◇神の都へ(5)
翌日、カイ、アスール、ニキータ、ヒューティアの四人が市街地の偵察へ出かけた。アーヴィンはエルケと共に――結局下宿に泊まったのはアーヴィンだけで、エルケの姿は見なかった――神都周辺の上空の散策に向かい、チェリンとクレイザはイリーネと共に留守番だ。イリーネとカイ、アスールとチェリンの契約関係をあえて引き離すことで、一方に何かあればもう一方の化身族がすぐさま察知できるという形である。
留守番をしていたイリーネたちは、世話になる礼として下宿の中を掃除したり、ハインリッヒの雑用を引き受けたりして過ごしていた。ハインリッヒは元々、古典文学や古語を専門に研究していた学者だ。そうした書物の翻訳を引き受けて、それで生計を立てているらしい。幼いころは難解すぎてまったく理解できなかった古語の書物を、たどたどしくもイリーネは読むことができる。すべてカイの教育の賜物だ。これにはハインリッヒも驚いたようで、書物の内容を共有できることを喜んでいた。古語の中でも最も難解な神官語をカイはすらすら読めるのだと知ったハインリッヒは、本気でカイに翻訳作業を手伝ってもらいたいと思ったようだ。
カイたちが偵察から戻ってきたのは夕方だった。チェリンも終始落ち着いていたし、予期せぬ事態には陥らなかったようだ。それでも疲労感が滲み出ているのは、歩きつかれたせいだろう――神都は広い。特にハインリッヒの自宅があるのは旧市街地で、王城も大聖堂も新市街の最奥にあるのだ。行くだけでも疲れるだろう。
「お帰りなさい。どうでした?」
イリーネが問うと、カイは上着を脱ぎつつ言った。
「とりあえず王城と大聖堂を見てきたよ。確かにどっちも門扉が閉ざされて、近づけないようになっていた。入り口付近は抗議する住民で溢れていて、結構物々しかったね」
「ありゃあ、放っておいたら確実に暴動が起こるぜ。騒ぎに乗じて動いても良いが、そうなったらこれ幸いとメイナードは武力鎮圧をしてくるだろう。……まあなんにせよ、正面から乗り込むのはよしたほうが良さそうだ。民衆を巻き込みかねん」
ニキータもそう報告を添える。ここも、街道を封鎖されたトロイの街と同じだ。説明もなく城門を閉ざされて、民衆は不満を募らせている。ここにきてようやく、王権の代行者がカーシェルからメイナードに替わったことを、神都の民は痛感したのだ。カーシェルはこんな横暴はしなかった、メイナード王子は何を考えているのかと、民衆は声を上げ始めている。それはイリーネらの背を押す力になるが、同時に危険に晒すことにもなるだろう。
「明日は地下水路のほうを見てくるよ。そっちはなんともなかった?」
「はい。ずっとハインリッヒ先生のお手伝いをしていました」
「へえ、どれどれ……って、これ神暦以前の古文書じゃないか。こんなの読んでるんだ、すごいね先生」
「はは、あっさり表題を読んでしまった君に言われたくはないよ。君がそれほど古語に通じていると知っていたら、十五年前のあのとき無理にでも化身を解かせて助手にするんだったよ。今からでもどうだね?」
「遠慮しておくよ。本を読むのは好きだけど、勉強は嫌いなんだ」
それは残念、とハインリッヒは笑った。そのあとすぐにチェリンが食事を用意してくれて、和やかに夕食会が始まったのだった。
★☆
「なんだか平和ですね」
クレイザがそう呟いたのは、翌日の昼下がりのことだった。ハインリッヒに借りた書物をぱらぱらと繰りながら、時々紅茶をすする。優雅な一時だ。
「いいんですかね、僕たちこんなに暇で。下手をしたらこのまま昼寝をしてしまいたくなります」
今日カイたちは予定通り、地下水路の王城方面を偵察しにいっている。これで地下の道が使えそうならば、そこを辿って王城へ潜入することになる。イリーネとクレイザは変わらずに留守番だが、前日と違うのは、護衛として残ってくれていたチェリンがヒューティアと交代したことである。午後になってハインリッヒも買い物に出かけ、イリーネ、クレイザ、ヒューティアの三人が下宿屋に残っていた。
こうしている間にもカーシェルは窮地に遭って、遠い場所ではメイザス伯エーリッヒやファルシェが戦っている。それは分かっているが、どうにも気持ちが穏やかになってしまっているのだ。焦ってもどうしようもないのも分かっているので流れに身をゆだねているが、確かにクレイザの言う通り場違いなほど平和ではあった。
「きっと王城に入ったら、すべてが終わるまで穏やかな気持ちになんてなれないでしょうし……休めるときは、休んでおかないと」
イリーネがそう言うと、背もたれに持たれていたクレイザは微笑みながら身体を起こした。
「もしイリーネさんやカイさんが、考える前に動くタイプだったら……神都に到着して早々に、準備もなしに王城へ突っ込んでいたかもしれませんね」
「ふふ、私も本当はそうしたいんですよ。……でも、失敗できませんから。今すぐにでもカーシェルお兄様を助けたいけれど、同じくらい、みんなにも無事でいてもらいたいんです」
カーシェルの命と、カイたちみんなの命を、天秤にかけることなどイリーネにはできなかった。どちらも大切で、かけがえのない命だ。だからこそ安全な潜入路を探して、なるべく戦いを避けてメイナードの元までたどり着きたい。多少回り道になっても、短気だけは起こすまい。イリーネはそう己に言い聞かせていた。クレイザの言う通り、身内に猪突猛進な性格の者はひとりもいなかった。慎重な彼らが「行ける」と確信できるまで、イリーネは待つつもりだ。
「イリーネちゃん、クレイザくん、お茶のお代わりはどう?」
ヒューティアが紅茶のポットを持って現れた。彼女は甲斐甲斐しくみなの世話を焼いてくれる。最初のうちは恐縮していたのだが、ヒューティアはそれが趣味のようだ。どことなくジョルジュとやることが似ているので、お言葉に甘えることにする。
カップが再び、温かい紅茶で満たされる。それを見つめていると、不意にヒューティアが口を開いた。
「王城に行くときは、ふたりも一緒に行くの?」
問われて、なんとなくイリーネとクレイザは顔を見合わせた。それからイリーネが答える。
「私は行きます。メイナードお兄様と話がしたいから」
「僕も行くつもりではいますが、状況を見て判断しますよ。城の外でできることがあればそっちを引き受けますし」
「そっかぁ」
たとえば、救出したカーシェルがあまりに衰弱していたら、クレイザに付き添ってもらって先に離脱させる。たとえば、誰かが戦闘中に怪我をしたら、応急手当てをする。たとえば、傷ついた城内の人々と遭遇したら、城の外まで誘導する……クレイザになら、そういうことを任せられる。本人もそれを自分の役割だと考えているようだ。
そこで、はたとイリーネは気付いた。ヒューティアはひとりでここに来た。契約主であるファルシェは傍にいない。その状態だと化身ができない、まともに戦えないのだと、カイは言っていた。では、いまヒューティアはどういう状態なのだ?
