◇強さの代償(3)
リーゼロッテ神国正規軍化身族部隊、通称『獣軍』は、ヘルカイヤ地方での作戦を終了して帰路についた。来た道を戻る形で、旧都ヘオロットを通過し、シュルツ湾を船で越えてスフォルステン子爵領に入り、神都カティアへ向かったのである。
この行軍には、奇妙な客人が同行していた。強固な獣兵の見張りの目を潜り抜けて突如現れた、自称歴史学者のツィオという老人だ。そうなるに至った経緯をイリーネは直接見ていないのだが、傍でカイやカーシェルとのやり取りを見ていたイル=ジナとシャ=ハラによれば、次の通りらしい。
リーゼロッテ神国が【獅子帝フロンツェ】を探しているというのは世界中で有名な話で、特にハンターならば知らぬ者はいない。しかしその名を出したツィオの声音に、カイとニキータは直感的に「こいつは何か知っている」と感じたらしい。そのためツィオをカーシェルたちと引き合わせることにしたのだ。
カーシェルが改めてツィオ本人のことや【獅子帝】に関することを問うたところ、『話しても良いが、こんなところで話すにしては長くなる』、『王太子が都を空けたままでいいのか』、『神都に行ってみたい』などと、のらりくらりと躱されてしまった。この場で話す気がないということも分かったし、カーシェルが早く神都に戻らねばならないのも事実。なれば仕方ない、と神都までの同行を要請すると、ツィオは快諾したのだという。
結果、何が目的なのか分からない老人がひとり、軍に加わってしまったということだ。ツィオは神都に到着するまで何も話す気がないようで、軍での生活というものを興味深げに体験している。要監視対象として何人もの獣兵に取り囲まれているというのに気楽なもので、再会したイリーネたちには相変わらず親しげな態度を見せ、初対面の面々にも気安く接する。皆この老翁との距離を掴みかねているようだ。
「しかしまあ、あのじいさん、体力だけは若者並みだね。化身族ばかりの軍隊だっていうのに、へっちゃらで着いてくる。大陸中を旅する学者、ってのも嘘ではないようだけれど」
そう評するイル=ジナは、イリーネの横で颯爽と馬を駆っている。化身族は押し並べて体力があり、持久力も高ければ移動する速度も速い。人間の足では追いつけないので、イリーネたちは基本的に騎乗しての行軍となっている。カーシェルやイル=ジナでさえそうだというのに、ツィオは徒歩で悠々と獣兵たちと肩を並べているのだ。並みの体力ではない。
「あのご老人も、実は化身族ということなのでは? そうであれば、高い身体能力も豊富な知識も納得がいきますが」
これはシャ=ハラだ。何の因果か将に抜擢されてしまったカイやアスール、ニキータは行軍の先頭を移動しているが、ジナとハラは客将という立場だ。軍内でも自由な行動が許されていて、今はこうして、軍の中程を輸送部隊と共に進むイリーネたちの傍についてくれている。チェリンとクレイザ、ヒューティアも一緒で、エルケとアーヴィンは上空を飛行している。
「あたしたちもそれは考えたんだけど、ツィオからは化身族の匂いがしないのよ。ヒューもカイもニキータも分からないって言うし」
「もしあのおじいさんが化身族だったら、カヅキさんみたいに化身能力を失っちゃったヒトか、私たちに気配を感じさせないほどの大物……のどっちかだと思う」
ヒューティアが不安げにそう告げる。真相は神都に到着して、ツィオが話してくれなければ分からない。わざわざツィオのほうから接触してきたということは、彼もまた何か話したいことがあるはずなのだ。
イル=ジナは長い緋色の前髪を掻き上げると、少し声を低めた。
「……カヅキと言えばさ、カイは大丈夫なのかい? なんだかずっと様子がおかしいじゃないか。いつにも増してぼんやりしているし、かと思えば急に思い詰めた顔をする」
カヅキが化身能力を失ったと分かった時から、確かにカイは浮かない表情ばかり見せていた。当の本人であるカヅキはすっかり常と同じ顔をしているのに、これではどちらが化身能力を失ったのか分からないほどだ。
「化身できなくなるっていうのは、あたしたちにとっては死ぬことと同じなの。平気な顔をしているカヅキのほうがおかしいのよ、あれは。もし自分が同じ目に遭ったら……って考えたらぞっとする。多分、あたしは生きていけない」
そんなことになったら、いっそ命を絶つと思う。チェリンはそう言いきって、溜息を吐いた。
