◇夏の匂いを風に乗せて(6)
その日は日が沈む前には散策を切り上げ、宿を取ることになった。明日到着するという指名手配犯を捕縛するため、打ち合わせをするのである。その仕事さえ済んでしまえば観光し放題だから、とアスールは申し訳なさそうに言うのだが、イリーネはすでに十分満足している。気の向くままに色々な店を見て、美味しいものを食べてと、充実した半日だった。サレイユの娯楽都市のような遊具があるわけではないが、商品を見ているだけで楽しめるイリーネとしては大満足だ。
旅暮らしをしていたときのように二部屋確保して、イリーネたちは一方の部屋に集まっていた。改めてアスールが、指名手配犯について詳しく説明してくれるのだ。
懐から一枚の紙を取り出して、アスールは卓の上に置く。それは犯人と思しき男の肖像画だった。頬がこけた痩せ気味の男で、髪は黒く短い。その三白眼からは生気らしきものを感じられない。覇気がなさそうと言うべきか。年齢は三十代くらいだろう。
「目撃情報を寄せ集めて描かせた似顔絵だが、概ね信用していいだろう。名はユルゲン・エグナー。ヴェーデル子爵の甥っ子で、早くに親を亡くしたために身元は子爵が預かっているらしい」
「『子爵に連なる者』って、思いっきり身内じゃないか。なんでそんな奴がサレイユで窃盗したのさ」
ベッドに俯せに寝転がっているカイがそう問うと、アスールは椅子の背もたれに身体を預ける。
「これがどうにも困った男のようでな。領地に貢献もせず、子爵家の金で遊びほうけていたという。ついに堪忍袋の緒が切れて、子爵はユルゲンの性根を叩き直すために外へ放り出したということだ」
商人として名を馳せるヴェーデル子爵だから金には余裕があるだろうに、商人だからこそ金に厳しいらしい。子爵には跡継ぎになる子どもたちが十分にいるから適度に放任していたのだろうが、それにしても目に余る体たらくだったのだろう。世間の荒波に揉まれて社会勉強をしてこいと言ったところか。
そして当てもなくサレイユに流れ着いたところで財産が尽き、困ったあげくに監察府に侵入した――という経緯のようだった。
「ユルゲンもまずいものを持ち出したと分かっている。同時に、それは大きな武器になるとも気付いているはずだ。ま、彼としては伯父に頼るしかないと言ったところかな」
ミュラトール家の密約文書を手に入れたヴェーデル子爵がどういう態度を取るかは分からない。それを武器にしてサレイユ王家を脅すかもしれないし、「ユルゲンという男など知らない」と表面的にはしらを切ってサレイユに恩を売るかもしれない。ただ、罪を犯した甥を素直に引き渡して謝罪するといった穏便な行動は期待できないし、そうでなくともミュラトールからすれば後ろ暗いところしかないのだ。だから、ユルゲンがヴェーデル子爵領に入る前に確保する。幸いローダインは誰の支配下にもない自治領。リーゼロッテの法もサレイユの法も通用しない。捕えるには最適な場所なのだ。
その後アスールから大まかな捕獲作戦を聞いた。本当に大まかなもので、「船から降りた犯人を追跡し、声をかける」という程度のものだ。イリーネは正直こういった作戦行動が苦手だが、戦いの専門家が三人もいるのである。大過なく犯人を捕獲できるだろう。
船が到着する時間は分かっている。停泊する場所もだ。ただ、船の降り口が二か所あるから、二手に分かれて張り込む。一方はイリーネとチェリン、一方はアスールとカイだ。こうすることで、契約主が動けば化身族はそれを知ることができるという仕組みだ。それだけ決めて、今日は早めに食事を摂って休むことにしたのである。
夕食は再び市場に出て、適当な店に入った。ビュッフェ形式の食事処で、大陸各国の料理はもとより、異大陸の料理も豊富に取り揃えられている。一か国の専門料理店に入るよりずっとお得な感じがして、適当とはいえ当たりを引いた気分だ。
「イリーネ」
アスールが食卓でイリーネに改まって声をかけてきたのは、食事が終わって、カイとチェリンがデザートの調達に席を立っているときだった。
昼間結構な量を食べ歩きした気がするのだが、曰く「身体の維持に必要な食料が人間より多い」という化身族のふたりは、まだまだ胃に容量があるらしい。イリーネとアスールは王族として腹八分目を心がけて常に食事をするのだが、彼らにしてみれば食べられるときに食べられるだけ食べるというのが常識だそうだ。
カイとチェリンがいないのを見計らって、アスールは口を開いたのだろう。イリーネは口に運びかけていた水のコップを、思わずテーブルに戻した。
「なんですか?」
「あとで分かることだが、君には先に言っておこうと思って。……私は自分がダグラスより後に生まれたということを公にして、王族から籍を外すつもりだ」
「え……!?」
予想もしていなかった話に、イリーネは言葉を失った。なんと続けたらいいのか分からない。だが当のアスールはさっぱりとした表情だ。
「これからは騎士隊長として軍事に専念するよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。そんな急に……ダグラスのほうが兄であると公表することと、王族から除籍することがどうして結びつくんですか? たとえ第一王子でなくても、アスールはメイナードお兄様を討って……騒動を収めた功労者なのに」
メイナードを討ったという言葉に複雑な感情がこもってしまったのは、イリーネとしては仕方のないことだった。
