◇兆し(5)
カーシェルの指示とカヅキの迅速な行動によって、短時間で軍が整えられた。鉄器での対処がしにくい暗鬼が相手ということで、主力となるのは魔術を扱える化身族たちだ。リーゼロッテの獣軍には、カヅキを筆頭に、高額賞金首だった者たちが揃っている。加えて、一般のハンターたちも多く集まった。急な依頼であったにもかかわらず、カーシェルの名で出された傭兵としての従軍要請を引き受けてくれたのだ。そんな彼らを指揮統率するのは、獣軍将【迅風のカヅキ】。将として彼が有能であるのは、誰もが知っているところだ。個人戦を好む化身族たちが団結したとき、どれだけの力が発揮されるのか。イリーネはその強さを、今回初めて目にすることになる。
総指揮を取るのはカーシェル。イル=ジナ、アスール、カイ、チェリン、ニキータ、シャ=ハラ、ヒューティアが客将として名を連ね、イリーネとクレイザ、アーヴィンとエルケも後方支援として参加する。サレイユからジョルジュが参戦しなかったのはイリーネにとっては意外だったが、彼はダグラスの護衛に残るという。アスールが王位継承争いから身を引く決意をしたとはいえ、それはまだ公のことではなく、いまだダグラスには敵も多いのだそうだ。ジョルジュはアスールの直臣だが、その彼をダグラスにつけることによって、アスールは何かしらの均衡を保とうとしているらしい。
リーゼロッテの正規軍が神都を離れることは、今まで滅多になかった。ケクラコクマとの国境紛争で押し負けそうになったときに、数部隊が援軍で派遣された程度だ。これほどまでに大規模に師団を組んで出撃するのは、二十年前のヘルカイヤとの戦争以来。まして獣軍の実戦投入など、イリーネは初めてのことだった。
「ヘルカイヤへは船を使う。まずはマンフレートの街へ行くぞ」
カーシェルのその説明を聞いて、カイは目を丸くする。ヘルカイヤは神都から真東なはずなのに、南東方向へ向かっていることに気付いたカイが問いかけた、その答えである。出発する前にひとしきり行軍行程について説明があったのに、カイは聞いていなかったらしい。
半年間神都に滞在して、暇を持て余していたカイは、この期間に乗馬を練習していた。イリーネも驚くほどしっかり乗りこなしていて、カイは少し得意げだ。
「マンフレートって……」
「スフォルステン子爵領の主都だ。あそこは二十年前の戦争の折、神国軍の軍港として使われた。今でも大型船を大量に所有しているんだよ」
「気持ちよく協力してくれるのかな」
「協力せねば、貴族の義務の放棄と国家反逆の罪に問われる。今度こそ失脚どころでは済まなくなるから、まあ、船は出してくれるだろう。それ以上は望まないさ」
いかにも興味のなさそうなカーシェルだが、イリーネは義兄の本意を察している。スフォルステン家に、名誉挽回の機会を与えてくれているのだ。メイナードのしたことは許せないし、それを見て見ぬふりをし、あまつさえ協力したスフォルステン子爵家も許すことはできない。それでもカーシェルにとっては、義理の弟妹の血縁。そして守るべきリーゼロッテの民なのだ。謀反人だからといって、その地に住む人々まで蔑ろにはしない。メイナードに言わせれば、それがカーシェルの「弱さ」。イリーネに言わせれば、「優しさ」だ。
さらに、徹底して化身族を排斥することで有名だったスフォルステンの領地を、獣軍が通過する。カーシェルの意志を、他の貴族たちにもはっきり示しておくことも目的だろう。
メイナードへの処罰をきっかけに、教会に蔓延っていたスフォルステン家を一掃したカーシェルの手腕は、確かに見事なものだ。だが、自らの周囲を自勢力だけで固めることは良しとされない。考えたくはないが、もしカーシェルが道を踏み外したとき――それを止めるものがいなくなる。王家と教会は均衡を保ち、互いを牽制しあってしかるべきもの。新教皇イザークはカーシェルに流されてはいけない。カーシェルはすべての者に優しく、そして冷徹でなければいけない。
これまでイリーネにとってカーシェルという男は、優しくて頼りになる兄だった。――これからもずっとその関係のままでいられるだろうか。イリーネを隔てなく愛してくれた父ライオネルも、かつてはヘルカイヤ公国を滅ぼすほどの大戦を引き起こした。それはイリーネには計りしれない、国王としての意志が働いた結果だったのかもしれない。けれども同じようなことを、カーシェルが決断したら? イリーネにとっては変わらず優しい兄のままであったとしても、王としてのカーシェルがそのような顔を見せたら、きっとイリーネは耐えられない。
晩年の父は、何かと悩むことが多かった。これから同じ孤独な王の道を、カーシェルは歩もうとしている。――誰かが、支えなければいけない。
