◇兆し(9)
多くの将兵が暗鬼の巣へ向けて出撃した後、リーゼロッテ本陣は静まり返っていた。本陣の防衛に残った兵士たちが四方の入り口を固め、見張りの目を周囲に向けている。そのような厳戒態勢の中、イリーネはカーシェル、クレイザと共に天幕の中で待機していた。
ここが戦場を見渡すことのできる場所であれば、戦況を見渡したり、指示を伝えたり、いくらでもすることはある。だが今回本陣を構えたのは、目標地点から離れた盆地の入り口。出発して行った三部隊がどこで何をしているかは、点在する岩壁に遮られて見ることができない。カイたちが無事に帰ってくるのを待つほか、何もできることはないのだ。
それでも待つのが指揮官の務め。カーシェルは戦うためでなく、戦いの結果に責任を取るために戦場に来ているのだから。
「……」
だというのに、カーシェルはいつになく落ち着きがなかった。天幕の中を歩き回ることこそしなかったが、なんだかそわそわしたように外に視線を送ったり、しきりに茶を口に含んだりするのだ。常に冷静で落ち着きのある彼らしくもない。
「お兄様、カイたちならきっと大丈夫です。今からそんな調子だと、戦いが終わるまで持ちませんよ」
イリーネがそう声をかけると、はっとカーシェルが顔を上げた。それを見てクレイザが微笑む。
「カーシェルさんでも落ち着かない時ってあるんですね」
「……クレイザ殿ほど、俺は落ち着きある人間ではないのですよ、実は」
「え? 僕って落ち着いてます?」
「それはもう」
思わぬ反撃を食らって、クレイザが不思議そうに首を捻る。カーシェルはクッションの上に座り直し、息を吐き出した。
「待つというのは、辛いものだな」
カーシェルは従軍経験がそもそも少ない。そして大抵の場合、総指揮は他の者に一任して、自分が先陣を切って敵陣へ躍り込むのが彼の戦いだった。今回のように全軍の総指揮官として参加するのは滅多にないことだったのだ。
前線で戦いながら部下を指揮していたカーシェルとしては、何もせず待つしかないというのがきつくて仕方ないのだろう。武闘派の義兄は純粋に待つことに慣れていないし、自分だけ安全な場所にいるということは拷問のようなものなのかもしれない。
「お兄様は昔から短気ですものね」
他の部分ではえらく忍耐強いカーシェルも、戦いの場では短気だ。それを知っているイリーネがそう茶化すと、カーシェルが頭を掻く。
「否定できないのが悔しいな。指揮官たる者、どっしりと構えていないと部下たちを不安にさせるだけだというのは分かっているのだが」
「そんなことないでしょう。カーシェルさんがここに残ると分かったから、カイさんもアスールさんも素直に出撃していったんですよ。でなければ、ふたりともがイリーネさんから離れるわけがありませんし」
「そうでしょうか」
「ええ。カーシェルさんの存在は、貴方が思っているよりずっと大きいです」
クレイザの言う通りだ。カーシェルの存在は、リーゼロッテという国にとって大きい。一度彼の統治を失った時期を経験したからこそ、以前にも増して人々はそう思うようになっている。あれだけの窮地に陥りながらも生還し、無事な姿を見せてくれたカーシェルの偉大さは、言葉では説明しきれない。
だが、カーシェルに言わせれば少し違うらしい。
「俺はただの人間だ。今回のことも、多くのヒトの協力がなければこれほど迅速に行動できなかった。まさかイル=ジナ殿やニキータ殿と行動を共にすることになるなんて、思ったこともなかったし……その縁を結んでくれたのはイリーネだ。感謝している、心から」
真っ直ぐな義兄の言葉に、イリーネは照れたように赤面する。けれど、本当に讃えられるべきはアスールなのではないかとも思う。記憶がなかったイリーネを助けてくれたカイは、アスールやカーシェルを頼ろうとか、リーゼロッテまで送り届けようとかは一切考えていなかった。各国の王との関係を築き、カーシェルの窮状を知り、打開策を必死に練ったのはアスールだ。イリーネはそれについて行ったに過ぎないのだから。
