◆強さの代償(2)
カヅキが目を覚ましたという知らせを聞いて、先程解散したばかりの面々が再び一堂に会する。だが、カイとカヅキが醸し出す異様な緊張感に、人間たちは戸惑っている。唯一、ニキータだけは一歩天幕に踏み込むなりぴたりと足を止めた。彼もまたカイと同じように状況を理解し、その現実に衝撃を受けているようだ。
「カヅキ……あんた、化身は」
震える声で尋ねる。カヅキは目を閉じて少し黙り、それから首を振る。誰に教わらずとも、意識せずとも行えていた化身。だがどれだけ集中しても、カヅキが化身時に現れる淡い光に包まれることはない。
「もうできないな」
そして飛び出したのは、そんな静かな言葉。カイが奥歯を噛みしめると、横にいたイリーネが慌てた様子で声をあげる。
「え……? ど、どういうことですか!?」
「最終奥義の代償だろう。俺はもう化身することもできないし、目も鼻も耳も獣のそれではなくなる。完全な人間になったようだ」
イリーネが、クレイザが、カーシェルが、アスールが、それぞれ驚愕の声を発した。カイとニキータは沈黙したままだ。だが、当の本人は目の前に掌をかざして、妙に落ち着き払っている。
「だがそれ以外に変化はない。魔術もどうやら使えるし、鍛えた身体はそのままだ。寿命は……どうなのだろうな。既にこの身は百ほどの年数を生きているが、今すぐ老いるわけでもないようだ。今日明日に死ぬということもあるまい」
天幕の入り口近くに立っていたニキータが、細く長く息を吐き出した。
「確かに、化身能力を失ったって奴らの話はちらほら聞くな。事故に遭ったとか、大病を患った後遺症だとか、まあ理由は様々だが……」
「ああ。生きていく分には何も問題がないのだ。命があっただけ、俺は幸運だ。……だからカーシェル、そのような顔をするな」
珍しくもカーシェルは言葉をなくして沈黙しきっていた。そんなカーシェルに、カヅキは優しく声をかける。カーシェルは一度目を閉じ、背筋を伸ばす。それは震える声を隠す儀式のようなものだ。
「カヅキ。お前は今回のことを、最初からひとりで片付ける心づもりでいたそうだな」
「……」
「俺になんの相談も断りもなく。お前ひとりの身を危険に晒すような作戦を、俺が望まぬと知っていながら」
「その通りだ。何を言っても言い訳にしかならない。独断独行の罰を受ける覚悟はできている」
王者の叱責を受けているというのに、これほど堂々と罰を受け入れる男が他にいるだろうか。誰にも恥じない行動をしたと、カヅキは知っているのだ。彼の行動は、本来ならば称賛されるべきものだ――化身族の間では。もしくは、ただのハンターであったのなら。だがカヅキはリーゼロッテ神国の正規軍に籍を置き、王太子カーシェルの直臣であり、多くの部下を預かる身。独断独行は人間の社会では許されない。
あれは明らかに、私情を優先しての行動だった。カーシェルはそれを叱責しなければならない立場なのだ。そして忠心深いカヅキのこと、カーシェルが命じればこの場で自害だって躊躇はないだろう。
「どのみち俺は、もはや化身族とは名乗れぬ。獣軍を統率することなどできないだろう……獣軍将の地位からおろしていただきたい」
「……分かった、受け入れよう」
だが、とカーシェルは言葉をつづける。
「今しばらく、その職はお前に預かってもらう。後任が決まっていないし、獣軍の者たちの意見も聞く必要がある。神都に戻るまでは職務を全うしろ」
「……謹んで、拝命する」
「神都に戻っても、自由になれると思うなよ」
「禁固刑ならば甘んじて……」
「違う」
「は?」
カーシェルの声音と表情が和らいだ。それまで立ってカヅキを見下ろしていたカーシェルだが、このとき彼はしゃがみこみ、カヅキと目線を合わせる。
「知っているとは思うが、俺は多忙の身でな。課題が山積みの状況で、有能なお前を手放せるほど人手は多くない。しばらく普段以上に雑務でこき使ってやるから、覚悟しておけ。それが俺がお前に与える罰だ」