メイナードのことだけではない。アスールはローディオン家の後ろ盾のもと、武官派から王にと熱望されていたのだ。その信頼を今更裏切ることなど、彼の気性からしてできないはずなのに。
「うん……まあ、それとは別問題でな。私がこれまで多数の化身族を手にかけてきたことが、宮廷内で知られることになってしまった。自分たちが刺客を差し向けていたのだから、何を今さら白々しい……と思わないでもないが」
「そうですよ! アスールが責任を取ることなんて……!」
「……いや、違うのだ。私もな、かつて自分から文官派に対し攻勢に出たことがある。どのみち夜陰に紛れヒト殺しを重ねたのは事実。どこかで責任を取らねばならん」
アスールはいっそ穏やかだった。それを見てイリーネは思う――他人に対して容赦のないようでいて、暗殺者の命を奪ったことでさえ、アスールは心を痛めてきたのだと。
「いい加減、王位争いにも決着をつけなければならないからな。いつまでも国内で揉めているわけにはいかない。私が国を離れている間のダグラスの政治手腕は、文句のつけようもないほどに見事だった。私の祖父も、彼の王者としての資質を認めている。彼は既にサレイユ国内の貴族のご令嬢と結婚が決まっているし、将来も安泰だ」
それを聞いた時点で、イリーネはアスールの言いたいことを察した。だが、自分から口には出せずに沈黙を守る。
ひとつ息を吐いて、アスールはイリーネをしっかり見据えた。
「私もダグラスを守る剣くらいにはなれるだろう。そのようにして、私は彼を支えていきたい」
「アスール……汚れ仕事を、全部引き受けるつもり?」
「やることは以前までと何も変わりないよ。……だが、君の手を取るためには、この汚れた手は相応しくない。私の業に、イリーネを巻き込みたくないのだ」
だから、婚約破棄をしよう。
アスールはそう言った。――そう言われたのに、イリーネはショックではなかった。「ああ、やっぱり」と納得しただけ。その時イリーネは、自分がアスールを男性として意識したことがなかったのだという事実を、突きつけられたのだ。
元々親同士が、両国の友好のためにと結んだ婚約だ。「結婚」という言葉の意味もよく分からなかったくらいのころに、イリーネはアスールと結婚する将来が決定していた。そのことに疑問を感じたこともない。当然だと思っていた。アスールのことは好きだったから、一緒にいられるのは嬉しいという程度にしか思っていなかった――幼馴染としては。
少しでも、ほんの少しでもアスールを男性として慕う気持ちがイリーネにあったなら。アスールの業を分けてもらいたいとか、勝手なことを言うなとか、反論はいくらでもできた。こんなにばっさりとフラれたのに、イリーネの心は傷ついていない。
アスールがイリーネのことをどう思ってくれているかは知らない。軍人として生きたいという気持ちも本心だろう。だが、それだけではない。アスールではない別の誰か――具体的に名こそあげないが――と一緒になるほうが、イリーネは幸せだろうと考えてくれているのも、間違いない。
だから、考え直せとは言えなかった。アスールの中で、この話は決定事項のようだったから。また、反論する言葉をイリーネは持たなかった。――持てなかったのだ。
「……アスール、ありがとう。今まで、ずっと」
何とかその言葉だけ絞り出すと、アスールは優しく微笑む。
「なんだね、改まって。私たちは幼馴染で、義理の兄妹も同然ではないか。この関係は、何も変わらないよ」
「そう……そうですよね。良かった。じゃあ、これからもよろしく、ですね」
「ああ、こちらこそ」
そうだ、何も変わらないのだ。アスールとぎこちなくなったり、会えなくなったりするわけではない。恐れていたそれを明確に否定してくれて、イリーネはほっと微笑む。
その時、カイとチェリンが席に戻ってきた。二人が持っている皿の上には、たくさんの種類のデザートが乗っている。チェリンはだいぶ気分が高揚しているようだ。
「見てよイリーネ、綺麗なお菓子じゃない? こんなのが食べ放題だなんて、嬉しいわよねぇ」
「本当ですね、美味しそう!」
「種類豊富だけど、一口大だから全制覇行けるかもしれないわね……!」
甘いものに目がないチェリンがはしゃぐ隣に座ったカイに、ちらりとイリーネは視線を向ける。アスールとの話を、カイは聞いていただろうか。聴覚に優れるカイだが、聞こうと思わない限り話の判別はできないと言っていた。さっきは、どうだったのだろう。
昼間陽気な異国の商人に試食させられたアルメンを口に入れたカイは、酸っぱさに顔をしかめている。だが、イリーネに見られていることに気付いて、フォークをくわえたまま首を傾げた。
「どうかした?」
「あ……いえ、なんでもないです。美味しいですか、それ?」
「酸っぱいけど、俺は好きだなぁ」
その答えにイリーネは微笑んで、アスールを振り返る。
「アスール、やっぱりデザート取りに行きません?」
「おや、さっきは太るからどうとか言っていたではないか」
「いいんです、明日から運動しますから!」
他人の食べているものは、なんでも美味しく見えるのだ。苦笑しながらアスールは立ち上がったが、なんだかんだ自分だって食べたくなったのだろう。
席から離れる際、アスールが軽くカイの肩を叩いたことにイリーネは気付かなかった。肩を叩かれたカイが苦虫を噛み潰したような表情を見せたことも、当然視界に入らなかったのであった。