◇刻まれし時(6)
本城の正門には見張りの兵士が配置されていた。ざっと見ただけでも二桁の人数がいるので、強行突破は難しい。そのため、まだ兵力が少ないと思われる通用口のほうに回ることになった。主に使用人たちが使う出入口だそうで、ただでさえ本城に出入りしたことが少ないイリーネはその場所を知らない。幼いころを離宮で過ごし、一通りの教育を受け終えたあとは教会に移って、今度は神職としての勉強に励んでいたから、国王に呼び出されでもしなければ本城に来ることなどなかったのだ。
建物の壁に沿って移動しながら、カヅキは状況について話してくれた。
「メイナード王子に味方した兵は多い。教会兵の大半と、正規軍の一部だ。公然とケモノ狩りができると喜ぶ者、あくまでも軍人として王家への忠誠を尽くそうとする者、命が惜しくてメイナード王子側についた者……このうち、命惜しさに寝返った者たちを、メイナード王子は信用していない。みな任務と称されて、各地へ左遷されていったようだ」
「つまり、たとえ神姫の威光を以ってしても、ここにいる兵に武器を納めさせるのは難しいということですか」
クレイザの問いにカヅキは頷く。コロナの街を襲撃した教会兵は、上層部からの命令を受けただけの兵卒だった。だからこそ彼らには説得が通用したが、この城にいるのは自らの意思でメイナードに味方すると決めた者たち。そう簡単に考えを曲げるとも思えない。
「メイナードの思想に心から共感している者というのも、少なくはないのだ。やはりこの国には、化身族に対する差別が根強く残っている。そういう者たちにとってカーシェルの理想は、性善説的で青臭く見えるのだろう。まだメイナード王子の思想のほうが『普通』なのだろうな、悲しいことに」
そう、カーシェルは高潔でいつも正しい。その正しさを、疎ましく感じるヒトは必ずいる。化身族の権利を主張するカーシェルを恨む声が多いということも、イリーネは知っていた。
それでもカーシェルの言葉に耳を傾けるヒトもたくさんいるのだ。カーシェルがいたからこそ、ヘルカイヤの民衆と打ち解けることができた。化身族たちはみなカーシェルを信頼していた。カヅキをはじめとする獣軍の構成員たちが特にそうだ。さらに、十数年前に奴隷制度が廃止された時、真っ先にその命令に従ったのはメイザス伯だった。徐々にではあるが、こういう考えは広がってきていた。それをここで壊されるわけにはいかない。
「青臭い理想のひとつも語ることのできない国に、明るい未来なんてないんじゃないでしょうか」
イリーネが言うと、クレイザが「まったくですね」と同意してくれた。国民が絶望だけを口にするのなら、国の空気は落ち込んでしまう。民衆が明るい希望を抱けるように、まずは指導者が前向きな言葉を口にしなければならない。それがカーシェルの姿勢でもあった。
そんな話をしているうちに、通用口が見えてきた。見張りらしき兵士はいない。それを見たクレイザが、苦々しい表情になる。
「なんだか、あからさまに道順を誘導されている気がしますね」
「気のせいではないだろうな。カーシェルには数十人の見張りがつけられたのに、俺の監視はふたりだった」
「離宮にも、見張りはいませんでしたしね……」
逃げ道が用意されているし、警備の厳重な場所とそうでない場所がはっきり区別されている。そうしてメイナードは、イリーネたちが通る道を操作しているのだ。それが分かっていても、イリーネたちはこの道を通るしかない。こちらはたった三人で、実質戦えるのはカヅキのみ。化身できるならともかく、生身で数十人の包囲網を突破するのは難しいのだ。
通用口の扉に近づいて、カヅキは剣の鞘を持ち上げた。
