◇兆し(2)
情報通の商人たちを相手にして、イリーネやアスールの正体を伏せておくのは不可能なことだ。それが分かっていたため、イリーネらは自ら身分を明かし、現在はお忍びの最中なのだと説明するしかなかった。人間というのは「お忍びの王子と姫」という響きが好きなのか、喜んで商人たちは秘密を守ると約束してくれた。何より神姫にこれだけ間近で会えるのは滅多にないことであるし、「いずれ夫婦となるふたり」の仲睦まじい姿を見られることは、口止め料としてはおつりが来るほどに価値があることなのだそうだ。
カイやニキータは獣軍の兵で、カヅキの命を受けイリーネらのお忍びに護衛としてついている。人間に対して害を加えるようなことは絶対にしない。イリーネがそう告げると、すんなりとではなかったが、商人たちはカイたちの助力を受け入れた。自分たちだけではどうにもならないのに、それでも化身族の助力を受けることに渋った彼らに、イリーネは心から嘆きの溜息を吐きたい。カイたちもその態度が不快だったはずだ。けれど不満を顔にも口にも出さず、積極的に人命救助をしてくれた。暗鬼の毒気に当てられたヒトたちを運び、倒れた馬車を引き起こし、怯える馬を宥め、行商隊を街まで護衛してくれたのである。
そのようにしてローダインまで無事にたどり着くと、行商人たちもさすがにカイたちに感謝したようだ。深々と頭を下げて、商人たちはそれぞれの場所へと散って行った。
「あれでも一時期に比べれば良くなったもんさ。昔は化身族だと分かれば問答無用で攻撃してきたし、つい最近までは無視されるのが普通だった。それを思えば、いまは話をしながら協力できるようになったんだから、進歩したんだよ」
行商人たちを見送りつつ、ニキータがそう言う。気分が落ち込んでいるイリーネを慰めるような言葉だった。
確かに、行商人たちは攻撃的ではなかった。石をぶつけるようなことも、暴言を吐くこともない。だが、彼らがカイたちを見る目には、警戒や不安、疑惑、畏怖――そのような感情が含まれていた。目に見えないそれらが、目に見える暴力よりも辛いのではないだろうか。カイたちは、特にそういう気配に敏感だ。
憮然としていると、カイが急に笑った。カイは行商人たちがくれたお礼の菓子――金銭で受け取るわけにはいかないと言うと、多数の商品を礼として置いて行ってくれたのだ――を早速口にしていた。
「な、なんですか、カイ?」
「……いや、ふふ。イリーネ、機嫌悪いなぁと思って」
「そりゃあ、悪くもなります……みんながあれだけ親身になってくれたのに」
どうしてイリーネの機嫌が悪いのを見て、カイは笑うのだろう。まったく分からない。
「イリーネは大抵のことは笑って許してくれたでしょ。怒るとか、そういう感情を表に出すところをほとんど見なかったから、なんかちょっと安心した」
「そういえば、ここまで態度に出るのは珍しいかもねぇ」
チェリンまでそんなことを言う。そうだろうか、とイリーネは首を捻る。腕を組んで立っていたアスールが、なにやらヒトの悪い笑みを浮かべて口を開く。
「つまり、『俺たちのために怒ってくれて嬉しい』と、そういうことのようだな」
「っ!? ……げっほげほ」
ちょうど焼き菓子を飲みこむところだったカイは、その言葉で盛大にむせた。まるでそれを予見していたかのように、間髪入れずにクレイザがジュースの入った小瓶をカイに差し出す。これも商人たちが置いて行ったお礼のひとつだ。
目に涙を浮かべながらカイはアスールを睨む。カイを窒息死寸前まで追い込んだ本人は陽気に笑って、お礼の品々を入れた袋を抱えて歩き出す。真面目な話が砕けて、みな一気に脱力したようだ。イリーネですら、さっきまでの不快感を忘れてしまうほどに。
「カイ、大丈夫ですか?」
ジュースを飲みつつもまだ咳き込んでいるカイに、イリーネは苦笑を浮かべて問いかける。今度はカイが憮然として頷く番だった。
瓶の蓋をしめたカイは、軽く髪の毛を掻き回す。視線が僅かながら彷徨ったが、それはアスールたちが先に行ってしまうのを確認したようだった。それから真正面からイリーネを見る。静かながらまったくブレのないカイの紫色の瞳に、イリーネはどきりとしてしまう。真剣な話をするとき、カイは真っ直ぐこちらを見つめてくるのだ。
