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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
8章 【嵐の前夜】
169/202

◆夏の匂いを風に乗せて(1)

 木剣を打ち交わす乾いた音が、風に乗って響く。


 過ごしやすい花の季節はそろそろ終わりを迎え、日に日に太陽は大地に注ぐ熱を強くする。何もしていなければ涼しいが、少し身体を動かせばあっという間に汗が滲むようになった六月の真昼間だ。木々の葉は鮮やかな緑色に生い茂り、広い庭園に心地よい陰を作ってくれる。こんな日にはその木陰で読書でもするか、そうでもなければ昼寝を決め込むか――暇な時間の潰し方といえば、これが最適だ。

 だというのに、カイはそうした「有意義」な余暇の過ごし方とは対極の暇つぶしに付き合わされていた。そう、付き合わされている。何が悲しくて、剣の達人と名高いカーシェルと、この暑い昼間にリーゼロッテ王城の庭園で稽古などしなければならないのか。


 いまはカーシェルが攻め手で、カイが受け手だ。だがそんな役目とは関係なしに、カイは防戦一方だった。最初にカーシェルに教わった防御の構えもいつの間にか崩れ、戦いを生業としてきたカイとしては少々情けない恰好になっている。それでもカーシェルは淡々と――むしろ至極楽しそうに――カイの木剣に、自分の木剣をぶつけてくる。


「ちょっ、まっ、わ……ッ!」


 姿勢が崩れたその一瞬に、容赦なくカーシェルが強い打撃を加える。呆気なくカイの足はもつれ、地面に倒れ込む。無様に尻もちをついたその横に、手から吹き飛んだ木剣が落ちる。


「よく粘ったな」

「……それ、嫌味?」

「まさか。本心だ」


 声も表情も真面目だが、カーシェルという男は真面目な顔で冗談を言うタイプなのだ。カイが深く溜息を吐いた途端にくすくすと笑いだしたのがその証拠だ。


「だから最初に言っただろう、化身しても良いと」

「そんなことしたら、君があまりにも不利でしょ」

「ほう? 試してみるか」

「ちょっと、目が据わってるから。もう散々稽古したんだからいいでしょ、休憩」


 カーシェルの同意は得ずに、カイはさっさと木陰へ移動する。カーシェルが苦笑しつつそれを追い、木陰に寝そべったカイの隣に腰を下ろした。

 涼しい風が激しい稽古で火照った身体を冷やし、汗を飛ばしていく。カイはその風の音に耳を澄まし、目を閉じる。ああ、なんて静かで穏やかな風だろう。今すぐにでも昼寝ができる。


「冗談は抜きで、本格的に剣を学んではどうだ? カイは元々武術の心得があるから、すぐ上達すると思うぞ」

「剣は苦手なんだよ。俺、肉体派じゃないから筋力もないし」

「鍛えればどうとでもなる。喜んで付き合うぞ」

「俺を鍛えて剣の稽古相手としてもっと利用するつもりでしょ」

「ばれたか」

「……あのねぇ。まったく、君はいつからそんな戦闘狂みたいになっちゃったのさ」


 本気で呆れながら、カイは身を起こす。髪についた芝を払い落として、悠々と涼んでいるカーシェルを見た。


「大体、なんで君はそんなに暇してるの? やっと落ち着いてきたとはいえ、まだまだ忙しいだろうに」

「その忙しさの合間に身体を動かすのが、良いストレス発散なんだ」

「付き合わされるこっちの身にもなってよ、もう……」





 メイナード・R(リーゼロッテ)・スフォルステンが打ち倒されて、既に半年近くが経過していた。


 この半年、最も忙しかったのは間違いなくカーシェルだ。メイナードが破壊し、そして放棄した国政の立て直しから始まり、メイナードに味方した教会兵や正規兵への処罰、犠牲者や他国への賠償、損壊した王城の修理、軍隊の編制、国王ライオネルや王妃エレノアの死に関する認識の修正――加えて、カーシェルは手負いで衰弱していたのだ。自分の身体を労わりながらも、やることだけは徹底的にこなす。アスールやニキータが散々「カーシェルは超人だ」と言っていたことの意味を、カイは改めて実感したのだ。解放されて即座にメイナードとあれだけ戦えた時点で、ニキータも吃驚のタフネスだった。