「……ヒトの気配がする。俺が先に入るゆえ、姫と公爵はここに」
頷くと、カヅキは静かにドアノブを掴む。そしてタイミングを計り、扉を開けると同時にカヅキは城内へと踊りこんだ。
「なっ、獣軍将……ぎゃッ!?」
戦いの幕開けはそんな悲鳴と、血しぶきの音だった。扉の外で息をひそめているイリーネとクレイザには、壁越しに音しか聞こえてこない。悲鳴は何度も聞こえてくるのに、刃を打ち交わす音が聞こえてこないのは、カヅキが剣を抜かせる暇もなく敵を打ち倒しているからに他ならない。
しばらくして、通用口を開けてカヅキがふたりを手招きした。応じて城内に入ると、そこはどこかの廊下の一角に繋がっていた。赤い絨毯が敷かれた廊下に、数人の兵士が倒れている。絨毯の赤が血を吸い込んで、若干赤黒くなっていた。カヅキには返り血の一滴も見られない。不意打ちを食らって、見張りの兵士たちはひとたまりもなかったはずだ。
リーゼロッテの王城は、かつては堅牢な城塞としての設備を備えていた。城下町からは少し離れた森の中の小高い場所に建てられていて、入り口には濠と跳ね橋、本城へ至るまでにいくつもの門と曲がり角が設けられている。ア・ルーナ帝国が崩壊したのち、この地方にはいくつもの小国が誕生した。リーゼロッテもかつてはそうした小国の一つに過ぎず、常に他国からの侵入に怯えていたらしい。その時代に造られた、他に類を見ないほど立派な城塞――そのおかげかは定かではないが、やがてリーゼロッテは他国を支配下に置き、大陸の南東部を統一し、神国を建てた。これが千年ほど前の話だ。
現在ではその殆どが機能していない。けれども城内の造りは当時のままで、敵が一直線に王座に到達しないよう、複雑に張り巡らされた回廊が存在する。似たような空間がいくつも連なり、現在地を見失わせるのだ。一度そうなってしまえば引き返すのも容易ではなく、地図を作りながら進むにしても時間がかかりすぎる。そうして右往左往しているところを、城の構造を把握している兵士が前後から一網打尽にする――そうした戦いが行われたそうだ。
カヅキは城内の間取りを完全に把握していた。二階へ上がる階段がある場所へと移動しながらも、巡回兵と鉢合わせたら声もあげさせずに斬り倒す。アスールのような我流の強い剣術ではなく、型通りの基本剣術。だか基本も極めれば、半端な上級剣術にも勝る。カヅキはその性格通り、真っ当な剣術の使用者だ。アスールと戦うことになったら、互いに相性が悪くて仕方がないだろう。
何度目かの戦いを済ませて、カヅキは剣を下ろす。鉢合わせする頻度が高く、もういちいち剣を鞘に納める時間すらなかった。それでもまだ大きな騒ぎになっていない。カヅキが残らず敵を殲滅するからだ。この城の中には、かなりの兵が密集しているらしい。それがカーシェルの脱出対策なのか、外から来るイリーネたち対策なのかは分からないが。
「……姫、大丈夫か」
カヅキが不意に問いかける。それが怪我の有無ではなく、目の前で繰り広げられる惨劇に対する心配であるということに、イリーネは気付いた。そしてしっかりと頷く。
「はい」
「変わられたのだな。【氷撃】たちと、世界中を旅したおかげか」
少し前なら、こんな光景を見て平気ではいられなかっただろう。震えあがって、命が奪われることを恐れた。今回の相手は自国の兵士、だから助けてやってほしい――そう考えたに違いない。実際、そう考えていた。ヴェスタリーテ河を越えてリーゼロッテ入りするときまでは。
今はどうなのか。敵なのだから死んでしまっても仕方ないとは、思わない。思わないが、綺麗ごとだけでは何も成し遂げられないのも知っている。犠牲を出してでもやり遂げたいことがあるのだ。そのためにヒトの屍を、イリーネは踏み越えていく。だからこそ――彼らの死を無駄にはしない。
