◇兆し(6)
軍本部のある小高い丘を下り、港を横切る。強い海風が吹き付けて、思わず身が持って行かれそうになるのをこらえた。隣を歩くカイは、ひょろ長そうに見えて一切ぶれない。身体の鍛え方が根本から違うのだろう。
アスールたちと別れてから黙り込むイリーネに合わせてか、カイもまた無言だった。それでも、いよいよ子爵家の屋敷の門を前にして、カイが口を開く。
「怖い?」
「……少し。でも、行きます。ちゃんとお話……したいから」
カイは静かに頷く。スフォルステン家の者は、屋敷内に化身族が入ることを良しとしないだろう。意地でもイリーネについて行くと、カイは譲らない気だ。
門番に兵士が立っている。彼はイリーネらの姿を見て一礼すると、門を開けてくれた。おそらく、シャルロッテからそのように指示されているのだ。
「シャルロッテ様はお庭でお待ちです。どうぞ」
その言葉を受けて、イリーネとカイは敷地内へ足を踏み入れる。屋敷へと続く道の左右には、手入れの行き届いた花壇や樹木が並んでいた。専属の庭師が欠かさず草花に世話をして、季節の植物を絶やさぬようにしているのだ。一族の集いがあって仕方なくこの地を訪れることが多かったイリーネだが、この庭を見ることだけは楽しみだった。同じ季節でも、去年と今年と来年とでは、まったく違う庭が出来上がっているのだから。
道の東側の花壇の傍に、シャルロッテは佇んでいた。花壇に植えられた花を見つめているようだったが、どこか心ここにあらずといった様子だ。その傍に近づくと、シャルロッテがはっとして顔をあげる。
「イリーネ……」
――少し、痩せただろうか。母の顔を真正面に見て最初に思ったのは、そんなことだった。いつも生気に満ち溢れていた印象が強かったが、いまのシャルロッテはすっかり憔悴し、何かに怯えるような目をしている。イリーネは無言で、小さく母に頭を下げた。
「……来て、くれぬと思っていた。ありがとう……イリーネ」
「いえ……私も、御身を案じておりましたから」
笑え、とイリーネは自分に命じる。愛想笑いは、神姫の務めをこなすうちに身に着けた。いつものように、優しく微笑んでいられるだろうか。こんなにも怯えて小さくなってしまった母を、これ以上怖がらせたくない。
カイは何も言わず、少し離れたところで成り行きを見守っている。
「何か渡したいものがあるとか……私たちは行軍の途中ですので、あまり長い時間留まることができないのですが」
「すぐ済むわ。これを、貴方に受け取ってほしくて」
そう言いながらシャルロッテが差し出したのは、片手に乗る大きさの革の手帳だった。だいぶ使い込まれているのか、ところどころ革の色が落ちていたり、すり切れていたりして見える。
「この手帳は?」
「メイナードの……私物よ」
「え!?」
イリーネは驚いて、渡された手帳を見下ろす。このような手帳をメイナードが持っているところなど、見たことがなかった。
「仕事の内容やスケジュールを書いたり、本当にちょっとしたメモ書きだったり……几帳面な子だったから、色々と書いていたようなの。受け取ってちょうだい、イリーネ」
「でも……いいんですか? お兄様の思い出の品を……」
メイナードの持ち物はすべて没収され、シャルロッテに引き渡されたのは僅かな私物だけだったという。メイナードの生活が強く記されている手帳など、最も貴重な品であるはずなのに。
けれど、シャルロッテは首を振る。
「その手帳は、この屋敷にあの子が滞在するときに使っていた部屋にあったの。机の引き出しの一番奥に、まるで封印するように。……あの子が最後にこの屋敷を訪れたのは、三年半前。国王陛下とエレノアを手にかける、ほんの数日前のことよ」
「……」
「もしかしたら……メイナードがあんなことをした理由が、その手帳から分かるかもしれない。だから、受け取って。情けないけれど、私は恐ろしくてその手帳を開けない」
「お母様……」
意外だった。あんなにもメイナードに執着していたシャルロッテが、息子の私物をあっさり手放すとは。そうしてでもメイナードの狂気の理由が知りたいのだろう。納得がいっていない。彼女にとっては、ずっと傍で見てきた優しい息子のままなのだから。
するとシャルロッテは、小さく笑った。今にも泣き出しそうな笑みだった。
「こんな私を、母と呼んでくれるの?」
「私に命をくださったのは、ただひとりです。そうでしょう?」
「でも、私は貴方にひどいことを……」
「――もう、いいんです。もう良いから……言わないでください」
胸が痛い。辛かった、苦しかったという言葉を投げつけるのは、実に簡単だ。けれど、イリーネがシャルロッテにずっと伝えたいと思っていたことは違う。それがうまく言葉にできないのが、もどかしい。
イリーネの動揺が伝わってしまったのだろうか、背後でカイが一歩近づいてくる気配がした。
