◆刻まれし時(4)
相変わらず化身もせず、金髪の青年はナイフを握って庭園に佇んでいる。ヒューティアとチェリンを前にしても、身構える素振りすらない。それでいてふたりの化身族と互角に戦うのだから、とんでもない男だ。
「まさかそちらから出向いてくれるとはな。探す手間が省けたというもの」
アスールはゆっくりと剣を抜き放ち、フロンツェとの間合いを計る。カイはゆっくりと移動し、フロンツェの側面にまわる。
「イリーネとクレイザはどこだ?」
「……」
「ま、答えが返ってくるはずもないな。貴様のようなメイナードの傀儡、相手にしているほど暇ではない……退かぬのであれば、押し通る」
アスールの言葉に対するフロンツェの返答は、言葉ではなく態度だった。腰を落とし、両手に握ったナイフを構えたのだ。アスールやチェリン、ヒューティアも緊張感をみなぎらせる。カイも化身し、いつでもフロンツェに飛び掛かれるように身を低くした。
膠着はフロンツェが破った。前方のアスールへと飛び掛かる。
神速の一撃だった。カイの優れた動体視力ですら、前兆を捉えられない。飛び掛かる相手を定める視線、地面を蹴るときに現れるはずの足の筋肉の硬直。それらを見て相手の動きを予測するのが定石であるというのに、【獅子帝フロンツェ】という男はそれすら見せない。ああ、足に力を込めずとも、フロンツェは移動できるのだ。跳躍したように見えたそれは、単なる前進に過ぎないのか。見切れるはずがない。
だが、アスールは見切っていた。思えばこの男も、敵になれば死神のような剣を振るう戦士だ。暗殺術を会得して身につけた、気配を消す能力。戦士として磨き上げた、気配を察する能力。どちらかを得意とする剣士は数多く存在しても、双方ともに達人並みの剣士はそういない。
そういない剣士のひとりが、このアスールという男だ。
左右どちらのナイフが振り下ろされるかは直前まで分からない。それを見定めるまで、どれだけ肉薄されようとアスールは動かない。それは死と紙一重の度胸だ。
左のナイフが、アスールの首を掻き切らんと振りかざされる。アスールは剣を振り上げ、フロンツェの一撃を弾き飛ばした。
最初は不意打ちされ、手も足も出なかった。二回目は用心していたのに、翻弄された。
では、三回目の対峙となる今回は。
「――そう何度も、通じると思うな」
フロンツェの剣技は、完全に見切られている。
弾かれたフロンツェめがけ、チェリンとカイが同時に飛び掛かる。チェリンの殴打は躱され、カイの牙はフロンツェの服の袖を僅かに食いちぎるに留まる。
空振りをしたふたりに、フロンツェは闇の槍を飛ばした。カイが氷壁を創りだし、チェリンが重力をぶつけて槍を消し飛ばそうとするより一瞬早く、神々しいまでの光が放たれた。一瞬後には、闇の槍は跡形もなく消えている。その先に立つのは、ヒューティアだ。
世に蔓延る怨念を具現化し、様々な形に変貌させる魔術、“邪気”。本来見ることも触ることもできないもので、扱いも難しいことから、闇魔術についてはカイも詳しくない。ただ、「当たればただでは済まない」ということだけは、本能的に知っている。負の感情は人々の身体を蝕み、理性を失わせる。それがどれだけ恐ろしいことかは、想像するだけでも分かるだろう。
打ち払う方法は、ただひとつ。
闇魔術と対をなす光魔術だ。
空間を燦然と照らし、邪悪を浄化する神の光、“天光”。攻撃手段としての光魔術は少々頼りなく見えるが、その真価は闇属性魔術の使い手を相手にした時に発揮される。どれだけ濃い闇であろうと、照らすことのできる光。強い光は熱をも発し、邪気を燃やし尽くすのだ。
その光魔術の使い手、【光虎ヒューティア】。彼女こそ、対フロンツェの切り札だった。賞金ランキング第六位に名を連ねるヒューティアの魔術ならば、いつぞやニキータが言っていたように、『派手に往生できそう』なのであった。
ヒューティアが光弾を放つ。“暁光の一撃”という光属性の基礎魔術だ。ひとつひとつは威力の弱い光弾であるが、それが無数に発生すれば話は別だ。フロンツェはナイフを振るって光弾を打ち払う。打ち払われた光弾は、しかし消えることなく、僅かな光を発しながらその場に留まった。この微かな輝きが、闇に身を置くフロンツェにはかなりの刺激になっているようだ。フロンツェが眉をしかめる。
