◆兆し(8)
剥きだしの岩山や硬い地面が続く道のりは、確かにケクラコクマのバルドラ渓谷を思い出させた。岩石砂漠というのだろうか――長い年月をかけて川が地面を削り、その川も枯れてできあがった土地。この有様では水の確保もままならないし、耕作も難しい。謀反を起こして独立したヘルカイヤを長らくリーゼロッテが放置してきたのは、この痩せた土地を保有しておく利点がなかったからであろう。豊かな森林や牧草地帯を有するリーゼロッテ本土で生活している人々にとって、ヘルカイヤは生きにくすぎる。
主都ヘオロットから北東方向へ進むにつれて、妙な気配がカイの皮膚を突き刺しはじめていた。ちりちりと、ごく微弱な静電気のようなものを感じる。何か良くないものに近づいている証拠だ。気分が悪くなるほどではないにしろ、快適でないのは確かだ。
まだ日が高いうちに、軍はパドラナ盆地の入り口へと到着した。――といって、カイにはいまいち実感がわかない。ここらには小規模な岩山が乱立し、平野であるはずなのにしょっちゅう視界を遮られるのだ。おかげで高台にあがらないことには盆地の全貌を見ることもできない。だからこそ身の隠しようもあるし、敵の視覚になる場所に本陣を置きやすいのだが、カイの想像していた「盆地」とは少し感じが違うような気もした。
その疑問にあっさり答えたのは、ニキータである。
「二十年前まで、ここらは『パドラナ丘陵』って呼ばれていた。それが戦時に高火力の魔術やら砲撃やらで地面を抉られて、一部が陥没した。だから皮肉を込めて、『盆地』と呼び出したというわけだ。抉られずに済んだ丘陵部分が、盆地を囲む岩山みたいに見えないこともないだろ?」
ということであるらしかった。
陣を設営してすぐに、カーシェルは主だった将兵たちを集めた。いよいよ、巣を潰す作戦会議が始まるのだ。
「斥候からの報告では、盆地の北東部に妙な光が見えたという。その光を中心に暗鬼が生成される瞬間も見たというから、おそらくそれが巣の中心なのだろう」
カーシェルがそう言いながら、広げられた盆地の地図上に赤い駒を置く。パドラナの最奥。現在位置からすればもっとも遠い場所であり、最も低地な場所。言うなればそここそが、真の『パドラナ盆地』だ。そこまで一直線で向かうことはできそうにない。盆地内には巨大な岩石――ニキータが言うところの『抉られずに済んだ部分』――が点在し、それを迂回しつつ進軍しなければいけないのだ。
「しかし、具体的にどうすれば巣を潰すことができるんだい? 暗鬼を全滅させるなんてのは無理な話だろ?」
イル=ジナが座布団の上で胡坐をかきつつ、そう尋ねる。カーシェルが視線をこちらにやってきたので、仕方なく答えた。
「この土地の怨念を使って暗鬼を作っているなら、媒介をしているものがあるはずだよ」
「……もっと具体的に言ってくれないかい?」
「そうだなぁ……この場所に限っていうなら、『この地で行われた戦いの凄惨さを象徴するもの』、かな。兵士の武器とか、折られた化身族の牙とか……そういう類のもの」
媒体がなくとも暗鬼は創ることができるが、パドラナ盆地から遠く離れた場所まで暗鬼を送り込むだけの強さを得るには、媒体が必要となる。強い意志を持つ人物の所有物だったものを媒体とすれば、さらに暗鬼は強くなる。名のある将などの所有物である可能性が高そうだ。
「その媒体を、別の場所へ移動させれば術は停止すると思う」
「なるほど。早い話、誰かが巣の中心部分に行って、それらしいものを持って帰ってきてしまえばいいんだね」
明快なイル=ジナの言葉に、カイも頷く。やることは至極簡単だ。
「だが、道中暗鬼による妨害が予想される。そこで万全を期すため、部隊を中央、左翼、右翼の三つに分けたい」
カヅキがそう提案した。本陣から巣の中央部へ至るまでの進路はいくつかある。このうちひとつの部隊が暗鬼による足止めを食らっても、その間に他ふたつの部隊は巣へ向けて進撃できる。万が一にも部隊ひとつが全壊したとしても、他の部隊によって巣を潰す任務は遂行できるということだ。
