◇歪んだ言葉(9)
夜が明けてイリーネの耳に飛び込んできたのは、ゴトフリート伯爵家の次男ギュンターが民衆を扇動し、王太子カーシェルや神姫イリーネ、教皇イザークを殺害しようとしたために逮捕された、という報だった。そのすべてが初耳で驚いたのだが、朝食の席で顔を合わせたカイやアスールの話を総合するとこうであるらしい。
ギュンターが昨晩、獣軍によって逮捕されたのは真実。実質の逮捕理由は奴隷所持という点であるが、カーシェルらの暗殺を企てていたことも認めたため、これは疑いの余地がない。王族の暗殺は未遂であっても極刑が妥当だ。さらに、実行役として捕えられた化身族たちが、「自分たちは元々ゴトフリート伯の所有奴隷であり、数年前に契約具が伯爵からギュンターの手に渡ったため、やむなくギュンターに従っていた」と証言したのである。これによりゴトフリート伯爵家にも法律違反の疑惑が持ち上がり、事はギュンターだけの問題ではなくなったのだ。
一方で、カーシェルのほうでも問題が残っていた。民衆を扇動し、多数の死傷者を出すほどになった暴動の主犯格を捕まえられていない。まさか「【獅子帝フロンツェ】が闇魔術で作った暗鬼が主犯」などとそのまま発表するわけにもいかず、犯人を捕まえて一刻も早く民衆の不安を取り除きたい王家としては、頭を悩ませる問題だった。
そこでカーシェルはギュンターと取引をしたという。処刑台送りを免除する代わりに、この騒動のすべての責任をギュンターに負ってもらう。そのうえでギュンターの身柄は教会に預け、地方の教会で慎ましく暮らさせる。表向きには死んだことになるので社会的な権限は失うが、衣食住は不自由させない。この取引が夜のうちに成立したから、朝になって発表があったのだろう――というのが、アスールの見立てだった。
「まあカーシェルはああいう性格だからな。イリーネが混血であることを秘匿していた件については、きっちり自分でも責任を負うようだ。しばらくはてんてこまいだろう」
食後のコーヒーを啜りながら、アスールはそう締めくくる。その横ではチェリンとカイが、見たことのない食事に手間取っているファビオを馬鹿にしながら手伝ってやっていた。なんだかんだふたりとも旧知の者を放っておけないらしい。
「しかしカーシェルも大概口が達者というか、この場合は文才があるって言うべきか? イリーネや獣兵がどんなに市民に貢献したのかを例に出して、うまいこと読み手の感情移入先を誘導しているって文章だな。こりゃイリーネの責任を問う声なんて出せないだろうよ」
ニキータが笑いながら、紙を一枚ひらりと手渡してきた。それは今朝早く、王家と教会が連名で出した布告文書の写しだった。
「『人間族と化身族と、その混血児のための人権宣言』。こんなものを、この目で見ることになるなんて思いませんでしたね」
クレイザが穏やかに目を細める。
人間と化身族と混血児は、対等なヒトという存在であること。混血児に対する差別意識は、すべて事実無根であること。人身売買・奴隷所有を改めて禁じ、これらは厳罰に処すこと。そうしたことを明記した文書が、朝一番で発信されたのだ。
宣言を出したからと言って、すぐに民衆の意識が変わるとも思えない。人間による化身族や混血児への差別は何代にもわたって根強く植え付けられた思想であり、一時はそれを国家が推奨してきた。格下扱いしていた者たちが急に同等の存在になれば、反発が出るというのも想定済みだ。差別意識がなくなるまでに何年、何十年かかるとも知れない。
たかが紙切れ一枚の文書。……だが、この文書が王家と教会の連名で出されたこと自体に、大きな意味がある。
「この国はようやく平等社会への第一歩を踏み出した……とても大切な一歩です。その歩みを、どうにかして繋げなければいけませんね」
自分に言い聞かせるように呟くと、アスールも深く頷いた。
「繋げてみせるとも。無駄にはしないさ。……さて、ファビオ殿の食事も済んだようだし、移動しようか。カーシェルがお待ちだ」
昨日急きょ開催が決定した会議だが、どうやらカイの発起でカーシェルが招集したものであるらしかった。しかも、カーシェル本人もまだ詳しい話の内容を聞かされていないという。やけに勿体ぶるカイだが、それでも迅速に対応してくれたカーシェルとの間には、イリーネも知らないふたりの信頼があるのだろう。