無数の光弾を放ちながら、ヒューティア自身も飛び掛かった。光弾の合間から突如姿を見せたヒューティアに、フロンツェの反応が遅れる。
ヒューティアがフロンツェの左腕に噛みつく。普通ならば噛み千切られる勢いだったが、フロンツェも黙って噛まれてはいない。腕の一振りで虎の巨躯を引き剥がす。だがその腕からは血が滴っている。
それを見てカイは、少しほっとした。この得体のしれない男も、怪我をすれば血を流す。きちんとヒトの身体をしているではないか、と。
よろめいたフロンツェを、アスールが追撃する。右のナイフが弾き飛ばされ、左のナイフにヒビが入る。チェリンがフロンツェの真上から叩きつけた重力が、フロンツェの自由と素早さを奪う。
飛び掛かったカイの当て身をまともに受けて、フロンツェは城壁に叩きつけられた。そのまま力なく草の上に座り込む。叩きつけた瞬間、鈍い音がカイの耳に響いていた。おそらく肋骨と、足の骨を折っている。立ち上がれまい。
手負いのフロンツェに向けて、アスールが切っ先を向ける。カイはそれを見て化身を解き、アスールを制した。
「アスール、待って」
「なぜ止める、今を逃せば……!」
「分かってるよ。でも俺、イリーネと約束したから」
アスールも思い出したらしい。イリーネが象の双子に、フロンツェと対話を試みると約束したことを。思い出しはしたが、アスールの表情は複雑だ。それはそうだろう、アスールにとってフロンツェは父王の仇。本当は今すぐにでも殺してやりたいはずだし、彼は周りが思っているほど清廉潔白な男でも、有言実行の男でもなかった。イリーネが何と言おうとここにはいない。フロンツェとの対話を試みる気がまったくないことが、その態度にも明らかだった。不実な男だ、まったく婚約者とも兄貴分とも思えない。
とはいえ、アスールは物分かりの悪い男ではない。カイの言葉を受けて剣を引き、警戒だけは解かないままに半歩退く。何かあれば即座に斬るつもりだろう。
カイは城壁に背を預けたまま座るフロンツェの前に歩み出る。呻きの声すらあげないフロンツェではあるが、僅かにその肩が上下している。息が上がっているようだが、その程度で済んでいるのが恐ろしいものだ。骨が折れていなければ、まだまだ戦えるのではないだろうか。
「フロンツェ、あんた、シャルマとカリナを育てた『お兄さん』でしょ」
そう声をかけても、フロンツェは顔をあげない。
「あのふたり、あんたのことを心配してるよ。契約具を奪われて、捨て駒のようにされたと分かっても、あの子たちはあんたのことが好きだと言った」
まだ、フロンツェは動かない。
「あんたはどう思ってるの? なんでふたりを助けた? なんで一緒に暮らした? なんで契約具を奪っておきながら、それをチャンバに置いて行った? ――あんたも本当は、あの子たちが大事なんじゃないの?」
軽く握られたフロンツェの右手の指が、ぴくりと動いたのが見えた。
「メイナードに契約具を奪われ、あの子たちの命を盾にされ、やむなく従っている。本当はそういうことじゃないの? シャルマとカリナは無事だよ。契約具も返して、今は平和に暮らしている。あの子は俺たちに、あんたのことを頼んできたんだ。応えてやってよ」
それはカイの推論に過ぎない。【獅子帝フロンツェ】は本心からメイナードの思想に賛同しているのかもしれない。だが別に真実はどうでもいいのだ。何かこの男の凍てついた心に響くものがあれば、何か話してくれるかもしれない。
「言葉が分からないわけじゃないでしょ。何か言ってくれないかな」
「……」
「――エラディーナが生きた時代に、【獅子帝フロンツェ】と呼ばれた化身族がいたらしいんだけどね。名前が同じなのは偶然? 意図して? それとも……本人?」
「……」
「もし本人だとして、四千年近い時間を若い姿で生きているのだとすれば……それは古代の、とびっきり強い神属性魔術なのかな。もしくは、呪いか何か?」
初めて、【獅子帝フロンツェ】が動いた。
それは本当に、この若者と顔を合わせてから初めてのことだった。フロンツェの作り物めいた顔に、表情が浮かんだのだ。そこにあったのは――怒りか、憎しみか。ともかくも、それは激情に類するものであった。
