◆夏の匂いを風に乗せて(7)
サレイユのドロテア港発、リーゼロッテのローダイン港着の旅客船アドリーヌ号。それがユルゲン・エグナーが乗っている船だ。サレイユ西部の街を出港して、ケクラコクマ沿岸の街で何度か補給をし、リーゼロッテまで来るらしい。途中の街で犯人が下船してしまう可能性もなくはなかったのだが、ユルゲンはケクラコクマ王国を旅した経験がなく、いまだ民衆レベルではかの国は「敵」扱いだ。最終目的地がヴェーデル子爵領であるなら、無難にローダインまでやってくるだろうというのがアスールの見立てである。
午前八時、それらしい大型客船が湾内に現れ、入港してきた。桟橋の周囲には出迎えと思われる人々で溢れかえっており、カイとしては動きにくくて仕方がない。隣にいるアスールの姿さえ見失いかねないのだ。
カイとアスールは船首側の出入り口付近に陣取っていた。船尾側には、イリーネとチェリンが待機している。この二か所のうち、どちらの出口から犯人が出てくるかはさっぱり分からない。できればカイたちのほうに来てくれと願うばかりだ。
客船はゆっくりと地上へその巨大な船体を寄せ、接岸を始めた。その様子をじっと見ていても良かったのだが、カイは小さく折りたたんでポケットに突っこんでいた紙を取り出した。ちょうどユルゲンの似顔絵が上の面に来るように折ったのだ。冴えない中年男性の顔に一瞥をくれて、カイは顔をあげる。
「……アスール、婚約破棄って本気?」
昨日は結局聞けなかったことを、このタイミングで口に出す自分に、カイは呆れてしまう。だが、いまを逃せばもう聞けないのではないかという、妙な危惧があった。しかし答えるアスールは平然としたものだ。
「ああ、本気だ。こんなことを冗談で言ったりせぬ」
「君が本気でも、サレイユとリーゼロッテの役人たちが素直に賛同するの? だって、神姫との結婚だよ。アスールが駄目なら、ダグラスに嫁がせられることだってあり得るでしょ」
「可能性はあるが、少なくともリーゼロッテ側からそれを提案してくることはない。彼女の後ろ盾となって私との婚約を推し進めてきたのは、スフォルステン家だ。当のスフォルステンが失脚したいま、彼女を利用することは誰にも出来ない。神姫でいるうちは、カーシェルでもだ」
それに、とアスールは顎をつまむ。その眉間には、浅くではあったが皺が刻まれていた。
「サレイユ国内でも、イリーネを迎えることに消極的な意見が多く出ている。間違いなくイリーネはスフォルステン家の出身で、メイナードの実の妹だからな。いまの状態のイリーネと結ばれても、リーゼロッテとの絆は深まらないのだ」
「……まあ、そうかもしれないけど」
「さればだ、イリーネはついに自由な恋愛を許されたということだ。前向きにとらえようではないか」
何やら言いたげな様子で、アスールがカイの手を叩く。お膳立てしてくれたと同時に、カイは退路をも断たれたのだ。なんというお節介だろう。
アスールは婚約破棄をしても、王族から除籍しても、軍部という居場所があるからいい。だがカイは故郷にも帰れず、賞金を懸けられて追われる身だ。女性としてのイリーネの幸せを考えるなら、アスールに嫁いだほうがずっと安全で幸せなのではないか。――そう言いたくなったが、仮にそれが事実になったとして、カイが心から祝福できるかは微妙である。
(手が汚れているのは、俺だって同じなのに)
それでもイリーネは、カイの手を取ってくれるのだろうか。
接岸が完了し、港のほうから橋が船に向かって伸びる。同時に、船体の一部が跳ね橋のように開く。ふたつの橋がしっかり繋がったのを見て、ぞろぞろと船から旅客が下りてきた。
「来たぞ、カイ。この話はまた今度」
「うん」
もやもやは残るが、仕事は仕事だ。続々と船から降りてくる人々に注意を向ける。サレイユから帰ってきたヒト、観光にやってきたヒト、商人、ハンターなど、一見して分かる者たちもいるが、「追っ手に追われているヒト」らしき人物は見つからない。
出迎えに来ていたヒトたちも入り交ざって、いっそう人探しは困難を極めた。アスールのほうもそれらしい男が見つからないらしく、目の前を通り過ぎていく旅客を無言で見送っている。
