◇夏の匂いを風に乗せて(5)
突如下町の宿屋で始まった化身族同士の戦いに、付近に居合わせた住民たちは大騒ぎだ。野次馬が一目デュエルを見ようと宿へ向かっていく流れに逆らって、イリーネたちは路地を駆けていく。
「もうっ、こっちはお忍びだっていうのに、めちゃくちゃ目立ってるじゃない。何考えてんのよ」
最後尾を走るチェリンがそう悪態を吐くが、派手に立ち回るカイとカヅキのほうが目立っていて、お忍びの神姫一行に気付く者は誰もいなかった。カヅキという男の生真面目さを知っているイリーネとアスールにしてみれば、苦笑いして諦めるしかない。カヅキは基本的に柔軟な思考の持ち主だし、臨機応変に行動することもできれば、冗談も通じる。ただしカーシェルの指示を受けているときはその限りではないのだ。
「まあ……戦いには本気かもしれないが、我々を追いかけてはこないだろうよ。このまま馬車乗り場へ行こう。適当に切り上げて、カイも追いついてくるはずだ」
アスールがそう言った途端、すぐ傍の街路樹の葉がガサガサと揺れた。驚いて振り返ると、街路樹からヒトが飛び降りた。言うまでもなくカイだ。髪の毛に絡んだ葉を払い落として、カイはこちらに歩み寄ってくる。そして一言。
「追いついたよ」
「追いついたというか、追い越したくらいの勢いだな。獣軍将は?」
「撒いてきた。もう大丈夫だと思うけど、さっさとここから離れよう」
そう促すカイは心底うんざりした表情だ。この短い時間で、カヅキとの間でどんなやり取りがあったのだろう。まさかカヅキを相手にうっかり本気になってしまった自分にカイが憮然としていたことなど、イリーネは想像できない。
神都の南門から伸びる街道を延々と進んだ先に、自由都市ローダインはある。道も整備され、街道沿いには街があり、馬車も定期的に往復する、交通の便の良い場所だ。他の旅客と乗合になる一般の馬車でも気分的にはまったく構わなかったのだが、イリーネもアスールもお忍びの身だ。日数も限られていることだし、今回は馬車を一台貸し切ることにした。値は張るが目的地まで寄り道なしで向かってくれるし、他人に気を遣わなくて良いのは嬉しいことだ。チェリンが交渉に立ってくれて、ヒトの良さそうな中年の御者と、彼が操る二頭の馬がローダインまで連れて行ってくれることになった。
「それじゃ出発しますよ。途中休憩のために何度か停まりますけど、他に何かあったら遠慮なく声をかけてください」
「よろしく頼みます」
アスールがそう挨拶すると、御者は馬を走らせはじめた。出だしは静かに、神都の城門を越えてからは速度を上げ、軽快に馬車は進む。
馬車は四人乗りだ。進行方向を向いてイリーネとチェリンが並んで座り、対面してカイとアスールが座る。足を伸ばせるほど広くはないが、程よい狭さがイリーネには心地良い。雨風も完全に防げるし、何より楽だ。自分の足であちこち見て歩くのも好きだが、たまにはこうして馬車の旅も乙なものである。
道中の話は、殆どが互いの近況報告だ。主にアスールとチェリンの話を、イリーネとカイが聞いているという形である。アスールたちはカーシェルを通じてこちらの状況を把握していたが、イリーネは教会に缶詰め状態で、まったくアスールらの状況を知ることができずにいたのだ。
「半年間一度も会いに来れずにすまなかったな。何度も機を伺っていたのだが、結局今日まで叶わなかった」
「いえ、いいんですよ。サレイユも大変でしょう?」
ただでさえ後継人争いでサレイユは揉めていたのだ。いまだにアスールとダグラスのどちらが王になるのか分からない状況だったのに、国王オーギュストを失ってしまった。サレイユの王室は混迷を極めているはずだ。むしろ、よく今回アスールは国を離れることができたと驚くほどである。
だが、アスールはほろ苦く微笑む。
「まあ、大変は大変だがな。ミュラトールとローディオンが双方ともに協力してくれているから、そこまで混乱はしておらぬ。それに以前から、私もダグラスも父の代理として動いてきた。やることは変わらないさ」
王位継承の闘争はあとに回して、まずは国家再建のために両家は手を取り合っているのだ。常識的な判断で、イリーネはほっとする。思えば、アスールとダグラスの血の繋がった祖父たちなのだ。それにあの強いソレンヌもいることだし、何かあれば彼女が一喝してくれるだろう。王を失ったくらいで、サレイユの政府は揺らがない。
