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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
8章 【嵐の前夜】
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◇強さの代償(4)

 カイとニキータは神都を離れ、アスールは使者を送ってステルファット連邦を調べるようにとサレイユに依頼してくれた。ステルファットに最も近いサレイユの西部からは、肉眼でもその島々を見ることができる。情報を集めるにはサレイユの協力が欠かせないのだ。

 カーシェルもまた日常的な政務の傍らで、ステルファット連邦の資料などをひっくり返している。どのような国交があったのか、その成り立ちはどのようなものだったのか、王城の蔵書を片っ端から確認しているようだ。元はカーシェルの命で臣下たちがその作業を始めたのだが、黙って待っていられない短気な王太子は、臣下たちに混ざって作業を手伝い始めたというわけであった。


 カーシェルとゆっくり話をする機会をずっとうかがっていたイリーネが、ついにその機会を得ることができたのは、カイが出かけて三日目の夕刻だった。資料漁りに疲れて書庫から出てきたカーシェルが、西日の照る中庭で人目もはばからず伸びをしている姿を窓から見かけて、慌ててイリーネは外へ飛び出したのだ。幸いにもカーシェルはまだ庭にいて、木剣を手にしているところだった。


「お兄様!」

「ああ、イリーネ。どうした、そんなに慌てて」

「お兄様の姿が見えたので出てきたんですが……もしかして剣の稽古のお邪魔でしたか?」


 イリーネが木剣に視線を向けると、カーシェルは笑って首を振る。


「そんなことはないよ。座ってばかりで肩が凝ったから、運動でもしようかと思っただけだ。俺に用があったのか?」

「少しお話しておきたいことがあって」

「言ってくれれば時間を作ったのに」

「すみません。でも私だって、いつ時間が空くか分からなかったんですもの」


 木剣を壁に立てかけたカーシェルは、「そういえば」と呟きつつ踵を返す。彼の向かう先にはベンチやテーブルが置かれていて、ちょっとした休憩ができるようになっている。イリーネもそのあとを追いかけた。


「こんな時間にイリーネが城にいるのは珍しいな。教会のほうはいいのか」

「傷病兵の慰問に行くと言って抜け出してきました」

「おいおい、また司祭たちに怒られるぞ」

「……冗談ですよ」


 抜け出してきたということをあっさり信じられてしまったのは心外なのだが、そう思われても仕方のないような前科があるので反論できない。つくづく、日頃の行いが重要なのだと痛感する事案だ。


「最近は少しずつお務めの引継ぎが行われていますから。私も自由な時間が増えてきたんです」

「そうか。そういえば、そうだったな」


 神姫の役を辞する日は近い。次代の神姫として指名された従妹テレジアは五歳。今から少しずつ神姫の任に慣れさせ、知識や行儀を習うのだ。イリーネが生まれた時、先代の神姫であるエレノアは既にその役を下りていたけれど、テレジアの場合はそうではない。彼女はイリーネの神姫としての姿を見ることができるから、最近はイリーネが務めを果たしているとき、傍にテレジアがついていることが多くなった。それに伴ってイリーネの務めの規模も縮小し、着実に終わりが近づいているのだ。

 神姫はたいていの場合、十歳ごろにその肩書きを負う。神姫を求める国民の声が大きければ、早まることもあろう。何にせよ、かなり幼い神姫が誕生するのは間違いないだろう。


 それを告げた時、カーシェルは無言でイリーネの頭を撫でた。それがどういう意味を持っているのかと首を捻っている間に、義兄はベンチに腰を下ろしてしまう。イリーネもその隣に座った。


「それで、話というのは?」

「先日の行軍の途中で、マンフレートに滞在したときのことなのですけれど……」


 イリーネはそこでようやく、シャルロッテと交わした会話の内容や、彼女から託されたメイナードの手帳についてをカーシェルに話すことができた。シャルロッテと会ったということだけはカーシェルも知っていたが、今までその内容について問うてくることはなかったのだ。イリーネももう子どもではないし、話すことではないとイリーネが判断したのなら、無理に聞くつもりもなかったのだろう。