カーシェルが集めたのは、イリーネら一同に加えて、カヅキ、アーヴィン、エルケ、イル=ジナにシャ=ハラといったところだった。基本的に王城へ近づきたくないらしいアーヴィンらは、ここ数日獣軍に協力して神都周辺の警護にあたっていた。イル=ジナらは国へ戻ったシャ=イオと情報交換をする準備を進めていて、双方ともにイリーネらと顔を合わせるのは久々となる。昨日の暴動の話を後から知った彼らは、会議室に入るなりイリーネを案じる声をかけてくれた。心配をかけたようで、ありがたいやら申し訳ないやらである。
「イリーネ、酷いことは言われなかったかい? 聞けば有力貴族と真っ向対決したっていうじゃないか。そんな面白そうな――失礼、友人の危機に駆けつけられなかったとは、イル=ジナの名折れだよ」
「ありがとうございます、ジナさま。でも矢面に立っていたのはお兄様のほうですから」
「カーシェルの心配なんかしちゃいないよ。あいつは鉄の神経の持ち主だからね」
なんだか酷い言われようだったが、当のカーシェルは一度にっこり微笑んだだけだった。暇さえあれば剣を交えてきたふたりの間には、妙な友情が芽生えているらしい。今ではただの稽古仲間のような気安さだ。
「それで、肝心の【氷撃】はどこに? みんなを集めたのはあいつなんだろう、どうして当事者が一番遅いんだ」
台詞は辛辣だったが、文句を垂れるアーヴィンの声音はそこまで不機嫌ではなかった。短気な少年というイメージが強かったが、長く付き合ってみると彼は案外思慮深く、我慢強い。珍しく化身を解いて主人の傍に控えているエルケの教育の賜物だろう。
とはいえイリーネたちも、カイの行方は知らない。朝食を終えて会議の場へ移動する途中、「用意しなきゃいけないものがあるから」と言って、先に行くよう促されたのだ。事前に準備しておきなさいとチェリンが小言を言っていたが、たぶん昨日の今日でカイにも時間がなかったのだろう。
だからその旨をアーヴィンやカーシェルらに伝えようとしたのだが、口を開くより先に背後から足音が聞こえてきた。磨き抜かれた大理石の廊下は、どんなに気を付けても足音を立てずには歩けない。それがこちらに近づいてくるのだからきっとカイだろうと思って振り向いたのだが、足音がふたりぶん聞こえてきたので首を傾げた。そのまま待っていると、カイがひょっこり開け放たれていた会議室の扉をくぐって顔を見せた。
「ごめんね、お待たせ」
「早かったですね、カイ……と、ツィオさん?」
カイの後ろから現れたのは、ここしばらく奇妙な王城の客人となっているツィオであった。遅れてその存在に気付いたカーシェルが、困ったように眉を下げる。
「どうして事前に話を通しておかなかったんだ、カイ? ツィオ殿をお呼びするのなら、きちんと事情をご説明したうえで、こちらから迎えにあがったのに」
「事前に話しておくと、このおじいさんは逃げると思ったからさぁ。俺に全部丸投げする気満々だったみたいだし。だから奇襲を仕掛けたの」
「はっはっは、ほんに勘が鋭くて強引な若人じゃのう」
機嫌よく笑うツィオには抵抗の意思がないようだ。それでもツィオを室内に入れると、カイは自ら部屋の扉を閉めて逃げ道をふさいだ。なんと厳重なことだろう。
「みんなに集まってもらったのは、ツィオのことについて情報共有しておきたかったから。今から突拍子もないこと言うけど、ちゃんと聞いてね」
加えて、こうも厳かな口調で前置きを述べられてしまうと、さすがに誰も茶化そうという気にはなれなかった。出会った当初こそ喜怒哀楽の乏しい表情をしていたとはいえ、最近のカイはしっかり感情が顔にでるようになっている。そんなカイが、いまは真顔でこちらに語り掛けてくる。ただでさえ端正な顔立ちをしているのだ。変に声を荒げられるより、よほど迫力があって黙らざるを得ない。
「ツィオは、化身族。トライブ・【ドラゴン】なんだ」
だからだろう、そう告げられても「どういうことだ」というような詰問はひとつも飛ばなかった。ただ沈黙が舞い降りて、誰もが言葉を失った。
最初に正気に戻ったのはカーシェルだ。カイに向けていた視線をツィオに向け、またカイに戻して、口を開く。
「その根拠は?」
「いくつかあるけど、何よりツィオ自身が認めたからね」
「なるほど」
