◆夏の匂いを風に乗せて(4)
アスールが事前に確保していたのは、下町の安宿の部屋だった。どうやら本当に、アスールとチェリンはふたりだけで来たようだ。傍にジョルジュもいないようだし、護衛もなしで身分を隠してここまで旅してきたのだろう。このふたりに限って万一のことなどないと思うが、国内でお忍び中のサレイユ王子の身に何かあったら、カーシェルはどう責任をとるつもりなのだろうか。
チェリンが調達してきたのは、薄手のシャツに品の良いショール、ロングスカートに短めのブーツという、リーゼロッテの若い娘の代表的な衣装と小物だった。これから暑くなる一方のリーゼロッテだが、ケクラコクマのように露出過度の格好はしない。あくまでも上品に、それでいて涼しい服装を追求するのが、この国のお洒落事情である。
着替え終わったイリーネはたいそう身軽になっていて、カイとしては見慣れた格好だ。重苦しそうな豪奢なドレスより、イリーネは活発な格好のほうが似合う。
「よし、これでひとまず人心地がついたな。で、これはひとつ相談なのだが」
再会の喜びもそこそこに、アスールはそう切り出した。その前置きを聞くだけで、カイはなんだか嫌な気がしてくる。厄介ごとの匂いがするのだ。
「共に、港町ローダインに行かないか?」
「ローダインって……自由都市の?」
カイが問い返すと、アスールは頷く。
貴族に国土を分配して治めさせる体制を持つリーゼロッテでは、各都市はどこかしらの領地に属すことになる。しかし土地分配の都合上、どの領地にも属さなかった領域が出てくる――そこにできあがる都市を、「自由都市」という。それらの都市は貴族の庇護を受けられない代わりに民衆による自治を認められ、他国と自由貿易を行い、商業で栄える傾向が強い。リーゼロッテ国内にありながら、リーゼロッテの体制化にはない都市、それが自由都市だ。
ローダインはそのうちのひとつである。神都カティアの南にある港町で、世界中の国々と交流のある賑やかな場所だ。カイは行ったことこそないが、話だけは知っている。客船や商船が乗り入れる大型の港としては神都から最も近い場所にあるから、世界中の旅行者や商人で溢れかえっているのだそうだ。
「今更隠しても仕方がないから言ってしまうが、カーシェルや教会から許可はもらっている。数日は神都を空けても大丈夫だよ」
「そ、そうなんですか……でも、なぜローダインへ?」
イリーネの問いはもっともだ。ローダインは比較的新しい都市だし、アスールが興味を示すような歴史的な遺物はない。各国の名産品で溢れているとはいえ、観光すべき場所もない。そんな場所に行きたがるとは、ますます怪しい。
だがアスールは、ぬけぬけと笑って見せる。
「たまには買い物に出かけるのも、楽しいものではないか」
「……」
カイだけではなく、イリーネもさすがに納得できなかったようだ。この言い分に限界を感じていたのはチェリンも同じで、彼女は苦笑してアスールを見やる。
「ごまかしてばかりだと後が怖いわよ、多分」
「……だな。単刀直入に言おう、イリーネ、カイ。力を貸してくれ」
一転してアスールは、軽くカイとイリーネに向けて頭を下げてきた。どうやらよほどお困りらしい。カイは肩をすくめて、イリーネは少し焦ったように、アスールの「相談ごと」を聞くことにしたのである。
長い話になるようなので、チェリンが四人分の茶を淹れてくれた。それを受け取って、アスールは口を開く。
「実は、少し前にサレイユで事件が起きてな。とある街の監察府に何者かが侵入し、多額の金品を盗まれてしまった」
「はあ、間抜けな話だね」
「うむ、まったくもって間抜けな話だ。エルトという街で、ミュラトール家の本領がある街なのだがな」
ミュラトールといえば、アスールの異母兄であり、はとこでもあるダグラスの出身家ではないか。文官派を束ねるミュラトール公爵が治めている街で、そんな不祥事があったのか。
