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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
8章 【嵐の前夜】
182/202

◇兆し(7)

 旧ヘルカイヤ公国は大陸の南東部、ヘルカイヤ半島に形成された国家だった。遡ること百五十年前、リーゼロッテ国内での化身族差別に反発した者たちが決起、独立戦争の末に国家を樹立した。その際の中心人物だったゲオルク・ハーヴェルが初代の元首となった。彼がハーヴェル公爵家の祖である。

 しかしながらリーゼロッテの力はヘルカイヤにとって脅威であったし、リーゼロッテ側もまた、反乱軍たちに自国の領土を奪われたままでは面子が立たないというものだった。ここで両国は互いに妥協することを決意する。リーゼロッテはヘルカイヤ地方の自治を認める代わりに、ゲオルク・ハーヴェルを『公爵』に据え、リーゼロッテへ朝貢するよう求めた。ヘルカイヤ側もそれを呑み、「公国」としての独立を果たしたのである。


 以来、ヘルカイヤ公国はリーゼロッテの属国という立場ながらも、平穏な生活を約束されてきた。独自の女神教の解釈も広がり、人間と化身族が手を取り合う姿は、まさに理想的なものだったのだ――二十年前に滅びるまでは。


「あれがヘルカイヤの公都、ヘオロットです」


 船を下りてすぐに見えてきた城壁を見て、クレイザがそう告げた。

 シュルツ湾を越えた先、ヘルカイヤ半島の中央部に、その街はある。石造りの巨大な城壁に囲まれた、堅牢な都市。その規模は一国の都ということもあって、リーゼロッテの神都カティアやサレイユの王都グレイアースに匹敵するものだ。

 城壁に傷らしきものが見当たらないのは――おそらく先の戦争では、この街に神国軍が到達するより前に、勝敗が決してしまったからであろう。


 軍はこのままヘオロットに向かい、城壁の外で夜を越す。その間、カーシェルはヘルカイヤ地方を治める役人と話をつけるという。


「思っていたよりも暑くないね」

「ヘルカイヤの気候は、ケクラコクマに似ていますから。日差しは強くても湿気がないので、カイさんには過ごしやすいかもしれませんね」

「周りを海に囲まれているのに、湿気がないんだ」

「東の海岸沿いに山があるせいで、湿った風が内陸まで入ってこないんですよ。乾燥して、岩ばかりで、土壌が貧弱。だから貴重な水場の傍にヒトが集まって、巨大な都市になります」


 どこに行ってもまず寒暖を気にするカイは、やはりヘルカイヤの土を踏んで最初にそのことを口にした。とはいえカイにとって「暑い」というのは死活問題なのだ。雪豹という種族であることも勿論だが、彼が行使するのは氷属性魔術。気温が高いというのはそれだけでカイの弱体化を避けられない。加えてヘルカイヤは湿気もないから、さらに氷魔術を使う幅が狭まってしまう。カイはそういうことを事前に把握して、冷静に対処を練っているのだろう。暑い暑いと言いながら、彼が魔術で他に後れを取ったところを、イリーネは見たことがない。


「ヘオロットの東南には、アレクシア峡谷って場所があってな。川の浸食で削られた谷のことなんだが、そりゃ見事な眺めなんだぜ」

「ああ、あれは一度見ておくべきだな! 何万年もかけて形成された、大自然の神秘なんだ」

「すべて終わったら、谷の真上を飛んでみましょうか。かなりのスリルを味わえますよ」


 ニキータとアーヴィンとエルケは、こんなときだというのに観光名所の話をしてくれる。――いや、彼らはきっと、気を紛らわせようとしているのだろう。美しかった景色を思い出して、嫌でも暗くなる気分を晴らそうとしているに違いなかった。


 二十年ぶりの帰国。平然とした顔をしているが、クレイザはいま何を思っているのだろう。


 やがて行軍は終わり、ヘオロットの城壁の外で野営の準備が始まった。予定通りカーシェルは役人の元へ向かい、ニキータは古馴染の者たちに助力を求めに行くという。そこへクレイザが歩み寄る。


