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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
8章 【嵐の前夜】
171/202

◇夏の匂いを風に乗せて(3)

 世界三大聖堂のひとつであり、女神教教会の総本山である、神都カティアの大聖堂。市街地から少し外れた郊外にあるにも関わらず、敬虔な信者たちは毎日朝早くから礼拝に訪れる。そうした光景は、幼いころからイリーネが目にしてきたものだ。


 教会の象徴である神姫としてのイリーネの仕事は、とても単純だ。謁見を望む信者と会い、言葉を交わし、微笑む。ただそれだけだ。政治的な権力を持たない神姫は、書類作業や交渉といった事務的な仕事を請け負わない。そうしたことは事実上の最高権力者である教皇がやることであって、イリーネの義務ではない。イリーネは、ただ機嫌よく椅子に座っていればいいのだ。

 ただでさえ、神姫に目通りを望む信者は多い。神都の民だけでなく、世界中から信者がやってくるのだ。イリーネが一日に会える人数は限られているから、長い時では一年二年と平気で順番待ちになるらしい。それを知った時には、そこまでして自分に会いに来る信者たちの気がしれないと、本気で首を捻ったものだ。けれども長いこと待たされておきながら、イリーネに会った者たちは感激して礼を言い、時には涙を流す。信者が泣きだしても、たとえ腰を抜かしても、神姫は手を貸してはいけない。誰か一人を特別扱いすることは、職務上許されない。だからイリーネは信者が落ちつくのを待つしかなくて、時には教会兵に連れられて退室していくのを見送ることしかできない。その光景だけは、不思議すぎてまだ慣れることができないでいた。


 メイナードが引き起こした騒動が集結して以降は、どっと謁見を望む信者が増えた。おかげでイリーネは教会に缶詰め状態で、私室と謁見室を行き来するだけの毎日を余儀なくされていた。元々身体を動かすのが好きなイリーネとしては、座ってばかりいて身体が固まって仕方がない。笑みを浮かべ続けるのも疲れて、ここ数日はすっかり気が滅入っている。お付きの女神官たちがそれを感じ取って、イリーネの好物を食事に出してくれたり、気分の落ち着く香を焚いてくれたりするのだが、正直あまり効果はない。


 それでも、この日のイリーネは上機嫌だった。カーシェルと会う約束があるからだ。王太子であり義兄でもあるカーシェルだが、彼と会うにもだいぶ前から時間を調整しなければならない。イリーネはこの日を楽しみにしてきたのだ。

 午前の謁見も終えて、イリーネが教会内の個室へ赴くと、室内には既にカーシェルがいた。実にひと月ぶり以上の再会だ。女神官たちが退室したのを見計らって、イリーネはカーシェルの元へと駆け寄った。


「お兄様!」

「イリーネ、久しぶりだな。変わりはないか?」

「はい。お兄様も、お元気そうで良かった」


 面会できる時間は限られている。事前にカーシェルに話したいこと、聞きたいことは用意してあった。その殆どが、カイやアスールたち仲間の現状についての話題だ。みな元気にしているか、何をしているのか。教会から出られないイリーネは、それが気になって仕方がないのだ。カーシェルもそれが分かっているからか、色々とみなの情報を仕入れてきてくれていた。特にカイと会う機会が多いようで、事細かにカイの情報を教えてくれる。剣の稽古を一緒にしたのだとか、古語資料の解読を頼んでいるのだとかを聞けば、渋々付き合っているカイの表情がありありと想像できた。 


 ひとしきり義兄との会話を楽しんでいると、時間などあっという間に過ぎてしまう。もうすぐ女神官が呼びに来てしまうだろうかとイリーネが時計を見た時、急にカーシェルは話題を転じてきた。


「少し疲れた顔だな。大丈夫か?」

「えっ……? あ、違うんです。お兄様とのお話に疲れているんじゃないですよ。ずっと楽しみにしていて」

「分かっているよ、ありがとう。……イリーネはもう昔のように、脱走はしないようだな?」

「しないですよ、子どもじゃないんだから」

「はは、そうか。少し嫌な課題が出されると、すぐハインリッヒ先生から逃げたからな、お前は」


 思い出させないでほしいことを、兄はぺらぺらと話し出す。あの時の自分を思い返すと、顔から火が出るほど恥ずかしい。確かにカーシェルの言う通り、イリーネには脱走癖があった。外にふらふら遊びに行きたくなって、その度に離宮の中で大騒動になるのだ。カーシェルやアスール、エレノア、家庭教師だったハインリッヒ、そして犬の振りをしていたカイに、どれだけ迷惑をかけただろうか。


「――明日の午後二時に」

「は、はい?」


 カーシェルが口に出した日時に、イリーネの意識は現実へ引き戻される。カーシェルはもう先程までの笑みは浮かべていない。真剣な表情だ。


「教会から王城へ抜ける裏道の警備が手薄になる(・・・・・)

