◆神の都へ(6)
「お前、妙にハインリッヒと親しげだな」
ニキータが唐突にそう言ってきたのは、地下水路の通路を歩きはじめてしばらく経ったころだった。
偵察二日目の今日は、チェリンとヒューティアを入れ替えて、地下水路の様子を見に来ていた。下町のあの広場の出入り口から地下に潜り、王城がある街の南側方面へとひたすら通路を歩いている。カイにとっては通い慣れた道なので、特に迷うこともない。普段は水道管理の人間くらいしか出入りしない場所であるし、警備が置かれているようなこともなかった。やはりこの道を辿って王城の敷地内に入るのが一番だろう。王城内にはいくつも井戸や貯水池があるから、どこにでも行きたい放題だ。
勿論、クレイザが懸念していたように、カイたちの侵入経路をしぼっているという可能性も捨てきれない。地上へ出たら待ち伏せがたくさん――なんてこともあるだろうが、そこまで行ってしまえば強行突破以外に道はない。リーゼロッテの正規軍だろうが、カイたちに敵うはずもない。
とりあえず王城の直下近くにまで行って、安全を確かめよう。そういう方針で地下水路に降り、ひんやりと涼しい水路をカイの先導で進んでいたのだが、そこで先程のニキータの問いが飛んできたわけである。
怪訝にニキータを振り返りつつ、カイは頭を掻く。
「なに、急に?」
「メイザス伯爵のことはあんなに警戒していたお前が、無条件にあいつのことは受け入れたからな。基準がなんなのかが気になっただけだ」
「そりゃあ……」
昔からの知り合いだから。十五年前、イリーネの家庭教師として毎日離宮に出入りしていたハインリッヒのことは、カイもよく覚えている。その人柄も知っていた。そもそも、イリーネに関わらせる人間は、カーシェルやエレノアが厳選していたのだ。イリーネが脱走したときにはこっぴどく叱ってくれて、気弱なアスールにも喝を入れる姿をよく見ていた。ただ優しいだけのヒトではないからみなに信頼されていたし、カイもそうだった。
けれど、改めて問われると確かに自分でもよく分からない。アスールが前に分析した通りなら、打算なく協力を申し出てくる者は胡散臭いと感じるはず。ハインリッヒはまさにその通りではないか。それを、ただ知己だからという理由だけで信用したのは、いささか無防備だったのだろうか。
「ハインリッヒ先生は公権力を持っていない。何かしようとしても出来ぬはずだし……まあ、私としては恩師を無闇に疑いたくはないな」
アスールが後ろでそう言ったのが聞こえる。ニキータはふっと苦笑を浮かべた。
「俺にとっては、メイザス伯もハインリッヒも初対面の相手だからな。お前らが大丈夫だって言うんなら、それでいいんだけどよ」
「……」
「ところでカイ坊、この道どこまで続くんだ? 往復することを考えると、このペースじゃ日が暮れちまうぞ」
「いまは貴族街の真下くらいだから……あと半分くらい?」
「結構歩いたのに、まだ半分なの……?」
チェリンがげんなりと息を吐き出す。お言葉だが、これでもかなり短い距離だ。地上では住宅などがあって突っ切れない場所を、真っ直ぐに通過することができるのだから。神都のもともとの規模を考えれば、歩いていくには時間がかかることは当然だった。
しかし、異変はそのあとすぐに起こった。妙な気配を感じたのだ。敵意でも殺意でもない、しかし決して友好的ではない何者かの気配だ。
「……何かいる」
「いるな。気をつけろよ」
ニキータが後ろから警告する。言うまでもなく、全員が緊張して身構えていた。カイが軽くランプを掲げる。灯りを差し向けても、消えることのない無数の影。ゆらゆらと動くその黒い物体の中で、赤く光る眼。嫌な思い出が、カイの中で蘇った。
「うわ……暗鬼だ」
「いよいよクレイザの言う通りになってきたか……」
アスールが眉をしかめながら剣を抜き放つ。チェリンは不安げに周囲を見回した。
「まさか、傍に【獅子帝】がいる……!?」
「あの白服金髪男が闇の中で姿を隠せるわけがねぇ。多分ここにはいないぜ」
ニキータは言いながら化身し、宙に浮いた。ニキータが飛んでも余裕があるくらい天井が高くて何よりだ。カイはランプを持ったまま、狭い通路でアスールと前後を入れ替えた。カイは遠方から魔術で攻撃できるが、アスールは接近戦を挑むしかない。ヒトがひとり程度しか立てない狭い通路では、隊列を間違えると大変なことになる。
闇魔術を扱う者は、今のところフロンツェしか確認していない。この暗鬼は十中八九、彼が創ったものだろう。なぜ? カイたちを王城へ入れないためか――それとも、足止め目的か?