「ニキータ、僕も行く」

「分かってんのか? 荒っぽい奴らなんだから、何言われるか知れたもんじゃねぇぜ」

「それが怖くて逃げるような恥は晒したくない。誠心誠意、頭を下げるよ」


 揺らがないクレイザにニキータは笑って、同行を許可した。「ちょっと行ってきますね」と朗らかに笑って、クレイザは城壁の中へと入っていく。

 何を言われるか知れない、というニキータの言葉はどういう意味だろう。クレイザはハーヴェル公爵の嫡男として、ヘルカイヤではその帰りを待つ者が多いと聞いていたのに。


「クレイザさん、大丈夫なんでしょうか。もしかして、危険なことが……?」


 イリーネがそう問うと、アーヴィンは難しい表情で俯く。


「……リーゼロッテ側から国外追放を命じられたクレイザ様が、その命に甘んじていることを快く思わない連中も多いんだ。ニキータもいるんだから、本当ならいつだって戻って来られるだろうにって。ヘルカイヤでは再度独立を求める運動も多いから、そういうのに参加してくれないクレイザ様を『裏切り者』呼ばわりする奴もいる」

「公爵家の家臣だった者たちは、この国と共に玉砕する覚悟すら固めておりました。だからこそ彼らは、無条件降伏をお選びになったクレイザ様の英断を理解できないのです」


 エルケもまた、手厳しくこきおろす。アーヴィンとエルケは、クレイザと違って、この国を追放されたわけではない。クレイザに代わって時折ヘルカイヤを訪れ、故国の様子を伝えていたというのだから、彼らは一番にこの街のことを分かっているのだ。そこに住む人々の気持ちも。


「【黒翼王】殿がついておられる、クレイザの身に万一のことなどありえぬよ。心配ではあるが、私たちが出張ったところで、出来ることは何もない。彼らを信じて待とう」


 アスールに諭されて、イリーネは頷く。そう、イリーネにできることなどない。クレイザと元家臣たちの間に溝ができたのは、リーゼロッテとサレイユがヘルカイヤへ攻め込んだせいなのだから。イリーネが何を言ってもそれは綺麗事でしかなく、家臣たちの神経を逆撫でするだけなのは分かりきっていた。


 それから一時間ほどしてクレイザとニキータは帰ってきた。ふたりとも疲れ果てた表情をしていたから、元家臣たちの協力は得られなかったのだということがすぐに分かる。アーヴィンが不安げにクレイザの元へ歩み寄る。


「クレイザ様……」

「ああ、アーヴィン。ごめんね、やっぱりうまくいかなかったよ。何人かは好意的に話を聞いてくれたんだけど」


 小さく微笑んだアーヴィンの隣で、ニキータはどっかりと地面に腰を下ろす。


「強情な奴らだ。この国の住民を守るために進軍してきているってのに、それでもリーゼロッテに手を貸すのは嫌なんだってよ。まったく、誰がここまでヘルカイヤを復興させてくれたのか、それすら忘れちまったのかね」

「でも……街の様子を見て思ったんだけど」


 クレイザは竪琴の弦をひとつ弾いて、ひとりごちた。


「もう、二十年経ったんだよね。あのころ生まれたばかりだった子どもたちは成人して、今はもうヘルカイヤが独立国だったことを知らない世代が増えてきた。リーゼロッテの一地方であることが彼らにとっては当たり前で、ハーヴェル公爵家なんて過去の存在なんだろうね」

「……何が言いたい?」

「ハーヴェル公爵家の嫡男っていう立場は、もうこの国でさえ通用しないってこと。分かりきってはいたけれど、痛感したよ。やっぱり僕の存在は、この国の生活を乱すだけだ」

「おい、何を自棄になって……」


 ニキータが語調を強めたが、クレイザはそれを首を振って制する。彼の目は悲しげではあったが、力を失ってはいなかった。


「自棄にはなっていないよ。彼らの理解を得られなくても、僕のやることは変わらない。この地で暮らす人々を守る手伝いをするのが、僕の使命だ」


 少し陣内を散歩してくる、とクレイザは竪琴を片手に去ってしまった。ひとりになりたいという意思が前面に出ていたので、アーヴィンですら追いかけられない。見送ったチェリンが、ぽつりと呟く。


「かなり落ち込んでいるわね、あれ……」

「……まあ、結構なことをずけずけ言われたからな。いくら神経の図太いあいつでも、堪えるだろうさ」


 いったいどこに隠し持っていたのか、ニキータは酒の小瓶の蓋を開けた。一息でかなりの量を飲みこむ。城内で買ってきたのだろう。酒でも飲まないとやっていられないのか。カイは配給のパンをかじる。