カイの足元の土が、突如として漆黒の闇に染まる。硬い地面は一瞬にして底のない沼のような柔らかいものへと変貌した。カイの足が沈む。引きずり込む気だ。
カイの反応は遅れた。だが、この不意打ちにまったく動揺しなかった者がいる。無論のことアスールであり、歴戦の勇者ヒューティアもまた、一切の油断をしていなかった。
アスールがカイの腕を引っ掴み、沼地から救い出す。間髪入れず、ヒューティアの光弾が闇の沼に放り込まれ、中和された。カイは肩越しにアスールを見上げる。
「ありがとう」
「どういたしまして。十分に待ったからな、カイ、そろそろ覚悟を決めろ」
「……そうだね」
これ以上対話を試みても成果は上げられそうにない。そればかりか、仲間たちを危険に晒してしまう。それはカイの本意ではないし、イリーネも望まないだろう。シャルマとカリナには申し訳ないが、後々の障害になる者は、討ち果たすしかない。
壁に縋りながら、フロンツェが立ち上がる。そうしている間にも、闇の槍が何本もカイたちに向けて撃ちだされた。フロンツェはカイと同じくらい、もしかしたらそれ以上の魔力の持ち主。身体はぼろぼろでも、精神力が衰えていないのであれば魔術は撃てる。自らナイフを手に斬りこんでくる方が、また戦いやすかっただろう。これでは近づけなくなっただけだ。
アスールが剣で槍を打ち払う。チェリンは庭の大木を盾にして身を守り、ヒューティアは光弾をぶつけて槍を相殺する。
カイもまた化身して対処しようとしたのだが――
「……!?」
いくら念じても、己に命じても、化身できない。
「カイ!」
アスールがそれに気づいて名を呼ぶ。
目の前に槍が迫っていた。カイは咄嗟の手段に出た。それは賭けでもあった。なぜか化身ができない今、魔力までも封じられているのではないか。もしそうならば、カイは戦う力を完全に失ってしまうことになる。
結果としてそれは杞憂だった。カイの意思に応じ、空気に含まれる水分を急速に凍結する。それは瞬時に鋭い刃を形成し、即席の氷の剣が出来上がった。
氷の剣を掴み、振るう。闇の槍は弾き飛ばされ、同時に氷の剣も僅かに削れて破片が飛び散った。だが削れた部分を、すぐさま新たな氷が埋め合わせる。そうして氷の剣は、カイの手の中で強度を増していく。
再び槍の闇が飛来し、それを打ち払う。カイには剣の心得などない。ただ天性の戦いのセンスだけで剣を振るっているに過ぎず、アスールの剣などと比べればお粗末なものだ。だがカイの剣は刃こぼれを知らず、また消耗品でもある。剣に対する気遣いがない分、カイも大胆に動ける。
アスールがカイの前に立ち、槍をまとめて弾き飛ばす。背を向けたまま、アスールが問いかける。
「何が起きた?」
「さあ」
カイの答えは冷淡を極めたが、分からないものは分からない。フロンツェの魔術を受けた覚えはない。もしや、契約具を手にしたメイナードが何かしたのか。
――そういえば、フロンツェも化身をしない。この男も、化身ができないのではないだろうか。
“凍てつきし礫”がフロンツェめがけて豪速で飛ぶが、途中で必ず槍と激突して撃ち落とされる。カイが礫を操作できるように、フロンツェも槍を好きに動かせるのだ。無数の槍はフロンツェの身を守る壁でもあった。それでいて攻撃もしてくるのだから、厄介でならない。
けれども、魔力はいつか尽きる。ただでさえこの男は散々魔力を用いての攻撃をし、城の天空を覆うほどの強力な魔術を行使しているところなのだ。限界は、思いの外早いはず――。
槍が途切れた。それは本当に一瞬のことで、フロンツェにしてみれば息継ぎをしただけのようなもの。だが十分な時間だ。
カイが氷槍を投じる。アスールが突きの構えで突進する。
氷槍はフロンツェの足を貫いた。アスールの剣は肩を貫いて大木に縫い付けた。
そして――胸のど真ん中に、どこかからか飛来した黒い矢が突き立ったのである。
闇の槍はその瞬間に消え失せた。静寂が訪れる。フロンツェが完全に動かなくなったのを見て、ようやく肩の力を抜くことができた。
カイは振り返り、上空から舞い降りてくる巨大な鴉に恨み節を投げかける。
「遅い、ニキータ。何やってたんだよ」
「うるせぇ、ここから塔がどんだけ遠いと思ってるんだ。上空には魔力の壁があったから、飛んでこれなかったんだよ」