「警備が甘かったというのも真実で、これだけでも由々しき事態なのだが、もっとまずいことがあった。盗難品の中には、ミュラトール家が様々な監察府や貴族と結んだ秘密の契約書の類も含まれていたのだ。それが流出するのは大変よろしくない」
「よろしくないどころじゃないと思うけどね」
「まだあるぞ。犯人と思われる男の身元を洗ってみれば、どうやらリーゼロッテのヴェーデル子爵に連なる者らしい。もし犯人がヴェーデル子爵領に入ってしまえば、国際条約の関係上サレイユは身柄の引き渡しを要求できなくなる。商魂逞しいヴェーデル子爵のことだ、ミュラトール家の密約文書など手に入れたら、こちらに圧力をかけてくるに違いない。それをどうにか防ぎたかったのだ」
防ぎたかったという過去形の意味するところは――。
「すんでのところで、リーゼロッテ行の旅客船に逃げ込まれてしまった。犯人の乗った船は、近々ローダイン港に到着する。私とチェリンは、極秘裏にその男の確保をしなければならぬのだよ」
要するにアスールは、身内の不祥事の尻拭いと事件の隠滅に来たということか。ただカーシェルに頼まれたから会いに来たというわけではないという彼の言葉は、確かなことだった。いや、むしろ犯人確保の仕事のほうが本命だったのだろう。王家の姻族となったミュラトール家の間抜けな失敗も、美しくない盟友関係を示す書類も、各国に知れ渡っては外聞に関わるのだ。事件を公にすることを、なんとしてでも食い止めねばならない。
そのためにミュラトールは、恥を忍んでローディオン家に助力を求めたのだろう。ミュラトール公爵の渋い表情と、貸しをひとつ作ったローディオン公爵のしたり顔が目に浮かぶ。
「ま、そういうわけで、元々リーゼロッテに行く予定のあった私たちが駆り出されたというわけだ」
言いながら、アスールは懐から一枚の紙を取り出した。卓上に広げられたその紙を、カイとイリーネは覗き込む。そこには狩人協会の判が押されていた。
「これは?」
「依頼書だよ」
「今回のことを協会に依頼として登録したってことですか?」
「一般には非公開だがな。せっかく私たちはパーティーを組んでいるのだから、一度くらい四人で依頼をこなしてみないか。勿論、正当な額の報酬は出るぞ」
そういえば、せっかくアスールとチェリンはハンター登録をしたというのに、イーヴァンを出てからハンターとして活動していなかった。もちろんそんなことをしている場合ではなかったのだが、少々勿体ない気もする。
アスールはそう思って、なんと本拠をイーヴァンの協会からサレイユの協会へわざわざ移したらしい。そうしてカイ・イリーネのチームと、アスール・チェリンのチームでパーティー申請し、依頼を受けてきたのだ。
用意周到なアスールだが、水臭いとも思う。報酬がなくたって、頼られればイリーネが断れるはずないのに。……カイも、ヒトのことは言えないが。
相手はひとり、カイだけでなくアスールもチェリンもいるのだ、乱闘になっても被害は出ないだろう。というか、出させない。イリーネに傷でも負わせたら、カーシェルに殺されかねないのだ。
「どうする、イリーネ? 行く?」
答えは分かりきっているが、一応尋ねてみると、イリーネは微笑んで頷いた。
「はい、行きましょう。アスールからの頼み事なんて珍しいですし」
「恩に着るよ」
「その代わり、時間が余ったらお買い物に付き合ってくださいね」
「はは、お安い御用だ。道案内でも荷物持ちでも、なんなりと」
犯人の乗った客船が港町ローダインに到着するまであまり時間がないというので、早々にカイたちは宿を引き払い、出発することにした。ローダインまでは数日の距離があるが、馬車を使えば早く移動できる。イリーネの正体がヒトにばれるのもまずいので、馬車に乗ることは即決だ。神都からは多方面へ馬車の路線が完備されているので、移動に困ることはないだろう。