 メイナードを殺して姿を消した【獅子帝フロンツェ】は、あれから足取りがつかめない。手がかりとなるようなものもなく、完全にお手上げの状態だ。このまま何も起きなければ良いと思いつつも、「そうはいくまい」と誰もが予感を覚えている。いつ何が起こってもおかしくないという緊張感と紙一重の休息。この半年間穏やかな生活が続いているが、それもいつまで続くだろうか。


 アスールはサレイユに戻っている。パートナーのチェリンも一緒だ。手を貸してくれたヒューティアもイーヴァンに帰った。ニキータとクレイザはリーゼロッテに留まっているようだが、どこで何をしているのかは分からない。アーヴィンはエルケと共に各地を飛び回り、【獅子帝】を探しているようだ。

 イリーネも神姫として、通常は教会のほうで務めを果たしている、らしい――。


「暇を持て余しているのは貴方のほうだろう、カイ。俺が連れ出さなければ、一日中でも部屋で寝ているじゃないか」

「……できることがないんだよ」


 カイは王城の一室を借りて、そこで生活している。最初こそ警備体制も不安定だったので、働くイリーネやカーシェルの護衛としてあちこち歩き回ったものだが、最近では危険も減った。カヅキを手伝って獣軍の再編成を行いもしたが、そもそもカイは軍事にも政治にも疎い。手伝えることはないに等しかったのだ。だからと言ってひとりでは街に出向く気にもなれず、住まわせてもらっている分際で豪遊もできず、ただお世話役の侍女たちに迷惑をかけないよう、一日を寝て過ごすような無為な日々を送っていた。

 そこに、そこそこ仕事の落ち着いたカーシェルが、剣の稽古に付き合ってくれないかと言ってきたのだ。断る理由もないので共に稽古をしていたのだが、ここ数日はほぼ毎日だ。必然的にカーシェルと過ごす時間も増え、旧交を温めつつも、大人になったカーシェルと新しい友情を築けるほどには、カーシェルと語らう時間が多くなっていた。おかげで、カーシェルが案外子どもっぽいだとか、剣術に対して並々ならぬ思い入れがあるとかいう一面を知ったのだ。


「俺に気兼ねをする必要はないんだぞ。街に行ってくれて構わないし、市街の様子を伝えてくれたら俺も嬉しい」

「うーん……まあ、そりゃそうなんだけど、ひとりでは行きにくいし」

「クレイザ殿やニキータ殿は?」

「滅多につかまらないよ、あのふたりは。あっちからは会いに来るけど、こっちから見つけるのは無理」

「なら、ハンターとしての仕事に出るというのはどうだ。仕事は溢れていると思うぞ」

「……いいかいカーシェル、ハンターっていうのは人間と化身族のペアで初めて認められるものなんだ。俺がひとりで行っても相手にされないよ」


 そこまで言うと、カーシェルも沈黙する。深い緑の頭髪を掻き回し、ぽつりと呟く。


「悪いな、カイ」

「何が?」

「イリーネと会う時間を、あまり作ってやれなくて。貴方はイリーネのために残ってくれたのに」


 なんだってカーシェルが謝るのか知らないが、カイは肩をすくめて目線を庭園へと向ける。


 神姫イリーネ。教会の最高権威にして平和の象徴。メイナードが起こした一連の騒動で不安を抱いた民衆は、久しぶりに教会へ戻ってきたイリーネを一目拝もうと殺到している。イリーネが元気な姿を見せて、元気な声を聞かせて、優しく微笑んで見せれば民衆は安堵する。――たったそれだけのことに、イリーネは毎日駆り出されているのだ。