そこで、クレイザが口を開いた。
「そういえば、どうしてイリーネさんの契約相手がカイさんだと?」
言われてみれば確かに不思議なことだった。先程イリーネがカイの名を出したが、『カイ』という名だけではなんとも判断しがたい。カヅキはずっとこの城の中にいたのに、イリーネが旅をしていたことまで知っている。どこで知ったのだろう。
そう思うと、カヅキはあっさり説明してくれた。
「以前、イーヴァン王の密使が伝えてくれたのだ。『イリーネ姫たちが、イーヴァン王の後見のもとサレイユへ向かっている』と。【氷撃】らが姫と同道しているのは、その時に聞いた。カーシェルも把握している」
「そうだったんですか……お兄様は、なんて?」
「安心していた。信用できる者たちに守られて、きっと姫は大丈夫だと」
カーシェルは知っていた、十五年前のあの時から、カイの正体を。イリーネの知らないところで彼らは言葉を交わし、絆を深めていた。イリーネの傍にカイがいると知って、どれだけカーシェルは喜んでくれただろう。あんな幼いころに交わした約束をカイがまだ覚えていてくれた、それがどんなに嬉しかったか。
カイが敵に追われて、離宮の城壁を飛び越えてこなかったら。それをイリーネとアスールが見つけなかったら。カーシェルが彼の正体を明かしてしまっていたら――こんな縁を結ぶことはなかった。この出会いには、感謝をしなければならないだろう。
長い回廊は終わり、ようやく階段を見つけた。迷路状になっていたのは一階部分だけで、二階から上は個室がずらりと並ぶ。会議室、客室、書庫に食堂に舞踏場。式典の時にはこれでも足りないほどに賓客が城に滞在するのだ。『王城内では遭難者が出る』という噂があったが、あながち嘘でもない。
この先はイリーネも分かる。階段をそのまま上がって、四階へ。階段を上がった目の前に扉があるだけで、他に個室も廊下もない。この先は一直線だ。
扉に背を当てながら、慎重にカヅキは扉を開く。その瞬間、爆音が響いた。扉に向けて一斉に猟銃が発砲されたのだ。ばたんとカヅキは扉を閉ざす。分厚い鉄の扉で助かったが、木の扉だったらハチの巣にされているところだ。
「さすがにかなりの人数がいるな。剣一本ではどうにもならないか……」
カヅキは難しい表情だ。銃声の数から考えて、ざっと十人以上の兵士がいる。加えて、剣や槍を装備した兵士もいるだろう。そうなれば勝ち目はないが、避けて通れる迂回路もない。玉座の間に行くには、この先のダンスホールを通るしかないのだ。
アスールならば剣で銃弾を弾けるし、カイならば氷の壁で防ぐことができる。だが剣の達人というわけではないカヅキにそんな芸当はできないし、防ぐ手段も見当たらない。
「カヅキさん、魔術は?」
イリーネが問うと、カヅキは顎をつまむ。
「多少ならば生身でも使える。室内に入ればいくらでもやりようがあるのだが、入る前に撃ち殺されそうだ」
「……じゃあ、こうしましょう」
クレイザはイリーネの考えを察したようだが、何も言わない。
「私が数秒、時を止めます。その時間を使ってカヅキさんは中へ入る――どうでしょうか」
「時を止める? それは神属性の最終奥義ではないか。姫の身に負担が……」
「もう一度使ってます。大丈夫。カイとニキータさんのお墨付きです」
そう言って微笑むと、カヅキはいよいよ表情を険しくする。最終奥義を使うには代償を伴う。カヅキも強力な化身族だ、きっと最終奥義を会得している。だからこそ骨身に染みて知っているのだろう、最終奥義というものを。イリーネにそんな無茶をさせては、カーシェルに申し訳が立たないとも思っているのかもしれない。