その時、カイの感覚の中で一点に留まっていたイリーネの気配が、にわかに消えた。はっとして、イリーネとチェリンがいるであろう船尾方向に意識を向ける。もうそこにイリーネの気配はなく、街の北側、市街地のほうへ移動していた。
「アスール、イリーネたちが動いたよ」
「ふむ、当たりを引いたのは姫君たちだったか。追おう、案内してくれ」
カイとアスールはすぐさま人混みを抜け、港湾地区から市街地へと入った。
「しかし契約とは便利だな。離れた相手の居場所が分かるとはどういう感覚なんだね?」
「言葉じゃ説明できないよ、こんなの。俺にはエルケとアーヴィンの能力のほうが、よっぽど未知の世界だね」
「確かに」
緊張感のない会話をしながら大通りを歩き、途中の路地を曲がった。大通りからは一本奥まった通りだが、こちらにも店やヒトは多く賑わいを見せていた。大通りの店はそのときの世相によって顔ぶれがころころ変わるので、裏通りの店のほうが安定し、常連客も作りやすいのだそうだ。
その裏通りを進んだ先に、イリーネとチェリンはいた。曲がり角にある建物に身を隠して、そっと路地の先を窺っているようだ。歩み寄るとイリーネが先に気付いて、小さく手を振ってくれる。
「遅いわよ」
チェリンは監視を続けながら、ばっさりと男性陣をこき下ろす。アスールが苦笑しながら、チェリンと同じように物陰から曲がり角の先を窺った。
「何しろすごい人混みでな……で、あれがユルゲン・エグナーか」
「そうだと思います。似顔絵にそっくりだったし、さっきからきょろきょろと挙動不審で」
カイもまたその男を観察した。がりがりに痩せたひょろ長い男で、仮にも貴族とは思えないほど薄汚れた格好をしている。荷物の入った鞄を手に抱えて、忙しく視線をあちこちに向けながら路地を歩いていた。やましいことがあるからそんなにも警戒するのだろうが、ど素人のようだ。こんなにもあからさまに尾行しているイリーネとチェリンに気付かないのだから。
「こんな裏路地に何の用があるのかな。ヴェーデル子爵領に戻るなら、さっさと出発するだろうに」
「仲間でもいるのかもしれないな。接触されると厄介だ、声をかけるぞ」
アスールの決断は早い。人通りの少ない裏路地であることも好都合だ。物陰から出たアスールは、見かけ上は落ち着いた足取りで、しかし油断なくユルゲンのもとへと歩み寄る。イリーネとチェリンも、少し距離を置いてそのあとに続いた。
どんなに警戒していても、どんなに怯えていたとしても、自分の名が聞こえれば振り返ってしまうのが常というもの。加えて、このローダインはユルゲンにとっても知らない街ではなく、知り合いもいる。ということで、アスールの一言めはこれだった。
「ユルゲンさん!」
好意的にさえ聞こえるアスールの呼びかけに、男は振り返った。振り返ったことこそ、この男がユルゲン・エグナーであることを決定づけた。
名を呼んだのが見知らぬ男であったことに、ユルゲンは訝しげな顔を見せる。無意識にアスールの恐ろしさを悟ったのか、じりじりとユルゲンは後退する。
「な、なんだお前……?」
「さっき落し物をされたでしょう。急いで追いかけてきたんですよ」
「落し物……?」
アスールが何かを懐から取り出し、ユルゲンの眼前に突きつけた。遠目にはそれが何か分からなかったが、視力もヒトよりは優れているカイには分かる。小石ほどの大きさの青い宝石だ。紐を通し、首から提げることができるようになっている。その宝石に刻まれた、幾何学模様の紋章は――おそらく、ヴェーデル子爵家の家紋。
ユルゲンの顔色が真っ青になった。それと同時に、穏やかだったアスールの笑みに若干の変化が生じる。
「――いけないなぁ、こんな大事なものを落としたら」
ユルゲンは、素人の中年男性にしては素晴らしい反射神経で踵を返し、アスールから逃げようとした。だがその時、ユルゲンの行く手にカイが立ちふさがる。路地沿いの建物の屋根を伝って、カイはユルゲンの背後に回り込んでいたのだ。腕を組んで突っ立っているだけのカイだが、ユルゲンにとっては恐怖の対象らしい。アスールとカイに挟撃され、ユルゲンはどうすることもできない。