 スフォルステン家が招いた不祥事ということで、教会内のスフォルステン派閥は掃討された。教皇フェルゼンはメイナードの共犯として拘留、その他親教皇派だった者も様々な理由をつけて破門。いま教会にいるのは神姫派や中立派だった者たちだけで、とりあえずイリーネの身の危険はないらしい。


 カイは教会内への立ち入りを許されなかった。化身族を拒むメイナードの感情が暴走したことで引き起こされた騒動だったから、多少なり化身族への配慮はあったが――それでも教会は、化身族を認めようとはしない。イリーネが頼み込んでも、カイの同行はやんわりと司祭に断られてしまったのだ。

 教会相手には、カーシェルも強くものを言えない。だからカイは何もすることがなく、部屋でくすぶっているのである。


「仕方ないよ。俺が傍にいたら、神姫としてのイリーネのためにならない。もう少し状況が落ちつくまで我慢するさ」

「……そういう物分かりの良さが、こういう場合には仇になると思うんだがな」

「なんだって?」

「いや、別に」


 ごまかされたが、真横で呟かれた言葉を、カイの鋭敏な耳が聞き逃すはずがない。そのうえで、カイは無視した。


「あ、そうだ」


 急に、カーシェルが立ち上がる。何か名案を思い付いたように、明るい表情だ。


「カイ、貴方に手伝ってもらいたい仕事があるんだ」





★☆





 仕事の依頼は大歓迎だ。働きもせずカーシェルたちの世話になっているのも心苦しかったし、いい加減カーシェルの稽古相手も苦痛になってきている。だからカーシェルに仕事を提案されて、カイは即座にそれを引き受けた。

 内容を聞きもせずに仕事を引き受けるとろくなことにならないということを、カイはすっかり忘れていたのである。


「……で、何これ?」


 古臭い紙とインクの匂い。薄暗くて乾燥した地下の一室。


 カイの目の前の机の上には、大量の書籍が積み重ねられていたのである。


「ハインリッヒ先生の研究資料と、先生に翻訳を頼もうと思っていた城の書物の山だ」

「それは分かる」

「先生が亡くなった後、娘御から寄付されたんだ」

「それも分かる」

「この資料を書物にまとめて、蔵書の一部としたい。なので翻訳を頼む」

「そこが分からない!」


 心底不思議そうに首を傾げるカーシェルが、このときばかりは憎らしい。


「カイは普通に古語を使えるんだろう? アスールから聞いたぞ」

「そりゃそうだけど!」


 確かにこの作業に適任なのはカイだ。長年古語を扱ってきたハインリッヒでさえ、辞書を片手に持たねば翻訳の仕事はできなかった。対するカイは、日常会話レベルで古語を使える。古語の翻訳などカイにとっては簡単な仕事だ。

 だが、カイは「護衛」とか「悪人退治」とか、そういう類の仕事を想定していたのだ。こんな薄暗い地下室に籠ってひたすら翻訳作業をするなんて、カイの柄ではない。決して陽気ではないカイだが、それでも気が滅入ってくる。


「頼むよ、手伝ってくれ。古語研究の第一人者だったハインリッヒ先生を失っては、どうにもお手上げ状態なんだ」


 ハインリッヒの名を出すのは卑怯だ。彼の死にはカイも関係しているし、娘のラウラに真実を隠した手前、放り出すことも出来ない。カイがやらなければ、偉大なハインリッヒの業績は日の目を浴びずに消えることになってしまうのだ。


 結局カイは折れて、翻訳作業を引き受けたのである。





 時間が有り余っているのは事実だ。カーシェルが午後の仕事に出かけた後、すぐにカイは翻訳作業に取り掛かった。最初こそ面倒臭いと思ったが、時間潰しには最高の作業だし、古語に馴染みのない若者たちのためには有益だ。古語研究を志す若者たちのために、年長者が一肌脱いでやろうと考えれば、少しはやる気も出るというものだ。