「いや、何を落ち着いているのだ、カーシェル。いくら何でもあっさり受け入れすぎではないかね」
アスールが慌てたようにそう諭すが、カーシェルはあっさりと返す。
「これでも動揺しているが、カイの判断は信頼しているからな。カイが判断して、いまこのタイミングで打ち明けようと思ったのならば、それを信じようと思う」
「ちょっと買いかぶりすぎでしょ、カーシェル。でも助かるよ」
全幅の信頼を寄せられたカイが、そこで初めて真顔を崩して微笑んだ。自堕落なカイの一面を知っているアスールなどはなんとも言えない絶妙な表情だが、大人びているカーシェルの子供時代をカイは見てきたのだ。カイにとってはカーシェルも弟のひとり、カーシェルから見れば頼れる数少ない年長者。王城でカイが生活するようになって、カーシェルは何度かカイに相談事を持ち掛けていたということを、イリーネは知っている。
ひとつ咳払いをして気を取り直したアスールが、のんびりと椅子に座っているツィオに視線を向ける。
「私とてカイを疑うわけではないが、やはり本人の口から聞かねば納得できぬ。ツィオ殿、ここらで洗いざらい打ち明けてほしいのだが」
「もちろん、今日はそういうつもりでここに来ておるよ。そして彼の言ったことは真実じゃ。わしの言葉だけではおぬしらが受け入れまいと思って、口添えを頼んだのじゃよ」
最初にイリーネらと霊峰ヴェルンで遭遇したのは、偶然だった。ヒトと関わらないように生きてきたが、長い時の中では完全にヒトと関わらずにいるということも不可能。ゆえに、もしものときに備えて「歴史学者」の肩書を用意していた。そう名乗って、人々が忘れた少し昔の話をひとつふたつでもしてやれば、相手は歴史学者であると納得してくれたから、都合が良かったのだという。
「ヴェルン山で出会ったときは、最近珍しくも骨のある若人たちだとしか思っていなかった。砂漠の遺跡で再会したのも偶然じゃ。あの時には、まさかおぬしらがリーゼロッテ王家に連なる者で、こうして正体を明かすことになるとは想像もしていなかったとも」
「では、ヘルカイヤで接触してきたのは……?」
「言ったじゃろう、暗鬼の巣を潰した者たちがどのようなものか、確かめたかったのじゃよ。それほどの力を持つ者たちならば、フロンツェらを止めることもできるかもしれないとな。だからどうにかおぬしらを誘導して、フロンツェを追わせたかったのじゃが」
利用していたことをあっさりと暴露されたが、カーシェルは動じなかった。確かにツィオの掌の上だったかもしれないが、誘導されるまでもなくフロンツェを追っていたのも事実だからだ。
「元より【獅子帝】は国家転覆の真犯人、逃すつもりはありません。しかし止めるとは? 奴が封印された竜とやらを復活させようとしているのは聞きましたが、それは過程にすぎないのでしょう。何を成そうとしているのです?」
「……奴らの目的は、レイグラン同盟の復活じゃ」
室内に緊張が走った。特にイル=ジナは眉をしかめ、シャ=ハラが息をのむ。
「人間との共存を選択した【竜王ヴェストル】に異を唱えた者たちが、ステルファット連邦を興した。連邦政府を牛耳っているのは、そのほとんどが竜族、わしの元同胞じゃ。わしらは化身族としての匂いを完全に消し、人間に溶け込むことができる。数年ごとに姿を変えて別人になりすまし、三千年もの間、あの島々に君臨している」
「まさか……そんなことが」
「奴らは途中で頓挫した【竜王】の野望を引き継ごうとしているのじゃよ。すなわち化身族による大陸の支配、化身族の楽園の創造。そのために、【竜王】の子である者の封印を解き、旗印として掲げたいのじゃ。それが済めば、手始めにケクラコクマ王国を潰しにかかるじゃろうな」
「……それは困るねぇ」
イル=ジナがぽつりとつぶやく。三千年前の戦争の、やり直し。古代には人間も魔術が使えたが、今では使える人間など混血児くらいしかいない。純血の化身族でさえ、魔術を扱えない者のほうが多くなってきた。そんな状態では、大陸中のすべてのヒトが一丸となったところで、三千年前の戦争を生き抜いた竜族に勝てるはずもない。
かつてのレイグラン同盟が存在した場所には、ケクラコクマ王国が成立した。現在も確かに化身族が多い国ではあるが、人間優勢の国家であることは間違いない。その場所に竜族がやってくれば、人間が厚遇されるはずもないということは目に見えている。いや、悪ければその場で駆逐されかねない。それだけの力を持っているのだ。人間は、化身族と戦うには弱すぎる。