「カイは一番傍でカヅキの戦いを見ていたから、感情移入しちゃっているんじゃないかしら。もっと他に方法があったんじゃないか、とか。カヅキが平気な顔をしているから、余計にね」
「……価値観の違いっていうのは難しいね。私なんかは、命があるだけマシだったと思ってしまうが」
「あたしだって正直なところはそう。あたしにとっては他人事だから、こういうことが言えるけど……カイは他人の感情の機微に敏感だものね」
カイは本当に敏いのだ。少しでも落ち込んだり悩んだりすれば、すぐカイに気付かれてしまう。契約を交わしたがゆえかと思っていたのだが、どうやらそれだけではないようだ。ぼんやりしているように見えてみなの様子はきちんと把握しているし、さりげなく話を聞いてくれることもあれば、相手の意図を察してそっとしておいてくれることもある。
そんな風に他人の心情を読み取ることに長けるカイと張り合うのは、元々無理な話かもしれない。だが、いつもイリーネを励ましたり慰めたりしてくれていたカイが、いま何を悩みどう考えているのか、イリーネには特定できない。それがなんとも情けなかった。どうしたのかと直接尋ねるにも、あれだけ物憂げな表情をされては憚られた。黙って傍にいることも考えたが、カイに鬱陶しく思われたらどうしよう。そんな不安に駆られて、イリーネは何も言い出せなかった。
そうして何も言い出せないまま、神都カティアの街並みが見えてきてしまったのである。
★☆
カーシェルとカヅキを陣頭に頂く軍隊の凱旋に、神都の民は両手を挙げて出迎えた。正規軍が神都カティアを離れるだけでも珍しいことなのに、王太子カーシェルが自ら率いての出陣だったのだ。勇ましいカーシェルの姿と、怪物の本拠地を潰したという戦功に、民衆は沸き立っている。熱狂的な歓迎っぷりにイリーネは若干慄いていたのだが、滅多に見ることのできない神姫の姿を見つけて、民衆が黙っているわけがない。イリーネもまた盛大に呼びかけられてしまって、慌てて笑顔で手を振って見せたものだ。
その後は慌ただしく戦後処理が行われた。今回のために編成された獣兵やハンターによる化身族部隊は解散となり、それぞれの生活へと戻っていった。アスールやイル=ジナ、ヒューティアも本国への連絡に追われ、諸々のことがすべて片付いたのは帰還から丸二日が経った時であった。
「相変わらず、ここは良い街じゃな」
窓から城下町の様子を眺めてのんびり茶をすすっているのはツィオである。この二日間、一応は客人としての待遇をされていたツィオは、待たされているにもかかわらず状況を楽しんでいるようであった。そんな彼に、イリーネが世間話のつもりで声をかける。
「ツィオさんは、神都にはよく来られていたんですか」
「いや、実は若いころに訪れたきりなんじゃよ。しかしよく覚えている。街並みこそ変われど、昔も美しい都市だったからのぅ」
おや、とイリーネは小首を傾げる。世界中を練り歩く歴史学者であり、特に女神教を中心に研究しているツィオが、その総本山である神都カティアを訪れたことが少ないということが、奇妙な話に思えたのだ。確かにこの街はア・ルーナ帝国の帝都だったわけではないし、帝国崩壊後に形成された小国の一つに過ぎなかったのだが、それでも何かしらの遺物はあるはずなのに。
「――さて、では改めてお尋ねしよう。ご老人、貴方は【獅子帝フロンツェ】が何者か、何をしようとしているのかをご存じなのでしょうか」
ツィオの真正面に腰かけたカーシェルがそう切り出したので、イリーネもそちらに集中する。会議室には仲間たちが勢ぞろいして、ツィオを取り囲んでいた。
ツィオは茶のカップを卓上に置いて、カーシェルに向き直った。
「奴とは古い付き合いだ。何をしようとしているのか、大体のところは見当がついておる……おぬしらの問いにはできる限り答えようと思うが、その前にひとつ頼みを聞いてくれるかの?」
「なんでしょう」
「この数年、フロンツェがどこで何をしていたのかを、わしはとんと知らんのじゃ。おぬしらが奴とどういう関係にあるのかもな。先にそれを教えてもらって、状況を把握したいと思うのじゃが」
カーシェルはじっと黙って、ツィオを見つめている。この老人の立ち位置を計りかねているのだろう。フロンツェと古い付き合いだと言うツィオの言葉をどこまで信頼していいのか、洗いざらい話しても問題はないのか。ツィオはこちらに友好的ではあるが、いまだにどういう意図をもって接触してきたのかは分からないのだ。
