◆刻まれし時(1)
下宿屋に戻り、リビングに入ると、アスールとチェリン、ニキータが待っていた。床には下ろされたハインリッヒが横たえられ、その横でアスールは沈鬱な面持ちだ。カイが問いかける。
「先生は?」
「……手遅れだった」
「自殺……だよね」
カイが言うと、チェリンは一枚の紙を差し出してきた。何かの紙を破いて、慌てて書いたようなメモ書きだ。
「これは……」
「テーブルの上に置いてあったのよ。これと一緒に」
続いて差し出されたのは古びた鍵だ。眉をしかめつつ、カイは紙面に目を落とす。
「『出先で教会兵に見つかり、すべて話してしまいました。申し訳ありません。この償いは、我が生命をもってさせていただきます』……」
それを聞いて、アスールは長く溜息を吐いた。ハインリッヒはただの研究者。武器を持った連中に脅されて、平気なはずがない。イリーネらと親交のあった人物を片っ端から探しているのか知らないが、ハインリッヒに目をつけた教会兵の判断は的確だったわけだ。
けれど、償いの仕方が間違っている。命で償っても、イリーネは戻ってこない。こんな結末は、イリーネやカーシェルが悲しむだけだ。
「そっちはどうだった。イリーネとクレイザは?」
ニキータが問うと、今度はカイたちが俯く番だった。一度は涙が止まっていたヒューティアも、再びしゃくりあげる。
「追いつけなかった。ふたりとも、【獅子帝】に連れ去られたらしい」
「ハインリッヒさんが部屋を荒らした音に、気を取られて……その隙にイリーネちゃんたちが……」
ヒューティアの話では、一階で物音がして見に行った時、ハインリッヒは室内の家具や調度品をめちゃくちゃに荒らしていたらしい。かなり取り乱していたようで、それを慌てて止めようとしたとき、二階で窓が割れる音がした。そこで急に落ち着きを取り戻したハインリッヒは、ヒューティアに二階の様子を見に行くよう告げたのだという。そしてヒューティアはそのまま【獅子帝】を追いかけ、その間に残ったハインリッヒは自責の念に駆られて首を吊った――それが事の顛末だったようだ。
「ふたりを守れなかった……ハインリッヒさんが命を絶つのも止められなかった……! ごめんね、ごめんね……」
「ヒューティアだけのせいじゃない……! 僕だって、一部始終を見ていながら助けられなかった。僕も同罪だ」
擁護したのはアーヴィンだ。ふたりの落ち込みようは相当なものだったが、早くも立ち直ったのはアスールだ。実の父親が殺されても涙ひとつ流さなかったアスールは、このときもやはり切り替えが早かった。
「悔いるのは後で良い。それよりも、イリーネとクレイザを助け出さねばならぬ」
頷きつつ、カイは紙を裏返した。そこにも文章が書かれていた。この古びた鍵についてだ。
「『この鍵は、王家の墓から王城の敷地内へ通じる扉を開く鍵です。私の名を出せば王墓の管理人も立ち入りを許可してくれます。お役立て下さい』、か……」
「なんでそんなもんを学者先生が持っているのかは知らんが、使ってみるしかねぇな」
ニキータがふっと口元に笑みを浮かべる。チェリンが険しい表情のまま呟く。
「……罠だったら、どうする?」
「別にもうこそこそする必要はないだろ。あっちが先に手を出してきたんだ、俺らが遠慮する必要はどこにもねぇ。罠だろうが何だろうが突っ込めばいい」
諜報が専門のくせに、ニキータはこそこそするのが嫌いなのだ。本当はいつだって真正面から突っ込みたくて仕方なかったはず。
それに幸いと言ってはなんだが、身内に護衛対象がいないのだ。イリーネとクレイザがいれば守りながら戦うが、今回はそのふたりがいない。アスールもチェリンもヒューティアもアーヴィンたちも、みな身の守り方を知っている。味方の心配をしなくていいのは有難い。
「そうだね、ぶっ潰しに行こう。……でもその前に」
カイは言いながら、床に寝かされたハインリッヒを振り返った。
「ハインリッヒ先生を葬ってあげよう。このままここに寝かせて行くのは、可哀相すぎる」
