◇兆し(1)
クラウスナー男爵領とスフォルステン子爵領の境に存在するローダイン。街から出て少し東へ進路を取れば、そこはもうスフォルステン子爵領である。
スフォルステンは領地としては小さなほうだが、それでもいくつもの都市を抱える土地には違いない。エルケはかなり大雑把に「スフォルステン子領」と言ったが、場所によってはイリーネを背に乗せてくれているチェリンと、アスールを背に乗せて駆けているカイの肢が限界になってしまう。スフォルステン家の主都マンフレートは、ローダインから直線距離で二日ほどかかるのだ。
だが、幸いなことに現場はローダインからそう離れた場所ではなかった。ローダインから北東方向に三十分ほど駆けたところにある平野で、戦いは行われていたのである。
「これは……」
イリーネが絶句した隣で、アスールは無言で剣を抜き放っている。無駄口を叩けないほど、戦況は悪かった。馬車が数台横転し、周囲には積荷と思われる品物が無数に転がっている。周囲には多くの人々が倒れていた。おそらく行商の一隊か何かがここを通った時、戦いに巻き込まれたのだろう。あるいは、行商隊を狙って襲われたのか。
暗鬼を見るのは、イリーネにとってはサレイユのブランシャール城塞以来である。三度目となれば驚くまでもないのだが、それでもイリーネは悪寒を覚えた。何度見ても慣れない、黒い煙のような怨念の塊。目だけが赤く光って、ゆらゆらと身体を揺らしながら近づいてくるさまには、恐怖を禁じ得ない。それが子どもの姿をしているというところにも、趣味の悪さを感じてしまうのだ。
イリーネとアスールは、それぞれ地上へと飛び降りた。カイとチェリンは速度を落とさず、そのまま暗鬼に向けて飛び掛かる。カイの牙が、チェリンの後ろ足が、脆い暗鬼を引き裂いていく。煙と化した暗鬼は再構築こそしないものの、次々と新たな暗鬼が地面から湧き出してくる。これでは消耗戦である。
「アーヴィンは……!?」
イリーネは辺りを見回す。このあたりには一般人しかいなくて、孤軍奮闘しているというアーヴィンの姿が見えない。アスールも同じように周囲を確認し、それから上空にいるエルケが向かう先を見やる。そしてイリーネを振り返った。
「イリーネ、あそこだ!」
アスールが指差した方向をイリーネが見た瞬間、少し離れた場所にたむろっていた暗鬼がまとめて消し飛ばされるのが見えた。あれは風属性魔術、“迅刃”だ。地上からそれを放ったのは、アーヴィンに他ならない。
だが、高威力の魔術は消耗も激しい。アーヴィンは混血で、魔術を使う素養はそれほど高くないのだ。何発も魔術を発動させれば、それだけ早く魔力の枯渇を招く。現にアーヴィンは、このとき半分朦朧としていたようだった。気合いを振り絞って、近づいてくる暗鬼を吹き飛ばしたはいいが、無限に暗鬼は襲ってくる。それが心を折り、戦意を喪失させた。
いよいよ地に膝をついてしまったとき、アーヴィンの目の前に巨大な影が舞い降りた。エルケがその大きな翼をはためかせ、主人を守ったのである。翼の勢いに煽られて、またしても暗鬼は吹き飛んでいく。それを見たアーヴィンはほっとしたのか、その場に倒れこんでしまった。
「アーヴィン、しっかりして!」
駆け寄ったイリーネがアーヴィンの身体を起こす。アスールはその傍に立ち、周囲を警戒してくれる。
目に見える傷は、アーヴィンの身体にはない。暗鬼がどのような攻撃をしてくるかは分からないが、物理的なものではないのだろう。魔力の枯渇が直接の原因のようだ。
「お、お嬢さん……! そ、その子は混血種だ、危険だよ……!」
イリーネにそう声をかけてきたのは、行商隊のひとりと思われる中年の男だった。振り返ってみると、その男はひどく怯えた様子で、アーヴィンを見ている。
――アーヴィンが、なんのためにずっとこの場で戦っていたのか、それさえも分からないのか。商人たちが倒れている、その場所の入り口となる場所を、ひとりで守り続けていたのに。
「……何が危険なの? ずっと敵から守ってくれていたんですよ。そんな子の、何が危険なの!?」
リーゼロッテという国は、混血種に優しくない。イリーネを神姫と崇めてくれるヒトたちも、きっとイリーネのことを知れば軽蔑する。――なんて、心の小さな国なのか。