このうち、中央が巣への最短ルートである。左翼、右翼は盆地を大きく迂回して行く。敵も当然中央に多くの暗鬼を配置するはずであるから、中央には精鋭の中の精鋭を向かわせたほうが良いだろう。
「中央は俺が指揮する。アーヴィン、エルケの両名は伝令として同行してくれ。副将はカイ」
「……へ?」
カイがぽかんと口を開けたのを無視して、カヅキはさらに振り分けていく。
「左翼の将はアスール王子、貴殿にお願いしたい。よろしいか」
「構わぬがいいのかな? 人間である私が化身族たちを率いても」
「アスール王子の指揮能力の高さは周知のところ。複数の分岐路がある左翼では、常時言葉を話せる者が全体を見て指示を出す方が安全だ」
「そういうことならば承知した。全力を尽くそう」
他にチェリン、ヒューティア、イル=ジナ、シャ=ハラが同行する。イル=ジナを差し置いて将に任じられたアスールはその時になって頬を引きつらせていたが、とうのイル=ジナは気楽なものだ。アスールの指示に応じて好きに戦えばいいのは楽だと、嬉しそうにしている。
「右翼は一本道だがもっとも長い道のりとなる。機動力に優れる鳥族の部隊を編成したい。ニキータ、一任していいか」
「いいぜ、やりやすくて結構だ。ところで、うちの連中はどうする? 殆ど鳥族だが」
「ハーヴェル公とニキータの判断に任せる」
国柄として、ヘルカイヤには鳥族の化身族が多い。獅子や虎といった獣族の兵士たちも強かったが、特に有名だったのはやはり鷹や鴉たちによる上空からの奇襲戦法だ。ハーヴェル公爵の家臣たちの中には人間も化身族もいるが、化身族の殆どは鳥族なのだそうだ。
クレイザの判断によって、家臣たちはニキータや獣軍の者たちと共に進軍することが決定した。残るイリーネ、クレイザは本陣で待つ。カーシェルも本陣を動かないし、もしもの時のために多数の兵を守りに残して行く。そのようにして話がまとまった。
「出撃は明日の早朝。今日は明日に備えて身体を休めておいてくれ。暗鬼は神出鬼没だ、警戒だけは怠らないようにな」
カーシェルの締めの言葉で、軍議は終了した。アスールやニキータには「指揮官を任せてよいか」と断りを入れていたのに、なぜカイには決定事項だけを告げたのか、それだけが釈然としなかったが。
日が暮れはじめ、陣内では炊き出しの準備が行われている。食事は部隊ごとに大鍋ひとつ分の食材が配られ、それを各部隊で調理して食べるというのが習わしだそうだ。行軍時の食事など美味い代物ではないけれど、カイたちの鍋はチェリンやヒューティアが手を加えて調理してくれるので、多少マシなものを食べられている。
その食事前に、カイはひとり本陣を抜け出し、近くにある岩の高台へと登っていた。足場になりそうな場所も殆どなく、普通の人間ならばまず登れないほどの高さだが、獣の跳躍ならばなんとか頂上まで上がることができる。見晴らしが良い代わりに、敵からも見つかりやすい場所だ。
頂上にたどり着いたカイはその場にしゃがみこみ、姿勢を低くして周囲を観察する。夜ということもあって地形は把握しづらいが、大まかな構造は分かる。カイがいる高台と、隣の高台の間の細い道が、明日カイが進む中央ルート。どうやらしばらくは、両脇を岩石に囲まれた道が続くらしい。逃げ場もなく、隊列も縦に伸びやすい。だが見方を変えれば、敵も密集する。高火力の魔術で、まとめて蹴散らせるかもしれない。
「カイか」
唐突に背後から声をかけられた。はっとして振り返ると、【迅風のカヅキ】が後ろに立っている。声には出さなかったが、心臓が飛び出るほどにカイは驚愕した。物音ひとつ聞こえず、気配さえ感じなかったのだ。まったく心臓に悪い男である。
「カヅキ……えっと、もう夕飯できたのかな?」
あまりに動転して、つい素っ頓狂なことを聞いてしまう。しかしカヅキもカヅキで、腕を組んで首を傾げ、真面目に応えてくれた。