「……なんだ、思ったより冷静だな。今すぐにでも行くって言うのを、ぶっ飛ばしてでも止めるようなことになるかと思っていたのに」
「俺はいつだって冷静なの。本当にふたりを害するつもりなら、連れ去ったりしないでしょ。ここで焦ったら相手の思う壺だ」
「そうかい」
ニキータは笑い、一同を見やった。
「もうすぐ日も落ちる。敵の本拠地だ、準備万端に整えてから行くぞ」
生憎カイたちの中に、神職に就いているヒトはいない。イリーネがいれば違っただろうが、ただ地中に遺体を埋めてやることしかできなかった。近くに共同墓地があるという話と、そこにハインリッヒの妻も葬られているという話をニキータが近所のヒトから聞きだしてきたので、そこに葬ってやることになった。
「いいのか、カイ」
アスールがカイの腕を掴んでそう低く問いかけてきたのは、ニキータがハインリッヒを担いで外に出た時である。室内の倒れた家具を直していたカイは、静かに問い返す。
「イリーネのことなら、さっきも言ったように……」
「イリーネのことだけではない。イリーネが連れ去られたということは、お前の契約具も敵方に渡ったということだろう。命を握られているも同然なのではないか」
「……まあ、そうだね」
契約具を持つ者の命令には絶対服従する。それは嘘だったが、契約具を砕かれれば死ぬというのは真実だった。カイの契約具はメイナードの手に渡った。生殺与奪はメイナードの手のうちにあるということだ。
「ならば、なぜそんなに落ち着いて……!」
「アスール、俺は思うんだけどね。俺の契約具をメイナードが砕くなら、それは俺とイリーネの目の前なんじゃないかな」
そう告げると、アスールは言葉に詰まった。カイは倒れた椅子を引き起こしながら続ける。
「それに、メイナードは俺の魔力に目をつけて陣営に引き込もうとしていたようだし。無差別に砕かれることはないと思うんだよ」
「……それは希望論だろう。契約具を砕かれてしまったら、気合いなどではどうにもならない。お前がいくら強くとも」
「うん。そうなったら、俺に構わず先に進んで」
アスールがカイを睨み付けた。あまりに激しい視線に、思わずカイはたじろぐ。カイの腕を掴むアスールの指に、よりいっそうの力がこもった。
「ちょ、痛いよアスール。なに? そんなに俺のことが心配?」
「……お前には分からぬさ」
「そりゃ、言ってくれなきゃ分かんないって」
「言っても分かるまい……! 私がどれだけ……どれだけこの時を恐れていたのかなど」
意外な言葉に、カイは目を丸くする。恐れ? アスールの口から、そんな言葉が出るとは。もちろんアスールだって恐れるものはあるだろう。だが、それを口に出すことは彼のプライドが許さないと思っていたのだ。
「お前たちと過ごした時間は、私にとってはかけがえのない宝。命を狙われる日々も、離宮での生活を思い出せば乗り越えることができた。お前にとってはついこの間のことだろう。だが私にとっては遠い昔のことだ。ニムの山中でお前と再会できたとき、私がどれだけ嬉しかったと思っているんだ?」
「……アスール」
「死ぬなんて許さない。全員生きて連れ帰る……必ずそうしてやるから、契約具を砕かれたくらいで死ぬんじゃないぞ」
まるで脅し文句のようなことを低い声音で告げて、アスールはその場を立ち去った。呆然とその背中を見送り、カイは苦笑する。
初めてアスールの本音を聞いた気がする。どことなく口調も、少年のように聞こえた。辛いとか、寂しいとか、そんな感情をアスールは口に出したことがない。辛くなかったわけがない――命を狙われる日々も、父親の死も、アスールの心を傷つけてきた。それをヒトに見せないように振る舞っていただけ。そんな当然のことを、カイは実感した。
いつも素っ気ない顔をしていながら、アスールは仲間たちを大切に思っていたらしい。それと同時に失うことも恐れている。そういえば、ニムで会ったころに言っていた。「またイリーネとカーシェルと四人で会いたい」と。
