◇歪んだ言葉(3)
カーシェルの執務室の扉の前にいた衛兵は、やってきたイリーネとチェリンの姿を見てすぐに扉を開けてくれた。カーシェルからそのように指示が出ていたようだ。ありがとう、と告げながら室内に入る。扉の真正面、部屋の中央には大きな樫の卓があって、その両脇の壁際にはこれまた大きな書架が並んでいる。卓の奥にはソファとローテーブルが揃っていて、休憩と応接を兼ねたスペースになっていた。謁見や会議といった用事がない場合、一日の大半をカーシェルはこの部屋で書類作業をしている。半ば私室になりつつあるのに、それでもこざっぱりとした印象が強いのは、カーシェルが綺麗好きだから片付いているのではなく、そもそも私物を持ち込んでいないせいだ。書類作業も読書も本当は嫌いなこの兄は、一分一秒でも早く書類を片付け、執務室を飛び出したくてたまらないはずだ。だからことさらに執務室を居心地の良い部屋にはしようとしないのである。
イリーネらが入室したとき、カーシェルは樫の卓について、何やら難しい顔をしていた。その傍らにはアスールもいて、こちらも渋い表情で腕を組んでいる。卓上にはなみなみと紅茶の注がれたカップがあったが、すっかり冷めきっているのが遠目にも分かる。
「イリーネ、急にすまなかったな。チェリン嬢も一緒か」
「はい、一緒にツィオさんから預かった書物を読んでいたので」
「ああ、例のものか。……先にそちらを聞きたい。何か分かったか?」
火急の案件だと呼び出されたのに、カーシェルはその案件を後回しにした。どうやら口に出したくないほど嫌なことが起こったらしい、と察しながら、イリーネは兄の要求に応える。
「私たちの知る【獅子帝フロンツェ】と、三千六百年前の歴史書に登場するレイグラン同盟のフロンツェは、同一人物とみて間違いないようです。王女エラディーナの魔力の影響を受けて、時を止められたのだとか」
「お前たちの推測通りだったわけだな」
「はい。そして、【竜王ヴェストル】が息絶えた、という明確な記述がありません。最後の戦いを生き抜いた【竜王】は停戦を同盟軍に命じて、エラディーナの和平に協力した。それに反対する者たちを鎮圧し、和平が成ったのを見届けて姿を消した――そのようなことが、【竜王】に近しい者の目線で記録されていました」
「数千年を生きるといわれるトライブ・【ドラゴン】ということを考えれば、今もまだ生存しているという可能性もある、か」
「そうですね。ステルファット連邦に封じられた竜というのは、和平に反対した【竜王】の実子だったようです。封印を施したのは、【竜王】本人だったとか」
イリーネの言葉に、アスールが顎をつまむ。
「それが真実ならば、少なくとも【竜王】とは分かり合えるのかもしれないな。味方とできれば心強い。……接触できれば、の話だが」
「あんたのほうは、どうだったの? 連邦へ送ったっていう使者は?」
チェリンが問うと、組んでいた腕をアスールは下ろした。そしてゆるゆると首を振る。
「それを丁度報告に来ていたのだがな。……残念だが、接触はできなかったよ。ステルファットの領海に入ったところで攻撃を受け、船を沈められた。報告のために船を脱出した鳥族の者が数名、助かっただけだ」
領海に入ったところで、攻撃を受けた。連邦首都にたどりつくことさえ、彼らはできなかったのだ。ステルファットは無数の島から成り立つ国だ、ありとあらゆる島に砲撃台や政府軍を配置して、外国船を撃退しているのだろう。だが、脅して領海外へ追い立てるならともかく、完膚なきまでに船を沈めるとは。それも、船団の扱いに長けたサレイユの船を。なんと容赦のない、なんと徹底しているのだろう。
「リーゼロッテとサレイユが船団を組んで連邦へ向かうとしても、相当の犠牲を覚悟せねばならないだろう。地の利はあちらにあるし、上陸できたとしてこちらの戦力が保つかどうか」
「上陸してからは、革命を起こそうとしているハンターたちに合流するという手もあるが……どのみち、海を越える手段を見つけないことにはどうしようもないな。……まあ、これはあとで考えるとして」
そう言いながらカーシェルは立ち上がり、卓の前に立つイリーネを見つめる。兄と目を合わせることなど慣れきっていたはずなのに、その強い眼差しに、イリーネは思わずたじろぎそうになる。横にいるアスールも、部屋に入った時と同じように腕組みをしてしまった。
「イリーネ。あまり良くない知らせだ。チェリン嬢も、そのまま聞いてほしい」
来た、と内心で身構える。隣のチェリンが生唾を呑みこむ気配が、イリーネにもありありと伝わってくる。