(……そういえばお兄様、ご結婚はどうなさるつもりなのかしら。浮いた話のひとつも聞かないし……)
イリーネとアスールの婚約ばかりカーシェルは話題にするけれど、そういう本人の話は聞いたことがない。王族の男子が二十六歳にもなって独身というのは、ヒトのことを言えた義理ではないがいかがなものか。昔から縁談はひっきりなしだったはずなのに、どうやらいまだにカーシェルには定まった相手がいないらしいのだ。世継ぎ問題もある。第二王子のメイナードが死んでしまったのだから、王族の血を直系で残すにはカーシェルが子をもうけるしかないのに。
前を行くカーシェルの背中に視線を送ると、聡い義兄はすぐ気付いて振り返ってきた。後ろに三つめの目があるのかと思うほどだ。
「なんだ、イリーネ?」
「え、えっとその、お兄様と馬を並べるのは久しぶりだと思って」
「はは、そういえばそうか。昔はよく狩りや遠駆けに出かけたな」
――兄の恋愛事情にどこまで首を突っ込んでいいのか分からない。とりあえず聞かないでおこう、とイリーネは思う。……聞いたら聞いたで、複雑な気持ちになるのは分かりきっていたことだし。
なんとかカーシェルをごまかしてほっと息をついたイリーネの後ろから、チェリンが声をかける。彼女はまだ乗馬はできないようだ。「忙しかったのよ」とは本人の言である。
「ねえ、イリーネ」
「はい?」
「ずっと聞こうと思ってたんだけど、なんか口に出せなくて……その、答えたくなかったら別にいいのよ?」
「どうしたんですか、チェリンらしくないですよ。なんでも聞いてください」
歯切れの悪いチェリンの表情は、前を向いて手綱を握るイリーネには見えない。ただ、なんとなく想像はできた。その想像が正しいのだということも。
「イリーネのお母さん……シャルロッテさん、だっけ。どうしてるの?」
まるで禁句のような扱いを受けてきた、その名前。チェリンが憚ってしまったのも分かる。それはきっとイリーネに気を遣ってのことだろう。けれども、そんな気を遣われるほど、イリーネは傷心ではなかった。
「王族から除籍されて、城外退去を命じられました。今は、マンフレートのお屋敷でお過ごしになっているそうです」
★☆
ベルツ山より流れるトリムハイム川の支流に沿って南下すること四日。一行はローダインに次ぐリーゼロッテ第二の港町、マンフレートに到着した。
スフォルステン子爵は、リーゼロッテの国土の南東地域を所有する。ヘルカイヤとの国境にも近く、マンフレートから臨むシュルツ湾を横断すれば、対岸はもうヘルカイヤである。古くからこの湾の所有を巡ってヘルカイヤとスフォルステンは対立していたようだが、ヘルカイヤが併合されて以降、その大部分は子爵家の領海となっていた。
「第二の港町と言っても、ローダインとはずいぶん違うんだね」
マンフレートの街並みを見てのカイの感想はそれだった。ローダインと比べてしまうと、マンフレートはあまりに静かすぎた。市場はあれほど活気がなく、異国の品物と言っても、せいぜいサレイユやイーヴァンのものばかり。出歩いている人々も、どこか「お上品」なのだ。
「元は軍港で、今は王家御用達の港だ。そりゃお上品にもなるだろう。この辺には内陸の貴族たちの別荘も多いって聞くしな。一応、海産物は美味いらしいぜ」
ニキータがそう解説して、カイは「ふうん」と頷いている。
マンフレートの港は、異国へ旅する時の玄関口だった。イリーネだけでなくアスールなども、リーゼロッテへ来るときはこの港を使う。イリーネたちにとっては見慣れた光景なのだが、ローダインを見た後では、確かに物足りなさを感じてしまうだろう。よくここを訪れていたイリーネでさえそうなのだから、カイたちがそう思ってしまうのも無理はなかった。
「あらかじめ使いは送っているが、多少打ち合わせがある。その間、軍はこの街で小休止だ。あまり時間はとってやれないが、しばらく自由にしていてくれ」
カーシェルはイリーネらにそう指示を出し、自身は駐在する神国正規軍の本部へ向かった。貴族領でありながら神国の正規軍が駐在する場所など、マンフレート以外に存在しない。それだけこの街が、この国にとって重要視されてきた証拠だ。
いかに化身族といえど、行軍続きでは疲労も溜まる。軍宿舎のほうで兵たちは休むようだが、人間でありながら元気なのがイル=ジナという女だ。
「自由行動となれば、ちょっくら街を見てみようじゃないか。こんな堂々とリーゼロッテの街を見物できる機会なんて、今までなかったしねぇ。行くよ、ハラ」
「はあ……申し訳ありません、イリーネさん、皆様方、後ほど必ず合流いたしますので」