いつも最後に登場するニキータが、肩をすくめて弁解する。塔の頂上付近でこの戦闘の様子を見たニキータは、しかしそのまま窓を開けて飛び立つことができなかった。だから徒歩で地上まで降りて、そこからやっと駆けつけてきたというわけだ。ご苦労なことである。
化身を解いたヒューティアが、空を見上げる。必死でフロンツェの魔術を防いでくれたヒューティアの顔には、しかし疲れはさほど見て取れない。
「魔力の塊、消えたみたいだね」
「だな。まあ、術者が力尽きれば当然だ」
ニキータの言葉を聞きながら、もう一度カイは化身を試みる。……やはりできない。ということはつまり、フロンツェの術ではないということだ。
「結局、何も聞けなかったわね」
チェリンは動かないフロンツェを見やって呟く。最後までメイナードは現れなかった。忠実に命令をこなしていたフロンツェをも、メイナードは使い捨てたのだろうか。
「聞かなくていいのさ。今更聞いても、どうにもならんからな。それより随分と時間を稼がれたぞ。イリーネとクレイザの捜索を再開しよう。カイ坊、まだイリーネの気配は追えないのか」
「まだも何も、契約具が外れちゃったら俺は……」
「本当に? 本当にイリーネの気配、感じないのか?」
何やら含みのある言い方だ。カイは怪訝に思いつつ、神経を研ぎ澄ました。
仲間たち以外に、この城内のヒトの気配がない。どこまでも静かで、以前までのカイならば大好きだった環境だ。不思議と今は、この手の静寂が苦手だった。一度暖かさを知ると、寒い場所へは戻れないものなのだ。
静かで冷ややかな世界の中で、ほんの一瞬だけ、暖かい気配がした。蝋燭の火が消えそうで消えない、そんな小さな明るさ。だが、確かにそこにある。
知っている。イリーネの気配だ。
「……あ」
カイがぽつりと声を上げ、顔をあげる。その視線の先にあるのは西、本城だ。ニキータがにやりと口角をあげたのが、視界の端に映った。
と、巨大な鳥がカイたちの傍へ降りてきた。エルケとアーヴィンだ。上空の魔力が消えて動き回れるようになったのだろう。
「みんな無事か?」
「アーヴィン。そちらもなんともないようだな」
「ああ、上空に敵らしい奴はいない。やっと気配も追えるようになったぞ」
カイははっとして振り返り、地上に降りたアーヴィンの腕を引っ掴んだ。あまりに急なことに、少年は呆気にとられている。
「な、なんだ、【氷撃】……?」
「イリーネは? イリーネの気配、どこにある?」
アーヴィンは少し黙り、それから腕をあげて方角を示す。彼の指は、真っ直ぐに本城を指していた。
「イリーネさんも、クレイザさまも、王太子カーシェルも。みんなの気配、あの城の中にあるぞ」
カイが感じたイリーネの気配は、気のせいでも勘違いでもなかった。ならば今もカイの感覚の中で暖かい光を放っているのが、イリーネ。その気配を辿れば、イリーネの元にたどり着く!
「ありがとう、アーヴィン。本当に」
「い、いや、はは……これくらい当然」
「ついでにもうひとつ頼まれて。離宮の中にラウラって名前の女のヒトがいるから、そのヒトをハインリッヒ先生の家まで連れて行ってあげてくれないかな。人質にされてた、先生の娘さんなんだ」
「分かった、任せておけ。送り届けたらすぐ戻るから、それまでにイリーネさんとクレイザ様を見つけておけよ!」
ちゃっかりラウラのことを押し付けられても、クレイザは不満ひとつ言わずに上機嫌だ。カイに真っ向から礼を言われたのが嬉しかったらしい。嘘偽りなく、カイは心からアーヴィンに感謝していた。これまでの経験から、アーヴィンの「ヒトの居場所を突き止める能力」を信頼している。そのアーヴィンが言うのだから、カイの答えもきっと正しい。
イリーネもクレイザもカーシェルもいるのなら、きっとメイナードもいる。彼がどの程度の魔術の使い手で、武芸を身に着けているのかは知らない。知らないが、【獅子帝】を倒したいま、恐れるものがあるとすれば――それはイリーネたちの命を奪われることのみ。さっさとイリーネらと合流して、メイナードと対峙することにしよう。
アーヴィンは離宮へとラウラを探しに駆けだす。カイたちは来た道を戻り、本城へ。道しるべができただけ、カイの足取りは軽い。
(大丈夫。すぐ行くから)