「……?」

「城内の西階段付近を巡回している兵士は、そのときちょうど(・・・・)持ち場を離れるらしい」

「あの……」

「地下の第三書庫で、カイは作業をしてくれている。俺もその時間にはそこにいる予定だ」


 カーシェルが何を言わんとしているのかを悟って、イリーネは大きく目を見開く。カーシェルはそのまま言葉をつづけた。


「イリーネ。お前が神姫として過ごす時間は、残り一年を切った。お前のあとはしばし空位が続くが、次代の神姫も決定したことだし、教会から解放される日も近い」


 イリーネたちの叔母、つまり国王であったライオネルの末の妹のもとに、数年前女児が誕生した。病気もなくすくすく成長したその娘は、先ごろになって次の神姫として指名されたのである。神姫とは、未婚の王族の娘が就く役職。いずれ嫁ぐ先が決まっているイリーネは、その役を辞さねばならない。従妹がもう少し成長するまで神姫は空位となるが、それも仕方のないこと。以前には、候補となる娘がいないまま、信者たちは不安な日々を過ごしたこともあるという。それに比べれば、幼いとはいえ候補者が決定したのだ。人々は安心して、未来の神姫の成長を見守ることができるだろう。


「神姫でなくなれば、すぐにでもイリーネはアスールのもとへ嫁ぐことになるな」

「……そう、ですね」

「俺はな、イリーネ。お前を政治の道具にしたくないんだ。ずっと昔からそう思っていた。イリーネとアスールの結婚を、リーゼロッテとサレイユの同盟強化というだけのものにしたくない」


 優しくて力強いカーシェルの言葉。なんて魅力的な言葉だろう。だが、それが許される立場ではないことを、彼も分かっているはずなのに。王族の娘の婚姻は、すべて政治的な意味を持つ。本当は政治の道具でしかないのに。


「リーゼロッテ王家のことなど忘れてしまえ。良いんだよ。お前たちの婚姻を決めたのは、父上とオーギュスト様だ。……もうどちらもいない。お前たちも大人になった。自分の未来は、自分で決めろ」


 自分で決めろなどという言葉をカーシェルの口から聞いたのは、初めてだったかもしれない。カーシェルは骨の髄まで、リーゼロッテ王家の男児としての教育を叩きこまれているのだ。本人は生涯を国のために尽くすつもりで、そのためにどうしようもないことがあっても、黙って受け入れてきた。理不尽なイリーネの生活を変えようと努力しながらも、「少しだけ我慢してくれ」と辛抱を求めることもあった。アスールとの結婚も、カーシェルは祝福していた。三人で家族になれるのだと喜ぶだけで、そこに恋愛感情など求めてこなかった。

 それなのに、再会してからのカーシェルは少し考えを変えたらしい。与えられた役割を果たすだけだった以前とは違い、自分で考え自分で歩いてきたイリーネを見て、思うところがあったのだろうか。それとも、十五年ぶりに再会したカイと語らううちに、何か考えが変わったのだろうか。


(はっきりしろと、お兄様は言っているのね。カイへの気持ちを断ち切って、心からアスールを好きになるか。みんなをがっかりさせてでも、自分の気持ちを優先させるか)


 なんて贅沢な選択肢だろう。そして、普通ならば迷うまでもない二択だ。


(それでも……)


 黙りこんでしまったイリーネを見て、カーシェルはふっと微笑んだ。そのまま手を伸ばして、イリーネの頭を撫でる。

 ほぼ同時に、女神官が面会終了を告げるために入室してきた。カーシェルは立ち上がり、イリーネに声をかける。


「それじゃ、イリーネ。さっきの話、忘れるなよ」

「はっ、はい……! お兄様、ありがとうございます」


 頷いて、カーシェルは部屋を出て行った。残されたイリーネも女神官に促されて、席を立つ。今日はこのあとも、すぐに謁見の予定なのだ。


(明日の午後二時、教会の裏道、西階段を使って、地下の第三書庫)


 そこに行けば、カイと会える。

 兄の言葉を思い出しながら、イリーネは思わず笑みを浮かべた。先を行く女神官が、悪さを思いついたかのようなイリーネの笑顔を見ることは、ついになかったのである。





★☆





 そういうわけで、イリーネはまんまと女神官を出し抜いて、教会からの脱走に成功したのだ。


 カーシェルが教えてくれた通りの道を通ったのだが、面白いほどに警備が手抜きだった。裏道に配置されていた兵はイリーネの姿を見ても見ないふりをして素通りさせてくれた。城内の西階段には本当に警備がひとりもいなかった。そのほか、城内ですれ違った誰もがイリーネを呼び止めなかった。だいぶカーシェルが好き勝手をしたようだ。新しく教皇になったイザークという男性も含め、現在教会に残っている聖職者たちはみな王家に好意的な人々だ。だからこそ、カーシェルにみな協力してくれたのだろう。