カーシェルはひとつ息を吐き出してから、告げた。
「イリーネが混血であるという噂が、民衆の間で広がっている」
「――……え」
兄の言葉を理解するのに、イリーネは時間を要した。混血。噂。民衆。それらの単語をどうにか繋ぎ合わせた時、襲ってきたのは血の気が引く感覚だった。それが分かったのか、チェリンがイリーネの肩を掴んで支えてくれる。
「今日になって突然だ。真偽を問おうと人々が城や教会に殺到していて、対応に追われている」
「流出経路は? 誰かが意図的に漏らしたの?」
チェリンの問いに、カーシェルは難しい顔で首を振る。
「調査中だが、正直よく分からない。そもそもイリーネが魔術を使えることは、王家と教会の中の限られた者にしか知らされていないこと。メイナードに追従して失脚した者たちが復讐のために、ということもあり得るが、前教皇はいま獄中にいて、その他の者は王家の秘密を握れるほどの大物でもない」
「メイナードが魔術を使えたから、妹のイリーネも使えるんじゃないかって、そう結びついた可能性は?」
「おそらくない。メイナードが魔術を使えたことは公表していないし、建築物を破壊した諸々の術については、【獅子帝】のものとして処理してしまったからな」
「じゃあ、あれは。パドラナ盆地でイリーネの治療を受けた兵士たちが、うっかり口を滑らせたとか」
「うん……俺としてはあまり信じたくないが、それが一番現実味が高い。化身族は人間ほど混血に対して敏感ではないし、カヅキが選んだ精鋭たちに限って……と思っているのだが、秘密は知る者が多くなればなるほど広まりやすいものだ」
ふたりの問答に、アスールが口を挟んだ。
「だが、信仰というのは我々が思うよりずっと力のあるものだぞ。傍目に見れば魔術にしか見えない力でも、信仰の名のもとにそれは『奇跡の力』とされてしまう。現にイリーネの治癒術を見た者は、それを魔術とは認識してこなかった。そのような者たちが、ただの流言を容易く信じるとは思えない」
そのとき、イリーネははたと思い出した。ツィオの部屋を辞する際、あの老人はこう忠告をくれた。「人心を惑わせ、不和を呼ぶのはフロンツェの得意とするところ。奴が暗鬼の他に、何か置き土産をしていないとも限らない」と。それはもしかして、このことを予見していたのではないだろうか。【獅子帝フロンツェ】は、イリーネが魔術を使えることを知っている。それをなんらかの形で民衆の間に知らせ、不安を煽って扇動しているのではないか。彼が推し進める『何か』の計画のための、時間稼ぎとして。
「……なんにせよ、この騒ぎが収まるまでは動きが取れん。どうにか躱しておくから、イリーネは諸侯に何か言われても答えるんじゃないぞ。こういうことは時間が解決するしかないからな」
いつもならばカーシェルの指示には即座に頷くところだったが、イリーネは素直に首を縦に振ることができなかった。
躱す。沈黙は、肯定していることと同じにならないか。これまでは人々に対して黙っているだけだったけれど、これからはごまかし、嘘を吐くのか――?
「あの……真実を語ることは、できないんでしょうか。私が、自分の口で」
ごく小さな主張だったが、この狭い空間でカーシェルが聞き逃すはずもなかった。そして彼は予想通り、やや慌てたように首を振るのだ。
「危険だ、許可できない」
「でも……」
「分かるだろう、タイミングが悪すぎる。民衆の間の噂を肯定する形でそれを公表すれば、暴動になりかねないんだ。冗談ではなく、お前の命が危ない」
アスールに視線を向けてみると、彼はこちらを見て、静かに目を伏せた。いつもなんだかんだとイリーネの意志を優先させてくれた幼馴染も、これには消極的だった。
「私も、さすがに賛成はしかねるよ。気持ちは分かるが……」
「ヒトの思想を変えるには長い時間がかかる。まだまだ化身族に対する理解さえ乏しいのに、混血児を快く受け入れてくれるとは思えない。残念だが、これがこの国の現状だ」
分かっている、受け入れてくれたアスールやカイやチェリン、そして他国の王族たちのほうが特別だったのだと。フローレンツの商人ライルとカスパーとのやり取りを思い出せ。彼らは恐怖と畏怖の混じった目で、イリーネを見てきたではないか。それまで親しく話をしてきたのに、ただひとつ、混血であることが知られてしまった途端、その関係は一変した。もう二度と、あんな思いはしたくない。
――したくない、けれど。
「……そうです、それがリーゼロッテの現状です。だからこそ、変えるための一歩を恐れてはいけないのではありませんか。私たちみんなの願いのために」