「……嫌な予感がする。さっさと倒して、イリーネたちのところへ戻ろう」
「倒せるか? 霊峰での暗鬼は斬っても斬っても倒せなかったぞ」
「あれは【竜王】の創った強力な暗鬼だったからね。でもこいつらは違う。俺たちでも対処できるはずだよ」
「倒せなくても、振り切って逃げればいいんでしょ。楽勝よ」
チェリンは頼もしくそう言って化身する。らしくもなくアスールが弱気だったのは、霊峰ヴェルンでの体験がいかにアスールにとって苦行だったかを示しているようだ。カイもニキータも不調だった中、戦えないイリーネとクレイザを守りながら、斬っても斬っても復活する無限の暗鬼を相手にした――悪夢だっただろう。あの時は何も言わなかったが、相当堪えていたはずだ。
しかし今回は状況が違う。恐れるまでもない。
ニキータが空中から“黒羽の矢”を撃つ。雷撃の矢は一体の暗鬼を床に縫い付け、それから小規模な爆発を引き起こした。煽られて周囲の暗鬼がまとめて塵と化した。その雷撃の明るさを目印に、今度はアスールが剣を片手に斬り込む。振り下ろしで一体、返す一撃でまとめて二体を消し飛ばす。煙のように消えた暗鬼は、復活することなく永遠に消滅した。アスールはこれにほっとしたようである。暗鬼は意思を持たぬ傀儡であり、その本領は術者が無限に生み出すことができるということにある。それゆえに一体一体はたいした攻撃手段も持たず、ただ数で圧倒してくるだけだ。ニキータが大きなその翼を一振りするだけで暗鬼は煙となって消えるほどであるから、かなり脆い存在。そんな者たちがいくら押しかけて来ようと、アスールの敵ではない。
カイとチェリンは後方で援護に徹している。アスールのためにも灯りを絶やすことはできないので、化身しないまま、カイは右手にランプを持ち、氷槍を投じて暗鬼を倒す。チェリンは“重力操作”の力を使って、暗鬼をまとめて持ち上げては壁に叩きつけたり水路に突き落したりしている。コロナでの消火活動で自信のついたチェリンは、色々と魔術の使い方を工夫しているようだ。物理的な圧力に弱い暗鬼たちは、チェリンの格好の練習相手だ。……少々やり方が虐殺っぽいが。
数は多かったが、ものの数分で暗鬼たちは片付いた。怨念や負の感情が実体化したものであるから、死体や血が残らないのは衛生的だ。アスールが剣を納めて戻ってきて、ニキータとチェリンも化身を解く。
「たいしたことはなかったな。それが逆に胡散臭いが……」
ニキータの言葉に、アスールも無言で頷く。他に敵はいないかとカイは耳を澄ませてみたが、特にそれらしいものは聞こえない。気配も暗鬼の消滅と同時に消えたし、気味が悪いくらいに静かだ。
――そのとき、急に何も聞こえなくなった。驚いてカイは自分の耳に手を当てる。気付いたチェリンが首を傾げた。
「どうしたの?」
「何も聞こえなくなったんだ」
「何もって……? 敵はいないってこと?」
「そうじゃなくて……」
言っても誰もピンと来ないのは分かっている。カイの聴覚は、みなが思っている以上に鋭敏だ。普通のヒトには、この地下水路は静かな空間に思えるだろう。よくて、聞こえるのは水路を流れる水のささやきだけ。けれどもカイにしてみれば、この地下水路は音で溢れていた。遠くにある貯水槽へ水が流れ落ちる音、どこかの隙間から風が入り込む音、地上を歩くヒトの足音や話し声――絶えず聞こえていたはずのそれらが、いま急に消えた。カイがいま聞こえるのは、傍にいる仲間たちの声だけ。当然、敵がいるのかいないのかなど聞き取れない。
あれだけ鋭敏だったカイの聴覚が、ヒト並みになってしまったのだ。こんな静寂は久々で、なんだか気分が悪い。
アスールとチェリンが怪訝な顔をする中で、ニキータだけが険しい表情で前に進み出る。
「おい、それって……」
ニキータの声がやけに大きく響いた。それと同時に、くらりと頭が軽くなった。足元が、羽毛でも踏んでいるのかと思うほどにおぼつかなくなる。
はっと我に返ったときには、カイの身体は傾き、後ろに倒れ込みそうになったのをニキータが引き上げてくれていた。頭の軽さも足の力も元に戻っていて、カイは慌てて立ち上がる。
「ど、どうしたのよ……!」
「まさか、カイの力を妨害するような何かがあるのか?」
チェリンとアスールは何事が起こっているのかを把握しかねているようだ。だがカイにはなんとなく分かった。ニキータも、それを察しているらしい。
「……イリーネに、何かあったんだ」
覚えている。サレイユのブランシャール城塞で、メイナードやフロンツェと相対したとき――あの時と似たような感覚だ。身体が重くなって、カイの固有の能力も激減した。
けれど、あの時はここまで酷くなかった。倒れるほどふらつくことも、一切の遠方の音が拾えなくなることもなかったのに。――あの時以上の危機が、イリーネを襲っている?
