表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
8章 【嵐の前夜】
170/202

◆夏の匂いを風に乗せて(2)

 契約具を失ったカイだが、イリーネとの契約は解除されていない。むしろ契約具がなくなったことによって良いことが増えた。以前までは契約具を持っているイリーネから離れた場所で化身することもできず、優れた諸感覚も鈍ってしまっていた。その制限がなくなったのだ。今ならカイはひとりでどこへでも出かけられるし、出かけた先でばったりハンターに襲撃されても対処できる。それでいて契約状態の恩恵――イリーネの気持ちに応じてカイの能力が上昇する――も受けられるから、良いことづくめだ。


 だからカイは、イリーネから遠く離れた王城の地下の書庫にいても、イリーネの気持ちが落ち着いているのが分かる。この半年、イリーネが危機を感じて焦ったり動揺したりということはなかった。

 なので安心、とは思わない。カイにはイリーネの疲れ具合などは伝わってこないのだ。カーシェルもそんなに頻繁にイリーネには会えないらしいし、イリーネの近況はまったく把握できていない。それが心配だった。旅の間は毎日顔を合わせていたから、イリーネの様子は自分の目で確かめられていたのに。今は人づてでしか知ることができず、しかもそれも滅多には聞くことができない。半年はそれでも我慢できたのだが、そろそろ限界だ。


 そうは言っても、カイは王城の客という待遇の一般人に過ぎない。神姫イリーネに気軽に会うことなどできないし、力づくで会おうとでもすれば打ち首になりかねないのだ。十五年間会わずにいたことを考えれば、半年だろうが一年だろうがたいしたことではない。そう思って時間の経過を待つしかないのだろう。カーシェルの仕事が落ちついてきたのと同じように、イリーネもそのうち自由な時間が増えるはずだ。

 それを信じて、カイは無心で翻訳作業を続けている。カーシェルから依頼されて数日しか経っていないのだが、様子を見に来たカーシェルが翻訳された資料の山を見て驚愕する程度には、カイは没頭していたのだ。余計なことを考えて虚しくならないように、わざとそうしていたところもある。


「カイが熱中してくれたのは嬉しいし、翻訳作業が捗るのも大歓迎だが、今度は俺が暇すぎるな。たまには俺の稽古相手として引っ張り出しても良いかな……」

「カーシェル、本音がだだ漏れ」

「おや、口に出していたか」


 大きな独り言を口にしたカーシェルは、カイと対面する形で椅子に腰を下ろしている。さっきからカイが翻訳した資料を読んで、「ほう」とか「へえ」とか興味があるのかないのか判断しかねる声を上げていた。思うにこの男、勉学の類は好きではないのではないだろうか。国主としての教養は習得しているようだが、アスールのように好んで何かを学ぶ、ということに関しては消極的らしい。しかも妙に面倒臭がりというか、大雑把というか――大掛かりな手続きというものを嫌う。だからこそ、研究者でもないただの友人のカイに、歴史的価値のある古典資料の翻訳を直に頼んだりするのだ。


「カイは誰に古語を学んだんだ?」

「別に学んじゃいないよ」

「というと?」

「俺は古語で育てられたんだ。少し成長してから、父親や伯父から現代語を学んだ。順序が逆なんだよ」

「……驚いたな、そんな地域があるのか。だが、なぜ?」

「魔術を早く習得するためだと思うよ。古語に由来するからね、魔術ってやつは」


 カイは生まれた時から群れの者の古語だけを聞いて育った。自然と古語を覚えたのだ。カイが幼少期はみなそのように育てられていて、古語で日常会話ができるようになったあとに、現代語を学んでいた。同年代のファビオとも、机を並べて必死に現代語を勉強したものだ。

 いまフィリードの里には、そんな教育方針はないらしい。チェリンはあまり古語が得意ではなかったから、詳しく教わらずに育ったのだろう。それはきっと、魔術を扱える素質のある仲間が生まれにくくなったせいだ。ケクラコクマの化身族の里チャンバほどではないが、フィリードも衰退しつつある。それでもまだ魔術を扱う強者は山のようにいるのだけれど。


「教育熱心なお父上なのだな」

「熱心かぁ……? 俺を長にしたかっただけだと思うけど」


 いまいち納得いかずに首を捻るカイに、カーシェルは小さく笑う。


「実の子に長の座を継いでもらいたいというのは、紛れもなく親の情というものだろう。父上から溺愛されていたそうじゃないか」

「そんな話、誰から聞いたんだよ……」

「あまり煙たがるなよ。孝行したい時に親はなし、とも言うことだし」


 カーシェルの表情はさっぱりとしているが、カイは複雑な心持ちだ。ゼタのことを持ちだされたことよりも、カイはカーシェル自身のことが心配なのだ。

 生きて教会に籠っていると思っていた父親は、実はとうの昔に殺されていた。それを思い出したカーシェルの心痛は計り知れない。そして、メイナードからついに父ライオネルの遺体の在処を聞きだすことができなかった。カーシェルはライオネルの遺体のない墓を作らざるを得ず、しばらくは沈んだ面持ちでいたのである。現在もライオネルを探しているようだが、あれからもう二年。あまり期待できないのが現状だ。