どちらかが歩み寄らなければ何も変わらない、だから言葉を交わしてみるのだと、カイは言っていた。そんな彼らに、人間が応えなければ意味がない。両種族の共存を理想に掲げるのならば、まずは王家の者がその姿を示す。カーシェルはいつだってそう言って、それを実践してきた。軍の中で獣兵の地位が向上したのは、ひとえに彼とカヅキの努力の結果だ。
同じことをイリーネもしたいのだ。生まれを呪い、正体の露見を恐れていまを生きている、すべての混血種たちが、堂々と生きられるように。混血児に対する差別は不当なものだと、声を大にして告げてやりたい。
イリーネの強い言葉に、カーシェルも即座に却下の二言を口にはしない。ただじっと、イリーネの覚悟のほどを見定めようとするかのように、義妹を見つめている。
ややあってカーシェルは、諦めたようにひとつ息を吐き出した。そして口を開きかけたその時、にわかに執務室の外が騒がしくなった。何事かと振り返るのと同時に、扉が開かれて衛兵が駆けこんできた。
「殿下! た、大変でございます」
「どうした」
「市街地で暴動が発生しています!」
室内に緊張が奔った。カーシェルは眉をひそめ、衛兵を問い質す。
「どういうことだ?」
「イリーネ姫様の追放を求める過激派が暴徒化しているようです。彼らは火器を使用し、既に多数の負傷者が出ています。居合わせた獣軍将が鎮圧に向かっていますが、至急応援を求むと」
「……まだ噂の段階でありながら、なんと気の短い者たちだ」
化身能力を失ったカヅキだが、彼の処分については諸々の理由で保留となっており、いまもまだ獣軍将の地位にある。弱い者を上に頂くことを良しとしない化身族たちだが、カヅキの残留を望む声が多いのも、処分が遅れている理由のひとつだ。化身せずとも魔術が使え、剣術も巧みなカヅキは、それだけで将と仰げるほどに強いのだ。部下たちの信頼の声はカヅキにも届いたようで、カイやチェリンが危惧していたように自暴自棄にはなっていないようだ。
だが、相手は暴徒で、しかも一般人。市街地でカヅキらが民衆相手に危害を加えることはできない。暴動の鎮圧どころか、生身のカヅキは生命の危機ではないか。
血の気が引いて、顔が白くなるのが自分でも分かった。いけない。そんなことで、関係のない人々やカヅキたちの命を、危険に晒してはいけない。
身を翻して、イリーネは駆け出す。衛兵に増援指示を出していたカーシェルは、イリーネの行動に反応するのが遅れた。手を伸ばしても、届かない。
「イリーネ! 待てッ……」
追いかけようとしたカーシェルの行く手を遮ったのは、アスールだった。その行動にはカーシェルも驚いたようで、完全に足を止めてしまう。
「アスール、なぜ」
「行かせてやってくれ。……イリーネの優しい治癒術を失いたくないと言ったのは、お前だろう。彼女が傷ついた者に手を差し伸べるのを躊躇う姿が見たいのか」
「いまはそういうことを言っているんじゃない! 命が危ないと言っているんだ」
「同じことだよ。治癒術はイリーネのすべて。それを取り上げて、また軟禁でもするつもりか」
「……ッ」
チェリンへと目配せをすると、彼女は力強く頷いて、快足を飛ばしてイリーネを追いかけ始めた。カーシェルを押しとどめるために肩を掴んでいた手を離し、アスールは幼馴染を見やる。
「イリーネはもう私たちに守られているだけのお姫様ではないのだ。彼女は自分の力で、人々に愛される神姫になった。その信頼が、そう簡単に崩れるはずもない。見守ってやれ」
「……ふっ、これは参ったな。臆病者は俺だけだったか」
「気持ちは分かるさ。国の安泰を思えばこそ、カーシェルの危惧は正しい。……だが私は、もうそういうしがらみとは縁を切ったのでな。思ったように行動させてもらう」
アスールは腰帯に佩いた剣の鞘を握り締めた。早く追いかけなければ、チェリンとの距離が離れすぎて彼女の足を引っ張ることになる。イリーネとカイのような特別な絆が自分たちの間にはまだないから、これは仕方のないことだ。
「心配するな。イリーネには指一本触れさせんよ。それに、何かあればすぐに駆けつけると、我らがミルクもそう言っていたことだしな」
どうしたって、カーシェルには捨てられないものがある。幼いころから大切にしてきた妹よりも、優先させなければならないものがある。だからこそアスールが、チェリンが、そしてカイが、カーシェルにはできないことをするのだ。
早く戻ってこい、とアスールは執務室の扉を押し開けながら念じる。この一大事に戻ってこないのならば、イリーネの隣を空けてやった甲斐がないではないか。どこにいるとも知れぬ雪豹の友に、アスールはそう毒づくのだ。