◇兆し(3)
神都カティアに戻ったイリーネたちは、すぐさまカーシェルに面会した。予想以上に早い帰還にカーシェルもカヅキも驚いたようだったが、暗鬼の話を聞いて顔色が変わった。そしてイリーネらの労をねぎらうとともに、すぐさま主だった宮廷人を集め、対策を講じはじめたのである。その迅速さと、王族らしからぬ臨機応変さには、アスールも舌を巻いている。当のアスールもまた、故郷サレイユや親交のあるケクラコクマなどへ急使を派遣し、休む間もなく働いていたのであるが。
イリーネたちが暗鬼に遭遇して以降、各地でちらほらと目撃情報や、実際に襲撃されたという報告があがるようになった。予想していたように、その殆どがかつて戦場だった場所や、大型都市の近辺に現れたとのことだった。そうした場所には、事前にカヅキが獣軍の中から魔術を扱える強者を選りすぐって派遣していたため、実害が出る前にすべて退治されている。同時に狩人協会にも協力要請をして、腕利きのハンターの助力を依頼として出している。国家直々の依頼ということもあってかなり報酬が弾んでいるので、こぞってハンターたちは名乗りをあげているようだ。おかげで、危惧していたほどの混乱には至っていない。
このように対処しつつ、カーシェルは暗鬼の襲撃場所をマッピングした地図を作らせていた。それを参考にして、アーヴィンとエルケが「暗鬼の巣」を探している。より大規模に、より頻繁に暗鬼が現れる場所こと、怨念が強い証。そうして場所を絞り込んでいるのだ。やはりそう簡単には【獅子帝】の気配を探し当てることはできないようだが、アーヴィンとエルケは諦めることなく捜索に当たってくれていた。
日々慌ただしかったせいか、一か月という時間はあっという間に過ぎた。かねてから予定されていた、首脳会議の開催日を迎えたのである。
状況が状況なだけに、各国の首脳はかなりの数の護衛を伴い、なかにはハンターを雇いながら神都までやってきた。当然、リーゼロッテ側も厳重な警備を敷き、有事に備えた。幸いなことに、首脳たちが暗鬼に襲われることはなく、各々無事に神都カティア入りを果たしたのだった。
もっとも早く、そしてもっとも軽装で到着したのは、ケクラコクマ女王イル=ジナであった。自分の腕に自信があり、優秀な化身族の兵士も抱える女王は、少数の精鋭を護衛につけただけだったのだ。イル=ジナの両腕であるシャ=ハラ、シャ=イオ姉弟も同行していて、イリーネにとっては半年ぶりの再会である。
ケクラコクマ女王一行の到着の知らせを受けて、イリーネはその出迎えに城の城門まで駆けつけた。首脳会議が近いということもあって、最近イリーネは神姫としての職務も少なく、自由な時間を与えられていたのである。
ちょうど馬を下りるところだった女王を見つけて、イリーネは懐かしさのあまり嬉しくて声を張ってしまう。
「ジナさま、ハラさん、イオさん。お久しぶりです!」
「やあ、イリーネ! 嬉しいねぇ、神姫さま自らお出迎えだなんて」
気さくにイル=ジナは手を振ってくる。それに気づいたシャ姉弟が、慌てて女王の手を下げさせた。自由奔放な女王のせいで、あの姉弟はやっぱり気苦労が絶えないらしい。イリーネは苦笑して、小さく手を振り返しておいた。
国の外に出るときは、さすがに象ではなく馬を使うのだな――とぼんやり考えていたイリーネをよそに、馬を厩舎に預けた女王は、颯爽とこちらへ歩み寄ってきた。
「戦場で別れて以来だね。元気そうで安心したよ」
「皆さんもお変わりないようで、良かったです」
「あっはは、見ての通りぴんぴんしているよ。戦後処理と外交交渉に大忙しだったイオが、一晩寝込んだくらいさ」
「ちょッ、陛下! また余計なことを……ッ!」
イオが顔を真っ赤にして身を乗り出す。イオは別に病弱というわけではないらしいが、なんやかんやと仕事を大量に任され、イオもまた断らない性格なので、たまに限界を迎えるのだそうだ。むしろそれが普通で、いつもぴんぴんしているイル=ジナのほうが健康すぎるのだろう。
「いまは大丈夫ですか?」
イリーネが心配でイオを見ると、彼は大きく咳払いをして頷いた。
「……ええ、大丈夫です。ご心配をおかけしまして、すみません」
「なら良いのですが、ちょっと珍しいですね。イオさんが国を離れるなんて」
「僕がいない場所で、また陛下と姉さんが妙なことを口走るんじゃないかと、気が気じゃなかったものですからね」