「それを阻止するには?」
「島に乗り込んで、フロンツェらを止めるしかあるまいて」
「……しかし……今のこの状況では、リーゼロッテ側から連邦に干渉することができません。いつか大陸に侵攻してくるかもしれないからと、連邦に対して攻撃をしかけるなど。何より、諸侯の賛同は得られぬでしょう。彼らにとってはあまりに非現実的な話でとても信じてはくれないでしょうし、そうなれば軍事面で諸侯が負うところの多い我が国としては、打つ手がありません」
カーシェルは苦々しくそう説明する。どのような野望がステルファットで動いていようが、表面上はただ国交を断っているだけ、大陸に被害などない。元より、大陸の国々にとってステルファット連邦は、密接な繋がりのない貿易国のひとつに過ぎなかった。首脳会議にも参加していない、完全中立の国。国交がなくなったところで、まったく大陸側は困らなかったのだ。狩人協会の本部がある国として世界ではそれなりの地位にはあったが、大陸内での狩人協会のネットワークが完璧に構築された現在、その意味合いも薄れている。
そのような国に対して、いきなり軍隊を差し向ける。そんな真似は、いくら好戦的なカーシェルでもできない。
「ならば、サレイユが。サレイユは使者を乗せた船を問答無用で撃沈させられている。これは立派な理由になるだろう。その援軍を、同盟関係に基づいてリーゼロッテに要請する」
「やるっていうなら、私も兵を出すよ。時期も理由も関係なく戦をしかけるのがケクラコクマだ。それに、国を潰されちゃたまったもんじゃないからね」
アスールとイル=ジナが身を乗り出したが、それに難色を示したのはツィオだ。
「それは危険じゃのう。竜族は言葉通り、一騎当千じゃ。軍勢が大挙して押し寄せれば奴らの目に留まるし、見つかれば確実に殲滅させられる。ここで犠牲を出せば、大陸を制圧するのが容易になるだけじゃ」
「……では、少数で潜り込むしかない、のか。しかしどうやって」
「少人数ならば送り届けてやることができるぞい、転移というやつでな」
いともあっさり解決策を口にしたツィオだったが、咄嗟に見当がつかなかったカーシェルは沈黙してしまう。代わりに口を開いたのはクレイザである。
「転移、影から影へ移動する闇属性魔術のひとつですね。以前【獅子帝】が使っていた……ツィオさんも使えるのですか?」
「ふふふ、わしは竜族じゃぞ。フロンツェにできることは、一部を除いてわしにもできるんじゃ」
自慢げに胸を張ったツィオに、うっかりツィオが竜族であることを失念しかけていた自分にイリーネは気づいた。ツィオは竜族、それも古の時代の。ということは、闇属性魔術だけでなく複数の属性魔術を使用できるのではないか。だとすれば非常に頼もしい。
「あ。だからといってあまり期待されても困るぞ? 見てのとおりの老いぼれで、もう千年以上魔術を使っていなかったせいで大半を忘れてしまったんじゃ」
「なんでそういうところだけボケ老人になるのよ」
チェリンが思わずツッコミを入れたが、イリーネもまったく同意である。苦笑したカーシェルは気を取り直したように顔を上げる。
「では連邦への潜入はツィオ殿にお任せする。大陸の脅威になりかねない動きがこちらからでも確認できれば、諸侯を動かすこともできる。こういう言い方をするのもおかしいが、藪に蛇をつつきに行ってもらいたい」
やっと立て直したばかりで、カーシェルが国を離れるわけにはいかない。心底悔しそうだが、それは仕方のないことである。万一に備えて、カーシェルは国の守りを堅め、有事にはすぐ動けるように準備しておく。そう告げた。
「今もなお抗争が続く、現状も分からぬ場所へ潜入しろというのだ。生きて帰れる保証もできない。きっと頼めば、みなは手を貸してくれるのだろうが……今回ばかりは、迂闊にそのようなことも言えん。強制はしない。じっくり考えて、その上で名乗り出てほしい」
厳かなその口ぶりに、安易に口を開けるものはいなかった。今更になって、行おうとしていることの重大さを痛感した、そんな気分だ。この場にいるのは大陸きっての猛者ばかりであるというのに、誰一人として即答できなかったのである。