「俺、たぶんニキータとチェリーもだと思うけど、そんなに嫌な思いしていないから。大丈夫だよ」
「そう、ですか……?」
「そりゃあ呆れることもあるし、ちょっと前だったら絶対突き放していたんだけどさ。どちらかが歩み寄らなきゃ距離が縮まるわけもないし、歩み寄ってみれば案外応えてくれるのも分かってきた。だから最近は、前向きに思うようにしているんだ」
いつだったかに、コミュニケーション能力皆無だと自評していたカイの言葉とも思えない。だが、イリーネは思い直す。ヒトが好きで、同じ世界で生きていきたいと願って故郷を飛び出したカイだ。自分から歩み寄ってみるというのが、その願いを実現するために見つけた答え。いまはまさに、それを実践しているところなのだろう。人間が化身族に対して理解が浅いということも、当然カイはすべて承知のうえで。
本当に狭量だったのは自分自身だったのかもしれない。そう感じて赤面すると、カイは心でも読んだかのように笑う。
「でも、嬉しかったよ。アスールの言う通りなのは癪だけど……ありがとう」
そうやって付け加えてくれるのが、カイの優しさであり純粋さなのだった。
★☆
カイとアスールが使っていた宿の部屋に入ると、エルケがベッド脇の椅子に腰かけている姿が目の前にあった。そのベッドでは、アーヴィンがすやすやと眠っている。
エルケは帰ってきたイリーネたちに気付いて立ち上がった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、エルケ。アーヴィンは……」
「顔色も良くなりましたし、もう少し休めば回復されるかと」
クレイザは頷きつつ、アーヴィンの顔を覗き込む。弟を心配する、本当の兄のような横顔だ。その横で、エルケはイリーネたちに向かって深々と頭を下げた。
「皆様、本当にありがとうございます。おかげさまで主を助けることができました」
「いえいえ、お気になさらず……」
あまりの腰の低さに、イリーネも慌てて頭を下げてしまう。エルケがヒトの姿になったらどんなだろう、と想像したことは何度もあった。ようやく念願かなってエルケと言葉を交わすことができたわけだが、予想の斜め上をいくエルケの性格に、イリーネはたじたじだ。勝手なイメージだが、やんちゃなアーヴィンを見守る、壮年の保護者のようなヒトかと思っていたのだ。
クレイザとニキータは、勿論エルケの性格など完全に把握している。特に驚きもせず、ニキータが問いかけた。
「で、なんだってお前とアーヴィンがあそこに? お前らは確か、【獅子帝】を探してあちこち飛び回っていたはずだろ」
「はい。しかし大陸中のどこへ行っても、【獅子帝】の気配を見つけることができずにいたのです」
その話は、イリーネもカーシェル経由で聞いていた。一度認識した人物の気配を探し出すことのできるふたりは、その能力を最大限に生かしてフロンツェを探してくれているのだと。それでも駄目だったということは、フロンツェはこの大陸にいないか、もしくは気配を隠すような術を使えるか、どちらかだ。
「一度リーゼロッテへ戻ろうということになったのですが、この近くまで来たときに、急に【獅子帝】の気配を感じたのです。それを追ったところ、あの暗鬼たちが行商隊を襲撃するところに出くわしました」
「つまり……あの時近くに【獅子帝】がいたかどうかはともかく、あの暗鬼は奴が生み出したものに間違いない、ということか」
アスールの言葉に、はっきりとエルケが頷く。
アーヴィンとエルケだけでは、大量の暗鬼は手に負えず、助けを呼んでくるようにとエルケはアーヴィンに頼まれたのだそうだ。近くを回ってみたところで、イリーネらの気配をローダインで見つけた。そうして加勢を頼みに来た――というのが事の成り行きだったという。
この半年、不気味ながら平穏な時間が続いていた。もちろん暗鬼の目撃情報など出ていない。少なくとも、カーシェルもイリーネも把握してはいなかった。それが急に現れたということは――。
「ついに動き出した、か」
ぽつりと呟かれたカイの言葉に、反応する者はいない。重苦しい沈黙が室内に舞い降りただけだ。
たっぷり一分ほど沈黙してから、アスールが細く長く息を吐き出した。内に溜まった嫌な空気を吐き出そうとするかのようだ。
「とにかく、このことはカーシェルに報告しなければな。今後は大陸中で暗鬼が現れてもおかしくはない。注意を呼びかけ、対策を練る必要がある」