「サレイユに戻ったばかりの時は報告書やらなんやらに忙殺されていたが、そこそこ落ち着いてきた。最近は各国の軍隊と連携を取って、【獅子帝フロンツェ】の行方を捜している」
「【獅子帝】の……何か手がかりはありましたか?」
「うむ……それがさっぱりだ。目撃情報も出ないし、シャルマとカリナに聞いても行く先の心当たりはないそうでな。イル=ジナ女王も協力してくれているのだが、成果はない。故郷だからとケクラコクマに目星を付けたのは失敗だったかな」
【獅子帝】捜索の中心になっているのはアスールだ。この半年、世界各国の首脳の協力を仰いで、しらみつぶしにフロンツェを探しているのだという。だがそれでも見つからず、目撃情報すら出ない――フロンツェはどこに消えてしまったのだろう。
「【獅子帝】捜索を理由にして、こいつったらブランシャール城塞に入り浸ってるのよ」
チェリンが呆れたようにそう暴露すると、悪びれもせずにアスールは笑う。
「ケクラコクマと連携を取るには最高の場所ではないか」
「それはそうかもしれないけど、あんたに用があってわざわざ王都から派遣される使者のヒトが不憫じゃない。たまには帰ってやりなさいよ」
「おや。グレイアースからブランシャールに居を移したとき、『こっちのほうが落ちつく』と言っていたのは誰だったかな」
「う……そりゃ、煌びやかな王都の生活はあたしの性じゃなかったけど……」
そのやり取りを聞いたカイが、窓枠に頬杖をついて対面のアスールを見やった。
「なに、またダグラスから逃げてるの?」
「誤解を生むようなことを言うのはよせ。私とダグラスとでは立つべき舞台が異なるだけだ。宮廷はダグラス、戦場は私。ただその役割を忠実にこなしているに過ぎぬ」
「物は言いようだねぇ」
「お前はヒトのことを言えるのか。カーシェルから聞いたぞ、古語の翻訳をしているそうだな? なんだその楽しそうな作業は。一向に成果の上がらぬ【獅子帝】捜索などやっていられるか、私にも手伝わせろ」
「アスール、アスール、論点がずれてますよ」
うっかり本音を口にしてしまったアスールを、イリーネは苦笑交じりに宥める。同じく笑ってしまったチェリンは、視線をイリーネへと向けた。
「……でも、元気そうで安心したわ。なんだか心配だったの。こんなに長く離れたの初めてだったから……元気だって話は聞いても、やっぱり自分の目で確かめないと安心できなくて」
「チェリン……」
「あたしね、何度か神都まで行ったのよ。急に教会に行っても会えるわけないって、アスールにも言われたんだけど、ちらっとでもいいから姿を見られないかなって。……ま、結果はお察しなんだけど」
チェリンはひとりで、サレイユから会いに来てくれていたのだ。アスールの使いでもなんでもなく、ただの友人として。化身族であるチェリンが、いまこのような状況でイリーネに会うことなどできない。会えたとしても、それはイリーネの立場を揺らがせるだけ。それが分かっていたから、彼女はカーシェルにも頼らなかったのだ。そうやってずっと案じてくれていたことに、イリーネは胸がいっぱいになる。
「ありがとう、チェリン……私もずっと、チェリンに会いたかったんです。本当は、教会を飛び出してしまいたかった」
「ふふ、もう飛び出しちゃったじゃない」
「そうですね。不謹慎かもしれないですけど、とてもわくわくしています」
せっかくみなが尽力してつくり出してくれた時間だ。今だけはすべてを忘れて、目一杯楽しみたい。そうすればきっと、このあとも続く神姫としての務めにも身が入ると思うのだ。
やんごとない事情を抱えた四人を乗せて、馬車は街道を進む。神都の民で、イリーネの顔を知らぬ者はそういない――ヒトの良い御者は何も知らないふりをして、神姫のお忍びにこっそり手を貸してくれたのだった。
★☆
リーゼロッテ神国最南部、海沿いにある領地はふたつ。クラウスナー男爵領と、スフォルステン子爵領だ。そのふたつの領地の境目に、自由都市ローダインがある。
丸二日ほど世話になった馬車から降りてイリーネが最初に感じたのは、潮風だった。ケクラコクマの王都ケクランも海に近かったが、それよりも潮の匂いが強い。そして目に飛び込んできたのは、活気あふれる港町の市場だ。
「わあ……!」