 メイナードの手帳を手渡すと、カーシェルはぱらぱらと手帳を繰っていく。時折懐かしそうにページを繰る手を止めるカーシェルの横顔を見ながら、イリーネが尋ねる。


「この手帳、お兄様には見覚えが?」

「ああ、メイナードが持ち歩いているのを見たことがある。ちょっとした予定でもきっちり管理していたようだったからな」


 やがて手帳の記載はステルファット連邦訪問の予定を書いたところで途切れ、白紙が続く。その途中にいくつか殴り書きの呪詛のようなものを見つけ、カーシェルは眉をひそめた。最後のページまでしっかり確認して、彼は手帳を閉じる。


「やはりステルファット連邦か。ツィオ殿の話のこともあるし、すべてはそこに繋がるようだな」

「……メイナードお兄様は、ステルファットにどういった理由で赴かれたのです?」

「新しく開拓した島に時の大統領が別荘を建てたとかで、その完成式に各国から王族が招かれたのさ。ちょっとした親睦会のようなものだな。本来は俺が行く予定だったのだが、どうしても抜けられない予定ができてしまって……代わりにメイナードに行ってもらったんだ」


 かなりの資財を投じての建築だったということもあって、別荘というよりは城に近いものが完成したらしい。他国の王族を招いて式典を開くくらいなのだから相当な規模だ。当時の大統領は大陸の国々と積極的に交流を持とうとしていたというから、そうした目的もあったのだろう。美しい海と山に囲まれた場所で至れり尽くせり、良いバカンスになったと、帰国したメイナードはカーシェルに報告したそうだ。メイナードが異国の地で優雅なバカンスを送る姿など想像できないのだが、彼が楽しかったと言うのだからかなりのものだったのだろうと、カーシェルは微笑ましく思ったのだ。


「だが、メイナードはステルファットで何か(・・)と接触し、知らぬうちにその影響を受けてしまったのだろう。帰国後の数年は己のうちでその何か(・・)と闘っていたようだが、それにも競り負けたということかな」


 この手帳をマンフレートの屋敷に隠したのは、国王ライオネルと王妃エレノアを殺害する三日前のことだとシャルロッテは言っていた。メイナードは自分が狂うと知っていたから、その直前に行動に出たのだろうか。

 国王夫妻の殺害を皮切りに、メイナードは徐々に【獅子帝】の支配に狂わされていく。表面上では相変わらず穏やかな顔をして、裏では化身族や混血種(まざりもの)を殺害して行った。以前に王城内で獣兵の不審死が相次いだことがあったのだが、それがこの時期と完全に一致している。犯人はメイナードということで間違いないだろう。本人も、そのようなことを言っていた。


「どういった理由で連邦が国境を封鎖したのかは知らないが、やはり直接乗り込んで確かめてみるしかないな。サレイユからの報告を受け次第、使者を送ってみよう。突き返されるかもしれないが、その時はその時だ」


 そう呟くカーシェルの表情はどこか物騒だ。実力行使も辞さない、といった決意が滲み出ている。相変わらず血の気の多い義兄だが、今回ばかりはイリーネにもその気持ちが分かるような気がした。

 あの時は真相など分からなかったし、他に方法がなかったとはいえ、ただ利用されていただけのメイナードを斬ったのだ。彼をたぶらかした者がいるというのなら、是が非でも討ち取る。それを弔いとし、すべてにケリをつけるのだ。


「話してくれてありがとう、イリーネ」

「お役に立ちましたか?」

「立ったとも。……シャルロッテ殿のこともな。良かったよ、きちんと話ができたようで。ずっと案じていただろう?」

「はい。お兄様、ありがとうございます。お母様を、赦してくれて」


 深々と頭を下げると、「よせよせ」とカーシェルは笑う。


「俺はアスールほど優しくないからな。相手が誰であろうと罰はしっかり受けてもらう、ただそれだけだ。あの方が直接悪事を行ったわけではないのだし、命で贖うまでのものでもない」


 アスールほど優しくない、という一言をアスール本人やカイが聞いたら、盛大に反対するだろうなとイリーネは苦笑してしまう。何度かアスールの口から、「私はカーシェルほど優しくない」という言葉を聞いた覚えがあるだけに、尚更だ。このふたりは、互いに情け容赦ない一面があることを知っていながら、それでも相手のほうが心優しいと信じて疑っていないようだ。仲が良いというか、似ているというか。


「……しかし、ツィオ殿は一体何者なのかな。イリーネたちは旅の途中で出会ったんだったな?」

「霊峰ヴェルンの山中で一宿一飯のご恩が。そのあと、ラクール大砂漠の遺跡でお会いしました。世界のあちこちに研究所があって、旅をしながら女神教の歴史を調べているのだとおっしゃっていましたね」