「対策と言ったって、かなり無理があるぞ。今日の戦いを見て分かったと思うが、あの暗鬼は各個撃破したって無尽蔵に湧いてくる。湧き出す暇もないほどの攻撃を加えないとな」
つまり先程ニキータが見せたような、広範囲かつ高威力な魔術で一網打尽にするしかない。そんなことができるのは、特に強力な化身族だけだ。ニキータやカイ並みの力を持つ化身族が、世界中にいったいどれだけいると言うのだろう。彼らが運よく暗鬼の襲撃現場に居合わせて、住民を守ってくれるような偶然が、どれだけあるだろう。
相手は生き物ですらなければ、固体でもない。防壁を築いたところで暗鬼はどこへでも侵入できるし、鉄器では到底対処できない。加えてあのように触れるだけで魔力を吸い取られるとなれば、いよいよ人間は手が出せないではないか。幸い、奪われた魔力は休めば回復する。だが、だからといって対策を練らないわけにはいかないのだ。
「……【獅子帝】が動き出したのは厄介だけど、チャンスでもあるよ。奴は息をひそめるのをやめて、魔術を使い始めたんだ。魔術の発生源を辿れば、【獅子帝】を見つけられるかもしれない」
カイがそう言うと、ニキータが腕を組む。
「確かに、魔術を発動するときには魔力を放出するから、気配を殺していても存在感が強くなっちまうとは言うな。だが、魔力の流れなんぞ俺には追えんぞ?」
「そんなのは端から期待していないよ」
「へいへい、そうですか。で、お前はできるのか、カイ坊」
「俺もよっぽど近くにいないと無理」
ばっさりと一刀両断したカイに、「じゃあなんで思わせぶりなことを言ったんだ」とニキータが唸る。化身せずとも魔術を扱えるのは、イリーネが知っているだけでもカイ、次いでカヅキだけ。カイが駄目なら誰もできないではないか。
でも、とカイは話を続ける。
「水気の少ないところで俺が魔術使いにくいのと同じで、闇魔術だって色々制限があるんだ。暗鬼は怨念の塊なんだから、つまり負の感情が集まる場所でないと使えない」
「負の感情が集まる場所……? それって、たとえば戦場とか?」
チェリンの問いに、カイは頷く。
「勿論そうだけど、戦場に限らないよ。ドロドロとした権力争いでも、こじれた恋愛三角関係でも、なんでもね。ローダインには特にそういうの多そうだし、この街の近辺には負の感情が蔓延しているのかもしれない」
その様を想像したのだろう、チェリンは若干げんなりした表情を見せる。対してクレイザはまったく表情を変えず、顎をつまんで考えを巡らせている。
「ということは、これまでに大規模な争いがあった場所に重点的な注意を向けておけば、ある程度暗鬼の出現を予測できるかもしれませんね」
「エルネスティ平原やヴェスタリーテ河の下流域、それに大規模都市、といったところかね。ケクラコクマなんざ、どこもかしこも戦いで溢れかえっているんじゃないか」
ヒトの多く集まる場所では、それだけ多くの諍いが起こる。それが道理というものだ。アスールは頷き、カイを振り返った。
「カイ、この話、あとでカーシェルにもう一度してやってくれるか」
了解したという意味で、カイは軽く肩をすくめる。
この面々が揃っていると、非常に話の展開が早い。軍事や各国情勢に詳しいアスールと、魔術に通じるカイ、広く客観的な目を持つニキータとクレイザの言葉が、いい具合にかみ合うのだ。
話が一段落したのを見計らって、イリーネが口を開いた。
「じゃあ、今日中に荷物をまとめて、明日の朝には出発しましょう」
「うむ。……すまんな、イリーネ、せっかくの機会だったのに」
アスールがそう謝すが、今回のことはアスールのせいではないし、事は非常に重大なのだ。のんびりと休暇を楽しむ余裕などない。
それに、イリーネは十分満足している。ローダインに来られたこともそうだが、仲間たちとこうして久々に顔を合わせて話ができただけで、イリーネにとっては幸福な時間だったのだから。
平和になれば、遊ぶ機会などいくらでもある。そのために今は、危険の排除が最優先だ。
★☆
アスールとチェリンは帰りの馬車を手配しに出かけ、クレイザとニキータは自分たちの宿の部屋を確保しに行った。ついでにクレイザは、本来の目的であった竪琴の弦も調達してくるらしい。こんなときでも平常運転なクレイザに、イリーネが感じていた得体の知れない恐怖も和らぐというものだ。
