳がぎょろりと動いて、こちらを見た。
こちらの方、ではなく、その瞳が、わたくしを捉えていると感じた直後、塔の中を風が吹きあがり、目を開けていられなくなった。
次に目を開けた時、目の前に広がっていたのは、苔むした石の床に転がる無数の骨と、黒ずんだ土に生える小さな花だけだった。
白銀の鎧も、泣きわめく少女もいない。
「今の……幻……?」
ぺろりと温かい舌に手の甲を舐められて、いつの間にか獣が傍らに戻ってきていたことに気付く。
ゆるゆると膝をつき、獣の首に縋りつく。
「あれは……此処で過去に起きたこと、なのね? この蛇は……ここで……」
言葉が喉の奥で詰まって出てこない。
頬を伝う涙を獣が舌で拭ってくれるけれど、止められない。
暫く声もなく泣き続けた。
何故こんなにも悲しいのだろう。
わたくしはあの蛇の事を何も知らないというのに。
零れ続ける涙は頬を伝い、蛇の骸を苗床に茂った苔と、灯り取りから差し込む月明かりに照らされた小さな花へと滴り落ちた。
雫は花びらの上で弾け、その根へと伝い落ちる。
その瞬間、花びらはまるで動物が身を丸めるように花弁をすぼめたかと思うと、みるみるうちに丸く膨らみ始めた。
「これは……いったい……?!」
驚いて獣を見るけれど、獣はただじっとその実が膨らむ様を見つめている。
やがて瞬く間に手のひらに乗る程の大きさの丸い果実が結実した。
見たこともないその実は、やがて熟しきったというように果皮が破れ、種子が顔をのぞかせた。
「これは……アメジストの……鱗?」
手の中にポロリと零れ落ちてきたそれを受け止めてよくよく見てみると、それは透き通った紫水晶の欠片だった。
薄く、親指の先ほどの大きさのそれは正六角形に近い形状をしていた。
先ほどの幻の中で見た大蛇の鱗にとてもよく似ているけれど、随分と小さい。
「これは……どうしたら……」
色々な事が急激に起こりすぎてわけがわからない。
ただ一つ言えることは……。
「獣、お前はこれをわたくしに取らせるために此処へ連れて来たのね?」
何故わたくしだったのか、この大蛇が何だったのかはわからない。
けれど、あの幻の中でこちらを見た蛇の瞳には意志の光があり、この鱗は託されたのだとなぜか根拠もなく信じられた。
「もしかしたらあの大蛇は……」
憶測で物を言うのはよくないけれど、わたくしの中で、あの大蛇の正体が掴めた気がした。
再び獣の背に乗って塔の上へと登る。外に出ると冷たい風が吹き抜けた。
ポケットの中の鱗の感触を手で確かめ、外まで送ってきてくれた礼を言おうと獣の方を振り返ると、そこにはもう銀灰色の毛並みは影も形もなく、寂れた塔の窓が口を開けているだけだった。
翌朝、湯浴みもしていない筈なのにこざっぱりとした身支度を整えて朝の礼拝に出てきたわたくしを見て、数人の巫女が驚いた顔をしていたが、無視する。
勝手に湯を使ったとか責められるかもしれないとも思ったが、そもそもわたくしに腕力があれば井戸から水を汲んで身を清めるくらいはできていた筈なので、咎められる理由はないだろう。
実際、湯は使っていないし、貴重な飲み水も勝手に使ったりしていない。
しばらくすると聖女であるクローディアが入ってきて、朝の祈りが始まった。古代語で紡がれる祈りの言葉は歌のように柔らかな旋律になっていて、この時ばかりはクローディアも真面目に聖女としての役割を果たしているのだな、と感じる。
けれど、その祈りの途中で何か違和感を感じて、クローディアの謳う祈りの文言に耳を澄ませた。
違和感の正体は簡単で、とある古代語の発音が微妙に違っている所為で、全く別の単語になっているというものだった。
初歩的なミスだが、クローディアらしいともいえる。
礼拝が終わったあと、クローディアに声をかける。クローディアに恥をかかせるつもりは無いが、言い間違いで神殿の加護が薄れたのでは笑えない。
「クローディア、ちょっとよろしいかしら?」
「あ、マリアベルさん。私もあなたに用があったの!」
楽しげに手を掴まれ、引っ張って行かれたのは神殿の奥の祭壇だった。
「それで、マリアベルさんの用事はなあに? 先に聞いてあげる」
「先ほどの御祈りの文言ですけれど、古代語の発音が間違っていてよ。あの発音では『時の守り』が『数多の雨』になってしまいますから文言の意味が通りませんし、祈りの効果が無くなってしまうのではなくて?」
「え? 私そんな間違ってた? ちゃんと教わった通り読んでたはずなんだけどなぁ」
「古代語の発音は正確な発音すべては解明されていない部分もありますから、難しいとは思いますけど。それで……? わたくしに用というのは?」
「ああ、それはね、マリアベルさんにこの神殿の封印を解くお手伝いをお願いしたくって」
クローディアは戸棚のものを取って欲しいとでもいうような気やすい口調で言うと、大ぶりの鋏を構えて無邪気に微笑んだ。