「急いで戻るぞ。カイ、俺の背に乗れ。その調子じゃ化身できんだろ」
ニキータの言葉に、カイは頷いた。ニキータはそのまま、アスールとチェリンにも指示を出す。
「チェリン、アスールを乗せて走れ。ちんたら歩いて戻る余裕はないぜ」
「分かったわ……!」
ニキータとチェリンが化身して、カイとアスールがそれぞれの背に乗った。カイはニキータに道順を指示し、ニキータは地下水路内をすばやく飛んだ。通路を走るチェリンも、ニキータを見失わないように全力で駆ける。
間に合え、間に合えと、カイは何度も祈った。イリーネの傍にはヒューティアがついている。クレイザもいる。イリーネだってもう、無力な少女ではない。無事であることを祈るしかなかった。
★☆
ハインリッヒの下宿屋は、朝出かけたときと同じく静かにそこにあった。だが違うところがひとつ。二階の窓が破られていたのだ。路上に破片が散らばっていないから、おそらく何者かが外から中へ飛び込んだのだろう。
「イリーネ!」
カイは名を呼びながら、玄関の扉を押し開けた。中に一歩入って、正面の階段を駆け上がろうとした。しかしカイは足を止めた。左手にあるリビングの中に、異様な光景があったからだ。後ろから同じ景色を見たアスールが、息を詰まらせる。
嵐でもあったのかと思うほどにリビングは荒れていた。テーブルは倒され、食器は割れて床に散乱している。その部屋の天井から、一本の太いロープが垂れていた。それを首に巻き付けて、宙に浮いている男性――。
「……ハインリッヒ先生ッ!」
アスールがリビングに飛び込んだ。チェリンの目配せを受けたカイは、そのまま二階へと駆け上がった。廊下を駆けて、イリーネが使っていた部屋、窓が割れていた部屋に入る。
そこには誰もいなかった。
「……」
割れた窓から、冷たい風が吹き込む。カイは窓辺に近寄って、そこから外を見た。
イリーネもクレイザも、ふたりを守ってくれていたヒューティアもいない。どうして? どこへ行ったのだ――?
「……【氷撃】!」
不意に、窓の外から名を呼ばれた。はっとして顔をあげると、エルケに乗ったアーヴィンが窓の傍まで下りてきた。アーヴィンは自分の後ろを指差す。
「乗れ! まだ間に合う!」
事情を聞いている暇もない。カイは窓枠を蹴って、エルケの背に飛び乗った。エルケはすぐに上昇して一気に加速する。さすがトライブ・【ホーク】、ニキータよりも背中は広い。
「何があったの!?」
風に声を遮られながらも、カイは声を張り上げた。アーヴィンは前を向いたまま答える。
「妙な男が、イリーネさんとクレイザ様を連れ去った……! たぶん、あれが【獅子帝】なんだろうな!」
「……!」
「ヒューティアが追いかけている! お前、イリーネさんの気配を追えないか!? 意識を失っているヒトは、気が断たれて僕もエルケも探せない!」
そう言われて、カイは目を閉じた。イリーネの気配を探す。――けれども、まったく見当がつかなかった。
「駄目だ。感覚が鈍って音も拾えない……」
「くそっ……仕方ない、ヒューティアのほうを探すぞ! あのヒトの気配はある、まだ無事だ」
ヒューティアが無事ならば、イリーネたちを追いかけているはずだ。彼女の傍に、イリーネもいるはず。それに賭けるしかなかった。
しかし、カイの祈りは天には通じなかった。
エルケとアーヴィンがヒューティアの気配を追ってたどり着いたのは、旧市街と王城の間にある深い森の中だった。いつもイリーネは脱走を繰り返していた、あの森だ。
ヒューティアはそんな森の中で、化身も解けた状態で倒れていたのだ。まわりには誰もいない。ただヒューティアはぼろぼろで、どれだけ必死でイリーネを追ってくれたのかが一目で分かった。
「ヒューティア、しっかりして」
「うう……カイくん……」
ヒューティアは身体を起こしてカイを認識すると、途端に涙を流した。土と埃と涙とで顔をぐちゃぐちゃにしながら、ヒューティアは泣きじゃくる。
「ごっ、ごめんね……! イリーネちゃんと、クレイザくん……連れて行かれちゃって……! わ、私……なんにもできなかった……っ!」
「……大丈夫だよ、泣かないで。こんなにぼろぼろになるまでふたりを追いかけてくれて、ありがとう」
「カイくん……う、ううっ……!」
大号泣を始めたヒューティアを慰めつつ、カイは森の奥を見つめる。この先には、あの懐かしい離宮がある。【獅子帝】はきっと城の中へ向かったことだろう。
「……とりあえず、戻ろう。無策のまま突っ込むことはできない……エルケなら三人くらい背負えるから、乗って」
アーヴィンの声は静かだった。いつも騒がしいと思っていたこの少年が、いまは一番冷静だ。カイも少し落ち着いて、ヒューティアを立たせる。けれども、この身に残る脱力感だけは、どうすることもできなかった。