「犯行現場に落し物をするような間抜けで助かった。おかげで早く身元を突き止められたからな。家紋入りのお守りを、伯父さんが持たせてくれたのか?」
「な、なんのことだよ。俺はそんなもの知らない……」
「しらばっくれても無駄だ、ユルゲン・エグナー。随分と手こずらせてくれたが、鬼ごっこも終いにしよう」
アスールの強い語調に、ユルゲンはびくりと飛び上がった。しかし、どうやらまだ観念してはいないらしい。逆に上手に出てきたのだ。
「さ、サレイユから追ってきたのか、暇人め。俺に指一本でも触れてみろ、伯父貴が黙っていないぞ! サレイユなんかの小役人程度、すぐに捻りつぶせるんだからな」
「ほう。ローダインでの揉め事に、外側から介入することは許されぬはずだがな」
「い……いいのか、どうせあの文書を取り戻しに来たんだろ!? これが明るみに出れば……」
「おかしなことを言う。私たちにこうして囲まれているというのに、どうやってその書類を公にするつもりなのだね?」
カイとアスールに挟まれて、逃げられるはずがない。いよいよ言葉に詰まったユルゲンだったが、突如彼は情けない悲鳴を上げた。抱えていた鞄がひとりでに宙に浮き、意思あるもののように動いたのだ。
勿論それは、少し離れた場所にいたチェリンの魔術“重力制御”だ。煮え切らないユルゲンに耐えかねて、強硬手段に出たわけである。慌てて鞄を取りかえそうとしたユルゲンの腕を、アスールがつかんで離さない。
遠慮なく荷物を漁ったチェリンは、すぐに分厚い封筒を見つけた。中には大量の書類が入っており、一枚抜き出して確認したチェリンが、アスールに向けて声をかける。
「どうやら、これがその書類のようね」
「ありがとう、チェリン。おかげで手間が省けた」
微笑んだアスールの横で、ユルゲンががっくりとうなだれた。
「くそっ、もう少しだったのに……! あれを持って帰れば、きっと伯父貴も俺を認めて……」
「それは残念だったな」
あっさりと一言で片づけながら、アスールはユルゲンの腕を離した。これにはユルゲンも目を丸くする。てっきり逮捕連行されるものだと思っていたのだろう。カイもそうだと思っていたのだが。
「な、なんだよ……何も罰はなしかよ」
「私の任務は、この書類を奪還することだからな」
「そうか、分かったぞ。俺を拘束して、伯父貴の怒りを買うのが怖いんだろう。サレイユは温和な振りをして、あんな汚い密約を交わしていたんだ。他にも後ろ暗いところがあるに決まってる。ヴェーデル子爵家の情報網を舐めるなよ。すぐに暴いてやるんだからな」
饒舌なユルゲンの言葉を、丁寧にもアスールは最後まで聞いてやった。それから一言。
「この世に美しい権力など存在せぬ」
「な……」
「もし本気でそんなものがあると思っていたら、随分とおめでたい頭だ。帰って伯父上に聞いてみるといい。神都への流通網を獲得するために、どれだけ多くの商家を捻りつぶしてきたのかをな」
開き直っているといえば開き直っていたが、それが真実なのだろう。カイもその言葉を否定できない。大体、こうしてイリーネが職務を離れて自由にしていられることこそが、カーシェルの権力の強さを示している。職権乱用と言われればそれまでだ。
「お前の身柄について、私はなんの指示も受けていない。ということは私の自由ということ。たかが地方領主の甥っ子の分際で、国家機密を盗んだあげく、サレイユへ喧嘩を売るとは良い度胸だ。その度胸に実力が伴っているか、試してみようではないか」
口元は笑っていたが、アスールの目は笑っていなかった。そのままわざとらしく剣環を慣らし、鍔を持ち上げて銀色の刃をちらつかせる。ユルゲンは顔をひきつらせた。
「や、やれるもんならやって……」
その言葉を叩き斬るように、アスールは抜剣した。目にも止まらぬ速さで引き抜かれた剣の切っ先は、ぴたりとユルゲンの鼻先に突きつけられて停止する。ユルゲンは悲鳴すらあげられないようで、刃とアスールとの間で忙しく視線を動かした。
「――私がお前に望むことはひとつだけ。見たことをすべて忘れてくれることのみだ」
今や完全にアスールの表情に笑みはない。その恐ろしさは、あまりのことにカイも身がすくむほどだ。一般人であるユルゲンはその比ではなく、ぱくぱくと、まるで餌を欲しがる魚のように口を開閉するだけだ。哀れな子爵家の甥っ子に、カイは初めて声をかけた。