「……時に、クレイザ殿」
「はい?」
急に改まった調子で名を呼ばれて、クレイザは若干姿勢を正した。
「すべてが終わったら……教会が出した貴方の追放令を、撤回させたいと思っています。貴方の動向を監視するようなことも、二度とさせません」
「え……」
「やはりこの地には、クレイザ殿が必要なのでしょう。貴方と、ヘルカイヤからの有志達の関係を見ていて、そう実感しました」
望むのであれば、独立支援も行う。ハーヴェル家に公爵位を返還するよう掛け合うこともできる。そのように提案したカーシェルに、クレイザは微笑みを浮かべる。いつもと同じ、優しい穏やかな笑みだ。
「カーシェルさんは、いつかそう仰ってくれるのだろうと僕も思っていましたよ。とても有難いお言葉です」
喜んではいたが、その言葉からはやんわりと拒否の色が滲みだしていた。今更ヘルカイヤに戻るとか、国を統べることなど、おそらくクレイザはできないと答えるだろう。常々そう言っていたし、彼にはもう吟遊詩人という生き方があるのだ。
しかし、イリーネの予想は外れた。正確に言うなら、クレイザの考えが少し変わっていたのだ。
「人々はリーゼロッテ流の生活に馴染みつつあるし、僕が戻ることでいらぬ混乱を起こしたくない。遠くから見ているだけで満足――と、思っていたのですが。もっと直接的にできることも、あるのかもしれないですね」
「では……」
「もう少し、時間を下さい。自分がどうしたいのか、きちんと考えます」
前向きなその言葉に、カーシェルは「勿論」と頷いた。あれだけぎくしゃくしていたアスールとクレイザも、最近はごく自然に言葉を交わすことができるようになっている。同じように、カーシェルとクレイザもまた、友として対等になれればいい。それこそ、リーゼロッテとヘルカイヤの友好に繋がる姿だ。
「……か、カーシェル殿下ッ」
兵士の緊迫した声が天幕の外から聞こえてきたのは、カイたちが出発して二時間ほど経った頃だ。
それまで静かだった本陣が、一気にざわつき始めている。カーシェルが立ち上がると同時に、天幕の垂れ布を揺らして兵士が駆けこんできた。
「何事だ」
「暗鬼です! 本陣の周りに大量の暗鬼が……既に囲まれています!」
カーシェルは別段驚いた様子もなく――あるいはそう装って――天幕の外へ出た。カーシェルの護衛に残された兵士たちは、みな天幕を守るように身構えている。そんな彼らのもとに、じりじりと近づいてくる不気味な影――暗鬼に間違いなかった。
急ごしらえだったとはいえ、本陣の周囲を囲っていた柵も土嚢もなんら役に立たなかったようだ。地中を移動し、神出鬼没に現れる暗鬼に、壁など意味をなさない。
イリーネが緊張をみなぎらせた横で、カーシェルが若干口元に笑みを浮かべたのを、妹は見逃さなかった。
「これが暗鬼か……報告通り、不気味な姿だな」
「ええ……でも、私が今まで見てきた暗鬼とは、少し違います」
これまで見てきた暗鬼は、子どもの姿をしていた。幼い子供たちが虚ろに赤い目を光らせ、操り人形のように近づいてくる姿が、不気味で仕方がなかったのだ。
だが、いま本陣を取り囲んでいる暗鬼たちは、その殆どが大人の姿だ。鎧をつけていたり、武器を持っていたり、逆に身一つだったり。姿は様々だったが、一目で分かるのは――『兵士』。
「ヘルカイヤ兵を模った暗鬼か……悪趣味だな」
クレイザは心底呆れたように呟く。言われてみれば、今回参戦してくれたヘルカイヤの家臣たちが身に着けていた武具と同じだ。馴染みのある姿の暗鬼を創り出して、こちらの戦意を殺ぐのが目的だろうか。
「とにかく、退けなければならんな。イリーネ、クレイザ殿、俺の傍を離れないように」
どことなく声が弾んでいるカーシェルは、剣を抜いて軽く身構える。言われた通りにしながらも、イリーネはつい苦笑してしまう。
「お兄様、楽しそう」
「うん、未知の敵というのは心が躍るな」
堂々とそう言われてしまうと、イリーネとしても返す言葉がない。この想定外の事態をカーシェルは歓迎しているようだ。
