◆強さの代償(5)
背中に直射日光が当たって暑い。ただでさえ真夏のこの時期、黒鴉の背に乗って空を飛ぶなど、自分から暑さに近づいているようなものだ。それは分かっていたのだが、カイとしてはニキータに頼らざるを得なかった。同じ鳥族といっても、エルケに個人的な頼みごとができるほど、彼と言葉を交わしたことはない。ある程度事情を察してくれて、「たぶん断りはしないだろう」と勝手に考えていたニキータが、やはり適任だったのだ。
力強く羽ばたくニキータから振り落とされないように踏ん張りつつ、カイは眼下に広がる雄大な尾根を見下ろす。以前この場所に来てから、丸々一年が経過していた。懐かしい景色は一年程度では変わることがなく、青々と木々を生い茂らせ、生命の豊かさをカイに伝えてくる。この湿気を含んだ不快な暑さも、よく知っていた。
イーヴァン王国とフローレンツ王国の国境。
大陸最高峰、ニム大山脈。
カイは久々に、故郷の土を踏もうとしていた。
★☆
「フィリードの里に行きたい?」
王城の廊下で捕まえたニキータは、カイが言ったことをそっくりそのまま繰り返した。見事なまでのオウム返しに、カイは髪の毛を掻き回す。
「そんな驚くこと?」
「そりゃお前、あんなに嫌がっていた奴の口からそんなこと聞くとは思わねぇだろ。どういう心境の変化だ?」
「……なんて、言うのかな。カヅキのことがあってから、俺、どうも落ち着かなくて」
何をするにもそわそわして、焦ったり苛立ったり。心がざわついているということを、カイは誰よりも自分で分かっていた。多分他のみなにも伝わってしまっているのだろう、仲間たちは気遣わしげにカイを見てくるのだ。
「俺はカヅキと同じことはしたくないんだ。自分を犠牲にしてみんなを助けるなんて、そんなのは御免だ。みんなも助けて、俺も生きたい。……贅沢なことかもしれないけど」
「それが普通だ。カヅキの真似なんて、生半可な覚悟じゃできないぜ」
「うん。……でも、今のままの俺じゃ、たぶん何も守れない。たとえ俺のすべてを引き換えにしたとしても、カヅキのように暗鬼を一掃する力なんて、俺にはないんだ」
自分が持つ魔力量には自信があった。賞金ランキング上位の者にも劣らないと信じていて、それは事実であった。だが、それは驕りだったのだと思う。カイが賞金首になったのはイリーネを誘拐しかけたという大罪のため。カヅキやニキータ、そしてヒューティアは違う。彼らは戦いを繰り返し、常に勝者となった。だから生き残ることができたのだ。適当に戦って逃げればいいと考えていたカイとは、次元が違いすぎる。
それを、痛感した。カイは誰よりも弱いのだと。
「なるほど。そこで親父さんにぶっ飛ばされて、性根叩き直されに行きたいってことだな」
「……言い方は気に食わないけど、そういうことだよ。フィリードのみんなを避けては通れない」
「そうすりゃ、お前は吹っ切れるんだな?」
「吹っ切る。この先、足手まといになる気はない」
力強く断言すると、ニキータは不敵に笑って見せた。
「そういうことなら、里まで送り迎えでもなんでもしてやろう」
「あ……ありがとう」
「イリーネにはお前から話しておけよ。俺はクレイザのところに行ってくる」
そうして快諾してくれたニキータの背中に乗って、カイは神都カティアからニム大山脈を目指し、北上することになったのだった。
前日の夕刻前には出発し、翌日の昼にはニム大山脈が見えた。その間ニキータはほぼ休まずに飛び続け、ニキータに掴まっているカイのほうが先に疲れて休憩を要求するという有様だ。この超人と張り合うつもりは更々ないが、それにしても自分の体力のなさにはほとほと呆れてしまう。