それを悟ったのだろうか、ツィオはにっこりと笑みを浮かべた。
「心配せんでも、わしはフロンツェの仲間なんぞではないぞ。奴を止めたいと思ったからこそ、こうしておぬしらに話してみようと思ったんじゃからな」
「……分かりました」
カーシェルは頷き、事の発端となった国王夫妻の殺害から、半年前の騒動の幕引き、そして暗鬼の出現についてをツィオに説明した。口を挟まず黙って話を聞いたツィオは、茶を口に含んでから話を始めた。
「成程な、理解した。おそらくそのメイナードとやらは、知らないうちにフロンツェの支配下に置かれていたのじゃろうな。あれはそういう趣味の悪い闇魔術が得意な男じゃ」
「では、メイナードは【獅子帝】に操られていたと……? 本意の行いではなかったと?」
「いや。根底には化身族に対する憎悪があって、普段は理性や良心がそれに蓋をしていたのじゃ。フロンツェはその蓋を取って嗾けただけ。その証拠に、メイナードは最後までフロンツェの掌で転がされていたことに気付かなかったんじゃろ?」
カーシェルやアスールの表情は複雑だ。誰しも心の奥底には黒い塊を抱えている。メイナードはそれを引きだされてしまったに過ぎず、そういう意味では彼も被害者だろう。メイナードはあんなにも穏やかで理知的なヒトだったのだから。だが付け込まれる隙を作ってしまったのもメイナードであるし、彼が暴走するまま大量のヒトを殺したのも事実。そしてメイナードの理性を呼び戻してやることができなかったのは、悔やまれるところだった。
「黒幕は完全に【獅子帝】だったってわけだな。なんのためにメイナードを唆して、今回の事件を引き起こした?」
ニキータが話の先を促す。ツィオは腕を組み、ひとつ息を吐き出した。
「世界を混乱させるためじゃろうな」
「……は?」
「国王夫妻の急死による国情不安。それが実は第二王子による殺害だったと知った兄妹の衝撃。ようやく国情が安定してきたと思ったところで、王太子と神姫が消息不明に。各国でテロや襲撃が相次ぎ、サレイユでは国王が暗殺された。不穏な動きを見せるリーゼロッテに対して隣国が手を結び、共同戦線を張ることになった。そのころリーゼロッテでは王領が封鎖され、大量の化身族や混血児が虐殺されていた……どうじゃ、ここ数年でこの大陸は大混乱じゃぞ」
事件が相次いで人々が不安になっているのも勿論だが、歴史的な敵国だったケクラコクマとリーゼロッテ、サレイユが手を結ぶことになったことも一大事件だ。良くも悪くも、今までにないことが連続して大陸中で起こっている。日々変わっていく状況に、民衆も驚いていることだろう。
それは分かるのだが、いまいち納得がいかない。ニキータが髪の毛を掻いた。
「まったく同じことをメイナードも言っていたぞ。人々の混乱する顔が見たいと」
「それは本人の愉悦のためじゃろ。フロンツェの狙いは、混乱によって生じる不安や焦燥、怒りの感情じゃよ。そのためにフロンツェはメイナードを利用したのじゃ」
その言葉にいち早く反応したのは、獣軍将カヅキだ。後任の選定が済むまで、彼の辞職は見送られるらしい。
「負の感情は暗鬼生成の素となる……まさか」
「そのまさかじゃな。大陸中に蔓延した負の気によって、暗鬼の作成が非常に容易になっておる。そうして生まれた暗鬼は、さらなる混乱を生む」
「……その向かう先は?」
「フロンツェは、自分は【竜王】に仕える者だと言ったそうじゃな」
ツィオの言葉に、カーシェルは頷く。去り際に、誰何された【獅子帝】は確かにそう言った。
「奴の言う【竜王】は、歴史書に登場する【竜王ヴェストル】ではない。数は少ないが、いまも竜族は健在でな。それを指してのことじゃろう」
「!? トライブ・【ドラゴン《竜》】が実在する……!?」
「そのうちの一体の竜は、古の強力な光魔術によって封じられておる。光属性の魔術を破るには闇魔術が必須。だからフロンツェは負の気を集め、封印を緩めているのじゃよ」
話が壮大過ぎてイリーネにはぴんと来ないのだが、化身族の面々は、竜族が実在するということに驚愕している。長命な彼らですら、竜族の存在は伝説的なものだったのだ。こうもはっきり実在すると断言されて、どう反応したものかと困惑しているようだ。
ここで口を開いたのは、いつでも冷静なクレイザだ。
「封印されていたくらいなんだから、解き放たれたら色々まずい竜なんでしょうね」