 この広い大陸でばったり出会う確率がどれほどあるだろう。一度目はおかしくないし、二度目までは偶然だと言えるが、果たして三度目の邂逅となる今回はなんと呼べばいいだろうか。――いや、そもそも一度目からしておかしかったのではないだろうか。ヒトの近寄らない霊峰ヴェルンの山中で出会うなんて、いま考えれば奇妙すぎる。

 カーシェルは腕を組み、強い西日に若干眉をしかめながら口を開いた。


「ツィオ殿はパドラナ盆地に暗鬼の巣があることを知っていたような口ぶりだった。あのような場所、地元の者でも訪れないとニキータ殿も言っていたことだし……俺の考えすぎかもしれないが、偶然接触してきたようには思えない。ずっと観察されていたのかもしれない」

「確かに……私やアスールが王族であることを知っても、ツィオさんは驚きはしませんでしたね。むしろ最初から知っていたかのような……」

「うん。やはり、早急に他の情報を聞き出す必要があるな」


 イリーネは頷き、カーシェルに向き直った。


「その役目、よければ私が引き受けます。初対面の者が行くより、スムーズに話ができると思いますし」


 霊峰ではあからさまに男卑女尊の態度を見せたツィオだ、女の身であるイリーネやチェリンが会いに行った方が効率が良いだろう。カイも以前何やらツィオと話をしていた様子があったけれど、不在なのでは仕方がない。そう提案すると、渋い顔をしながらもカーシェルは許可してくれた。彼にとってツィオは『得体の知れない老人』だ、心配してくれているのだろう。


「……分かった、お願いしよう。だがひとりで会いにはいくなよ。絶対だ」

「はい」

「ならばよし。……そうだ、話は変わるんだが」


 カーシェルはそう言いながら、視線を中庭へと彷徨わせる。イリーネもその視線の先を追ってみたが、あるのは夕日に照らされた植え込みや花々があるだけだ。この庭園はいつでも美しいままだ。メイナードに占拠されたときでさえ、ここが荒らされることはなかった。あれでいて、メイナードは音楽や絵画の鑑賞が好きだった。美しいものを破壊するのは本意ではなかったのか、はたまた手が回らなかっただけか。


「アスールが王族から籍を外すという話、聞いたか?」

「ええ、だいぶ前に」

「婚約解消の話も?」

「はい、それも」

「サレイユからそう申し出てこられては、こちらとしては却下することができない。……イリーネ、大丈夫か?」


 不安げに問われたのだが、その話はイリーネとアスールの間で決着した話だ。だからイリーネは笑顔で返す。


「大丈夫ですよ。アスールには、王族という身分を捨ててでも優先したいものがあるんですもの。せっかくそれを手に入れようと決意したのに、その枷にはなりたくありません。王族の娘としての役目を果たせないのは不甲斐ないことですが……」

「そんなことは気にしなくていいと言っただろう。イリーネが納得しているならいい。もしアスールが一方的に突き放したのなら、斬り捨ててやろうかと思っていたところだった」

「まさか、アスールがそんなことするはずないじゃないですか。お兄様も意地悪ですね」

「どうかな。あいつは女性の扱いを知らなさすぎるんだ」


 勿論冗談交じりではあったが、アスールを斬り捨てると言ったカーシェルの目はまったく笑っていなかったので、イリーネも慌てて窘める。カーシェルは肩を竦め、顎をつまんだ。


「さて、これで問題はカイだけというわけだな」

「えっ……な、なんでカイなんです?」

「今までカイは、アスールという婚約者がいたから身を引いていたのだろう。その障害がなくなったのだから、何か行動を起こしてしかるべきだと思わないか?」


 そう言われても、イリーネはなんとも返すことができない。そもそも、「アスールがいたから身を引いていた」という時点で、イリーネにはさっぱりだ。カイがイリーネのことを憎からず思ってくれているのは分かるが、それが恋愛の情なのかなど分からない。カイは兄のような気持ちでイリーネを見てくれているのかもしれないし、そうだとしたらイリーネの気持ちは一方通行だ。


