第三十一話 孤軍奮闘エトセトラ
転がされた床は冷たく、湿気とカビの匂いがした。
錠の下ろされる音、遠ざかる下卑た嘲笑。
擦り切れ、痛む全身を震わせながら身を起こす。
淀んだ空気が揺れ、奥の暗がりが揺らめくのが見えた。
「……誰か……いるの……?」
ぐる……と、獣が喉を鳴らす音がした。
沈んでいた意識が浮上する。
夢の続きのような湿気とカビの匂いのする地下の牢獄。
けれどそこには夢の中と違い椅子があり、わたくしはそこに座らされ、拘束されていた。
夢の中で感じた擦り傷も、血の匂いも、今ここにはない。
「この状況で居眠りとはいい度胸だな、マリアベル・フォン=ロートレック」
白い神殿兵の制服と鎧に身を包んだ男は何という名だったろうか。
古代神殿の奥の間に突如として現れたわたくしは、彼らに取り押さえられ、ここへと連れて来られた。
戦場から逃亡したのではないのか、なぜ戻ってきたのか、神殿の奥に忍び込んで何をするつもりだったのかと尋問を受けているが、わたくしにも答えようがない。
戦場からは攫われたのであって逃亡したつもりは無いこと、どうやって戻ってきたのかは自分でもわからないこと、ここがどういった神殿なのかも見当がついていないこと、正直に訴えたところで信じてもらえるとは到底思えない。
「この神殿に起死回生の聖遺物があるとの聖女様のお導きにより我らは此処に足を踏み入れた。お前はそこに先回りして現れた。何も知らない筈がないだろう?!」
激しい恫喝。
心の弱い令嬢ならば一声で恐怖に気を失ってしまうだろう猛った声音に、負けないようにと背筋を伸ばす。
「森の神殿でエドアルドと離れた後気を失い、気が付くと先ほどの場所におりましたわ。その間の事は覚えておりません」
まるっきりの嘘だが、あの仮面の魔導師が何のために、どのようにしてわたくしをあの場所に連れて来たのかわからない以上、こう言うしかない。
「そのような嘘が通じると思っているのか?!」
「このような大それたこと、嘘であればもっとそれらしいことを言いますわ」
幸い、と言ってよいかはわからないけれど、わたくしを始め、貴族というものは嘘が得意だ。
社交界という場所は嘘と欺瞞でできていると言っても過言ではない場所で、わたくしはそこで生きるための教育を受けて育てられた貴族令嬢だ。
これくらいの嘘は息を吸うよりも簡単に口にできた。
事実、わたくしは此処が何処で、何の神殿で、クローディアたちが何故ここへやってきたのかも知らないのだ。
半分は本当のことである。
暫くそうやって神殿兵の男の詰問をのらりくらりと躱していると、牢の外に複数の気配が近付いてきた。
「マリアベルさん!!」
牢の扉の前に現れたクローディアは何故か心配そうな顔でわたくしの名を呼んだ。
あからさますぎて嘘くさいというよりも嘘にしか見えない。
ある意味で正直な人物なのだろうと思ってしまう。
「マリアベルさんはミカエル殿下が心配で隊を抜け出し、でも北の砦にたどり着くこともできなくて戻ってきたんですよね!」
強い口調で言いながらしきりにわたくしにむかって目くばせをしてくる。
そんなへたくそな猿芝居に、わたくしに乗れというの?