何か言い返そうとして、男の声は尻すぼみに小さくなっていく。本当は彼にだって分かっているのだ、この少年が守ってくれていたことが。それでも、やはり差別意識は根強く残っている。年配の人間になれば、より深く。
「イリーネ、さん」
アーヴィンがか細くそう呼んだ。イリーネがはっとして視線を向けると、アーヴィンは薄く目を開けていた。アスールもそれを見て、警戒は解かずにこちらへ近づいてくる。
「大丈夫ですか!?」
「うん……大丈夫、怪我はない。だから、治癒術、平気だよ」
念のためにと治癒術をかけそうになっていたことに、アーヴィンは気付いていたのだろう。アーヴィンは身体を起こし、息を吐き出す。顔が青白い。かなり無理をしていたようだ。
「こいつら……話に聞いていたより、ずっと強い気がする……煙に触れると、魔力を奪われるんだ……」
「……なるほどな。それで商人たちがばたばたと倒れているわけか」
人間がその身に宿す魔力など、たかが知れている。だが大事なエネルギーであることに変わりはないので、それを奪われてしまえば意識を失うのが当然だ。イリーネたちならば多少魔力を奪われても耐えられるが、アスールは一度煙に触れれば戦闘不能になりかねない。
だが、アーヴィンの言う通り、暗鬼は強くなっているように見えた。ブランシャール城塞の暗鬼は無限に再生を繰り返したが攻撃はしてこなかったし、カイたちが神都の地下で遭遇した暗鬼は脆く一撃で消滅したと言っていた。
「ごめん、イリーネさん……僕、不甲斐なくて……」
「そんなことありません! アーヴィン、ありがとう……本当にありがとう、みんなのために」
心無い言葉をぶつけられても一歩も退かなかった。混血種であることを隠すより、人々の命を優先してくれた。アーヴィンの優しさのおかげで、イリーネが守るべきリーゼロッテの民が守られたのだ。アーヴィンには、ずっと助けられてばかりだ。
アーヴィンは照れたように笑ってから、視線を遠くへやる。その眼差しの先では、カイとチェリンが暗鬼を相手に無双していた。普段は防御のために使う“凍てつきし盾”を、カイはこのとき攻撃に使用しているようだった。おそらく各個撃破が面倒になったのだろう、氷壁を叩きつけて多数の暗鬼を圧殺している。チェリンも似たようなもので、暗鬼程度ではこのふたりの化身族の敵ではないのだ。
「まるで虐殺だな」
アスールが苦笑交じりにそう評するほどの戦いぶりだった。魔術による攻撃は広範囲に及び、基本的に剣一本でひとりとしか戦うことのできないアスールにはできない戦い方だ。
ふたりの奮戦のおかげで、暗鬼の数は確実に減っている。だが消耗戦であることは間違いなかった。これだけの数に囲まれておきながら一撃も喰らわないというのは、さすがにカイもチェリンも厳しい。何度も暗鬼の吐く煙が身体に触れて、少なくない量の魔力を奪われているはずなのだ。
商人たちの二の舞を避けるために迂闊な攻撃をしていなかったアスールが、剣を握り直したのが見えた。カイたちの加勢に入るつもりだろう――そう思った瞬間、イリーネらの周囲の地面から黒い煙が立ち上った。はっとしてアスールが剣を構える。アーヴィンを抱えて動けないイリーネは、立ち上がることもできない。
黒い煙は子どもの姿をとる。まさに暗鬼が生成される瞬間を目の当たりにして、声も出ないほどの恐怖に襲われる。アスールと、舞い降りてきたエルケが、イリーネとアーヴィンを中心にして背を預けあう。
「くっ……イリーネ、そこを動くなよ」
アスールがそう言って、近づいてきた暗鬼を斬り払った。消滅する際に噴き出る煙を、身をよじって回避する。返り血ならば華麗に避けるアスールだが、煙のように宙を漂うものを避けるのは至難の業だ。緊張している様子が、イリーネでも分かる。
その時、イリーネの目の前をふわふわと何かが舞った。それは黒い羽だ。咄嗟に羽を受け止めたイリーネは、この羽の持ち主に気付いた。
見上げた空を旋回していたのは、黒い翼の巨大な鴉――。
「ニキータさんッ」