周囲では獣兵たちと暗鬼との戦いが既に始まっていた。姿かたちが違っても暗鬼は暗鬼、魔術に弱いのは変わりないようだ。炎球や真空波が飛び交い、次々に暗鬼は消滅していく。さすがカヅキが選りすぐった精鋭兵だ。個々の力はカイやニキータに及ばずとも、戦力としては申し分ない者たちが揃っている。
それでも、獣兵に対して暗鬼の数は倍近い。獣兵の攻撃をすり抜け、または地中を移動して、カーシェルたちへと迫ってくる暗鬼もいる。それらはすべて、カーシェルが一太刀のもとで葬り去ってしまった。
「不思議な存在だな。これだけ近くにいるのに、殺気どころか気配も微弱だ。戦いにくい」
そう言いながらも、カーシェルの剣はあっさりと暗鬼を煙に変えてしまう。カーシェルの剣は、アスールのような我流剣術ではない。軍人の中でも剣豪と名高かった者を師と仰いで習得した、正統派剣術だ。我流剣術や邪剣と呼ばれる類の剣技では、極められたカーシェルの正統剣術を破ることなどできない。イリーネとクレイザを庇いながら仁王立ちしているようにしか見えないが、彼の剣の間合いに一歩でも暗鬼が入れば、たちどころに刃が振り下ろされる。派手さも豪快さもないが、懐に敵の侵入を許さないカーシェルの鉄壁の構えは、アスールでさえ破ることが難しいのだそうだ。
ものの十分ほどで暗鬼はすべて倒された。味方にも損害はなく、「なんだ、こんなものか」という程度の戦いに過ぎなかった。だが、これで終わりだと思う者はいない。そして、それは正しい予感だった。
この初戦を皮切りに、不定期に暗鬼は本陣を襲撃に来たのである。一時間おき、三十分おき、時には十分と間をおかずに増援が現れることもあった。これにはさすがのカーシェルも困ったようで、獣兵たちの疲労も重なり始めた。休んでいる間にも、いつ次の襲撃が来るかと、とても穏やかな気分にはなれないのだ。
この状況下で戦力分散が危険なのは承知しているが、カーシェルとしてはその手段を取らざるを得ない。兵を二班に分け、交代で休みを取りながら暗鬼と戦うようにローテーションを組んだのだ。
「……これはこれで、落ちつかないなぁ」
もはや身を繕うのも疲れたのか、カーシェルは天幕の中で足を投げ出して座り込んでいる。束の間の休憩時間だ。イリーネとクレイザも、休む兵士に水や食べ物を配ったり、タオルを差し出したりと忙しく働いていたため、疲労度は強い。自分も水を飲みながら、イリーネは呟く。
「この調子じゃ、カイたちも戦いが続いているでしょうね……」
「作戦が長引けば長引くほど、こちらが不利になります。早く巣が消えれば良いのですが」
クレイザがそう相槌を打った時、再び天幕の外で注意を促す見張りの声が聞こえた。カーシェルが無言で剣を取って立ち上がる。今回は四十分ほど休めたため、少しは気力が回復しているようだ。
外に出た瞬間、突風が吹いた。明らかに自然に発生したものではない強風に、カーシェルが空を見上げる。舞い降りてきたのは、巨大な鷹――アーヴィンとエルケだ。
エルケが放った“迅刃”が、暗鬼を吹き飛ばす。エルケは賞金額三桁の二級手配者として、化身族の中では上位の存在だ。頼もしいその姿に、イリーネも破顔する。
「アーヴィン!」
「大丈夫か!? 【氷撃】が、本陣で何かあったみたいだって言うから様子を見に来たんだけど……まさかこっちにも暗鬼が出ていたなんて」
アーヴィンが心配そうに、戦う獣兵たちを見回した。イリーネとしては平常心を保っていたつもりだったのだが、どうやらカイには筒抜けだったようだ。少々情けないが、離れていても状況を把握していてくれることは素直に有難い。こうしてアーヴィンが様子を見に来てくれただけで、イリーネは落ち込んでいた気分が少し回復したのだから。
「見ての通り、朝から客人がひっきりなしだ。そちらはどうだ?」
カーシェルは手近にいた暗鬼を斬り払いながら、アーヴィンに尋ねる。アーヴィンも、風の刃を掌底から放ちつつ答えた。
「暗鬼と戦っては進軍、の繰り返しです。でも大体は【氷撃】が瞬殺しているんで、たいした消耗でもないですね。予定通り、今日中に盆地の最奥まで到達できそうです」