夏の日差しが燦々と降り注ぎ、真っ白な海鳥が青い空を舞う。祭りでもなんでもないのにヒトがごったがえす市場には、ケクラコクマ人もイーヴァン人も隔てなく存在を許され、中には異なる大陸からはるばる海を越えてきた商人たちの姿もあった。そうした人々が商品として扱っているのは、見たことのない衣服や装飾品、食べるのも少し勇気が要るような見た目の食材など、珍しいものが多い。
領主が存在せず、ローダインという街そのものに自治権を与えられた自由都市。政は商人の中から選出された人々によって行われる。神都から派遣された役人も、教会兵もいない。国に治める税も存在せず、商人同士が価格闘争を繰り広げ、得と儲けだけを追求する場所。それだけに活気が溢れ、商人たちは見苦しいほど商売に必死になるのだ。
「イリーネはこの街、初めてなの?」
続けて馬車を下りてきたカイが、そう尋ねる。イリーネは振り返って頷いた。
「はい。一度来てみたかったんです! 普段、船に乗るときはスフォルステン領の港を使っていたので」
「ここは貴族どころか、王家の支配すら及ばぬ街だ。リーゼロッテ国内にありながら、リーゼロッテではない。王家の者が立ち寄るには、少々敷居が高いのだ」
アスールがそう説明しつつ、目の上に手をかざして日差しを遮る。
「まあ、とはいえ貴族などはお忍びでよく訪れるようだがな。骨董やら絨毯やら、貴族のお眼鏡に適うような異国の珍品が溢れかえっている。そういうのを集めるのが趣味だという者も、案外多いのでな」
「物好きだなぁ……ああ、夏の太陽が痛い……」
既にカイはじっとりと汗をかいている。初夏といえど南国のリーゼロッテの暑さは厳しい。雪豹のカイには、どこもかしこも灼熱地獄だ。加えてこの人混みのせいで、熱気がこもっている。
同じ環境下で育ったのにチェリンが堪えていないのは、やはり種差なのだろうか。四人入ればさすがに狭かった馬車から解放されて、チェリンは大きく伸びをする。
「犯人の乗った船の到着は明日だそうよ。このあとどうする……って、イリーネはいまにも市場に突撃しちゃいそうね」
「す、すみません、楽しそうで……」
少々赤面してイリーネは俯く。世話になった御者に代金を支払ってきたアスールが、苦笑しつつ提案した。
「まだ日も高い、休むには勿体なかろう。街を見て回ろうか」
「はい、そうしましょう!」
イリーネは上機嫌で、市場へ向けて歩き出す。後ろでカイたちが顔を見合わせて微笑んでいたことなど、イリーネは気付かない。淑やかで荘厳な趣の神都で生まれ育った身からすると、ローダインの賑わいは魅力的すぎる。異国の商品を見るだけでも楽しいし、美味しいものが食べられたらとても嬉しい。そこにカイとアスールとチェリンが一緒にいるなら、これ以上の幸せはない。
なだらかな傾斜のある下り坂の両端に、ずらりと露店が並んでいる。ローダインのメインストリートで、内陸部から沿岸部へと下っていく長い坂だ。店の前では商人による叩き売り、客による値引き交渉が激しく繰り広げられ、とある一角では店先から商品をくすねた少年に説教をする店主の姿が見て取れた。人々の間で交わされる言葉も、どこか遠くの方で奏でられている音楽も、イリーネには聞き覚えのないものが混じっている。
坂道の頂上、市場の入り口に立ったイリーネの髪の毛を、強い海風が攫って行く。束の間閉じた目を開けると、眼下には賑わう市場、そしてその奥に青く煌めく海が見えた。漁船のような小型の船や、サレイユやイーヴァン、さらには別の大陸まで航行するような大型客船が、港に多く停泊している。沖合のほうにある帆を張った船は、どうやら出航したばかりのようだ。
海は見慣れている。イーヴァンで海を見た時は記憶を失っていたから、海を見るのは初めてだと思っていたが、実は結構海は見ていた。サレイユに行くときには海路が常だったし、スフォルステン子爵の領地は海沿いの地域なのだ。だから今更海に感動することもないのだが、このときイリーネは感動していた。こんなにも栄えた港町は初めてなのだ。今までなんとも思っていなかった海も、多くの異国人を見れば、この海の向こうに彼らが暮らす見知らぬ土地があるのだと実感できる。どんな国で、どんな生活をしているのだろう。市場に並ぶ商品を見ながら、イリーネはそんなことに思いを馳せた。
「おっ、キレーなお姉サンたち! チョっと味見していかないカ。アルメンって名前の南国フルーツなンだ。今が旬なンだゼ」