巫女姫の言葉に困惑している神殿兵と、クローディア、彼女の後ろに控えている巫女達を見比べる。
「私信じているんです! マリアベルさんは意地っ張りだけれど、ミカエル殿下の事を大事に想っているんだって! 私、その気持ちがわかるんです! だから、だから一緒に北の大神殿へ連れて行ってあげましょう!!」
「北の大神殿?! 聖女様それは……!?」
「あまりにも無謀です! 北の方に行けば行くほど魔獣の数は増大しています。ミカエル殿下のいる砦にたどり着くこともままならないというのに更に奥地の廃神殿へなど!!」
「でもすべての謎はそこに鍵があるんです!! 魔導皇帝の真実も、この国の真実も、私はすべてを明らかにしてこの世界を平和へと導かなければならないんです!」
クローディアの尋常ではない熱意に神殿兵や巫女達も困惑している様子だった。
学園にいた頃のクローディアはどちらかというと享楽的で、国の行く末など気に掛ける様子はなく、政治学への興味関心もなさそうに見えた。
日々を楽しく、贅沢に過ごし、聖女に選ばれてからもすべては自分の掌の上という余裕の構えを崩さなかったのに。
今の彼女は何かに怯えているようにさえ見えた。
この数日で彼女の中で何かがあったのだ。
「大丈夫です! この神殿の宝具は手に入れました! あと二つ、神獣の遺産を手に入れて、ミカエル様とマリアベルさん、それに____がいればルート通り……」
最後の方はボソボソと呟くような声音になって聞こえなかったが、彼女はこの神殿で何か重要な魔導具を手に入れたらしい。
更にあと二つを求めてから北の大神殿へと向かうつもりのようだ。
「北の大神殿……」
噂では北の国境の先には国も、住む生き物もいない不毛の大地が拡がっていると言われている。
住民や国境警備の兵が配置されるのは北の砦まで、その先に広がる樹海の奥には魔導帝国時代の大神殿が今は廃墟となって放置されている。
その先には伝聞でしか聞いたことはないが、氷に閉ざされた死の海があるらしい。
「……聖女様がそこまで仰るのでしたら。ですが、監視と魔導具による拘束はさせていただきます」
神殿兵が渋々と妥協案を示す。
「それは……仕方ないわね。マリアベルさん、ごめんなさいね。皆を安心させるためなの。でもあなたの事は私がちゃんと連れて行ってあげるから」
クローディアが憐れみを含んだ笑みを浮かべる。
そうして、わたくしの手には枷がはめられた。
その後もいくつかの詰問は受けたものの、クローディアの鶴の一声でその場は終了となった。
一行は数日をこの神殿で過ごし、身体を休めた後、次の神殿へと出立する予定だという。
「出立まではお前はこの牢で過ごしてもらう。食事は巫女が運んでくる。大人しくしている事だ。行軍中は監視の兵と共に移動してもらうぞ」
そう言うと神殿兵はクローディアたちを伴って牢を出ていった。カシャリと錠が下ろされ、あたりが一気に静けさに包まれた。
椅子に座った姿勢のまま、周囲を見渡す。
そう広くはない牢だが、造りはしっかりとしている。端には簡素な寝台、反対側には衝立に囲まれた区画があるが、おそらくはご不浄所だろう。
地下にあるため窓は天井近くに明かり取りの小さなものが一つだけ。牢の格子は太く頑丈な鉄製で、石造りの廊下が見えている。
ここへ連れて来られるときに見た限りでは、この牢は地下に降りてすぐの部屋で、更に廊下の奥に真っ暗な階段口が見えていたから、この下にも更に牢があるのかもしれない。
「…………?」
ふと何者かの気配を感じて振り返るが、当然誰もいない。
「気のせいね」
立ち上がり、寝台へと歩み寄ると、積もっていた埃を払う。
何年も放置されていたであろうそれは払っても払っても綺麗になるには程遠かったが、疲れ切っていたわたくしは適当なところで諦め、横になった。
かび臭い寝具の寝心地は最悪の一言に尽きたが、全身を包む倦怠感には逆らえず、わたくしの意識は眠りへと引きずり込まれていった。
夜半に目が覚めたのは、偶然だった。
夕方に巫女の一人が持ってきた簡易食を食べ、再び眠りに落ちていたのだ。
世話係の巫女は無口で、わたくしと目を合わせることもなく牢の扉の前に食事の盆を置くと去っていった。
今見ると盆がなくなっている。
おそらく眠っている間に回収に来ていたのだろう。
夜の闇の中、月明かりが天窓から差し込んでくる。
ふと遠くで悲鳴のようなものが聞こえた気がしたが、すぐに聞こえなくなり、辺りは再び静寂に包まれた。
その時、月が翳ったのか、天窓からの細い光さえもが消え、灯りの設置されていないこの地下は暗闇に包まれた。