「まだ鍋を火にかけ始めたところだったぞ」
「あ、そう……」
「腹が減っているなら、何かもらってきてやるが」
「いやいやいや、大丈夫」
慌てて断る。冗談が通じない人種代表のカヅキには、迂闊なことを口走ってはいけないのだ。
ようやく調子を取り戻して、カイは改めてカヅキに問う。このような状況下で、カヅキがひとりになっているのは珍しい。基本的にカーシェルの傍に控えているか、獣軍の者たちと共にいるかのどちらかなのに。
「なんでこんなところに?」
「戦場の下見だ。良さそうな高台だから上がってみたのだが、お前も同じことを考えていたか」
「うん、まあ」
言いながらカヅキはカイの隣に腰を下ろす。中腰だったカイも、それに倣って座り込んだ。良い機会だと思って、カイは先程の釈然としない気持ちをぶつける。
「俺が副将ってどういうこと? 俺、軍隊にいたことなんて一度もないんだけど」
「無論、知っている」
「もっと相応しい将がいただろうに」
「激戦が予想される中央には、魔術に特化した者を多く割きたかった。そうなれば当然、お前は中央の部隊に入ってもらうことになる。化身族の中では強さこそすべて。お前が副将であることに不満を持つ者などいないぞ」
そういうものかなぁ、とカイは首を捻る。――だが、別にカヅキは、カイに副将としての働きなど求めていないだろう。その肩書きは名前だけで、本来ならばただの一般人であるはずのカイが自由に戦うことができるようにと、特別に便宜を図ってくれたのだ。
それは分かるのだが、どうしても公の肩書を背負うことになると思うと、どこか落ち着かない。獣軍将などという役職を持ち、それを立派にこなしているカヅキが、いかに大物なのかも実感した。カイには絶対、イリーネに頭を下げられたとしても引き受けられないことだ。
「……だいぶ、地形が変わったようだな」
しばらく沈黙して周囲を観察していたカヅキが、不意にそう呟いた。
「昔は起伏もなだらかで、見晴らしの良い場所だったのだが」
「二十年前の戦争……か。凄まじいものだったんだろうね」
「ああ」
腕を組んだカヅキの頭髪を、風がそよがせる。夏の夜風は適度に冷たく、日中の火照りが消えていくようだ。
「当初はここより北の荒野で戦っていたのだが、戦ううちに戦場はこの場所に移った。パドラナ丘陵にはレニーという街があってな。……気付けば、市街戦が始まってしまった」
「……止められなかったの?」
「勿論、何度も撤退を進言した。だが、相手が獣軍将であればともかく、指揮を執っていたのは教会の司祭だ。若い一兵士の進言など、受け入れてはもらえない。それに度重なる戦いで、獣軍の仲間たちは興奮しきっていた。もう俺には手に負えなかったのだ」
これだけ魔術や砲撃の爪痕が残るパドラナ盆地の状況を見て、その街がどうなったかは想像がつく。一般人をも巻き込んだ、戦役最大の激戦地――どれだけの恨み辛みがこの地に眠っているのか、それは計り知れない。
「前の獣軍将も、時のハーヴェル公爵も、両軍の兵士も、一般人たちも……レニーの街と共に消し飛んだ。それは追い詰められたヘルカイヤ軍の自爆に近い行為ではあったが、そのような選択をさせるほど醜い戦いを強いたのは我々だ。もう二度と、あのような戦いを起こしてはいけない」
「あんたが獣軍将を引き継いで、頑ななまでに厳格さを保っているのは……獣軍の暴走を防ぐため?」
本来は王家の配下であるはずの獣軍が、教会の指揮下に入ったせいで、望まぬ戦いを強いられた。ならば外部の干渉を跳ね除けられるくらいの力をつければいい。暴走しがちな部下を抑え、きちんと統率することができるだけのカリスマになればいい。化身族としては型破りなほどに理性的で、状況把握に長けたカヅキの言動は、そういう意思に基づいているのではないだろうか。荒れくれ者の集団でしかなかった獣軍を、『軍隊』という組織に格上げしたのは、カヅキの功績だ。