「……カーシェル」
「――生きて戻ってくれて、良かった。もう勝手は許さないからな」
カヅキはカーシェルの臣下であるが、主従の契約を結ぶ以前からふたりの親交は深い。カーシェルにとっては頼れる兄貴分だ。その彼を失いかけて、どれだけの恐怖に襲われただろう。
軟化したカーシェルの態度に、二人を見守っていたイリーネたちの表情も和らぐ。みな安堵の表情だ。
「具合の悪いところはないですか、カヅキさん」
「体調はいい。姫、ハーヴェル公、アスール王子にも、ご心配をおかけした」
「結果オーライってやつですよ。無事で何よりです」
「その通りだな。獣軍将のおかげで、暗鬼を一掃することができた。むしろ感謝しなければならないな」
そう言ったアスールに、カヅキは視線を向ける。アスールの腕には真新しい包帯が巻かれている。昨日のアパリシオとの戦いでこしらえた傷だ。本陣に戻ってすぐカーシェルへの報告に行ってしまったから、応急処置以外の手当てができていないのだ。化身族を相手にして傷を負うのは、アスールにしては珍しい。
「その傷は、アパリシオに?」
「ああ。あれだけの人数をそろえて苦戦した。心底強かったよ、【獄炎将軍】は」
「かつて俺を負かした男だからな」
「そうだったのか。ならば納得の強さだ」
和やかな会話を外側から眺めていたカイは、視線をついと逸らす。隣に立つニキータも無言だが、どことなく彼の横顔も強張っているように見えた。
(……無理して、笑ってる)
カイの目には、カヅキの微笑みが歪なものに見えた。親交の深いカーシェルやイリーネが気付けなくて、カイが気付けるわけもない。――普段ならば。
だからカイにそれが分かったのは、カイもカヅキも『化身族』だからだと思う。
命だけは無事だった。化身ができなくなっただけだ。死ぬよりずっとましだ。
カーシェルたちのその考えは至極真っ当だ。命に勝るものなんてない。それはカイも否定しないが、彼らは根本的に分かっていないのだ。化身族とはどういう種族で、化身とはどういう動作なのかを。
だから言えるのだ、「化身ができなくなっただけで済んで良かった」と。
「……なんて顔しているんだよ、カイ坊」
ニキータがカイの頭に手を置き、がしがしと髪の毛を掻き回してきた。その手を払って、カイは顔を背ける。
「だって、見ていられないじゃないか。あんなの」
「まあ、それはそうだが」
化身族の起源などカイは知らない。獣がヒトになったのか、ヒトが獣になったのか、それすら分からない。だが確実なのは、化身族は「戦うための種族」であること。戦うことはすなわち化身族の生きる道。戦うために、自分たちは獣に姿を変えるのだ。爪と牙を研ぎ、さらなる強さを求めて戦いに明け暮れる。強い闘争心が、化身族の中には存在する。カーシェルが日々のストレス発散のために剣を振るい、未知の敵に心躍らせるなんてものとは比べ物にならない。少なくとも定期的に化身してヒトならざる力を発揮させなければ、化身族は力を持て余してしまう。
では、その化身という力を失ったら? ――考えたくもない。それほど戦いに執着したことのないカイですら、ぞっとする。戦うことができなくなる。獣としての自分を失ってしまう。それは生きる力を失うことと同義なのだ。ニキータの言った通り、化身能力をなんらかの理由で喪失してしまった化身族は存在する。彼らの殆どは路頭に迷い、気を狂わせ、自ら命を絶って行った。命が助かってよかったなんてことは、誰も思わない。「死んでいた方がましだった」と考える者のほうが、ずっとずっと多いのだ。
朗らかに笑っているが、カヅキがなんとも思っていないわけがない。その証拠に、先程からこの男は妙によく喋るではないか。本来それほど口数が多くないはずのカヅキが、まだ質問されてもいないことをぺらぺらと口にして、周りを安心させようとしている。そうでもしないと、きっと抑えられないのだ。
