◆刻まれし時(3)
「――! まずい」
東の離宮へ移動していたカイがぴたりと足を止めた。あまりに唐突に立ち止まったため、アスールがカイの背中に激突しかけてなんとか避ける。
「どうした? イリーネに何かあったか?」
「イリーネから契約具が外れた。契約が解かれたんだ」
チェリンとヒューティアが同時に「えっ」と声をあげる。カイはこめかみを揉んで、なんとかイリーネの気配を探ろうと神経を研ぎ澄ます。だが、今の今まで鮮明に感じていたはずの気配はぱったりと消失していた。
契約とは、化身族と人間、両者が互いを認識していないと結ばれない。カイの契約具をいま誰が持っているのか分からないので、カイは未契約に戻ったのだ。よって契約主の心の動揺で動きを制限されることはないが、同時に契約の恩恵も失った。それに、契約具を砕くことは誰にでもできる。いよいよカイの命の危機だ。
ニキータは腕を組み、空を見上げた。徐々に状況が悪くなっていくカイらと違って、今日は見事な晴天だ。リーゼロッテの冬は雨も少なく晴れの日が多い。典型的な冬の一日だった。
「高いところから探せればいいんだが、魔力の天井があるせいで飛べそうにはないな」
エルケとアーヴィンの侵入を拒む、目に見えない魔力の壁。ニキータは徒歩で王城の敷地内に入ったから、今はまだ影響を受けていない。しかしひとたび化身して飛び上がれば、天井に頭をぶつけてしまうだろう。高さを武器にしていたニキータが低空飛行しかできないのは、戦力面から見ても痛手だった。
「……とにかく、このまま離宮に行こう。イリーネとクレイザと合流するのが先だ」
カイの言葉にアスールも頷く。気配が途切れる直前まで、イリーネの気配は一所に留まって動いていなかった。心の乱れもなかったし、もしかしたらイリーネがカイの身を気にして自ら契約具を外したのかもしれない。とにかく、イリーネが瞬間移動でもしない限り、どこかへ移動するにしてもそう遠くへは行けないはずだ。
そういうわけでカイたちは移動を再開したのだが、これがどうにもままならない。というのも、本城を囲む庭園はまるで迷路のようになっているのだ。庭師が綺麗に刈り込んだ垣根や、芸術的に獅子や虎などを模して造られたトピアリーが歩ける場所を狭め、行き止まりや分かれ道をいくつも有する複雑な庭園ができあがっている。季節の花が咲き乱れ、バラのアーチなどは溜息を吐くほど美しいのだが、急いで庭園を突っ切ってしまいたいカイたちにしてみれば迷惑以外の何物でもない。高い垣根がそのまま壁の役割も兼ねているので、飛び越えるわけにもいかない。おぼろげながらも道を把握しているアスールとニキータの記憶を総合して、なるべく道を間違えずに進んでいくしかなかった。
「くそ、なんて入り組んだ庭なんだ。これじゃ遭難者続出だろうに」
「怪しい輩が城に近づかないようにするための措置なのでしょう。……それにしても、いつもはこの迷路の中も兵士が巡回しているのだが、今日は姿が見えぬな」
好都合といえば好都合だったが、警備がいないのは確かにおかしい。この城は現在、国の中枢機関としての機能をすべて失っているのではないだろうか。教会の助言を受けながら国王が政治を行うリーゼロッテ――王権の代行者が不在のいま、誰がそれを取り仕切っているというのだ。地方領主には自治権があるため、たいした混乱に陥っていないのは不幸中の幸いだ。だが神都の直轄地である王領の都市――たとえば神都カティアそのものやエルモーの街――の住民はそうもいかない。
住民を苦しめてまで、メイナードは何をするつもりなのか。――苦しめるのが、目的なのか。なんのために? 自らの欲求を満たすため? そんな理由はどこの国だろうと、どんな時代だろうとまかり通らない。通っていいはずがなかった。