イリーネが叫んだ声に、アスールとエルケも、離れた場所にいるカイとチェリンも気づいた。ニキータはこちらに急降下してくると、その勢いでイリーネらの周囲を取り囲んでいた暗鬼をまとめて消し飛ばした。
地面すれすれの位置に滞空する鴉は、そのまま巨大な雷撃の矢を創り出す。射線の先にあるのは、カイとチェリンを苦しめている暗鬼の群れ。
ニキータが“黒羽の矢”を放つのと、危険を察知したカイとチェリンがその場を飛び退くのは、ほぼ同時だった。
その“黒羽の矢”は、今までイリーネが見てきたものの中で最高威力のものだった。通常以上に太く強烈な矢に貫かれた暗鬼は、一瞬で消し炭にされた。直撃を受けなかった周囲の暗鬼も余波を食らって消滅する。
カイとチェリンがふたりがかりで猛攻撃しても全滅させきれなかった大量の暗鬼を、ニキータの一撃が葬り去ってしまったのである。驚くべき火力だった。
イリーネもアスールもぽかんとしてしまったところで、鴉の背中からヒトが飛び降りた。クレイザが乗っていたのである。クレイザを下ろしてから、ニキータも化身を解く。
「よお。なんか手こずっていたみたいだな?」
「みなさん、無事で良かったです」
ニキータはにやにやと、クレイザは穏やかに笑う。ニキータが暗鬼を一掃したあと、もう新しい暗鬼が地中から湧き出てくることはなかった。どうやら凌いだらしい。
危うく暗鬼と一緒に消し飛ばされるところだったカイとチェリンが、化身を解きながらこちらへと戻ってくる。エルケもまた、ヒトの姿になって降りてきた。カイは少し疲れたような顔で息を吐き出す。
「ほんと、毎回毎回いいところだけかっさらっていくね」
「それが俺のやり方だからな」
胸を張ったニキータだったが、イリーネからアーヴィンを受け取ったクレイザは表情を改めている。アーヴィンはいつの間にかすっかり眠ってしまっていて、身動き一つしていなかった。
「でも、暗鬼があんなにたくさん……何が起こっているんでしょう」
「【獅子帝】が暗躍しているってことじゃないの?」
カイの言葉に反応できる者は誰もいなかった。闇属性魔術を使うのはフロンツェだけではないのだが、どうしてもフロンツェの姿が離れてくれない。何より、無差別に暗鬼を生みだし、それがここまで強いとなれば、かなりの実力者でなければできない。
「……とにかく、行商隊のヒトたちを街まで無事に送り届けないと。アーヴィンも、どこかで休ませてあげたいですし……」
イリーネの言葉に、アスールが頷く。
「ここからなら、ローダインに戻るのが一番早いだろう。エルケはアーヴィンを連れて、先に行っていてくれ」
「分かりました、後ほどお会い致しましょう」
アスールから宿の部屋の鍵を受け取って、エルケは再び化身し、背中にアーヴィンを乗せて飛び立った。それを見送って、チェリンが感嘆の息をつく。
「エルケって、案外若かったのね……」
「若いっつっても、もう七、八十年は生きていると思うぞ。鳥族は獣族より寿命が長いからな。それよりお前ら、なんだって揃いも揃ってこんなところにいたんだ?」
ニキータの素朴な疑問に、カイが答えた。
「ちょっとしたお忍び旅行の途中だったんだよ。ニキータたちこそ、なんで? もしかして、カーシェルに頼まれてとか?」
「いや、偶然だ。クレイザが竪琴の弦を買い替えたいとか言うから、ローダインに行く途中でな」
「本当にそれだけ?」
「それだけだよ。なんでそう疑り深いかね」
これだけ都合よくニキータとクレイザが加勢してくれたとなれば、疑いたくなるカイの気持ちも分かる。ニキータはひとつ肩をすくめて、イリーネとアスールを振り返る。
「まあ詳しい話はあとでするとして……悪いんだが、商人たちに話を通してきてくれねぇか? さっきから視線が刺さりまくりで、このままじゃ手伝うに手伝えないぜ」
イリーネは我に返って、背後を振り返った。行商人たちがこちらの様子を窺って、声をかけようにもかけられない状況にあったのだ。正体不明の敵に襲われたと思ったら、化身族たちが続々と助けに駆けつけたのだから、何が起こったのか把握できていないのだろう。魔力を奪われて倒れたままのヒトも多いことだし、早いところ安全な場所へ行くためには、イリーネが対話を試みるしかなさそうだった。