揺らぐ声を、震える身体を、強張ってしまいそうな表情を。皆が見ているからと、化身族ではないカーシェルたちを心配させてはいけないと、気丈に振る舞うその姿を、カイもニキータも直視できない。
ああ、カヅキは何も分かっていないじゃないか。言わねばわからない、だからもう何も言わずに行動するなと、カーシェルに叱られたばかりなのに。違う種族のカーシェルたちには言ってもこの辛さは理解できないからと、カヅキはそれを言わない。それは優しさなのかもしれないが、早速一人で抱え込む気満々ではないか。
「あいつは生身でも剣が使えるし、魔術も使える。まるきり戦う力をなくしたわけじゃねぇ。本当に耐えられない奴だったら、目が覚めた時点で盛大に取り乱しているだろうよ」
「でも、こんなの……!」
「なんにせよだ、この場はカヅキも笑ってやり過ごそうとしている。説教はあとで俺とお前でするとして、今はしれっとした顔をしていろ。カヅキが隠そうとしているのに、これじゃお前の顔でバレバレだ」
「……っ」
本当に辛いのはカヅキなのに、なぜだかカイは胸が痛い。自分がもし戦えなくなったらと思うと、怖くて仕方ない。実際そうなってしまったカヅキに対して、そんな風に思うのは酷いことかもしれないが――恐ろしいのだ。
戦う力を失ったら、カイはイリーネを守れない。それが何より怖い。
(強く、ならなくちゃ)
何者にも負けぬように。守りたいと思う者を、確かに守れるように。
★☆
カヅキの無事を喜んでいたカーシェルたちは、流れでそのまま明日の行軍予定について話し合いを始めた。カヅキはすっかり平然とした顔で、カイたちの目から見ても無理をしている様子はもうないようだったので、とりあえずは黙っていることにした。カイとしては軍議の場にいるのが場違いな気がしてならなかったのだが、カヅキの副将としての立場はまだ継続されているらしく、ここに残れと言われてしまったのだ。途中でチェリンとヒューティアが様子を見に来て、イリーネとクレイザは退席した。怪我はなくとも疲労した兵は多いから、彼らのために軽食をこしらえるのだという。チェリンとヒューティアもカヅキの異変には気付いたようだが、彼女たちは空気を読んだのか、何も言わなかった。
にわかに騒動が起こったのは、それからまもなくのことだった。
天幕の外で、多数の兵士が何か話をしている。カイの耳が最初に捉えたのはそのような音だけで、特に気にしてはいなかった。しかしあるとき突然、その声が大音量になったのだ。驚きの声、怒号、誰何の声、ばたばたと大勢の兵が走る音。これにはカイだけでなく他の面々も驚いたように顔を上げ、ニキータが立ちあがって天幕の垂れ布を揺らす。
「なんだ、騒がしいな」
「まさか敵襲か?」
「それは勘弁してもらいたいところだなぁ」
いくらか緊張した面持ちで、カーシェルとアスールが剣を掴む。カイは無言でニキータの後に続いて外へ出た。もしかしたら暗鬼を殲滅しきれていなかったのかもしれない。いまは兵士たちの大部分が休憩していたのだから、不意打ちを受けるのはまずい。
だが、幸か不幸か、予想していた光景は見られなかった。兵士たちが集まって臨戦態勢ではあるものの、特に戦いが始まっている様子もない。何かを警戒しているようだが、この血気盛んな獣兵たちが手出しを躊躇うのだから、妙な相手に違いない。
カーシェルやカヅキのいる天幕を守るために大勢の獣兵が集まっているため、彼らの視線の先に何があるのか、カイには見ることができない。仕方なく、カイは手近にいた兵に声をかけた。天幕の入り口を守っていた、あの獣兵だ。
「どうしたの」
「あっ、カイさん。実は見知らぬ老人が陣の中に迷い込んできまして」
「老人? 陣の見張りはどうしたのさ。なんで知らない人間を素通りさせちゃうのかな」
カーシェルから武装を解除して楽にするようにという指示は出ていたが、本陣の警護に当たっていた兵士は別である。陣の入り口を守り、周囲を巡回して安全を守る。そうした役割についていた兵士がいるはずなのに、どういうことか。警備の目が届かない死角があったのか、それともうっかり見張りの目が緩んでしまったのか。