援護をくれたのはクレイザだ。
「やってみませんか、他に方法もなさそうですし」
「しかし……」
「ここでカイさんたちの到着を待ってもいいですけど、敵のほうから攻めてきたら、それこそ打つ手なしですよ。イリーネさんの魔術の精度は僕も保証します」
カヅキに見られて、イリーネは頷く。長いこと迷ってはいられない、カヅキも覚悟を決めたようだ。剣を握り直して、軽くイリーネに頭を下げる。
「分かった。お頼みする」
タイミングはカヅキが計る。扉はクレイザが開ける。合わせて、イリーネが“止まる世界”を発動させる。段取りはそれだけだ。
剣を握っていないカヅキの左手を中心に、ささやかな風が渦巻きはじめる。イリーネは集中を開始した。
カヅキが指を三本立てる。軍隊式のカウントの取り方だった。理解してクレイザが頷く。
三本立てていた指が一本になった瞬間、クレイザが扉に当てていた腕に力を込めた。同時に、イリーネが魔術を発動させる。
世界が灰色に染まる。その中で色を保っているのは、イリーネとクレイザ、カヅキの三人のみ。未知の体験だろうが、カヅキは怯まなかった。彼は果敢に室内へ飛び込む。クレイザはさっと半身を引き、扉の陰に隠れた。
魔術制御が解ける。広いダンスホールに、無骨な男たちが二十人ほど。銃を持っているのはその半数。警戒しつつも銃を下ろしていた兵士たちは、目の前の光景が信じられなかったはずだ。瞬きをしているうちに、扉が開いてカヅキがホール内に入ってきていたのだから。
カヅキの左腕から強烈な突風が噴き出した。目に見えず、攻撃的な威力もない風が兵士たちを襲う。しかしただの風ではない。あまりの勢いに目も開けられず、大の男がよろめき、その手から猟銃が吹き飛ぶほどのものだった。
銃撃は防がれた。だが、カヅキの魔術の神髄はそこではない。
風が止み、兵士が目を開けた。その時、ホールの入り口に立っていたはずのカヅキが、兵士の眼前にまで迫っていた。瞬間移動したとしか思えない速さだ。
悲鳴を上げる間もなく、兵士は斬り殺された。隣にいた兵士がカヅキを斬ろうとするが、剣を振り下ろしたときそこにはもう誰もいない。カヅキはその兵士の背後に回り、首を掻ききったのである。
彼は【迅風のカヅキ】。その身に風をまとい、風に乗って動く者。その力は同じ風属性でも、エルケが使う“烈風”とは違う。彼のそれは攻撃的なものではなく、限界まで速さを高める補助的な魔術。常人では移動するのに時間がかかる距離を、一歩で詰める。それはまさに瞬間移動。
“神風”だ。
猟銃を持った兵士十人が斬り伏せられるまで、五秒とかからなかった。白兵戦を挑んだ兵士たちも、突風に煽られて横転したところを斬られる。
真っ向勝負を挑んでも、カヅキの動きを捉えることはできない。生身ですらこうした魔術を使えるのだから、彼はカイやフロンツェ並みの魔力の持ち主だ。化身すれば、この速さを長く保ったまま戦うことができる。それはどれだけの強みだろう。これが、賞金ランキング第三位なのだ。
敵が殲滅される。イリーネとクレイザは隠れていたというより、部屋に入ったら戦いが終わっていたという状況だった。圧倒的な力を目にして、ふたりとも声が出ない。
「す……すごいですね、カヅキさん」
「なんの。俺はただ速いだけ。攻撃の技術は、【氷撃】や【黒翼王】のほうが上だろう」
どこまでも謙虚に言って、カヅキはホールの先を見つめる。そこにある扉を開ければ、五階へあがる螺旋のスロープがある。その先をさらに進んで、六階にあがれば――玉座の間にたどり着く。
「メイナード王子は目の前だ。覚悟は良いか、おふたりとも」
イリーネとクレイザは神妙に頷く。覚悟など、とうの昔にしていた。