「あれ、出口じゃない?」
ヒューティアが前方を指差す。一際巨大な草花のアーチ、その先は開けていた。見たこともないほど巨大な噴水が設置されている。本城の真裏から東回りに庭園を半周し、ついに本城の正面まで出られた。
ここにも見張りはいない。植物の迷路を抜けてすぐ、一同は走り出した。ここから先の道順は、カイも把握している。この庭園を中心に、東西南北四本の道が整備されている。北に行けば城下町。南に行けば本城の内部へと通じる。そして東西の道は、それぞれの離宮へと繋がっていた。
石畳の敷かれた道を駆け抜ける。庭園から東の離宮までの距離は長いが、一本道だ。誰かが離宮から出てくれば必ず途中で鉢合わせる。それがイリーネであれば良い、と切に願うが、そううまく行くはずもない。何者の姿も見えぬまま、離宮の門前にたどり着いてしまう。かなり長い距離を、しかもヒトの姿のまま走ったから息が切れた。
離宮の門は開け放たれていた。息を整えつつ、カイは煌びやかなその建物を見上げる。離宮とはいうが、ここは王族に輿入れした女性のための住まい。正妃であったエレノアは本来ならば本城のほうに部屋を持っていてしかるべきだが、身体の弱い彼女のため、ヒトが少なく静かな場所をと、この邸宅を与えられたのだという。人間関係のごたごたからも隔絶された、平和で自由な箱庭。思い出のすべてはここにあった。
「……懐かしいな」
隣でアスールがぽつりと呟く。カイも真剣に頷く。
「涙が出そうだよ」
「嘘だな」
「ひどいな。半分くらいは本当なのに」
そう、本当だ。この離宮はカイの記憶と何も変わっていない。木の数、建物の色、細かい彫刻、昔イリーネたちが遊んでいた遊具まで、そのままになっている。ああ、カイがいつも寝ていたお気に入りの場所は、あの大木の根元の茂みの中だ。まるで時間が止まったかのよう――今にも屋敷の扉を開けて、「美味しい果物を頂いたのよ、一緒に食べましょう」とエレノアが呼びにやってきそうだ。
「おい、浸るのは後にしてくれ。とにかく手分けして、離宮の中を探すぞ」
ニキータに言われて、本当に浸りかけていたことに気付く。カイは思い出を振り払い、頷いた。
カイとアスールは屋敷の中を確認する。チェリンとヒューティアは離宮の庭。機動力のあるニキータは、奥にある塔へと向かう。この塔はかつてクレヴィング家の使用人たちが使用していた場所で、最上階には見張り台も備わっている。西の離宮にも同じ塔があり、カーシェルはそこに監禁されていたらしい。ヒトが閉じ込められている可能性もなくはない。
一通り調べ終わったら外で合流しようと約束し、三組はそれぞれの場所へと向かった。カイが建物の中に入るのは、これが初めてだ。
入り口から一歩中へ入ると、広い玄関ホールと巨大シャンデリアがお出迎えだ。恐ろしいくらいに天井が高い。三階部分まで吹き抜けになっているようだ。
アスールは一階の部屋からひとつひとつ確認していく。大食堂、大広間、応接室、書庫と、数多くの客室。ちなみにアスールはこの客室のひとつに間借りしていたらしい。つい柱に刻んでしまったアスール少年の身長を示す線が残っているのを見つけて、アスールは苦笑した。今考えるととんでもないことである。
玄関ホールまで戻って階段を上がり、二階へ。二階が主にエレノアたちが使っていたフロアだ。エレノアの私室、その隣のサロンからテラスにも出られる。そういえばこのテラスでイリーネたちはよくお茶をしていて、庭にいるカイに手を振ってきたのだったか。
廊下に戻って、アスールは向かい側の扉に手をかける。
「その部屋は?」
「カーシェルの部屋だ」