 国王ライオネルの死が発表されたため、王太子カーシェルは正式に国王に即位する。……はずだったのだが、年を跨いでもカーシェルは即位しなかった。「国情がもう少し落ち着くまで」と本人は説明しているが、国情を落ち着かせるためにはまず真っ先にカーシェルが揺るがぬ立場になるべきだ。カーシェルが即位できなかったのは、おそらく彼の即位を歓迎しない勢力が存在するからだろう。いかにメイナードが残虐な犯行に及んだ謀反人とはいえ、その謀反を許してしまったのはカーシェルだ。その責任を問われて、カーシェルは糾弾される立場にあるのである。

 そうはいっても、カーシェルは国王ライオネルから正式に認められた王太子だ。他に直系の男児がいない以上、カーシェルが王位を継ぐのは間違いない。だが、今はその時ではないということだ。クレヴィング公爵家やメイザス伯の後ろ盾があるカーシェルの立場は、そう簡単には揺らがない。加えて、国境のアーレンス公爵もカーシェルを支持している。王家を守ることを絶対の使命とするアーレンス公は、カーシェルに即位してもらわなければ困るのだ。一度は敵対したカイたちにとっては皮肉なことだが、アーレンス公は心強い存在だ。


「……そういえば、カイ。来月に首脳会議があることは聞いたか?」


 カーシェルが話題を転じたので、カイは顔をあげる。聞いたかとカーシェルは言うが、カイの情報源はカーシェルがすべてなのだ。彼が話していないことを、カイが別の場所で知ることなどない。


「初耳。去年の夏にやったばかりなのに、また今年もやるの? あれって数年に一度だったでしょ」

「臨時で開催するんだ。大陸全土を巻き込んでしまった騒動の後始末だから、個別に対応すると手が回らなくなる。それで一度一か所に集まってもらうことになってな。来月、各国首脳がカティアまでやってきてくれる」

「なるほど」

「で、その会議の場にカイも出席してくれないか」

「……え?」


 カイは素っ頓狂な声を上げ、それから慌ててカーシェルに食い下がる。


「いやいや、なんで俺が出るの、そんな会議に」

「メイナードを討った功労者だからな。メイナードとの間でどのようなやりとりが行われたのか、各国首脳は知りたがっているんだ」

「俺じゃなくたって、アスールあたりに喋らせればいいじゃない。どうせ来るんでしょ」

「勿論そうだが、あの場に居合わせた者は全員出席してもらうようにしたい。クレイザ殿とニキータ殿も、いま必死で消息を追っているところだ」


 王家の力を以ってしても、あの二人組を探すのは至難のことらしい――と苦笑しかけたところで、カイははたと気づく。


「……ってことは、イリーネも?」


 そう尋ねると、カーシェルは意味深な笑みを浮かべて頷く。


「他の列席者も、カイの見知ったヒトたちばかりだ。ちょっとした同窓会だとでも思って、参加してくれ」

「……仕方ないなぁ」

「仕方ないと言いつつ、嬉しそうじゃないか」

「ほっといて」


 実際、少し嬉しい。ここ最近の虚無感がさっぱり晴れる程度には、みなに会えるのが楽しみだ。各国首脳というからには、イーヴァンのファルシェやヒューティア、ケクラコクマのイル=ジナやシャ=ハラたちも出席するはず。そうそう堅苦しい会議にはならなさそうではないか。カーシェルの言う通り、同窓会のようなものになりそうだ。


 と、カイの鋭敏な耳が微かな物音を捉えた。ぴくりと反応して顔を上げると、対面に座るカーシェルもこちらを見た。


「どうした?」

「誰かがこの部屋に向かって来ているんだけど」

「ほう、物好きもいたものだな」

「鏡見なよ、カーシェル」


 そうこき下ろしてから、カイは耳を澄ませる。ひとりぶんの足音だ。半分駆け足になっているほど急いで、こちらに近づいてきている。カーシェルに緊急の用事を伝えにでも来た従者だろうか? 何者かの接近を知ってもカーシェルは泰然としているから、よく分からない。

 冷茶を一口口に含んだカーシェルは、若干緊張しているカイを見て小さく笑う。


「耳が良いとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。俺には何も聞こえん」

「そりゃ獣の聴覚だからね……」

「だがカイ、一介の剣士として忠告しておくぞ。貴方は少し聴覚に頼りすぎだ。それでは実際に聞こえた音しか拾えない。敵意があるのかないのか、その気配を第一に察知しないと、後手に回ることになる」