己の鼻先三寸ですら見えない真の闇に、胸の奥が嫌な音を立てる。
「…………っ?!」
闇の中を何かが通ったような気がして、思わず息を呑んだ。
濃密な鉄錆のような臭気が鼻先を掠める。
耳鳴りがして、頭の中が掻き乱されるような頭痛が襲ってきた。
ぐる、と獣のうなりを聞いたような気がしたが、耳鳴りと頭痛がもたらした幻覚かもしれない。
「……っ……ふぅ…………」
ほんの数秒だったような、数十分は経っていたような、時間のあと、再び月明かりが差し込んできて、わたくしは肺の底から息を吐き出した。
暗がりの中にうっすらと見える牢の出口は昼間と変わりなく、臭いも黴臭い寝具の臭いがするだけだ。
暫く息をひそめて様子を窺ってみたが、何も起こる気配はないので、わたくしは再び目を閉じた。
けれど眠気はいつまでたっても訪れることはなく、ようやく眠れたのは天窓の外が白み始める頃だった。
その日は朝から何やら慌ただしかった。
朝一番に物々しい様子の神殿兵が牢の前まで来たが、錠がしっかりと下ろされたままであること、わたくしに着けられた魔導具の枷が正常に作動していることを確認すると何も話すことなく立ち去ってしまった。
何故かわたくしのいる牢の更に奥へ向かって数人が走っていき、暫くするとまた慌ただしく戻っていく。
朝食を運んできた巫女に何かあったのかと尋ねてみるも言葉を濁され、状況が掴めない。
昼近くになって、唐突に告げられたのは今日中に神殿を出立するという知らせだった。
「今からですって?! 次の目的地はそんなに近くにあるんですの?」
「いえ……ですが、聖女様が急ぎここを離れるべきだと。聖遺物を祭壇から回収した以上、神殿そのものの結界が弱まっている。長居すれば今朝のように……いや、ともかくここを出て次の神殿へ向かう。お前は私たちと共に来てもらう」
手枷に更に縄をつけられ、罪人のように引き立てられた。
「あまり乱暴に引っ張らないでくださらない?」
「お嬢様お得意の、お父上にでも訴えますか? 王都との連絡は依然途絶えたままですがね」
神殿兵の一人が鼻先で笑うのが見え、癇に障ったが、怒ったところでどうしようもないので無視することにした。
地下から出され、神殿の柱廊を外へと向かって進む。
神殿の外では既に隊列が組まれ、先頭には王立軍の甲冑と装備を身に着けた部隊。その後ろに神殿兵の部隊、そして聖女であるクローディアの乗った輿を担いだ神殿兵とその脇を歩く巫女達、更に後ろに護衛部隊が続いている。
わたくしはどうやら殿の王立軍部隊と共に移動させられるらしい。
縄を掴んでいるのも、王立軍の門を刻んだ甲冑の兵士だった。
「それじゃあ出発します! クロノアの加護は私たちみんなに平等に降り注ぎます。次の神殿まで頑張ってください!」
クローディアが一団を鼓舞する声が聞こえてきたが、充分な休息を取れずに出立を余儀なくされた一行の動きは鈍い。
それでも神殿兵は信仰心の賜物なのか、クローディアの声に呼応するように整然と歩を進めている。
対して、王立軍の動きは統制が取れていないように見えた。
本来ならば指揮を執るはずだったミカエル殿下とは分断され、寄せ集めの部隊に急遽立てられた部隊長では仕方のないことかもしれない。
「そう言えば……エドアルド・マーニュの姿が見えませんわね」
ラファエルの話では神殿兵に拘束されたと聞いているが、地下牢にはわたくし以外が捕らわれている気配はなかった。
わたくしの独り言を聞き咎めた兵士の一人が忌々しそうに眉を顰め、吐き捨てるように言った言葉はわたくしの予想を超えていた。
「あの臆病者の坊やだったら早々に脱走したぜ。偉大な将軍閣下の息子が聞いて呆れる! あのような腰抜けはどこかで魔獣のえさにでもなってしまえばいい!」
「あのエドアルドが……?!」
わたくしの知るエドアルドは怯懦に溺れて我を失うような男ではない。
頭は良くないが、心根はまっすぐで、猪突猛進、曲がったことを嫌う鬱陶しい熱血漢であったはずだ。
「何か……考えがあってのことではありませんの? 一人ででも王都奪還を志したとか、ミカエル殿下を助太刀するために北の砦に向かったとか」
どちらも無謀かつ愚かの極みだが、あの脳筋騎士ならばやりかねない。
「もしそうなら尚のこと、将来の指揮官候補が取るべき行動ではない。生きて会えたら問答無用で懲罰房に叩きこんでやる」
怒りが収まらない様子の兵士と共に、森の中を進む。
そうして一見粛々と進んだ行軍は、出立時間の遅さ、動きの鈍さが重なって、森の中で夜を迎える羽目になったのだった。