「それがその老人、入り口から入ってきたわけではないんです」
「……は?」
「気が付いたら広場にいたんです。気配もなくて、瞬間移動でもしたかのように」
若く人懐こい性格であるらしいその獣兵は、やや興奮気味でカイにそう訴えた。そんな馬鹿な、と笑い飛ばしてしまいたかったのだが、こうも珍事が続くとそうも言っていられない。
「少なくとも、西門からそのご老人が入った形跡はないよ」
と、横手からそんな声が聞こえた。イル=ジナとシャ=ハラが、獣兵の輪を掻き分けてこちらに歩み寄ってきていたのだ。
「私たちは今の今まで西門の近くにおりましたので、確かなことです」
「もし門を通って入ってきたっていうなら、この私や化身族の手練れたちに気配を感じさせないほどの大物ってことだね。大体、こんな人里離れた場所にある軍の陣地に、散歩中の老人が迷い込むような偶然があるものか」
ジナの言うことはいちいち尤もだ。話を一通り聞いていたニキータが、獣兵を掻き分けて老人がいるという方向へと歩き出したので、カイもそのあとを追った。得体の知れない人物が陣内に入り込んだとあれば、カーシェルやイリーネ、アスールの身の安全が第一だ。イリーネにはチェリンやクレイザ、ヒューティアがついてくれている。カーシェルに老人を引きあわせる前に、まずはカイたちで安全を確認しなければならないだろう。
カイとニキータの姿を見て、獣兵は道を開けてくれる。視界が開け、広場にぽつんと佇む小柄な老翁の姿が見えた。何十、何百という獣兵に包囲されておきながら、その老人は敵意を浮かべるどころか警戒すらしていない。血気盛んな若者たちを、面白そうに眺めているだけだ。見た限りでは、カーシェルたちに害を成そうとしているようには見えない。
「おい、そこのじいさん。勝手に陣内に入られちゃあ困るんだが?」
ニキータが呼びかけると、こちらに背を向けて立っていた老人はくるりと振り返る。そこにあった顔を見て、カイもニキータも固まった。見覚えのある顔だったのだ。この場にイリーネとアスール、チェリンとクレイザがいれば、同じように唖然としてしまったに違いない。
「おお、おぬしたちか。よく会うのぅ。縁があるようじゃな」
「……ツィオ!」
歴史学者の老翁ツィオ。霊峰ヴェルンで出会ったときから胡散臭いと思っていたが、まさかこんな場所で会うことになろうとは。ラクール大砂漠で会ったときは偶然で済ませられたが、今回はそうもいかない。何より、誰にも気づかれず本陣の奥地まで入り込んだということは、見過ごせなかった。
「この兵士たちの責任者はおぬしらか? すまんが兵を退かせてもらえんかね。わしは見ての通り丸腰なのじゃが、こやつら警戒を解かんのじゃ」
「時と場合を考えてくれねぇか。身一つでこんなところまで入ってきた怪しい奴に対して、警戒を解けるわけないだろ。こちとら正式な軍隊でね」
カイとニキータが緊張したのを見て、兵士らも一層姿勢を低くした。ツィオはその様子を見て、やれやれと肩をすくめる。
「怪しいとは酷い言い草じゃな。わしはただ、少し様子を見に来ただけだというのに」
「様子……?」
「ここ最近、この場所には禍々しい気が立ち込めていた。それが急に消えたのでな、一体何者があの暗鬼の巣を潰してくれたのか、確認に来たのじゃ。リーゼロッテの獣軍だったか、さすがに見事なものよ」
ここに禍々しい気配があったことも、それが暗鬼のものであることも、この老人は知っていたのか。膨大な魔力を『魔力』と認識できるのは、それを行使できる強力な化身族のみ。ただの人間ならば、それは『悪寒』や『張りつめた空気』にしか感じられないはず。いかに魔術に通じているからといって、ツィオが感じられるはずなどないのに。
しかし、本当に度肝を抜かされたのは、その次の言葉であった。
「おぬしら、――フロンツェを探しているのじゃろう?」