「本音は、『もう留守番は御免だし、リーゼロッテに一度行ってみたかった』からだそうですよ」
「――姉さん!」
言っている傍からイオの本音を暴露したシャ=ハラは、弟の恨みの視線をさらりとかわした。思わずイリーネは吹き出してしまって、慌てて笑いをこらえたのだが、イル=ジナはおかまいなしに大笑いしている。笑いの的にされたイオは、不機嫌そうに腕を組んでそっぽを向く。けれども、見かけほどイオが不機嫌ではないことが、なんとなくイリーネにも分かるのだ。
ケクラコクマ女王一行から少し遅れて到着したのは、サレイユのダグラスと、イーヴァンのファルシェであった。なんの偶然か、この両者はほぼ同時に神都へ到着してしまい、出迎えた神国の役人たちがてんやわんやになるという不親切を招いてくれた。このときはアスールもイリーネと共に城門に出て、到着した異母兄と護衛のジョルジュと、早々に顔を合わせた。
無事を確認する挨拶もそこそこに、ダグラスがこそっと声を低めた。
「で……どうだ、例のものは?」
「無事取り戻しておいたよ」
「そうか、恩に着るよアスール。わざわざすまなかった」
「見られてまずいものの管理はしっかりしてくれたまえよ」
開口一番にミュラトール家の密書の所在を問い質すあたり、ダグラスもかなり気にしていたのだろう。見るからにほっとした様子で、ダグラスは肩の力を抜いている。その様子を見て、ジョルジュが無言を貫きながらも苦笑を浮かべていた。
「イリーネちゃん!」
ヒューティアがぱたぱたと可愛らしく駆けてきて、イリーネに抱き着いた。傍についていたイリーネの従者たちがぎょっとしているが、イリーネ本人が制したため、どうすることもできずに顔を見合わせている。
「こら、ヒュー。嬉しいのは分かるが、飛びつくのは失礼だぞ」
「あっ、ご、ごめんね、イリーネちゃん、ファルシェくん。つい……」
照れ笑いを浮かべながら、ヒューティアはイリーネから離れる。ヒューティアを嗜めつつ歩み寄ってきたのは、イーヴァンの【青年王】ファルシェだ。相変わらずハンターの出で立ちで、足取りも軽い。
「ご無沙汰しております、ファルシェさま。先の戦いでは多大なご協力を……」
「ああ、いい、いい。勘弁してくれ。堅苦しいのは好きじゃないんだ」
ファルシェは肩をすくめて見せた。それを見て、イリーネは少し戸惑う。記憶を取り戻して思い出したのだが、実はこれまでイーヴァン王ファルシェとの親交は、それほど深くなかった。むしろ個人的に会話を交わしたのは、今回の騒動があって初めてだったと言っても過言ではない。首脳会議の場などで見るファルシェは、口数が少なく、何を考えているか分からないことがしょっちゅうだった。まさに孤高の存在といっていい。リーゼロッテとケクラコクマが激論を交わし、サレイユが仲裁しつつもリーゼロッテを援護し、フローレンツが困ったように話の流れを正そうと試みる――そんな首脳たちのやりとりを、つまらなさそうに外から眺めていたものだ。どこの国とも関わりを持たず、中立を貫く戦士の国。それがイーヴァンという国の立場だった。
だからイリーネとしては、ファルシェとの距離感がつかめない。後見人になってもらったり、武力を貸してくれた恩は勿論大きいのだが、いかんせんどういう意図があったのかが分からないのだ。今までのファルシェのことを想いだした分、ただの「善人」で片付けるのが難しくなってしまった。だって、あんなにも他国と関わるのを嫌がっていたのに。
「協力したのは俺の勝手だし、ヒューも手を貸したいと自分で言ったんだ。だからイリーネが気にすることはない。貴方には大きな恩もあることだし」
「恩……?」
「オストでテロがあったとき、多くの民の命を救ってもらった。俺が貴方に協力する理由は、これだけで十分だ。兵たちも、心優しい神姫の行いを忘れてはいない。みな喜んで、戦いに参加してくれたよ」
ファルシェは姿勢を正し、イリーネを真っ直ぐ見据えた。
「貴方とカーシェル殿の復権、心からお祝い申し上げる。というわけで、これからもよろしく頼むよ」
「よろしくねぇ」
ヒューティアも真似してそんなことを言うので、イリーネも反射的に「こちらこそ」と答えた。何やら楽しそうに笑いつつ、ファルシェとヒューティアは城内へと入っていった。
その後ろ姿を見送って、思わずイリーネは首を傾げてぽつりと呟く。
「……なにをよろしく頼まれたのかしら……」
「仲良くしてくれということではないかな。個人的にも、国としても」