明らかに気乗りしていなさそうなシャ=ハラが、イリーネらに一礼してイル=ジナを追いかけていく。差別意識の強いリーゼロッテで、一目でケクラコクマ人と分かる肌の二人が出歩く、そのことに躊躇いのないイル=ジナには感嘆するばかりだ。逆の立場だった時、イリーネは大層居心地の悪い思いをしたというのに。
「……えと、みんなはどうするの……?」
こちらは、明らかにひとりぼっちになりたくないと訴えるヒューティアである。なぜか真っ向から目が合ってしまったカイが、ついと視線をイリーネへと向ける。
「どうする?」
マンフレートは静かで良い街だ。綺麗な場所を、イリーネはいくつも知っている。初めてこの街に来たカイやチェリンに、紹介したい場所はいくつもあるのに――。
「――私は、宿舎で休んでいます」
なぜだろう、後ろめたいことは何もないのに、あまり表を歩きたくない。
それを察したのかそうではないのか、カイは「分かった」と頷いてくれたのだった。
港の目の前に、正規軍の軍本部が置かれている。窓からはすぐ海を眺めることができて、そこには巨大な船が数隻泊まっていた。物資を運び込んだり、船の最終整備を行ったりと、慌ただしく兵たちが働いている。おそらく駐在していた兵や技師たち、そしてスフォルステン家の私兵たちだろう。
部屋は自由に使っていいと言われたので、イリーネたちは本部の一階の個室で休憩していた。ロビーや大広間には出航を待つ獣軍の兵士たちで溢れかえっていたので、落ちつける場所を探していたのである。イリーネの他に、カイ、アスール、チェリン、ヒューティア、クレイザ、ニキータも一緒だ。一所にじっとしているのが苦手なクレイザとニキータだが、今回はどうも気乗りしないらしい。行く場所がヘルカイヤだということと、いまいる場所が故郷の滅亡に一役買った場所だということは、やはり彼らにとって心地良いことではないのだ。
「船旅ってどのくらい?」
「四、五時間といったところかな。サレイユのラーリア湖を横断したときほどはかからぬよ」
「うわ、あの湖そんなに大きかったんだね」
細々とカイとアスールがそんな話を交わしているところで、扉がノックされた。チェリンが扉を開けると、そこにいたのはひとりの獣兵だ。若々しく、化身族にしてはカイ並みに華奢な青年だが、カヅキの傍らに彼がいるのを、何度かイリーネは見たことがあった。カヅキが目をかけるほど見込みのある兵ということだろう。
「失礼します、イリーネ姫。少しいいですか」
「はい?」
「いま外で、スフォルステンから遣いが来まして。第二妃……いや、シャルロッテ殿からのお手紙だそうです。どうしましょう?」
獣兵の口から出たその名前に、イリーネはぴくりと身を震わせる。アスールやカイなどは怪訝そうに眉をしかめていた。獣兵のほうも、どうしたものかと困っているようだ。彼らは幼いころから、イリーネがシャルロッテにどのような扱いを受けてきたのかを知っているから。
とにかくもその手紙を受け取ると、兵は一礼して引き下がる。扉が閉じたのを見てから、カイが手紙を覗き込んでくる。
「……本物?」
まず疑ってしまうのは仕方ないことかもしれない。イリーネは手紙に視線を落とす。うっすらと青く色のついた封筒に、特に蝋などの封はない。あっさり封筒の中から一枚の便箋を取り出して、イリーネはそれを広げる。
「本物みたいです。スフォルステン家の印があります」
封をする時間も惜しかったのだと分かる、少し急いだ筆跡。それでも、細く流れるようなその筆遣いは美しい。見覚えがない――それも当然か。イリーネはシャルロッテからの手紙など、受け取ったことがないのだから。
「なんて書いてあるの?」
「渡したいものがあるから、屋敷に来てほしい――と」
それを聞いたアスールが、ちらりと窓の外を見やる。彼の視線の先、この軍本部の真正面に、スフォルステン子爵の屋敷がある。ほんの三、四分歩けば屋敷に着ける。
「軟禁中の身で神姫を呼びつけるとは、良い度胸だ。イリーネ、会わぬ方が良い。報復される可能性がある」
アスールの口調は厳しい。スフォルステン家の失脚を招いたのは、同じ一族のイリーネだ。あれだけスフォルステンの後ろ盾を受けて生きてきたのに、イリーネだけが生き残った今の状況を、一族の者たちは快く思うはずがない。アスールの言う通り、何か企んでいるのかもしれない。
けれど――。
「ごめんなさい、アスール。私……会ってみたい」
「イリーネ……!」
「お願い。すぐ……すぐ戻るから」
まだ渋っている様子のアスールだったが、説得は無駄だと悟ったか、ふっと苦笑を浮かべた。そんなアスールの視線を受けたカイが、勢いよく椅子から立ち上がる。
「ついて行くからね」
反論を許さない宣言に、イリーネも頷く。母からの手紙を懐におさめ、イリーネはカイとともに部屋を出たのだった。