 ハインリッヒに翻訳を依頼していたという書物の中には、魔術書も多数含まれていた。おそらく人間たちは、この魔術書をただの歴史書だと思っているのだろう。内容は古代の出来事を列挙しているだけだからだ。だが魔術を学ぼうとする化身族にとってこの書は、魔術の使い方や威力を示した指南書だ。

 魔術書の中には、希少価値の高いものと低いものがある。価値の最も高い魔術の属性は「神属性」、次に「光属性」や「闇属性」だ。これらの属性の価値が高いのは、単純に扱う素質のあるヒトが少ないという理由もある。しかしそれ以上に、魔術を習得するために必要な魔術書の数が圧倒的に足りないのだ。これはエラディーナが、あまり神属性や闇属性を使用しなかったせいである。魔術を学ぶときは、エラディーナが使用した状況や心情を模倣するところから始まる。火属性や風属性など、エラディーナが頻繁に使った魔術は様々な状況下での資料が残っているので、ある場面でのエラディーナの心情が理解できなくとも、別の場面では理解できることがある。そうしてヒトは魔術を習得していくのだ。

 そういうわけで、使用頻度の低かった神属性魔術などは歴史の中の記述が少なく、また需要も少なかったことから、魔術書が殆どで回らなかった。イリーネのために用意した神属性魔術の魔術書は、非常に希少価値が高かったのである。逆に言えば、希少価値の低い魔術書は簡単に入手できるということだ。


 カイは氷属性魔術しか使えないが、火属性や地属性魔術も一通りは把握している。依頼されたのはそうした一般的な魔術書が多いので、翻訳作業はスムーズに進んだ。


 他方で、魔術書以外の書物も多かった。叙事詩、神話、童話、小説――どれも古の文学作品だ。古く難解な神官語が使われているものもある。おそらく、三六〇〇年ほど前のエラディーナの時代ですら、「古典」と呼ばれたであろう古書ばかりだ。

 カイは、魔術書は豊富に読んできた。だが、それ以外の読書歴は皆無といっていい。こうした文学作品を目にするのすら初めてだ。旅の間は本を読む機会などなかったが、元々カイは読書が好きだ。いつの間にか読みふけることに夢中になって、翻訳して現代語訳を紙に書くという作業を忘れてしまったほどだ。


 今の時代に生きるヒトなら誰でも知っているような昔話の原文を見つけて、カイは思わず感嘆の息を漏らす。四千年以上前の昔話が、様々な脚色を加えながらも現代まで語り継がれている――そのことに、柄にもなく感動してしまった。


(エラディーナたちも、この話を知っていたのかな)


 ああ、アスールに教えてやりたい。アスールなら目を輝かせてこの話に飛びついてくる。古代建築を主に好むアスールだが、古いものは全般が彼の研究対象だ。きっと色々な推測を聞かせてくれる。

 イリーネもチェリンも、アスールの雑学は結構喜んで聞いていた。アスールが話し出せば彼に注目して、納得したり反論したり、意見をぶつけ合えるのに。


 今はとても平穏だ。敵らしい敵もなく、穏やかな日々が続いている。いつハンターに襲われるか分からず、その日の食事や宿泊すら未確定だった旅暮らしの時より、ずっと良い暮らしができているというのに。

 なぜだかカイは、この生活に虚しさを感じる。孤独を感じてしまうのだ。カーシェルがいるし、イリーネもアスールもチェリンも、傍にはいないが元気でやっているというのは分かるのに、どうしようもなくカイは寂しい。


(俺は孤独に弱いんだな。一度暖かさを知ってしまったら、もう手放せないんだ)


 もう一度みんなで旅に出たいと、心から思う。

 だが、身分あるイリーネやアスールが自由にできる時間などもうない。それも分かっているからこそ、カイはやるせないのだ。

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