フィリードの里は「幻」とまで言われることもあって、殆どの者は場所どころか存在すら知らない。だというのにニキータは、当然のように場所を把握している。ヘルカイヤ公国はフィリードの里の情報など握って、どうするつもりだったのだろう。それともニキータは、個人的にあの里と繋がりがあったのだろうか。なくはない、とカイは不吉に思う。あまり知られたくない情報が、父からニキータへ、あるいはその逆に流れているなど、考えるだけでぞっとする。
ニムの山並みを見下ろしていたカイの視界で、ちかちかと何かが煌めいた。常人には気付かれることのない強い幻覚魔術だ。そのからくりを知っているからこそカイは山の景色に違和感を覚えることができたが、おそらく並みの化身族ではその存在にすら気づかないだろう。勿論、フィリードの里を隠すための幻覚だ。強力な光魔術の使い手が里にいて、その者が里を守る結界を創っている。
その結界の上を、ニキータは旋回する。どうするかと、カイに問うているようだった。少し離れた場所に降りてから徒歩で近づくか、それとも里のど真ん中に降りるのか。――どちらにせよカイは部外者だ。だったらどちらでも、同じことだろう。
「いいよ、そのまま降りて。結界の存在を知っている相手には、あの幻覚は効かない」
思えばこの結界も、光属性魔術のひとつ“夢幻”なのだろう。メイナードが使っていた魔術と同じ。闇魔術といい神魔術といい、物質的なものでない魔術は癖が強すぎる。
ニキータはカイの言葉に従って降下する。途中でぴりぴりと肌が痛む感覚がしたのは、結界を通過したせいだ。その証拠に、肌の痛みを感じた直後に周囲の景色は一変した。ただ木々が乱立していただけの山肌は綺麗に均され、畑や家屋も存在する集落の姿になったのだ。一年ぶりに見る故郷、フィリードの景色だ。
結界を何者かが越えたら、里の者は気付く。地上では多くの住民が外に飛び出してきて、降下してくる黒鴉に警戒しているようだった。問答無用で攻撃をしてこないだけ、まだマシなのかもしれない。おそらく、素性はどうあれ相手が化身族だったからだろう。
地上に足をつけたニキータの背から、カイは軽やかに飛び降りる。すぐに誰かが「カイだ」と呟いた。フィリードの里を拓いた祖の息子で、次の長とも目されていたカイのことを知らぬ者はいない。そして、そんなカイが先年、人間の娘を連れて三十年ぶりの帰郷をしたことも記憶に新しいはずだ。
長を呼んでくれとカイが言うまでもなく、目当ての人物はカイの前に姿を見せた。ちょうど外で作業でもしていたのだろうが、それにしても相変わらず涼しげな顔だ。この炎天下、暑そうな様子を微塵も見せない。
「カイ、どうした」
父ゼタのその声は、想像していたよりかは幾分か穏やかなもので、怒りや呆れなどは混じっていないように聞こえた。だが、逆にその優しさが恐ろしい。カイはぐっと一度唇を噛み、父親を真っ直ぐ見つめた。
「……頼みがあるんだ」
「頼み?」
「俺に最終奥義を教えて。あんたが編み出した、最強の攻撃を」
その言葉に驚いたのはゼタではなく、その傍にいた同年のファビオのほうだった。何か言おうとしたファビオを制する。普段は真顔をそうそう崩さないゼタが、このときは苦く笑みを浮かべてカイを見ている。「この子は何を言い出すのやら」とでも言いたげな顔だ。なんだかむかついたが、顔には出さずにこらえる。
「突拍子もないことをお前が言い出すのは今に始まったことではないが、今回もまた強烈だな。最終奥義は自分で会得するのではなかったのか」
「そうしたいのはやまやまだけど、時間がないんだ」
「長も継がない、この里で生活するつもりもないというお前が、私の技を盗むというのか。随分と都合の良いことだ」
「……自分勝手は承知している」