言いながらアスールは扉を開ける。その瞬間に彼は半歩後ろに下がってきたので、続いて室内に入ろうとしていたカイが慌てて後退する。何事かと室内を覗き込んで、カイは息を呑んだ。
「なんだ、これ……血まみれじゃないか」
「……やはり血か?」
「うん。この臭いは血液だ」
認めたくない現実に息を吐き出しつつ、アスールは室内に入る。万一のために扉は開けっ放しにして、カイもそのあとに続いた。
「まさか、イリーネやクレイザ……カーシェルの血なのだろうか」
「別人の血かもよ。こんなまんべんなく室内に血が飛び散るなんておかしい。事前に集めていた血をこの部屋に塗った……としか思えないよ」
刺されたのなら、多量の血が床に滴る。殴られたのなら、殴った方向に血が飛び散る。だが大量の血だまりもなければ、血のこびりついた向きはてんでばらばらだ。まさか室内中を歩き回らせながら殴ったとでも言うのだろうか? そんな滑稽な状況は想像がつきにくい。
やけに冷静に分析するカイに意外そうな目を向けて、アスールはさらに室内を調べる。カイもまた考える。――これが一人分の血だとしたら、失血多量で死ぬレベルだ。これがイリーネたちの血ではないと否定するしか、カイには他がなかった。イリーネたちがここで傷つけられたという可能性なんて、考えたくもない。
手遅れだったら、どうする。
一瞬その考えが頭をよぎったが、カイは唇を噛んでその考えを放棄する。冷静になれ。この部屋の血は少し乾いてきている。血が乾くにはそれなりの時間がかかる。特にこの部屋は閉め切られていて、風もない。そしてついさっきまで、イリーネたちの気配をカイはこの離宮に感じていたのだ。時間だけ考えても、イリーネらの血である可能性はないはずだ。
「……カイ、こっちへ!」
と、アスールの声が聞こえた。室内から隣室へ向かう扉が開いていた。そこは寝室だ。
アスールが立っていたのは、太い柱の傍だった。床を指差すので視線を落とす。そこには割れた皿と見られる陶器、血の雫が数滴、そして解かれたロープと猿轡が二セット。
「イリーネとクレイザが脱出した跡……かな」
「おそらくな」
言いながらアスールは棚の上に飛び乗り、天井板を開けて天井裏を確認している。それが済むとすぐ、床に降り立つ。
「天井裏にカーシェルが剣を隠していたのだが、それがなくなっている。その存在を知っているのはカーシェルと私、そしてイリーネだけだ」
ふたりが共にいて、無事脱出したのならそれでいい。けれどもどこにメイナードや【獅子帝】が潜んでいるとも分からない。イリーネとクレイザでは太刀打ちできないはずだ。
まだ見ていない部屋はあと僅かだ。これだけ散々探し回っていないのだ、残りの部屋にいるとは思えなかった。
「イリーネ……どこに行ったんだ……」
カイは目を閉じて呟く。アスールも眉根を寄せながら頷く。
その時、カイの耳が微かな音を捉えた。はっとして顔を上げ、正面の壁を見やる。アスールが気付いて首を捻る。
「どうした?」
「この壁の向こう、何の部屋?」
「イリーネの部屋だ。廊下の突き当りから入るのだが……何かあるのか」
「物音がした。誰かいるのかもしれない」
「なに、本当か」
ふたりは急いで廊下へ出て、突き当りの部屋の扉を開けた。すると中には確かにヒトがいた――だが、見覚えのない女性だ。心細そうに室内の椅子に座って、ただじっとしている。明らかに敵ではないし、城の者でもなさそうだ。咄嗟にカイもアスールもなんと反応して良いのか分からずにいると、女性のほうがはっとして立ち上がった。
「だ、だれ……?」
「私たちは神姫の伴をしていた者だ」
真っ先にイリーネの名を出したアスールの作戦は見事に成功した。女性は安心したように息をついたのだ。
