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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
7章 【女神微笑む地 リーゼロッテ】
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◇刻まれし時(2)

 手首で何かが擦れて、痛い。


 闇から浮上したイリーネの意識が最初に感じたのは、そんな痛みだった。

 そこで一気に目が覚めて、イリーネは顔をあげた。だがその瞬間、後頭部が固い何かにぶつかる。鈍痛に声をあげかけたのだが、そこで猿轡を噛まされていることに気付いた。イリーネは青褪めて、なんとか首を捻って後ろを見る。


 イリーネは床に座らされて、後ろ手にして柱に縛り付けられていた。足は自由になっているが、手の拘束がきつくて動けない。声もあげられず、なすすべはなかった。

 手首の痛みは続いている。後ろから引っ張られて、ロープが手首に食い込んでいたのだ。誰かが柱の反対側にいて、同じように括りつけられているのではないか。脱出しようともがいているようだ。


 その瞬間、ドンと大きな音が響いた。それに続いて、何かが床に落ちて割れる音。その音からして、瓶か皿のようなものが割れたようだ。

 ごそごそと後ろで音がする。限界まで首を捻っても、やはり柱の裏側で誰が何をしているのかが分からない。聞こえてくる物音で推測しかできなかった。


 次に聞こえたのは、ロープを裂く音だった。はっとしてイリーネが目を見開く。その何者かが勢いよく立ち上がる気配がした。そのヒトは自身にも噛まされていた猿轡をも切り裂き、床に捨てる。そして柱を回って、イリーネの前まで走ってきた。


「イリーネさん」


 それはクレイザだった。呻き声をあげるしかできなかったが、イリーネは安堵のあまり叫びたくなった。代わりに涙が滲む。柱を挟んで背中合わせに縛られながら、後ろでずっと音を立てていたのは、クレイザだったのだ。

 クレイザはイリーネの猿轡を何かで切り落とした。枷が外れると同時に、イリーネは咳き込む。そうしている間にもクレイザはイリーネを柱に括り付けているロープを切り、自由の身にしてくれた。


「大丈夫ですか? すいません、引っ張ったから手首が赤くなっちゃってますね」

「あ、ありがとうございます、クレイザさん……!」


 手を引かれて立ち上がったイリーネは、クレイザの左手から大量の血が滴っていることに気付いた。その手には割れた陶器の破片が握られている。

 縛られていたクレイザの正面には棚があり、その上にいくつもの調度品が飾られていた。クレイザはその棚を蹴り、調度品を床に落として割ったのだ。破片を足で蹴って手元まで滑らせ、それを後ろ手に握ってロープを切ったようだ。かなり冷静かつ迅速な脱出で、思わず「慣れているのか」と思ってしまう。


 クレイザの怪我に比べたら、イリーネの手首の擦り傷などたいしたものではない。破片を捨てさせ、クレイザの手の傷を治癒する。


「他に傷は? 頭とか痛くないですか、ひどく打っていたようですけど……」

「瘤ができたくらいです、大丈夫ですよ。僕は石頭なので」


 微笑むクレイザの様子に、ひとまずイリーネは安心する。こんな場合でも穏やかなクレイザの言動には、イリーネも冷静にならざるを得ない。クレイザは窓辺まで近づき、そっと外を覗く。窓から少し離れた場所に立っているのは、襲撃された時の教訓か。


「さて、ここはどこなんでしょうね。てっきり牢屋にでも入れられたかと思っていたら、こんな綺麗なお部屋だなんて」


 イリーネは室内を見回す。毛足の長い絨毯、白く美しい壁、高い天井、価値のありそうなタペストリーや花瓶――裕福な者の部屋だ。だがそんなに広くはない。室内にあるのはベッドとちょっとしたテーブル程度で、私物もなくすっきりと片付いていた。


「男性の部屋っぽいですね」


 クレイザの推測はおそらく正しい。青や黒などの落ち着いた家具の色味は男性的で、一着だけ椅子の背にかけられていたコートは明らかに男性ものだ。

 そのコートを手に取って見つめる。ふわりと、微かな匂いが鼻をついた。布の匂いではない、よく知っている匂いだ。


「……カーシェル、お兄様」


 カーシェルが身に着けていたコートだ。間違いない。何年か前のカーシェルの誕生日に、イリーネが選りすぐって贈った一品ものだったのだから。もう綻びが出ているのに、そのたびに仕立て屋に繕ってもらって、私的な時に好んできてくれていた思い入れの深いコート。

 慌ててもう一度、室内を見回す。ああ、なぜ一度で気付かなかったのだろう。ここはカーシェルの部屋、離宮で生活していた頃にカーシェルが使っていた部屋の寝室ではないか。数年前にカーシェルは本城のほうへ移って、イリーネも神姫として教会で暮らし始めてしまったから、忘れかけていた。


 イリーネは扉に駆け寄り、それを押し開けた。その先は広いリビングになっている。カーシェルはよく窓辺のソファに座って本を読んでいた。イリーネはその隣に座って、義兄の真似をして本を読んでいた。そのうちイリーネは暖かな日差しに負けて寝てしまって、気付いたらカーシェルが毛布をかけてくれている。そんな時間が、一番好きだった。幸せな思い出のすべてが、ここにあるのだ。