だがカヅキは、端正な顔に僅かな笑みを浮かべ、小さく首を振った。
「そんな大層なものではない。俺は、流れに身を任せているだけだ」
「ふうん、そう……」
「明日はよろしく頼むぞ。乾燥したこの場所では、お前には戦いにくいだろうが」
「ケクラコクマに比べたらずっとマシさ。……後ろは俺が引き受けるから、安心して突っ走っていいよ」
「ああ、こき使わせてもらおう。遠距離魔術の手本を兵に見せてやってくれ。奴らはすぐ接近戦を仕掛けたがる」
「はいはい。せめて攻撃に巻き込まれないように言い聞かせておいてよね」
カヅキがここまで責任を感じている人々の死を、勝手に利用されるのは気分が悪い。この地に巣食う暗鬼を殲滅し、眠れる死者の魂を鎮めてやるのは、カヅキかニキータであるべきだ。カヅキの使命感に触発されたのか、柄でもなくカイもそんな思いを強くする。明日からの戦いでカイがすべきことは、カヅキが本懐を遂げるための援護だろう。
昔はひとりで戦うことが多かった。旅に出てからは、援護される方が多かった。だがカイは戦士だ。仲間の手助けもできないようなら、戦士などと名乗ることはできない。カヅキほどの男と肩を並べて戦えるとなれば、学ぶこともたくさんあろう。
★☆
翌朝早朝、三つの部隊がそれぞれ兵を率いて進軍を開始した。大役を任されたというのにアスールは自然体そのもので、いかにも場数を踏んでいるという雰囲気が前面に出ている。そのおかげだろうか、配属された化身族たちも安心しているようだ。というより、並みの化身族よりよほど戦いぶりが獣らしいアスールには、同族の匂いを感じ取っているのではないだろうか。イル=ジナは楽しそうに大剣を肩に担ぎ、シャ=ハラは油断なく歩を進めている。人間と化身族の混合部隊は、何とも言えない物騒な雰囲気を醸し出して出発したのである。
ニキータのほうも、部隊を率いるのは慣れている。彼の元にはリーゼロッテとヘルカイヤ、両国の兵が混在することになったが、クレイザの目の前で誓ったようにヘルカイヤ兵は指示に忠実だった。かつての敵将に率いられることになった獣軍の兵士たちも、過去の因縁は捨てて共闘することを第一としたらしい。思っていた以上に友好関係を築いた有翼部隊は、早々に化身して南回りの道を進んで行った。
「カイ、カヅキさん、アーヴィン、エルケ。気を付けて、無事で帰ってきてくださいね」
イリーネにそう見送られて、カイたち中央部隊も出撃した。率いるのは獣族を中心とする化身族兵が五百人ほど。体力温存と意思疎通のため、有事以外は化身せずに進む。
伝令兼先遣として同行するアーヴィンとエルケは、上空から戦場を偵察してくれている。……出会った当初はただの子どもだと思っていたこの少年は、なかなかどうして有能だ。頭上を飛ぶ鷹と少年に、カイは声を投げかける。
「アーヴィン、【獅子帝】の気配は?」
「ない! ……と思うぞ」
煮え切らないのは、やはり相手が【獅子帝】だからだろう。ただでさえこの地にはフロンツェが創り出した暗鬼の気配で満ちていて、その中からフロンツェ個人の気配を探し出すのは難しい。もしかしたら、アーヴィンの探索能力を、フロンツェの隠蔽能力が勝っているのかもしれないのだ。
だが、神都の王城を覆っていた魔力の壁のようなものは、今回感じない。ならば、アーヴィンの感覚は正しい可能性が高い。おそらく、【獅子帝フロンツェ】はこの場にいない。それだけで多少荷が軽くなるというものだ。
三十分ほど、岩石と岩石の間の細い道を歩き続けただろうか。
(えらく大きな一枚岩だなぁ……全然景色が変わらないから、時間の感覚も麻痺してきた)
そんなことを思いつつ、カイは汗を拭う。と、上空のアーヴィンが警告を発した。
「前方に敵! 暗鬼の群れだ!」
その声で、獣兵たちの間に緊張が奔る。先頭を行くカヅキは冷静だった。
「よく知らせてくれた。総員、化身して戦闘準備。道が狭い、近づかれる前に遠距離魔術で迎え撃て」
いよいよ、暗鬼による歓迎が始まった。