「訳を聞こうか。稽古嫌いのお前がそのようなことを望む訳を」
「失いたくないものができた。それを守るために俺は、強くならなきゃいけない。……頼む」
カイはその場に膝を折り、ゼタに頭を下げた。父の前で膝をつくなんて、つい先日までは想像もしていなかった。だが教えを乞うことを屈辱と思うような浅はかな格好つけは、いまは封印すると決めた。恥ずかしくはない。これがカイの誠意だ。
魔術は、魔術書を読んで習得する。それは最終奥義についても同じことで、自分の扱う属性の最終奥義が記述された魔術書を読めば、素質のある者なら使うことができるようになる。九割の化身族はそうした「教科書通り」の魔術を使うのだが、残りの一割は違う。彼らは魔術書に頼らず、独自に魔術を編み出して行使する。
その創作魔術の使い手こそ、ゼタ・フィリードという男であった。一般的な氷属性魔術とは違う、ゼタだけの魔術。いまはそれが欲しかった。本当は、自力でゼタと同じ境地にまで辿りついて、あわよくばカイ独自の術を創りだしたかったのだけれど。
ゼタの口元から笑みが消えた。僅かに目を見張り、物珍しそうに息子を見下ろしている。それから彼は、カイの横で化身を解いた黒衣隻眼の大男へと視線を移した。目が合ったニキータは、「よう」と軽く挨拶する。
「強者と手合せして己を磨きたいのであれば、お前の隣にうってつけの男がいるようだが」
「俺の知る限りで一番強いのは、ゼタ・フィリードだよ」
ニキータには申し訳ないけれど、とカイは内心で付け加える。ニキータはにやにやと笑っているだけで、別に不快に思ってはいないようだ。
ゼタは強い。ニキータよりもカヅキよりも、フロンツェよりも。口には出さなかったが、カイは昔からそう信じてきたのだ。この父こそが世界最強だ、と。一生をかけても超えられない相手だと。
「ははは、これはなかなか言うようになったものだ」
緊張感漂うこの空間で、突如ほんわかと笑い始めたのは、遅れてやってきたジーハだった。父の側近で、カイの母の兄でもあるジーハには、昨年里を訪れた際には会うことはできなかった。穏やかで包容力に溢れ、カイの一番の理解者だったジーハに、カイは一段と懐いていた。今でもジーハにだけは親愛の情が湧くのだが、記憶にあるよりも痩せてしまった伯父の姿に、言葉が詰まった。彼はとうに百歳を超えた身。急速に老いがその身を蝕んでいるのだ。
「良いのではありませんか、長。我々の武技が途絶えてしまうのはあまりに忍びない。カイも本気のようですし、ここは私からもひとつ」
ゼタという男は、何かとジーハに弱い。威厳ある長として里の者に崇拝されているゼタだが、その手綱を握っているのはジーハなのだから。ジーハに微笑んでそう懇願され、ゼタが断れるはずもなかった。
仕方ない、とゼタが呟いたので、カイは顔を上げた。ジーハに立つよう促されたので、素直に従う。
「ありがとう、ジーハ」
「礼を言われるほどでは。しかしカイ、長の手ほどきを受けたいのならば、ひとつ条件があるよ」
「え」
ただひたすらに穏やかだったジーハの雰囲気が、そこで変わった。はっとして彼に目を見ると、紫水晶のような瞳の色が黄金に輝いている。カイにとっては懐かしい雰囲気、それでいて父に次ぐほど恐ろしい闘気だ。
「お前に戦士としての心得と技術を一から十まで叩きこんだのは、この私だ。私を超えずして、長に挑むなど百年早い。言いたいことは分かるね」
あの穏やかなジーハ様が、という囁きが里の民の中から聞こえてくる。ああ、チェリンもそうだったが、彼らは盛大にジーハという男を勘違いしている。この男は、ゼタの側近なのだ。ゼタに次ぐ強者でなければその座にはつけないというのに、優しい性格だけでジーハを判断する。