 ここが離宮だというのなら、迷うことはない。脱出経路はいくらでも知っているのだ。今すぐにでも出られる。


 でも、その前に。カーシェルを探さなければ。


 扉を開ける。鍵はかかっていなかった。隣室へ飛び込もうとしたイリーネの腕を、後ろからクレイザが掴んだ。一瞬遅れて、イリーネも気づく。

 イリーネの記憶にあるままのカーシェルの部屋。家具の配置も何も変わっていない。ただ、色だけが変わっていた。壁、床、テーブル、窓、扉――あちこちに、生々しい血痕がこびりついていたのだ。鉄臭い匂いもする。赤い塗料というわけではないようだ。


「――っ!」


 血の気が失せて、悲鳴すら出てこなかった。へたり込みそうになるイリーネを支えて、クレイザが先に隣室へ足を踏み入れる。すぐ傍の壁についていた血痕を見つめて、クレイザは眉をしかめた。


「まだ新しい……そんなに時間が経っていないようですね」

「そ、んな……」

「しっかりしてください、イリーネさん。カーシェルさんの血とは限りませんよ。はったりの可能性もありますしね」


 分かっている。これはメイナードの嫌がらせだ。カーシェルの部屋に閉じ込めたり、カーシェルの私物を置いたり、部屋中が血まみれになっていたり……嫌がらせだと分かっているが、それでも動悸がする。これが本当にカーシェルの血だったら? あまりに出血が多すぎる。こんなに飛び散らせるには、拷問でもしない限り不可能だ。


 イリーネは唇を噛みしめ、立ち上がった。寝室へと戻り、少々行儀は悪いが椅子、テーブル、棚の上へと順に飛び乗る。ここまで上がると、しゃがんでいなければ天井に頭がついてしまう。突然のことにクレイザも驚きの表情だ。


「イリーネさん? どうしたんです――」


 イリーネは腕を伸ばし、天井を押し上げた。いとも簡単に天井の一部分が持ち上がる。そのまま立ち上がったイリーネは、天井裏に隠されていたものを掴む。それは変わらずそこに在った。

 天井を戻し、床へと飛び降りる。イリーネの手に握られていたのは、一振りの剣だった。


「お兄様が、いざという時のために備えていた剣です……定期的に手入れはしていたから、使えるはず」


 剣を手に取ったクレイザが、鞘から刃を覗かせる。銀色に光るその刃は、いまも抜群の切れ味を誇っていることを示していた。こんな風に使うとは思ってもみなかったが、武器があるのは心強い。

 刃を納めたクレイザが、剣を握って微笑む。


「剣を振り回すくらいはできます。お借りしますね」


 剣を持つクレイザの姿は、あまりに似合わなかった。抵抗をやめ、一切の武力を放棄する決意をしているクレイザに剣を持たせるのは心苦しい。しかしその長剣は、イリーネが振るうには重たすぎる。イリーネは頷き、自身は短剣を懐に忍ばせる。これも備えてあった武器の一つだ。


「こんな警備の薄い場所ですから、脱出しようと思えばできそうですが……メイナード王子の思惑にみすみす嵌るようなものでしょうね」

「ヒューティアさんや他のみんなは大丈夫でしょうか……ハインリッヒ先生も」


 ハインリッヒの名が出るとクレイザは微妙な表情をしたが、すぐに声の調子を明るくする。


「ここで待っていれば、カイさんたちが駆けつけてきてくれると思いますよ」

「ええ……でも」

「……カーシェルさんを探したい、ですよね?」


 イリーネは小さく頷く。この真新しい血痕が誰のものだとしても、そう遠くまで行っていないかもしれない。もしかしたらカーシェルもこの離宮にいるかもしれない。そうだ、例えばイリーネの使っていた部屋とかに。


「あまり居心地の良い環境ではありませんしね。少し外に出てみますか」

「! 良いんですか? 危険ですよ」

「女性をひとりで危地に追いやるなんて、男の恥ですよ。さ、行きましょう」


 クレイザはすたすたと部屋を横切り、廊下に出る扉のノブを掴む。さすがにここには鍵がかかっていた。力ずくで破ってしまうしかないとイリーネは思ったのだが、ここでクレイザが思わぬ特技を発揮した。どこに持っていたのか、細い針金を使って簡単に鍵を開けてしまったのだ。

 針金をしまいながら、クレイザは肩をすくめて見せる。


「なんだか、最近こんなことばかりですね」

「クレイザさんは色々できるんですね。きっとカイもアスールもできないことを」

「だからこそ技術を出し惜しみしない。そう決めたんですよ」


 扉を力ずくで破れば大きな音が出た。それに気づいて兵士がやってくるかもしれない。けれどもクレイザのおかげで、静かに脱出ができた。正攻法でなくとも、鍵開け技術が褒められたものではないとしても、それで救われたの事実だ。クレイザは最近、それを真っ向から認めるようになっていた。だからこそトロイの街で情報屋に金を渡したし、するりと縄を切って脱出してみせたのだ。