まずは神都の南門付近にある馬車乗り場を目指す。――しかし、出鼻はあっけなく挫かれた。宿の扉を開けると、庭先にひとりの男が所在無げに佇んでいたのだ。思わず身構えかけたのは戦士の性であるが、カイは相手の正体を知って肩の力を抜く。驚きの声をあげたのは、カイの後ろにいたイリーネだ。
「カヅキさん……! どうしてここに?」
その男、獣軍将カヅキは、イリーネとアスールを認めて一礼した。長い軟禁生活から解放されたカヅキは、化身族としては稀有なほどの気品にあふれていた。襟元までしっかり詰めた軍の制服と、短く切りそろえた黒髪からは、生真面目そうな雰囲気が滲み出ている。
しかしカヅキは、その端麗な顔に渋い色を浮かべて口を開いた。
「神姫イリーネが教会から脱走したので連れ戻せ、とカーシェルから指示を受けたもので」
「お、お兄様が?」
「一応は、『捜索した』という体裁が必要なのだ。カーシェルも私も本意ではないゆえ、安心してほしい」
カヅキほどの大物を遣わせるカーシェルもカーシェルだが、それでほいほいやってきたカヅキも大概だ。随分と手が込んでいる。
ところで、今回のイリーネ失踪は世間的にどう扱われるのだろう? カーシェルのことだから上手く収めるのだろうが、下手をすれば教徒たちの不安を煽りかねない。そう思ってカヅキに問うと、淡々と答えが返ってきた。
「イリーネ姫は昔の脱走癖の発作が出て、教会から抜け出された。そこをサレイユのアスール王子一行に保護していただく――という筋書きだ。一般には、連日の謁見が祟って体調を崩されたという発表になる」
「それじゃイリーネひとりが悪いことになるじゃないか。もうちょっとほら、俺が連れ出したとか」
「そんな理由にしたら、お前は打ち首だぞ」
それはそうだが、イリーネを連れ出したのは確かにカイなのに。イリーネだけがあとで叱られて、カイがお咎めなしというのは、なんだか納得いかない。
と、アスールが苦笑した。
「心配いらぬよ、カイ。イリーネに少し休んでもらいたいと、誰もが思っているのだ。今回のことをカーシェルが提案したとき、教会幹部は喜んで協力してくれたというからな」
「なら良いんだけど……でも『病気』で片付くってことは、イリーネ、結構最近までしょっちゅう脱走してたってことだよね」
「あ、えっと、ふふふ……」
笑ってイリーネがごまかす。淑女になったと思っていたが、案外変わっていないのかもしれない。お忍びをするお姫様だなんて、お約束すぎる。
「とりあえず行く先だけ把握しておきたい。いずこへ行かれる?」
「港町ローダインです」
「承知した。首脳会議までに戻っていただくようお願いする」
随分と物分かりの良いカヅキが少々意外だったのだが、それがカーシェルの考えということなのだろう。行き先だけ把握しておけば、義兄としては安心ということか。
で、カヅキはその使いっぱしりにされたということだ。
「珍しく振り回されてるね、カヅキ」
「うむ……ここまで気乗りしない任務も、初めてだ」
「ほんとお役所って大変だな。じゃ、俺たちはこれで……」
「待て」
早々に歩き出そうとしたカイを、カヅキが引き止めた。
「気乗りはしないが、任務は任務。目の前にイリーネ姫がおられるのに、黙って見過ごすわけにはいかぬ」
「は? いや、ちょっと」
「体裁作りに、ご協力いただきたい」
とてつもなく嫌な予感がする。カヅキが醸し出す妙な緊張感を敏感に察して、のんびりと構えていたアスールも慌てて剣を掴んだ。チェリンがイリーネの手を引いて後ろに下がらせる。
カヅキの身体が光り、輪郭を失う。それは化身時に放たれる微量な魔力だ。つまり魔術を使うことのできない化身族であっても多少なり魔力は持っているということだが、今はそんなことを再確認している場合ではない。