「私はとても、とても幸せでした。エレノアお母様がいて、カーシェルお兄様とアスールがいて、カイもいて。何も不満なんてなかった。お母様とメイナードお兄様は怖かったし、辛いこともあったけど、不幸だなんて思ったことは一度もなかったんです」
「……そう……」
「でもそれは、私がお母様の娘として生を享けなければ得られない幸せだった。クレヴィング家の娘じゃだめ。スフォルステン家に生まれなければ、今の私にはなれなかったはずなんです」
シャルロッテが大きく目を見開く。イリーネは構わず続けた。
「だから……お母様、もっとご自分を大切にしてください。お母様が自ら命を絶たれても、私は嬉しくありません。きっと、メイナードお兄様も」
「……どうしてそれを?」
「カーシェルお兄様から聞きました。半年前、けじめと称してお母様が毒杯を仰ごうとしたところを、お兄様が止めてくださったと」
他の雑事に忙殺されて、シャルロッテへの処罰を保留していたカーシェルの前に、シャルロッテは自ら罰を申し出てきたのだという。毒を飲んで命を絶ち、メイナードの暴虐を許した罪を償おうとしたのだ。カーシェルは間一髪でそれを止めさせ、すぐに正式な処罰を下した。すなわち王族からの除籍、神都からの退去、スフォルステンでの謹慎、そして――自殺の禁止。
罰と償いは違う。貴方がしなければいけないのは償いだ。
死は償いにはならない。イリーネとメイナードに償うためには、生きなければいけない。
それが、カーシェルがシャルロッテに与えた「罰」なのだそうだ。死にたいと願う人間に、生きることを命じる。それはとても過酷なことなのかもしれない。
「償いをしなければいけないのは、カーシェルお兄様も私も同じ。謀反人を生んだという事実を受け止め、同じ過ちを繰り返さないように尽くす。それがスフォルステンの使命です」
「イリーネ……」
「でもね、お母様。メイナードお兄様は、世界を敵に回してでも、お母様のために戦ったんですよ。そのことだけは、否定しないで」
シャルロッテの目から涙があふれる。彼女は顔を覆い、嗚咽を漏らした。ただ何度も、子どもたちの名を繰り返し呼んでいた。もうふたりともこの手には戻らぬと、はっきり思い知らされたのかもしれない。
いまさらイリーネとシャルロッテは、母娘の関係にはなれない。ならばせめて、王女として、神姫として接しようと決めた。迷い、恐れる者がいるならば、その恐怖を打ち払うのがイリーネの務め。標は示すが、手を差し伸べてはいけない。だからイリーネは、目の前で泣き崩れる母に手を差し伸べはしなかった。明確な一線を引いて、それ以上踏み込まないようにするしか、イリーネにはできなかったのだ。
★☆
「良かったの、あれで」
カイが、そんな風に問いかける。遠ざかるマンフレートの街を見つめながら、イリーネは頷く。
母との話を終えて軍本部へ戻ると、すぐに乗船が始まった。全軍が数隻の船に分かれて乗船し、シュルツ湾を横断する船旅が始まったのである。
色々と気を遣っているのか、アスールやチェリンたちはイリーネをそっとひとりにしておいてくれたが、カイだけは遠慮なく傍に来てくれる。本当は誰かが傍にいてくれる方が好きだから、そんなカイの遠慮なさは嬉しいのだ。
「はい。言いたいことは言えました」
「もし一緒に行ってたのがアスールだったら大反発していたとこだよ。イリーネは優しすぎる、って」
「ふふ……苦手なんです。誰かを憎んだり、恨んだりするの」
甲板に座り込んだイリーネの隣に、カイも座る。船が波を掻き分けて進む音を聞きながら、イリーネは独り言のように言う。
「昔のことは……本当に、もう気にしていないんです。そんなこともあったなぁって、今は懐かしめるくらい。こんな風に能天気だから、アスールに怒られちゃうんですけど」
「うん」
「さっきは言わなかったけれど……お父さまとお母さまを殺したことは、絶対に許せないと思う。それを知っていたのに、三年も黙っていたことも。これだけは一生、笑って水に流すなんてできない」
若干視界がぼやけて、慌ててイリーネはそれを隠した。立てた両膝を抱え込み、そこに顔をうずめる。
「でも……カーシェルお兄様は、ふたりを憎まないと言ったんです。罪に相応しい罰を与えて、それで終わりにするって。暴虐を許した責任は、自分にもあるからって」
「大きな器だね。私情を挟まずに裁きを下すのは、とても難しいことだよ」
「お兄様が立派だったから、私も真似してみたんです。……ボロ、出ていなかったですか?」
「全然、まったく。格好良かったよ」
カイはくぐもった声をあげるイリーネの頭をぽんぽんと叩く。
「シャルロッテは、恨みや憎しみの言葉を受けて楽になりたがっていた。それは罰じゃない。イリーネは強かったよ。許すっていうのは、強いヒトにしかできないんだ」
「――ありがとう、カイ」
イリーネは顔を上げて微笑む。目元が赤くなっているような気もしたが、カイはきっと笑い飛ばしてくれる。現に彼は苦笑交じりにイリーネの頬に触れてきた。その手が驚くほどひんやりしていたから、きっと手に冷気をまとわせて、目が腫れないように冷やしてくれているのだ。