 慎重に扉を開ける。廊下には兵士はもちろん、使用人さえいなかった。エレノアが亡くなり、住む者がいなくなった離宮からは、クレヴィング家の使用人たちは全員引きあげたのである。

 素早く廊下を移動して、突き当りにある部屋に入る――ここはイリーネが使っていた部屋だ。

 室内はイリーネの記憶にあるままの様相を保っていた。構造はカーシェルの部屋と同じだ。広いリビングに、寝室が隣接している。特に荒らされた様子もない――そう思って室内に入ったのだが、視線を横にずらしてイリーネは飛び上がった。窓の傍に、ひとりのヒトが倒れていたのだ。こちらに背を向けたままびくともしないが、どうやら髪の長い女性らしい。着ているのはごく普通の衣類で、侍女の制服でも教会兵の制服でもない。それに、彼女もまた後ろ手に拘束されていたのだ。


 どう見ても一般人だ。イリーネはその傍に歩み寄って女性の顔を覗き込む。三十代くらいだろうか。気を失っているだけのようだ。クレイザも頷いてくれたので、イリーネはナイフで拘束を解いてやる。すると身体が自由になったことに気付いたのか、女性が目を開けた。イリーネと真っ向から視線が交錯し、女性が悲鳴をあげかけるのをなんとか制止する。


「落ち着いて。大丈夫ですよ」

「あ……貴方は、もしかして、神姫さま……?」


 女性は言いながらも信じられないようで、目を白黒させている。イリーネはできるだけ優しく微笑む。


「ええ。貴方は?」

「ラウラといいます。旧姓はコンラートです」


 わざわざ旧姓を告げたラウラの言葉に、イリーネが瞬きをする。


「コンラート? ……もしかして、ハインリッヒ先生の?」

「はい! 神姫さまのお話は、いつも父から伺っていました」


 嬉しそうなラウラだったが、イリーネの頭は混乱している。ハインリッヒの娘は結婚して、仕事の関係でクレヴィング公領に住んでいると言っていたではないか。


「どうしてこんなところに? 何があったんですか?」


 疑問を代弁してくれたのはクレイザだ。それまで神姫に会えた喜びが恐怖に勝っていたラウラは、そこで我に返った。自分に起きたことを思い出しながら、慎重にラウラは話し出す。


「数日前、父を訪ねて神都に来たんです。そのあとクレヴィング公領へ帰ろうとしたとき、王領の封鎖が始まって……私はエルモーで足止めを食らっていたんです」

「……それから?」

「夜中、泊まっていた宿に教会兵が乗り込んできて……そこからはあまり覚えていません。気付いたらこの部屋にいました」


 ――ああ、きっと彼女は人質にされたのだ。ハインリッヒを脅すための人質に。そしてラウラ本人は、そのことを知らない。訳も分からないまま、この部屋で拘束されていたのだ。

 そうと知っても、イリーネはハインリッヒを恨むことなどできなかった。裏切られたのかもしれないけれど、責める気は毛頭ない。ただラウラが無事でよかった。今はそれしか考えられない。


「あの……神姫さま。何が起きているのでしょう? 父は無事なのでしょうか」


 不安げなその声に、イリーネは静かに答えた。


「ハインリッヒ先生なら大丈夫です、心配しないでください。……ラウラさん。絶対に貴方をここから出して差し上げます。だから少しの間、私たちのことを信じてくださいますか」

「は、はい、勿論!」


 言いながらラウラが立ち上がる。イリーネは頷き、クレイザを振り返った。


「とにかく外に出てみましょう。塀を乗り越えさえすれば、城の外に出られます……」


 その時、イリーネの長い髪がそよいだ。風が吹いている――そう思った次の瞬間、室内に強烈な風が吹き込んできた。咄嗟に顔を庇い、床に伏せる。風はすぐに止み、静かになったのを見計らってイリーネは顔をあげた。ぼさぼさに乱れた髪を振って、ラウラが溜息を吐いた。


「すごい突風……」

「――待ってください。窓、開いていないですよ」


 風が吹き込んできたほう、つまり窓の方を見て、クレイザが言った。室内の窓はどこも閉じられていて、入り口の扉も入った時にイリーネが閉めた。この部屋は密室だ。


 違和感があった。その正体は、無意識に右耳に触れた時に分かった。そこにあるはずの大切なものがない。もはや身体の一部のように思っていた、紫色の鉱石が埋め込まれた小さな耳飾り。

 カイとの契約の証、カイから託された契約具がなくなっていた。


 慌てて、イリーネは自分の足元を見下ろした。風で外れて、どこかに落ちたのかもしれない。そう思いたかったのだが、今の突風がただの自然現象ではないことも認めざるを得なかった。勿論、契約具はどこにも落ちていない。

 何者かが、風に紛れて契約具を奪って行ったのだ――。


「……嘘……そんな!」


 イリーネは駆けだした。クレイザに呼び止められて、彼が慌てて追いかけてくる気配もしたが、走ることをやめることはできなかった。カイの命そのものを、敵に渡してしまった。取り戻さなければ、カイが死んでしまう。そんな危険を見過ごすことなどできないのだ。

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