なんだ、子どものままじゃないか――一度心を許したらどこまでも信じ抜く、繊細で優しい、ちょっと臆病な王子様。
「……契約具砕かれたら気合いじゃどうにもならないって自分で言ったくせに、無茶言うよなぁ」
「それだけ心配なんでしょ、あんたたちのこと。いまだいぶ動揺してたわよ、あいつ」
チェリンが横合いからそう口を挟んできた。チェリンにまで心の動揺が伝わるなんて、やはりアスールらしくない。それでもチェリンはにっこりと笑う。良い変化だと思っているらしい。
「素直じゃないのね、あんたもアスールも」
「仕方ないでしょ。ひねくれた育ち方しかしてないんだから」
カイはアスールに掴まれていた腕をさする。じんわりと今も痛い。まったく手加減なしだ。
「アスールの報復が怖いから、とりあえず気合いで頑張るかな」
「そうしたほうが身のためね。でないと、あたしも許さないんだから」
「え……」
チェリンはそれだけ言い捨てて、アスールの後を追いかけて行ってしまった。カイは頭を掻き、ひとつ溜息を吐く。
「みんな素直で気持ち悪いなぁ……」
悪い気はしないけれども。
★☆
王家の墓は、その名の通り王族に連なる人々を葬るための墓地のことだ。王城の裏手にひっそりとその墓地はある。王族が葬られているのだからさぞ警備は厳重なのだろうと思っていたが、住み込みで管理する王墓管理人がいるだけで、他に人気もなく寂しい雰囲気だった。一般人の墓参りも許されてはいないし、ここを訪れる者はそうそういないのだろう。
管理人はぞろぞろと集団でやってくるカイたちを見て警戒した様子だったが、アスールが「自分たちはサレイユの歴史学者で、ハインリッヒの手伝いで王墓の遺構を調査しに来た」というような嘘をぺらぺらと並べたてると、あっさりと通してくれた。どうもこの管理人はハインリッヒに借りがあって、彼の名を出されたら頼みを聞くようにと本人から伝えられていたらしい。王墓に古い遺構があるのも真実で、古い時代の建築物の断片や、まだ誰のものか分からない墓なども多く残っているそうだ。ハインリッヒもよく研究で王墓を訪れていたのだろう。王墓内の鍵を持っていたのは、そういう理由なのだ。
広大な敷地内に整然と墓石が並んでいる。新しいものも古いものも入り混じって、それぞれに名や没年が刻まれている。墓所特有の気味悪さも、逆に神聖さもない。管理人が定期的に掃除をしているから綺麗な墓ではあったが、事務的に供えられただけの花がなんだか物悲しい。王墓というのはこんなものなのだろうか。もっと――もっと荘厳で、雰囲気のある場所だと思っていた。
「さて……王城へ通じる扉はどこかな」
墓に気を留めることもなく、アスールはすたすたと墓地内を歩いていく。そのあとに続きながら、カイはふとひとつの墓石の前で立ち止まった。立ち止まってから、なぜそうしてしまったのかをカイは疑問に思った。かなり新しい墓であるのは石の美しさで分かる。ぱっと見て分かるのはその程度だ。
墓石に刻まれた名を見て、自分がなぜ足を止めてしまったのかを知った。そこに刻まれていた名は、あまりにも鮮明にカイの記憶を揺さぶる。
第八十二代国王妃エレノア・R・クレヴィング
神暦三六〇〇年没
その墓碑を見つめたまま、カイは押し黙っていた。気付いて戻ってきたアスールが墓碑とカイを交互に見やるが、彼も何も言えない。やがてカイは溜息交じりに呟いた。
「優しいヒトほど先に死んでしまうのは、なんでなんだろうね……」
病気がちなヒトではあった。それでもいつも楽しそうで、少女みたいにはしゃぐこともあって、でも時には王妃として威厳のある姿も見せていた。あの時は、死んでしまうなんて思ってもみなかった。
十五年経ても見た目が変わらないカイとは違って、エレノアは歳の分だけ老いていっただろう。カイにとっての五十歳などまだ若者のうちだが、八十年ほどしか生きられない人間にとってその年齢は、徐々に終わりを意識し始める年齢だ。