 二十五歳も年下の若者から忠告されたのだが、カイはまったく不快ではない。それは常々自分でも感じていた短所だし、気配を察知するカーシェルの能力は確かにカイ以上のものだからだ。何者かの接近を感知しても、敵意の有無を計りきれないでいるうちに先制攻撃を受けたこともある。鋭い聴覚は、ある意味でカイの空間把握能力を弱めているのだ。どうしてもカイは、気配を察するより前に耳が音を拾ってしまう。


 ――その時、ようやく気付いた。近づいてきている者が、誰なのか。


「イリーネ……!」


 呼びながら立ち上がり、カイは部屋の扉を開けた。室外の廊下には誰もおらず、静まり返っている。王城の地下階層はかなり広く、絨毯の敷かれた廊下は延々と向こうまで続いている。

 その廊下の角を、人影が曲がってきた。ニキータほど優れた視力ではないが、カイにも分かる。イリーネだ。イリーネが、動きにくそうな豪奢なドレスを自分の手でたくし上げながら、必死にこちらへ駆けてくるのだ。


 廊下に佇むカイを見て、イリーネはぱっと表情を明るくした。嬉しそうに笑って、イリーネはなおもこちらへ走ってくる。


「イリーネ、何して……うわっ」


 少しも速度を緩めずに、イリーネはカイに飛びついた。少し慌てたが、よろめくような格好悪いことはしない。しっかりイリーネの身体を受け止めて、それでもカイは唖然とした。

 紛れもなくイリーネだ。久々に見るが、間違えるはずもない。だがその格好は妙だった。真っ白なドレスに、綺麗に結われた髪の毛。その頭には煌めく宝石がちりばめられたティアラが載せられて、顔にも明るく化粧が施されている。

 まるで、儀式の真っ最中に飛び出してきたような――。


「カイっ」

「は、はい」

「追われているんです! 逃がしてください!」

「へ?」


 追われているというには、イリーネは笑顔だ。何がなんだかさっぱり分からない。

 カイが戸惑っていると、部屋からカーシェルが顔を出す。


「何をしているんだ、カイ。イリーネが逃げたいと言ったら、逃がしてくれる約束だろう?」

「カーシェル――」


 そうだ、そういう約束を交わした。イリーネが辛くて、逃げたいと少しでも思ったら、カイは彼女を連れて逃げると。

 想定していたシチュエーションとはだいぶ違うが、「逃げたい」とイリーネが言ったことに変わりはない。主の希望は、叶えてやらなければ。


 決心して振り返ると、カーシェルはふたりを追い払うように手をひらひらと振った。地上階へ上がる階段はいくつかある。イリーネが使った階段は避けるとして、書庫から一番近い階段へ向かうとしよう。


「行こう、イリーネ」

「はい……!」


 カイはイリーネの手を引いて走り出す。十中八九、カーシェルがこの逢引を企画し、イリーネが実行に移したのだ。そうに違いない。突然職務を放り出して現れた妹を見て、あんな冷静でいられる兄などいるだろうか。追われていると言いながら、満面の笑みを浮かべる年頃の娘がいるだろうか。


(……でも、こんなに笑ってくれているんだから、イリーネも俺に会えて嬉しいって思ってくれてる……んだよね)


 そう思い込んで、いいのだろうか。


「お城の外に行きましょう? 城内にいたら、本当に、捕まっちゃいます……!」


 カイの後ろを走りながら、イリーネがそう告げる。ああ、追われているのは本当なのか。イリーネを連れ戻そうと、教会兵が血眼で探しているのだろう。


「俺、これ以上お姫様誘拐の罪で賞金額があがるの、勘弁なんだけどなぁ」

「一度も二度も、同じようなものじゃないですか」

「はは、他人事だと思ってるでしょ」


 そんな話をしながら、カイとイリーネは地上階にあがり、そのまま庭園に出た。見張りの兵士が多数いたが、毎日客室からカイはその庭園を眺めていたのである。巡回路などすべて把握していたから、警備の目を避けて通るのは容易いことだった。


 東の離宮へ向かう道すがら、城壁の傍でカイは足を止める。壁の向こうは王の森。突っ切れば市街地にたどり着く。お尋ね者の身で、堂々と門から外に出る勇気は、カイにはなかった。


「しっかり掴まって」


 カイはイリーネを抱きかかえる。イリーネは頷いて、カイの首に腕を回してしがみついた。それを確かめて、カイは地面を強く蹴る。生身でもカイは、助走なしで高く跳躍できる。城壁を越えるくらい、造作もない。

 まんまと城外へ出たカイは、急いで城壁から離れた。しばらく走って、特に騒ぎが聞こえてこないのを確認し、ようやく速度を落とす。すっかりイリーネも息が上がって、疲れていた。


 とんでもないことをしてしまったのではないかという気もするのだが、カイはあえてそれを考えない。ただ、すぐ横にイリーネがいるのだということを、はっきり実感したのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