「……カイの積極性のなさには呆れたが、相手がこれでは苦労するな」

「お兄様、いますごく失礼なこと言いませんでしたか」

「いや? まあ、据え膳食わねばなんとやら、という言葉もある。そろそろ腹を括れよ、ご両人」

「その言葉、少し意味が違うと思うんですけど……だ、大体、お兄様はどうなんです? 身を固めるおつもりがないのですか? その……お見合いのお話もあるでしょう?」


 ついに聞いてしまった。若干その疑問を口に出したことを後悔したのだが、当の本人はけろりとした顔で肯定した。


「見合い話はしょっちゅうだな」

「私のことより、まずはお兄様がしっかりお妃さまをお迎えして御子をもうけるのが先では? 王となられる日は近いのですから……」

「大臣たちのようなことをイリーネまで言わないでくれ。毎日聞き飽きているよ」

「またそうやってはぐらかす!」

「そう言われてもな。俺は目先の騒動の芽を摘むことと、義妹の幸せな未来を現実にしてやることが最優先なんだ」


 真顔でそんなことを言われ、イリーネは硬直してしまう。カーシェルは穏やかな顔で、真っ赤に頬を染めて俯いたイリーネの顔を覗き込む。


「惹かれているんだろう、カイに」

「……私は、カイを好きでいて、いいんですか?」

「良いに決まっている」


 カイのことは好きだ。ずっと一緒にいたいと思うこの気持ちは、信頼や友情程度のものではないとイリーネも自覚している。だがそれは叶わぬ望み、口に出してはいけないものだと自制してきたのだ。カーシェルがなんと言おうと、イリーネは王族。国と民のために尽くすのがイリーネの使命。リーゼロッテという国の立場を盤石なものにするために必要なら、どのような相手と結ばれることになっても構わない。そう思ってきたのに。

 カーシェルがそんな簡単に断言してしまうと、この気持ちが揺らいでしまう。欲が出てきてしまうではないか。どうして、甘い言葉ばかり口にしてくれるのだろう。イリーネは神姫だ。神姫だった者が化身族と恋をするなど、誰が許してくれるというのだ。


「イリーネとカイの姿は、俺が思い描く理想そのものだ。何より、大事な義妹と友人の幸せを、応援しないはずがないだろう。王族の娘としてではなく、イリーネ自身がどうしたいのか、それを見つけてほしい」

「……お兄様」

「それに、ふたりの関係を周囲に認めさせてこそ……俺の理想は一歩進むことができる。だから協力させてくれないか」


 ――ああ、カイを、好きでいていいのだ。


 ずっと兄はそう言っていてくれたが、いま急にその言葉がすとんとイリーネのうちに入ってきた。カーシェルにはカーシェルなりの考えがあって、こうやって心を砕いてくれているのだから。それに何より、自分の気持ちに蓋をするのは、もう疲れてしまった。


「ありがとう、お兄様……何か色々、軽くなりました」


 カーシェルは微笑み、ベンチから立ち上がる。冷たい風が吹き付けて、薄着だったイリーネは少し身震いしてしまう。夏本番とはいえ、夕方になれば少しは暑さも収まるものだ。

 身体を冷やしてはいけないとカーシェルに促され、イリーネは城内へ向けて歩き出す。今日はこのまま城に泊まっていくと良いと言われたが、言われるまでもなくイリーネはそのつもりだった。神姫でなくなればイリーネは城で生活することになる。今からその生活にも慣れておくべきなのだ。


 そういえば結局、カーシェル本人の婚姻についてははぐらかされてしまったな――と城への道すがらに考えていると、義兄はふと思い出したように口を開いた。


「ところでな、イリーネ」

「なんです?」

「もしカイに、獣軍を任せたいと言ったら……彼はなんて言うかな?」


 予想しなかった一言に、イリーネは言うべき言葉を見失ってしまった。少しの間逡巡して、ようやく一言。


「断固拒否すると思います」

「やっぱりそう思うか」

「どうして急に?」

「いや、カヅキがな。カイには将としての器があると評価していたから、任せてみるというのもアリかなと思ったんだ。獣兵たちもカイの力には一目置いているし、賞金首と王女の恋愛より、将と王女の恋愛のほうがまだ安全だ」


 何より、とカーシェルは悪戯っぽく笑う。


「イリーネとカイが身近な場所にいてくれたほうが、俺もやきもきしないで済むからな!」

「……」


 まさかカーシェルがそんな野望を持っているなどということを、間違ってもイリーネの口からカイには伝えまい。イリーネはこのとき、固く心に誓ったのだった。

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