――それでも、まだ五十歳だったヒトが。荒波に揉まれるイリーネやカーシェル、アスールを温かく見守ってくれるはずだったヒトが、無残にも義理の息子の手によって殺された。どれだけ無念だっただろう。どれだけイリーネたちは嘆いただろう。
カイは短く黙祷を捧げ、傍に立っていたアスールを振り返った。青髪の貴公子の目は、「もういいのか」と問いかけているかのようだ。
ゆっくり祈るのは、また今度だ。いまはイリーネとクレイザを探すことに全力を傾けなければ。
「奥にそれらしい扉があった。行こう」
アスールに頷いて、カイもまた歩き出す。
あまりに敷地が広いので気付かなかったが、この王家の墓は周囲を分厚い壁で囲われていた。その壁の一部に、明らかに後から建てつけたと分かる鉄製の扉が嵌めこまれている。王城と墓を行き来するための近道か、もしくは脱出路として造られたのだろう。ハインリッヒから託された古鍵で、錠を外すことができた。
いざ潜入というところで、ヒューティアがアスールに何かを差し出した。金色の指輪だ。
「アスールくん、私の契約具を預かってくれる……? 本当はイリーネちゃんに渡すつもりだったんだけど、渡せなかったから……」
「ああ、分かった。責任を持って預からせてもらうよ」
「ありがとう。さっきは遅れを取ったけど、次は違う……【獅子帝】の闇魔術は全部跳ね返すから、任せて」
ヒューティアがここまで来てくれたのは、ひとえにフロンツェの闇魔術対策のためだ。闇を相殺できるのは光のみ。カイたちには手も足も出ない攻撃を、彼女ならば防げる。
ごく当然のように契約を交わしたふたりをみて、少し複雑な表情をしているのはチェリンだ。単純な戦闘力でヒューティアに敵わないのを、チェリンは知っている。色々とコンプレックスを抱えがちなチェリンのことだ。ずっとアスールと共にいたのは自分だという自負と、ヒューティアほど役に立てないという劣等感の間で葛藤しているのだろう。
それを知っているわけでもあるまいが、当のヒューティアが真っ直ぐチェリンのところへやってきて、チェリンに真剣な顔でこう告げたではないか。
「チェリンちゃん。足手まといにならないようにするから、アスールくんとの連携の取り方を教えてね」
「え……そ、そうね。一緒にがんばりましょ」
「うん!」
無邪気の塊であるヒューティアの前には、チェリンの複雑な感情などたいした障害にならないのだ。カイは小さく苦笑して、扉を開ける。その先は整備された庭園になっていた。王城内のどこかの庭だろうが、カイもすべての庭を把握しているわけではない。まずは現在地の把握が重要だ。
周囲にヒトの気配はない。それを確認して城内に滑り込んだアスールは、辺りを見回す。
「ここは本城の真裏だな。城の周囲を取り囲む庭園の一角といったところか。エレノア様が使っていた離宮はここから東、第二妃の離宮は西だ」
「以前カーシェルが捕らわれていたのは、西の離宮のさらに外れにある塔だ。この間カーシェルとメイナードがやりあっていたのは、西の離宮の中庭だな」
ニキータの声を聞きながら、カイは目を閉じて、じっと集中する。
この城を覆うように強い魔力の壁があるというアーヴィンの言葉は正しかった。敷地内に入って、イリーネに近づいたことで、やっとカイの能力も戻ってくる。今なら化身もできるし、遠方の音も拾える。イリーネの気配も、微かではあるが感じることができた。
「……東へ行こう。そっちから気配がする」
「でも、それって契約具の気配じゃないの? もしイリーネから契約具が外されているんだとしたら……」
チェリンの言葉はもっともだったが、カイには確信がある。これは契約主イリーネの気配だ。きっと契約具がイリーネから外されれば、それもカイには分かるはずだ。
するとニキータがふっと笑う。
「冴えてるな。俺も東へ行きたかったところだ」
進路は決まった。城内に詳しいニキータの先導で、一同は東へと移動を始めた。
幼い日々を過ごした、あの懐かしい離宮へ。