通りかかった露店の前で、イリーネとチェリンがそう引き留められる。浅黒い肌を持つ商人の男性は一見するとケクラコクマ人のように見えたが、言葉が少々ぎこちない。きっとこの大陸のヒトではなくて、ローダインで商売するために必死で言葉を覚えたヒトだ。
差し出された皿の上に乗っていたのは、見たことがないほど真っ赤な果肉のフルーツだった。匂いや形は柑橘類に似ている。毒々しい色にも見えるが、イリーネは恐れずにそれを口に入れた。「勇気あるわね」と言いつつ、チェリンも同じようにする。そして、二人そろって悶絶したのである。
「す、酸っぱい……!」
「あっはは、そうダろ、酸っぱいダろ? デも、これが美味いンだ」
どうやらこの商人は、試食を食べた客が酸味に顔をしかめるのを見るのが楽しみらしい。彼の故郷では広く好まれる一般的なフルーツで、リーゼロッテ国内でもこの酸味の強さが癖になると買い求める者が多いそうだ。生鮮品ゆえに日持ちしないから、ローダインの他で手に入れることはできないという。そんなこと、教会で暮らしていたイリーネは当然知らなかった。
得体の知れないものを口にすることを真っ先に咎めただろうアスールとカイは、その隣の店の店主につかまっていて口出しできないでいた。
「若いの、お前さんは相当な剣の使い手と見た。そんな銘もない剣では役不足だろう。どうだ、うちの剣を見ていかないか。この片刃の剣は一級品だぞ。よく斬れるし、折れにくいんだ」
かなり細身で反りのある剣を差し出されて、思わずアスールはそれを受け取った。僅かに鞘走らせると、まるで鏡のように磨き抜かれた銀色の刀身が露わになる。だがすぐにそれを納めて、アスールは剣を返す。
「申し訳ないが、今はこの剣で満足しているのだ。これが折れた時に、改めて見させてもらうよ」
巧妙に商人の手から逃れたアスールに、カイが腕を組む。
「あっさり断るんだね。剣士だったら、良い得物を持つのが憧れだったりしないの?」
「カーシェルはそういうタイプだが、生憎と私は剣に愛着がなくてな。敵を斬ることができれば、何でもよい。所詮、消耗品だ」
「へえ」
「それに、あれは『良い得物』ではないぞ。おそらく偽物だ。あの形の剣は有名だから多少の知識はあるが、銘がでたらめだったからな。どうせ最初の褒め言葉も出まかせだ」
あの一瞬でそこまで見抜いていたということに、カイは閉口してしまう。単純にアスールが剣を腰に帯びていたから、商人は声をかけたのだろう。「相当な剣の使い手と見た」という台詞も、誰に対してでも言っているに違いない。アスールが真に「相当な剣の使い手」だったことと、興味がないくせに知識だけはあるということを見抜けなかった商人の負けだ。
果実の酸っぱさに悶絶している横で、贋作を売りつけられそうになったという事実に、イリーネも苦く笑ってしまう。いかに安く、いかに大量に商品を売りさばくか。それがローダインの戦いなのだろう。あの刀商も必死ということだ。
元々イリーネは物欲が薄いほうだ。世界中を旅して金銭感覚を一から学び直したことで、王女としてはおかしいくらいに倹約するようにもなっている。シビアなアスールやチェリンが一緒だし、妙なものを売りつけられはしないだろう。
「あっ、ねえ、かき氷売ってる。ほらほら」
「なぜかき氷でテンションが上がっているのだ、カイ。もっとご当地のものをだな……」
「君たちはかき氷の素晴らしさが分かっていないんだよ。世の中にこんな贅沢品があるかい? この暑いなかで氷を美味しく食べる、最高じゃないか。ただの水の塊があんなに美味しいなんて反則だよ」
「ああ、はいはい」
珍しく力説するカイを見て、アスールは早くも説得を諦めたようだ。チェリンが半分呆れたように腰に手を当てる。
「そういえばイーヴァンで初めて食べたとき、妙に気に入っていたっけ」
「そうですね。カイがあんなにはしゃぐなんて珍しい」
「イリーネも食べる? 買ってくるわよ。何味が良い?」
「ええと、それじゃあメロンで」
「アスールは?」
「ふむ……イチゴ練乳かな」
「ぷっ、似合わなさすぎ……!」
チェリンは笑いながら、カイを追ってかき氷屋へと駆けていく。買ってと駄々をこねる子どもを嗜める母親のように見えてしまうから、おかしなものだ。失笑されたアスールが首を捻って「似合わなかったかな」と呟く。それを聞いて、イリーネは声なく微笑む。アスールは昔からイチゴ練乳味のかき氷が好きだということを知っているのは、この場では幼馴染のイリーネだけなのであった。