「神姫さまの……! ああ、良かった」
「失礼だが、貴方は?」
「私はラウラ。ハインリッヒ・コンラートの娘です」
それを聞いて、カイもまたからくりを察した。それと同時に、居たたまれない気分にもなる。彼女の父はイリーネを敵に売って、そして死んだのだ。それをなんと伝えてやったらいいのだろう。
「イリーネを見なかったか?」
「さっきまで、ここに。神姫さまと、若い男性がひとり」
「それで、ふたりはどこに?」
「何か大切なものを失くされたそうで、血相を変えて外に出て行ってしまいました……私はここで助けを待つよう言われて」
カイの契約具を奪われて、取り戻しに行ったのか。離宮までの道ですれ違わなかったということは、カイたちが庭園の迷路に苦戦していたときに既にどこかへ移動してしまったということだろう。迅速な行動力に舌を巻くしかない。
「……そうだったか。ラウラ殿、貴重な情報をありがとう。ともかくここを脱出しよう……カイ、離宮の城壁は乗り越えられそうか」
「特に防衛魔術の類は感じなかった。俺が背負って飛び越えるよ。悪いけど、そこからは自力で神都まで帰って」
離宮の外の森に道はないが、真っ直ぐ北へ進めば旧市街にたどり着く。訳も分からず巻き込まれたラウラには気の毒だが、最後まで面倒を見てやることはできなかった。
ラウラは頷いたのだが、最後に一つだけと、こう尋ねた。
「父は無事なのですか? 神姫さまもお連れの方も、そう尋ねた時お顔の色が悪くて……もしかして何かあったのですか?」
アスールは沈黙する。イリーネたちはハインリッヒが敵に情報を流してしまったことを知らない。それでも何か思うところはあったのだろう。
代わりにカイが口を開く。
「ハインリッヒ先生は亡くなった」
「……えっ?」
「イリーネのために戦ってくれたんだ。だから俺たちは、何としてでもイリーネたちを助け出さなきゃいけない。先生のためにも」
嘘は言っていない。だが、これ以上本当のことを告げるつもりもない。それがラウラのためになるかは分からないが――愛娘と愛弟子を天秤にかけざるをえなくて、娘を選び、苦しみ抜いて自ら命を絶ったハインリッヒに、『裏切り者』の烙印を押したくなかった。そのことでラウラに苦しんでほしくもなかったし、自分が人質にされたということを知ってほしくなかった。どちらもカイの勝手な考えでしかないのだが――
何も知らないでいることも、時には大切なのではないだろうか。
「……そう、ですか。……なんとなく、そんな気はしていたのです」
ラウラは悲しげだったが、沈鬱ではなかった。ただ深々と、カイとアスールに頭を下げたのだ。そしてはっきりと、「ありがとう」と口にした。カイもまた、小さく頷いたのだった。
ラウラを連れて、カイとアスールは一階へと降りた。おそらくチェリンたちやニキータのほうでも収穫はなかっただろう。とにかくラウラの話を仲間に伝えて、捜索範囲を広げなければ――そう思っていたのだが、玄関ホールまで降りてきたところで、轟音が響いた。地面に何かが勢いよくぶつかった音。木でも倒れたのかというほどの音と、地響きだ。建物の外から聞こえてくる。
「……戦いの音!?」
アスールが剣の柄に手をかける。カイはラウラを振り返った。
「ラウラ、絶対建物の外に出ないで。覗き見るのも駄目だよ」
「は、はい……!」
ラウラは階段の真下の柱の陰に隠れる。カイが扉を開けると、まず真っ先に見えたのは巨大な虎の後姿だった。その傍には黒兎もいる。ヒューティアとチェリンだ。建物を背にして、ふたりは何者かに向けて威嚇を続けている。
その視線の先にいたのは――探してやまない、【獅子帝フロンツェ】だった。