「ここまで来れば、まあ大丈夫かな」


 来た道を振り返りながら、カイはそう呟く。イリーネも呼吸を整えながら、カイの視線の先を見やる。王城の周囲に広がる森。イリーネが幼いころ何度も脱走した、馴染みのある森だ。


「あの、カイ。すみません、突然引っ張り出して」


 イリーネはそこで初めて、カイに昨日の義兄とのやりとりを伝えることができた。カイに会えたことや、久々に味わうスリルが先程は楽しくて仕方なかったのだが、改めて自分を顧みるとはしたなかったようにも思える。

 事情を聞き終えたカイは「どうせそんなことだろうと思った」と笑って、森を歩き出す。王城とは逆の方向、市街地の方向へ。


「まあとにかく、気分転換でどこかへ遊びに行って来いってことでしょ? お言葉に甘えちゃえばいいじゃないの」

「そ、そうですよね。せっかくお兄様が時間を作ってくださったんだから……」


 イリーネも気を取り直して、カイの後を追いかける。と、ドレスの長い裾を踏んで、イリーネはつんのめった。咄嗟に腕を掴んで引っ張り上げてくれたカイは、目が合うと苦笑する。


「大丈夫?」

「あ、ありがとうございます」

「……なんだか懐かしいね」

「え?」

「オスヴィンで会ったときも、そんな風なドレス着てた。すごく歩きにくそうだったよね」


 カイはイリーネの手を引きながら、ゆっくりと歩き出す。地面からひょっこり飛び出た根に足を引っかけないように、垂れる木の枝に頭をぶつけないように、歩きやすい道へ誘導してくれる。オスヴィンで出会ったときとのぶっきらぼうな優しさとは少し違う、ひたすらに暖かな気遣いだ。

 まずはイリーネの服を替えよう。そうして市街地の入り口まで向かったのだが、神都にしては寂れた下町の城門に、見覚えのある人物がもたれかかっているのを見つけたのだった。


「やあ、遅かったではないか」


 つばの長い帽子でも隠し切れない、寂れた背景に似つかわない高貴な出で立ち。その口調と背格好。間違いなく、サレイユの騎士王子だ。


「あ、アスール……!?」


 思わず声を上げると、門の影からひょっこり別の人物が顔を出した。長くなっていた黒髪は出会った時と同じ肩上で切りそろえた、抜群の肢体の持ち主。チェリンだ。


「イリーネ、カイ、久しぶり!」


 チェリンは彼女らしくもなく浮かれた足取りで、イリーネたちのもとへ駆け寄ってきた。いまだに状況が飲みこめないイリーネと違って、カイは肩を竦めている。歩み寄るアスールへと視線を向ける。


「なんでここにいるのさ?」

「決まっている、臨時の首脳会議に出席するためさ」

「会議は来月でしょ?」

「なに、時間にゆとりがあるのは良いことだ。せっかくだから期日まで観光しようと思って、早めに来たのだよ。それより半年ぶりの再会なのだから、もう少し喜んではどうだ、カイ」

「喜んでる喜んでる。元気そうで何よりですよ」


 まったく素直じゃないアスールとカイのやり取りを聞いていたイリーネは、ぽつりと呟く。


「お兄様が頼んでくれたんですね……」

「そういうわけではないぞ、イリーネ」


 アスールが笑って否定する。


「私もチェリンも、いい加減じっとしているのが疲れた。サレイユの混乱はリーゼロッテほどではないし、会いに行くならば私たちのほうからというのは当然だろう?」

「そうよ。ていうか、理由なんてどうでもいいじゃないの。素直に喜びなさい」


 チェリンにばっさりとそう言われて、イリーネは思わず笑ってしまう。細かいことに拘らないチェリンのさばさばした性格は、イリーネとは正反対だ。だからこそ、イリーネはチェリンのことが大好きなのだ。


「……はい! ふたりとも、会いに来てくれてありがとう」


 それでよし、とチェリンは頷く。カイは城下町を振り返る。


「とにかく、まずはどこかで落ち着こうよ」

「宿に部屋を取ってある。そこへ行こうか」

「じゃああたし、イリーネの着替えを調達してくるわ。先行ってて」


 きびきびと役割分担して動き出す三人の様子に、イリーネは懐かしさを覚える。半年しか経っていないのに、もう旅暮らしだった頃が懐かしい思い出になってしまったのだ。それでも変わらないでいてくれるカイたちと、彼らと一緒に過ごす時間は、かけがえのないもの。時間が経ったからこそ、そう思うようになったのだ。

 こんな時間をくれたカーシェルには、ますます頭があがらなくなりそうだ。

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