イリーネとカイは留守番だ。さしづめ、いまだ目を覚まさないアーヴィンと、その看病をするエルケの護衛といったところか。
「おふたりはこのあと、どうするおつもりですか?」
イリーネが問うと、エルケは少し考えてから答えた。
「ひとまず、皆様にご一緒して神都へ行こうかと。その後はまた【獅子帝】の気配を追います。そうすることで暗鬼の出現をいち早く察知できると思いますので」
「……いいんですか? また、今日みたいに危険な目に遭うかもしれないのに……」
「それでも主はきっと、捜索を続けることを望むでしょう。【獅子帝】の気配を追うことは、主と私にしかできない使命だと思っております。私たちは、できることをしたいのです」
凛としたエルケの言葉は、アーヴィンの決意を代弁しているようだった。実際、そうなのだろう。長い時を共に過ごしてきたふたりは、言葉などなくとも通じ合える。その絆の強さを、イリーネは実感した。
答えたのはカイだ。空いていたベッドに寝そべりながらという格好だったが、声は真面目だった。
「なら、探してもらいたいものがある。暗鬼たちの巣をね」
「巣……ですか?」
「暗鬼の生成にはそれなりの準備と儀式が必要だって聞いたことがある。負の感情が渦巻く場所のひとつを拠点にして、そこから各地に暗鬼を送り込んでいるんだ。その場所を探し出して潰さない限り、多分暗鬼は無尽蔵に湧き出てくる。【獅子帝】の気配が一番強いところ……そこが魔術の発生源だ。あんたたちなら、見つけ出せるかもしれない」
魔力を追って敵を見つけられないのなら、気配を追う。行きつく先はどちらも同じだ。巧妙に気配を隠していた【獅子帝】のこと、そう簡単には見つからないだろう。だが、可能性はある。それを任せられるのは、アーヴィンとエルケの他にいないのだ。
エルケが無言のまま、しっかりと頷く。それを見たカイがふっと笑う。
「まさか、あんたとこんな話をすることになるなんてね。なんでずっと化身を解かずにいたの?」
カイとエルケは、こうして同じ目的を持つ前は、賞金首とハンターという関係だったのだ。何度も牙と鉤爪を交えた敵対関係。本人たちには何か並々ならぬ感情があるのかもしれない。
「主が私のことを頼りすぎないようにするためです」
「……どういうこと?」
「母君を亡くされたばかりのころの主は、私以外のヒトとろくに会話することさえできないほどに塞ぎこまれておいででした。私が手を差し伸べるのは簡単でしたが、人間優勢の社会でいつまでもそれを続けることはできない。ですから私にできることは、主の自立を促すことだけだったのです」
「それで常時化身して、アーヴィンからの相談を全部跳ね除けたってわけ? 随分とスパルタなんだね」
優しい見目と穏やかな物腰に反して、かなり荒っぽい教育だ。一番頼りにしていたヒトが、何を言っても化身を解かず何も応えてくれない。それは幼いアーヴィンにとってだけ心細いことだっただろう。勿論傍にはクレイザもニキータもいたのだろうけれど、やはりアーヴィンにとって、生まれた時から傍にいたというエルケは特別だったはずだ。
それでも現在のアーヴィンは、逞しく生きている。自分で物事を考え、状況を見極め、できることを探して行動できている。エルケの教育は見事に成功したのだろう。やりたいことをきちんと持っている主君と、彼に寄り添う物言わぬ忠実な家臣。アーヴィンとエルケのような絶対的主従の関係も、人間と化身族の契約として存在するのだ。
「……エルケ?」
と、その時小さな声が聞こえた。イリーネでもカイでも、エルケでもない。今の今まで眠っていたアーヴィンが、やっと目を覚ましたのだ。これには思わずカイも、ベッドに起き上がる。
「気が付かれましたか」
「アーヴィン、身体の具合はどうですか?」
「まったく、ちょっと寝すぎだよ」
「わわ、イリーネさん、【氷撃】まで……って、ここどこ?」
身体を起こして目を丸くしているアーヴィンに、イリーネは微笑を浮かべる。どうやら元気そうだ。事情を説明しようとしたところでアーヴィンの腹の虫が鳴いたので、説明は後回しにすることになった。エルケが何か食料を調達に部屋を出ていき、残ったアーヴィンは恥ずかしそうに赤面していたのだった。