改めてイリーネは、メイナードの手帳に視線を落とす。何が書いてあるのか、少し怖くて開けるのを躊躇っていたが、彼の行動の理由を知ることができるならば見ない手はない。
留め具を外して、革の手帳の表紙をめくる。真っ白いそのページには、ぎっしりと細かい文字が書きこまれていた。見るからに几帳面そうな字だ。その一番上の記述は――。
『十八時から、宮廷晩餐会』
『九時から、祭事の打ち合わせ』
『一日から八日、休暇』
「……これ、完全にただの予定表だね」
「は、はい……」
少し拍子抜けだ。何ページめくっても、同じようなことしか書いていない。年数を見ると、五年前の日付だ。几帳面だったのは確かにそうだし、当てが外れただろうか。
それでも根気強く読み込んでいくと、ふと文面にイリーネは自分の名を見つけた。
『十四時半から、カーシェル、イリーネと茶会』
こんな予定まで、わざわざ書いていてくれたのか。それを思うと、心がざわつくのを感じる。
「ん? こっちはなんのメモかな」
カイが次のページを指差す。そこには「宝飾品、食べ物、花、衣服」という単語が箇条書きに記されていたのだ。このうち宝飾品と衣服には大きくバツ印がついていて、花という文字に囲みがある。しばらくそれを見て首を捻っていたイリーネだが、前後の日付を見て、あっと声をあげる。
「私の誕生日……です」
「え?」
「一度、カーシェルお兄様が私の誕生日に大きな花束をくださったんです。『メイナードと一緒に相談して決めた』、って」
女性の好みも流行りも知らないカーシェルだ。年頃の娘になりつつあったイリーネへの贈り物に困って、メイナードに相談したのだと言っていた。だが、メイナードも詳しいわけではないから、センスの問われる服飾品は却下して、お菓子か花束の二択で最後まで迷っていたのだとか。
そんな話をカイに聞かせると、カイはたいそう困ったように頭を掻いた。
「……なんか、あれだな。メイナードって男がよく分からなくなってきたよ」
「カイは信じられないかもしれないけれど、メイナードお兄様は優しかったんです。こんなことが起きる前は……私たちは、ちゃんと兄妹でした」
だからこそ、イリーネは最後まで覚悟ができなかった。カーシェルは剣を振り下ろすことができなかったのだ。本当の兄弟だと信じていたからこそ、嘘であってくれと願って対応が遅れてしまった。
次のページをめくる。そのページは今までとは少し違った。それまではぎっしりと予定が書き連ねてあったのに、そのページには一言。
『四月十二日から二十五日、ステルファット連邦視察』
「五年前の四月……確かにメイナードお兄様は、そのころステルファット連邦に出かけていました」
「このあとの記述はなしか……ここまで几帳面な人間が、急に書くのをやめるとは思えないな。帰ってきた後のメイナードの様子とか、覚えている?」
「そこまでは……でも、変わりはなかったと思いますよ」
ああ、でも、とイリーネは呟く。
「ステルファット連邦が大陸との国交を断絶したのは、ちょうどこの頃でしたね」
「……何か、あったのかな」
カイの言葉に沈黙を返しながら、イリーネはさらにページをめくっていく。しばらく白紙が続いたかと思えば、突然文字が現れる。だがそれは予定表などではなく、殴り書きのような心情の吐露。
『何かがおかしい』
『苛つく』
『落ち着け』
『気が狂いそうだ』
何かあったと、イリーネも確信する。やはりメイナードは、己ではない何かに狂わされていたのではないだろうか。
最後のページにたどり着く。そこに記された日付は、いまから三年半ほど前。五年前から始まっていた手帳だったのに、そのうちの二年はほぼ何も書かれず、手帳は放置されていたようだ。
そのページには久々に、文章が書かれていた。殴り書きではない、メイナード本来の整った文字。
『怪しげな男が、視界の端にちらついている。
奴が現れてから、心がざわついて落ち着かない。
今日こそ、奴に声をかけてやろう。
カーシェルに相談するのは、そのあとだ。
この手帳は隠しておく。
もしも僕に何かがあって、この手帳を見つけた者は、
信頼できる者にこれを託してほしい』
(――お兄様は、助けを求めていた。カーシェルお兄様を頼ろうとしていた。それを、私たちはずっと見逃してきたのね)
あれだけ頑なだったメイナードだったけれど、その本質はすべてこの手帳が表してくれているような気がする。化身族に厳しく、容赦がなくて、意見が対立することも多かった。だが本当は、神経質だけど不器用で、表面には出さずとも兄妹を信頼してくれていたのではないか。
怪しげな男というのが、フロンツェを指すのか、それ以外の誰かのことを指しているのかは分からない。けれども、その男がメイナードを狂わせたに違いなかった。
「今度こそ【獅子帝】を捕まえて、口を割らせないとね」
カイの言葉に、イリーネは強く頷いたのだった。