そこにいたのは、艶やかな黒毛の巨大な狼。故郷フィリードの戦士ファビオとは同じ種族だが、比べ物にならないほどの貫録と威圧感。トライブ・【ウルフ】で最強を冠する男、【迅風のカヅキ】。
メイナードとの戦闘では契約具を奪われたせいで封じられた、カヅキの本来の姿だ。
カイがその狼の姿を見ることができたのはほんの一瞬だった。化身した直後、カヅキは得意の奥義“真空乃太刀”を放ってきたのだ。
後ろにいるイリーネとチェリンが、突風に驚いて声をあげる。カイは“凍てつきし盾”を構築し、殺人的な鎌鼬を防いだ。――だが、カイの氷壁はカヅキの前にはいつもの強度を発揮できない。カイが己の意思で氷を硬化させられるように、カヅキもまた風の刃をいくらでも研ぎ澄ませられる。その矛盾がぶつかったとき、勝利するのは先に攻めた側だ。
カイの氷壁が両断され、地に崩れ落ちる。挨拶の一撃ではあったが、カイの肝を冷えさせるには十分だった。一撃しか防げないカイの氷壁――もしカヅキが鎌鼬を連発してきたら、防ぎきれない。生身でも魔術を扱えるカヅキだ。魔力量はカイと大差ない。
「真面目すぎるのも困ったもんだよ……!」
舌打ちしつつ、カイは背後にいるアスールに指示を出す。
「アスール、走れ!」
「了解」
短く答えて、アスールはイリーネとチェリンを連れてカヅキの傍を駆け抜け、宿の敷地から抜け出した。追いすがろうとしたカヅキの行く手を、氷壁で遮る。カヅキが足を止めた瞬間を見計らって、カイは化身しながら飛び掛かった。
カヅキはイリーネを本気で連れ戻そうとはしていない。手加減するはずだし、隙を見てカイが逃亡しても追いかけてはこないはずだ。
――と踏んでいたのだが、どうやらそれは甘かったらしい。どこまでも真面目なカヅキは「体裁を作る」という任務に忠実で、化身族であるからには闘争の本能からは逃れられない。戦うからには全力なのだ。
飛び掛かったカイの爪は、あっさりと回避される。すかさず反撃の一撃が襲ってきたが、予想の範疇内だ。今度は余裕を持って構築できた氷壁がカヅキの攻撃を防いでくれる。速さでは敵わないが、魔術の扱いだけなら負けるつもりはない。
けれども、カヅキに速さで勝てないと、こちらの攻撃を当てるのが至難の業だ。ニキータをも苦しめた速さの持ち主の真価を、カイもまた実感した。
(負ける……!)
メイナードやフロンツェと相対したときには感じなかった恐怖。アスールやチェリンを先に行かせたせいもあるが、純粋にカヅキに力及ばないことをカイは悟った。イリーネを誘拐しかけたという罪のせいで賞金額が跳ね上がったカイだけれども、それがなければ今もまだ無名のままだったのではないか。柄にもなく自信がなくなるほど、カヅキの力は圧倒的だ。攻撃が一度も当たらないという苛立ちが、こんなにも心をへし折る。
カイの牙も爪も躱される。数打てば当たると思って礫を投じても当たらない。いつ発動させているのか、遠近感を狂わせる“朧月”のせいで照準が合わないのだと気付いたが、だからといって成すすべもない。幻影だと気付いて一歩深く踏み込んでみれば、それよりさらに一歩奥にカヅキはいるのだ。二重にも三重にも仕掛けられた幻影に、気が狂いそうである。
カヅキと一対一で戦って圧倒していたメイナードのことが、今になって恐ろしくなってきた。
そこで、はたとカイは思い出す――。
(……なんで、まともにカヅキと戦おうとしているんだ、俺は)
カイの目的はカヅキと白黒つけることではない。適当にあしらって逃げればいいのに、なぜカイまで全力になっているのか。戦士としての性に突き動かされかけていたことに気付いて、カイは自分自身に舌打ちする。そして、気付いてからは行動が早かった。
カヅキに飛び掛かると見せかけて、カイは“凍てつきし息吹”を放った。強力な冷気が弾ける。カヅキもさすがに動きを止め、そして顔を上げた時――カイの姿はどこにもない。
冷気の爆風を利用して大きく跳躍し、カイはその場を逃れていたのである。