そう答えたのは、ダグラスとの話を終えたアスールだった。
「今回の騒動で、大陸におけるイーヴァンの立場は大きく向上した。何せ、真っ先に神姫イリーネを保護し、協力を申し出たのだからな。そういうことは普通、同盟国であるサレイユや、同じ教会を擁するフローレンツが行うべきこと。我々としては、まったく形無しだ」
イリーネがイーヴァンにいたころ、まだメイナードの思惑も【獅子帝】の存在も、だれも知らずにいた。この先の戦いがどうなるか分からなかったのに、ファルシェは全面的に協力すると約束してくれたのだ。思えば妙なことで、大博打だ。イリーネが勝利し、メイナードが滅ぶと確信していたから、あそこまで大盤振る舞いをしてくれたのだろうか。その結果、このように国としての立場が固まることも見越して。今後サレイユやフローレンツと意見を対立させたら、イーヴァンはそれらの国を黙らせることができるのだ。「神姫の危機に駆けつけるのが遅かったくせに」と。
「もしかしたらファルシェは、ずっとそれを狙っていたのかもしれぬ。教会も持たず、神国の庇護も受けられない孤高の中立国。貫き通すには無理があるが、リーゼロッテの属国になるのだけは頑なに拒んでいたあいつのことだ。以前から独自に密偵を送り込んでいたのも、藪をつついて蛇を出すためのものだったのかもしれないな……とは、さすがに私の考えすぎかな」
「でも、その通りだとしたら、ファルシェさまの狙いは成功しましたよね。飛び出した蛇は、一匹残らずお兄様が排除してしまわれたから」
「あれは見事な手腕だったな。やれやれ……どいつもこいつも油断ならぬよ、本当に」
ファルシェは対等な国として、リーゼロッテに握手を求めるつもりだろう。カーシェルもその手を取らずにはいられない。やっぱりファルシェは敏腕なのだと、イリーネは苦笑してしまう。彼個人は、気持ちのいい好青年なのだけれど。
「さて、あとはフローレンツ王ご一行の到着を待つばかりか。どうせまた期日ギリギリの登場なのだろうな」
「仕方ないですよ、リーゼロッテからフローレンツは一番遠いんですもの」
「遠いのだから、もっと余裕を持って出発すれば良いと思うのだが……いや、君は大人だな。私の気が短いのか」
苦笑しつつ、アスールは歩き出す。城内ではなく、市街地へ向かう城門のほうへ。
「あ、どこに行くんです、アスール?」
「そろそろクレイザと【黒翼王】殿に城へ来ていただいたほうがいいだろうからな。呼びに行ってくる」
クレイザとニキータは、首脳会議が始まるまで神都から出ないでいると言っていた。宿泊先も教えてもらったから、ふたりを探し出すのは簡単だ。
首脳会議が始まりそうだから王城へ移ってもらう、というのは普通だ。だが、クレイザたちなら呼ばれずとも来るだろうし、そもそも異国の王子であるアスールが直々に呼びに行く必要はない。使いの者を派遣すれば良いだけの話だ。
それでもアスールが出かけるということは――。
「お兄様とジナさまが模擬稽古を一緒にしたいって――」
「うむ、すまぬが私は見ての通り忙しい! 付き合わされるカイには、ご愁傷様と伝えてくれたまえ。それじゃ」
そそくさと逃げるようにアスールは立ち去ってしまった。全首脳が揃うまでの時間潰しに、カーシェルとイル=ジナは剣の稽古をして過ごしていたのだ。元々仕事と仕事の合間に剣を振るっていたカーシェルに、暇を持て余していたイル=ジナが声をかけたのがきっかけだったらしい。最初こそアスールもカイも稽古に付き合っていたが、剣技にそこまでの情熱を持っていないアスールとしては、カーシェルとイル=ジナの相手など身がもたないのだ。
そのようにして、アスールとカイは稽古を互いに押し付け合っているのである。今日はアスールが逃げる番ということか。イリーネは困ったように、アスールの背中を見送る。
カーシェルとイル=ジナの稽古を見物するのは楽しい。なにせ、敵国の指揮官同士であったはずのふたりが、楽しそうに剣を交えているのだ。そんな日が来るなんて、誰が想像しただろう。妙に気の合ったふたりの姿は、リーゼロッテとケクラコクマの関係をそのまま体現しているかのようで、イリーネは嬉しいのだ。
アスールの予想通り、フローレンツ王は約束の期日当日に到着した。かなり余裕を持って神都入りを果たしていた他国から「遅い」という無言の視線をもらいながらも、予定通り首脳会議は開催されたのである。