「やれやれ、血気盛んなこったな。それじゃ俺はお前らの稽古の様子、のんびり見ていようかね」
ニキータがひらひらと手を振って、カイの傍から離れた。それを聞いたカイは、慌ててニキータを振り返る。
「ちょ、ニキータ……送り迎えだけって話じゃ」
「お前な、この距離を俺に二往復もさせようってのか? 冗談じゃない、期日までここで休ませてもらうぜ」
言われてみれば酷な話だったかと、カイは頭を掻く。ゼタやジーハがニキータの素性を尋ねないということは、やはり彼らは知った仲なのだろう。フィリードの里は人間には厳しいが、里を訪れた化身族のことは歓迎する。ニキータの処遇で悶着することはないはずだ。
「それに、ちゃんと見張っとけって念を押されたからな。ここの連中に、うちの大事な戦力を奪われるのだけは阻止しろって」
「誰にそんなこと言われたの」
「アスールとチェリンだな。去年、ここで一悶着あったんだって?」
「口の軽い……」
あからさまな牽制を口にしたニキータに、思わずカイはゼタとジーハの顔色を窺ってしまった。だが幸いなことに心の広い父と伯父は、ニキータの言葉で気分を害したりはしないようだ。
「ムキにはなるなよ、カイ。ここにゃ頼りになるイリーネはいないんだ。怪我したって自力で治すしかないんだからな」
「分かってるよ」
ニキータはゼタのもとへ行き、一言二言何か言葉を交わした。その姿から視線を逸らし、カイは改めてジーハに向き直る。
「ごめん、待たせた」
「いや。それでは少し移動しようか。ファビオ、審判を頼めるかな」
「は……」
まだ現状を受け止めきれていない様子のファビオが、戸惑いつつ頷く。そうしてジーハが向かったのは、里から少し離れた山林の真っ只中だ。獣道すら存在しない山のすべてが、幼き日のカイの稽古場だった。存在する樹木や岩場をどう使おうが自由。ジーハやファビオと訓練に明け暮れ、血と汗を流してきたニムの大地だ。
「さあ、この三十年でどれだけ成長したか、師に見せてみろ」
距離を取って相対したジーハが、穏やかにカイを嗾ける。それを聞いて、カイは笑う。――そう、笑うのだ。いつだって薄笑いを浮かべて余裕な顔をしている、あの男のように。
「生憎だけど今の師は、傲岸不遜な鴉の大男なんだ。昔のままの俺だと思わないでくれ」
「それは楽しみだ」
にっこりと微笑んで、ジーハが化身する。同じトライブ・【レパード】、しかし白銀のカイとは違い、ゼタやジーハは白い身体に黒の斑点を持つ。豹族として理想の姿そのものの父と伯父に、昔は大層なコンプレックスがあったものだ。
いまは、そんな劣等感もどこかへ行ってしまった。それはいつのことだったのか。里を飛び出して自由になった日か。離宮に飛び込んでイリーネたちと出会った日か。イリーネと契約した日か。もう覚えてもいないほど、些細なことになりつつある。白銀の体躯をイリーネたちは「綺麗だ」と言ってくれるから、それで十分なのだ。
自分もまた化身しながら、注意深くジーハを観察する。思い出せ、この師の足の運びを、攻撃の癖を。隙はいつできて、押すべきところはどこか、引くべきところはどこか。冷静に対処しなければジーハには勝てない。
――冷静に対処すれば、勝てないはずがない。
「準備はよろしいですか」
二人の間に立つファビオが、両者を見渡して問いかける。小さく首肯すると、ジーハも同じく首を上下させた。
「では、――始め!」
その言葉と共に、カイは地面を蹴った。
イリーネのためにも、自分のためにも、力をつけなければならない。ゼタへ挑むためにジーハを倒す必要があるというのなら、敬愛する師であろうとも、打ち破って見せよう。ジーハの急所を狙って振るう爪と牙に、揺らぎはなかった。