「クレイザは口が上手いんだから、丸め込むかと思ってたけど」

「言い返せないのさ、あいつは。『裏切り者』だのなんだのっていうのは、他人に罵倒されなくても、あいつが一番自分に向けている言葉だからな」


 クレイザは二十年間、そうやってずっと自分の選択を迷い続けていたらしい。無条件降伏は正しかったのか。本当は命尽きるまで戦うべきだったのではないか。あっさりとリーゼロッテに頭を下げて、忠臣たちを裏切った。帰国を求める家臣たちの言葉に耳を貸さず、彼らが反乱軍として鎮圧されていくのを見て見ぬふりをした。

 力を放棄することによって無駄な争いをなくす道を、クレイザは一度選んだ。だがそのあとで、何度その選択を後悔しただろう。何度、自らの誓いを破ろうとしただろう。


「おかしいだろ。あの時のクレイザはたった六歳だったんだぞ。無条件降伏を考えて実行したのは、俺たち臣下のほうだ。なんでその責任をあいつに全部被せる? 爵位を取り上げられた今のクレイザはただの一般人なのに、何をまだクレイザに期待している? 意味分かんねえよ。ヘルカイヤが負けたのはクレイザが至らなかったからじゃなくて、俺ら家臣が弱かったからだってのによ」


 珍しく饒舌なニキータに、カイもぽかんとしている。溜まっていた鬱憤が、酒の力を借りて飛び出してきたらしい。常に達観した物言いをしてきたニキータらしからぬ苛立ちだ。


「……捨てられたらいいのにね、重いものは。そうしたらきっと、クレイザは楽しく吟遊詩人として生きられたのに」


 無神経なことを口に出したのはカイである。イリーネやアスールなどはぎくりとしたのだが、当のニキータは苦笑しただけだ。


「それができてたら、こんなことにはなってねぇよ」

「捨てられないってことは、それだけこの国が大事なんでしょ。クレイザも、ニキータも。だったら別に、誰に何を言われようがやりたいようにやればいいんじゃない」


 その言葉に、ニキータが驚いてようにカイを見る。カイは決してニキータと目を合わせようとはせず、彼の手から酒瓶をひったくって栓をした。


「それが自己満足にしかならなくてもさ。感謝されたくて、戦いに行くわけじゃないんだし。すべては結果だよ、結果」

「なかなか良いことを言うな、カイ。【黒翼王】殿、我々の成すべきことはただひとつ、この地から暗鬼という脅威を排除することだ。そのためにクレイザと【黒翼王】殿がどう尽くすのか、それは我らが見届ける。ヘルカイヤの住民の中にも、理解する者は必ずいるだろう。だから安心して、暗鬼を殲滅していただきたい」


 アスールもそう励まし、イリーネも微笑んで頷く。みんなでニキータを励ますという、なかなか見ない構図に、ニキータも照れくさくなったらしい。ずれてもいないのに眼帯を触って、髪の毛を掻き回す。


「……って、そりゃ要するに俺をこき使おうってことじゃねぇかよ」

「頼りにしているよ、おっさん」

「へっ。若造の出る幕もないくらい、暴れてやるよ」


 調子を取り戻してくれたニキータに、イリーネはほっと安堵の息をつく。今まで仲間内の大黒柱のように揺らがずにいてくれたニキータが弱気になってしまうと、それだけでイリーネたちの調子も狂ってしまう。敵の本拠を叩こうという作戦の前に、士気が落ち込むのは困るのだ。

 それに、二十年間ずっと心を痛め続けてきたヘルカイヤの問題について、少しは吹っ切れるような言葉をカイが投げかけてくれたのなら、それはとても嬉しい。


「明日にはパドラナ盆地へ到着する。気を引き締めなければな」


 アスールの言葉に、一同が頷く。フロンツェが作ったと思われる暗鬼の巣――それを潰せば、暗鬼被害はとりあえず鎮静化するはずだ。

 ニキータとクレイザ、そして二十年前戦争に参加していたカヅキなどにとっては因縁の土地だ。それでも、立ち向かわなければならない。





★☆





 一夜明けて、神国軍は行軍を再開した。ヘオロットを管理する役人とカーシェルが話をつけたため、補給は夜のうちに完了済みであった。駐在する神国軍兵も数部隊借り受けることができた。だが、カーシェルの力を以ってしても、この地に住む化身族たちの手を借りることはできなかったらしい。致し方ない、ならばせめてこの街を守ってくれと、カーシェルは笑って無理強いしなかった。