「そうか。なら良いのだが」
「それより、ニキータのところから何人か呼び戻してはどうですか? 必要なら、僕とエルケが連絡に飛びますよ」
アーヴィンがそう申し出たが、カーシェルは笑って首を振る。
「呼び戻す時間があるのなら、早急に巣を潰してもらった方が余程良い。こちらは耐えれば良いだけの話だからな。カヅキとカイに伝えてくれ、『早くしろ』と」
短く素っ気ない、それでいて切実なカーシェルの指示を携え、アーヴィンとエルケは再び前線へと戻っていった。帰りがけ、その大きな翼でまとめて暗鬼を葬り去ってくれたエルケには、獣兵が全員で感激したのだった。
★☆
夕刻になり、暗鬼の襲撃は目に見えて減った。ほぼ一日中戦い続けたという疲労は肉体にも精神にものしかかり、精鋭兵たちもぐったりしてしまっている。
「油断はできないが、頻度が少なくなってくれたのは有難いことだな」
カーシェルは言いながら、固いパンをちぎって口に放り込んでいる。普段ならばそこそこ豪勢に煮炊きをするのだが、こういう状況下では無理がある。各々、保存食を硬いまま噛み千切り、水で流し込んで食事を摂るしかなかった。
「日が沈みますね」
天幕の入り口に立って外を眺めていたクレイザが、西日の眩しさに目を細めながらそう呟く。カーシェルは頷き、すぐ隣に座っているイリーネを見てきた。イリーネは先程から、義兄の腕につけられた真新しい斬撃傷を癒していたのである。今回の暗鬼は、武器を持っている――昼間は身の軽かったカーシェルも、ここまで連戦すると注意力が衰えてくる。傷をつけられることも多くなり、その度にイリーネは治癒術を使ってきた。カーシェルだけではない、共に戦う獣兵たちにも。
「イリーネ、もう大丈夫だ。ありがとう」
「はい」
「少し休め。身が持たないぞ」
そう言いながらも、カーシェル本人は不眠不休で戦い、ばてた臣下たちひとりひとりに激励の言葉をかけて回る。この心身ともに苦痛な戦いを繰り広げる中で、そんなカーシェルの姿が辛うじて味方の士気を向上させている。本当に前線向きの指揮官だ。
イリーネは治療を止め、まくっていた兄の袖を下ろしてやる。カーシェルは微笑み、労うように異母妹の頭を撫でた。そして立ち上がろうとして――何か丸いものが、地面に落ちた。
「お兄様、何か落ちましたよ」
「ん? ……これは」
カーシェルは落ちたものの正体を知って、顔色を変えた。薄緑に輝く、小さな玉。――カヅキの牙から削り出された契約具だ。普通は身につけられるよう加工したりするものだが、牙そのものを丸く錬磨して色をつけただけというところが無骨なカヅキらしい。メイナードに奪われていたそれは、彼の死と共に、契約主であるカーシェルの元へ戻ってきたのだ。
「もう二度と手放さぬようにと、剣の柄に深く埋め込んでおいたのだが……」
カーシェルが肌身離さず持っているもの、といえば剣くらいだ。だからその剣の柄に埋め込み、ただの宝石のように見せかけるようにした――と、以前カーシェルはイリーネに話してくれた。カイのように手先が器用なら服飾品にもできるのだが、カヅキもカーシェルもそういうことが苦手だから、と。
それが、なぜ落ちた?
嫌な予感を覚えたのはカーシェルも同じだったはずだが、彼は「大丈夫だ」と微笑んでイリーネを諭す。
「今日一日でかなり剣を振るったからな。少し固定がゆるくなってしまっただけだ。神都に戻ったら、きちんと嵌め直して――」
パリンと、ガラスが砕けるような軽い音が聞こえたのは、その時だった。はっとして、カーシェルの掌の上にある契約具を見る。
――緑玉は、真っ二つに割れていた。カーシェルが手に力を込めたわけでも、元々割れていたわけでも、当然ない。人間には感知できない力が加わって、契約具が砕け散ったのだ。
その意味するところは、ただひとつ。
「――カヅキ……ッ!」
苦戦が続きながら弱音ひとつ吐かなかったカーシェルが、このときはじめて、青褪める。
遠くから、地響きのような重い音が聞こえた。