「そりゃ当然じゃ。色々まずい竜だから、封印されていたんじゃからな」
「で、肝心のその竜はどこにいるんです?」
「ステルファット連邦。あの島々こそ、竜族の故郷じゃよ」
サレイユの西の海に浮かぶ、数十からなる島国。かつては大陸とも盛んな国交があったものの、五年ほど前から交流が断絶した人々。ハンターが所属する狩人協会の総本部が置かれている島――。
一度、調査をする必要がありそうだ。それはこの場にいる誰もが感じたことだった。
「……貴重な情報を感謝します。時に、ツィオ殿」
しばし沈黙を保っていたカーシェルが、ツィオを真正面から見つめる。
「これほどまでに【獅子帝】や竜族についてお詳しい貴方は、一体何者なのでしょうか」
カーシェルの眼差しは静かでありながら厳しい。並みの者であったら、カーシェルの視線から顔を背けることなどできないだろう。彼の瞳にはそれだけの強さがあった。
だがツィオは並みではないようだった。カーシェルの視線を真っ向から受け止め、あまつさえ微笑んで見せたのだ。
「わしは歴史学者。エラディーナについての歴史を研究する、ただの爺じゃよ」
★☆
結局ツィオは、自分のことについて詳しく語ってはくれなかった。ツィオとフロンツェの関係や、フロンツェの正体など、他にも聞きたいことはたくさんあったのだが、その場は一度解散となった。ただでさえ新情報だらけで混乱気味だったというのに、これ以上情報が増えては対応しきれないと思われたからだ。ツィオは全面的な協力を約束し、当面の間は王城に留まってくれるとのことだった。有難いことなのだが、チェリンなどはツィオへの不信感を露わにしている。
「霊峰で会ったときも胡散臭かったけど、よりその度合いが強くなったわ。自分の正体を明かしもしないで他人に信じてもらおうなんて、そんな都合のいい話があるかってのよ」
「でも、それだけ切羽詰っているってことじゃないんでしょうか? ツィオさんの話が本当だったら、事は私たちだけの問題じゃなくなりますし」
「そりゃそうかもしれないけど……」
そのようなことをふたりで話していると、ふらりとカイがイリーネの前にやってきた。いつにも増して口数が少なくなっていたカイが、自分から声をかけてくるのは久々だ。
「イリーネ。あのさ、お願いがあるんだけど」
「えっ……な、なんですか?」
改まった物言いをされて、イリーネは思わず身を固くする。カイの『お願い』の内容が良いものだとはとても思えなかったのだ。一体何を言うのかと、イリーネは身構えてしまう。
そんなイリーネの動揺はあっさりカイに伝わってしまったのだろう。髪の毛を掻き回したカイは、「たいしたことじゃない」と前置きして告げた。
「ちょっとだけ、出かけてきても良い?」
「お出かけ、ですか?」
「十日……いや、一週間でいい。【獅子帝】を本格的に追いかけはじめる前に、どうしても寄っておきたい場所があって」
少し遠出になるから、ニキータに運搬を頼んである。クレイザからも許可はもらった――と、カイはそう言う。そうまでしてカイがどこかへ行きたがるということが今までなかっただけに、イリーネは呆気にとられてしまった。
「こんな状況でイリーネをひとりにするとか、パートナーとして失格な気もするんだけどさ。こっちにはカーシェルもアスールもチェリンもいるから滅多なことはなさそうというか。いや、これも無責任で申し訳ないんだけど……」
「――ふふっ、そんなに気にしなくていいんですよ、カイ。どうぞ行って来てください」
カイがいない七日間くらい、自力でやっていける。それにカイの言う通り、頼りになる仲間たちは周りにいてくれるのだ。フロンツェを追ってステルファット連邦に行くとしても、相手は国交断絶をした国、そう易々と入国はできない。本格的に動き出すまで、時間はあるのだ。
「イリーネの身辺警護なら任せておきなさい。安心して、心の整理なりけじめなりつけてくるといいわ」
チェリンもそう胸を張ったので、カイはほっとしたように笑って頷いた。
「ありがとう。何かあったらすぐ呼んでね。俺、すぐ戻ってくるから」
「はい。ちゃんと帰ってきてくださいね、カイ」
「必ず」
久しぶりに晴れやかな笑みを見せて、カイはその場を去った。今すぐにでも発つつもりのようだ。カイもまた、己の中にある憂いを消そうと方法を模索しているところなのだろう。それが分かっただけで、イリーネも心から安心できたのだった。