 クレイザもニキータも、朝になってみればすっかり元気だった。気持ちを入れ替えてくれたのだろう。朝から兵士に混ざって野営の片づけを行い、順調に出発を迎えることができた。


 十人ほどの男が現れ、クレイザに声をかけてきたのは、行軍をはじめて間もない時だった。


「お待ちください、クレイザ様ッ」


 クレイザはぴたりと足を止め、振り返る。男たちは物々しくも武器を携え、一様に暗めの茶色をした軍服を身に着けていた。今はもう見ることのできない、ヘルカイヤ公国の軍服だ。

 彼らはクレイザの元へ駆け寄ると、次々とその御前に跪いて行った。クレイザは驚いたというより、困惑した様子だ。全体の行軍を止めないようにと隊列から抜け、そこで改めて傅く男たちを見下ろす。イリーネにもなんとなく分かる――彼らはきっと、昨晩クレイザの協力を断った家臣たちだ。


「どうか、我々も戦列に加えていただけませんかッ」

「みんな……どうして? 昨日はあれだけ……」

「我々はみな、二十年前に公爵様をお守りすることも、国のために死ぬこともできず、おめおめと生き残ったことを後ろめたく思っておりました。再びヘルカイヤが独立すれば、昔のように輝かしい生活ができるのだと信じて……過去の栄光ばかりを見て、現実を見ようとしていなかった。ニキータの喝を受けて、そう気づかされたのです」


 リーゼロッテ側から戦犯に指定されなかった一部の家臣たちは、戦後その殆どがろくな職に就くこともできず、傭兵紛いの仕事で生計を立てていたのだという。いまではすっかり落ちぶれた彼らの唯一の誇りは、「かつて公爵家の家臣だった」こと。その誇りにしがみつき、ヘルカイヤ再興を願ってきた。忠誠心が強いことで有名だったヘルカイヤの家臣だからこそ、誇りを手放せなかったのだ。

 だが、願うばかりで誰も実行しようとしない。その旗印となるべきクレイザがいないから。――そのようにして、彼らはクレイザに八つ当たりをしていたらしい。


「昨晩の我らの醜態を思い返せば、白々しいことと思われるかもしれません。しかしこれが本意であります。我らは栄えあるハーヴェル公爵家の家臣。主君が戦地に赴くのであれば、我々が剣となり盾となる。死んだ者たちの分まで……お傍に仕えさせていただけませんか」


 クレイザは家臣たちを見下ろして、沈黙を保っていた。しばらくしてから、彼は口を開く。


「……僕にはもう爵位も何もないし、これから先もヘルカイヤには戻れないかもしれないよ」

「構いませぬ。貴方様は紛れもなく我らのご主君。どこにおられようとも変わりありません」

「そう……か。――ありがとう」


 やっと初めて、クレイザの顔に笑みが浮かんだ。穏やかに微笑む印象の強かったクレイザだが、このときばかりは本当に嬉しそうにはにかんでいる。

 それはきっと、二十年前に失ってしまった、公子クレイザの笑顔なのだろう。


「で、では、従軍をお許しいただけますか!?」

「勿論だ、よろしく頼む。……ただ、ふたつだけ約束してくれるかな」

「はっ、なんなりと」

「指揮を執るのはリーゼロッテのカーシェル殿下と、獣軍将カヅキ殿だ。彼らの指揮に従って動くこと」


 彼らにとってリーゼロッテは仇敵だし、カヅキは二十年前に実際に戦火を交えた敵国の将だ。だが忠臣たちは、素直にクレイザの指示を受け入れた。


「もうひとつ。二度と、生き残ったことを恥じているようなことは言わないこと」

「は……?」

「二十年生き延びたからこそ、僕たちはこうして再会できたんだからね。その命、大切にしてくれ」


 感激して一層深く頭を下げた家臣たちを、クレイザは笑ってひとりずつ手を取って立たせる。やれやれと苦笑した様子のニキータは、「事の次第をカーシェルに報告する」と先頭まで飛んで行った。その足取りと翼の動きがやけに軽快に見えたのは、イリーネの勘違いではないようだった。

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