「秘密を守ることと命を取られること、どっちが良いかなんて分かりきってると思うけど?」
その言葉がトドメとなって、ユルゲンは泣きながら「秘密を守る」とアスールの前で誓ったのであった。
這う這うの体で逃げ去ったユルゲンを、アスールは肩をすくめて見送った。剣を鞘に収めているアスールに、イリーネとチェリンも近づいてくる。密約文書の封筒を持っていたイリーネが、それをアスールに手渡しながら困ったように微笑む。
「びっくりしました……アスール、本当にあのヒトを斬るつもりかと」
「はは、まさか。一般人相手にそんなことはしないよ」
嘘つけ、という二対の視線がアスールに突き刺さったが、当の本人はしれっとした顔をしている。どう考えても、イリーネがいなければ斬り捨てていただろう。ローダインでの揉め事に、外側から干渉することはできない。それがリーゼロッテ貴族の身内でも、サレイユ王子でも、だ。
ユルゲンの鞄を持て余しているチェリンが、ユルゲンが去った方向を見やる。路地を曲がって、その姿は見えなくなっていた。
「でも、逃がしちゃって本当に良かったの? あいつ、約束守るとは思えないわよ?」
「喋ったとしても、証拠の品がないのだ。ヴェーデル子爵も、それでは動けないだろうよ」
それもそうかとチェリンも頷く。封筒を懐にしまったアスールは、一転して晴々した笑顔を見せた。
「さて、これで憂いごとも片付いた。付き合ってくれて感謝するぞ、イリーネ、カイ」
「いえ、私は何もしていないですから」
「俺も突っ立ってただけだよ」
特に見せ場もなかったカイとしては不完全燃焼気味だ。あの男がアスールを振り切って逃げだしでもすれば、即座に捕まえてやったのに――と思ったのだが、アスールが相手を逃がすなんて万が一にもあり得なかったのだった。
路地裏を戻って、カイたちは大通りまで出た。と、何やら息を切らせたひとりの男性が、カイたちの目の前に現れた。一瞬ユルゲンが仲間を連れて報復に来たのかと警戒したカイだったが、相手に敵意はないようだった。
「探しましたよ、皆様……!」
肩で息をしているその男性は、若く二十代くらいに見えた。だがカイは、独特な存在感を感じ取る。おそらくこの男性は化身族だ。
陽気な港町の景観にまったくそぐわない、きっちりとした黒の礼服。絹糸のような美しい金髪と、空色の瞳。言葉遣いも相まって、典雅な貴族の子息のような雰囲気があった。しかしながら、カイはこのような育ちの良い若者との面識などなかった。振り返ってイリーネたちを見るが、三人も不思議そうに首を捻っている。
「ええと、失礼だけどどちら様?」
カイが問うと、若者はそこで我に返ったようだ。恭しく胸に片手を当て、彼は一礼する。その所作、貴族のご子息というより――奉公人だ。
「これはご無礼を。直接ご挨拶するのは初めてでございました。私はエルケと申します」
「……エルケ? アーヴィンと一緒にいる、【大鷹】の……!?」
カイは驚いて、まじまじと若者に見入ってしまった。いつも忠実にアーヴィンを背中に乗せ、西へ東へ奔走していた【大鷹エルケ】――確かに一度もヒトの姿を見たことがなかったのだが、まさかこのような場所でお目にかかるとは。
だが、どうやらゆっくり親交を深めている暇はないようだった。やたら急いでいる様子のエルケが、前のめりにこう言ったのだ。
「大変です。スフォルステン子領に、膨大な数の暗鬼が現れました」
「なに……!?」
「主がひとりで食い止めておいでです。どうか、皆様のお力添えを……!」
なぜ暗鬼が。なぜスフォルステン領に。なぜアーヴィンがその場にいたのか。疑問は多々あるが、そんなことを言っている場合でもない。アスールもイリーネも、エルケの頼みに即断即決した。
「エルケ、案内を」
イリーネの言葉に、エルケは頷いた。その場で鷹の姿に化身し、空へ飛びあがる。付近にいた人々が驚いてその場を離れた。構っていられないので、カイとチェリンも化身し、その背中にイリーネとアスールが飛び乗る。一羽の鷹に先導されて、雪豹と黒兎はローダインの市街を疾駆しはじめたのであった。