「あの、ヒューティアさん。貴方の契約具は……」
「あ、それはね。ここにあるよ」
あっさりと答えて、ヒューティアは何かを卓上に置いた。特に目立った装飾のない、シンプルな金のリング。思い返してみれば、ファルシェがいつも指に嵌めていたもの。これこそヒューティアの契約具だ。
「ファルシェくんとの契約は一度解除してもらったの」
「! やっぱり……ごめんなさい、私たちのために」
「え?」
ヒューティアはきょとんとして、小さく首を傾げた。それから契約具に視線を落とし、またイリーネの顔を見やる。彼女の顔はいつもと変わらずに穏やかだった。
「……カイくんが、契約にどれだけ重い意味を持たせているかは分からないけれど……たぶん、私はちょっとカイくんと考え方が違うの」
「違う?」
「私はファルシェくんから力を貸してもらう。代わりに、私はファルシェくんのために戦う。そういう約束で、私たちは契約したの。助け合うためには、それが一番効果的だから」
カイは違う。カイは契約主を主と仰ぎ、その指示に絶対に従う。それは主従の契約だ。カイはそうあるべきだと思っていて、実際に実行している。契約という行為に重い意味を持たせているのは間違いない。そんなカイの考えのルーツはニキータだし、そんな彼らの様子を見てきたチェリンも、同じように考えているようだ。
だからついイリーネも、契約という行為は軽々しく行うものではないと思っていた。けれどもヒューティアの考えは違う。時と場合によって、彼女は契約主を変えるのだ。相手を守るために、最善の方法を選ぶ。
「いまファルシェくんに、私の助けは必要ない。戦力が必要なのは、イリーネちゃんたち。だから私はここに来たんだよ。私はイリーネちゃんたちを守るから、イリーネちゃんも私に力を貸してね」
ヒューティアを信じる気持ちが、ヒューティアの力を強くする。正直イリーネは、カイたちを信じるのと同じほどの気持ちを、ヒューティアにはまだ抱いていない。だが、今の彼女の言葉を聞いて、信じようと思った。自分の考えをしっかり持っているヒトは、その考えに反したことはしない。ヒューティアは怖がりかもしれないが、臆病ではないのだろう。でなければ、ファルシェの元を離れてひとりでここまで来ない。その気持ちは、信じるに値する。
ヒューティアが指輪を取って、イリーネに差し出す。複数の化身族と契約する人間はいる。軍人などがそうだ。リーゼロッテ正規軍の化身族部隊「獣軍」には「獣軍将」という立場の化身族がいて、その者が部下の化身族を統括している。そこには強固な仲間意識があり、獣軍将の判断で行動することが許されているから、契約を結ぶ必要はないとみなされている。けれどもこれは正規軍が特殊なのだ。地方領主の軍やケクラコクマなどでは、人間が化身族を支配下に置く。化身族の力を強めるためにも、また離反などを防ぐためにも、契約は有効だ。
しかし一般のハンターとして、それ以前に個人として、二人以上の化身族と契約している者はいないだろう。王城で生活していた頃はカイと契約すること自体考えてもいなかったのに、今度はヒューティアとも契約を結ぶことになった。二人分の契約具を預かるということは、命を預かるのと同じこと。かなりの責任だ。
イリーネは生唾をごくりと飲みこみつつ、その指輪を受け取ろうと手を伸ばした。
――階下で大きな物音が聞こえたのはその時だ。びくりとしてイリーネは手をひっこめ、ヒューティアとクレイザが立ち上がる。
「な、何の音……?」
「ハインリッヒ先生が帰ってきた……には、ちょっと騒々しいですね。何か物でも落ちたのでしょうか」
クレイザは窓から外を見やる。見える旧市街の路地は、相変わらず静かなままだ。ヒューティアはぐっと拳を握り、部屋の扉に手をかけた。
「わ、私……見てくる。イリーネちゃんとクレイザくんは、ここにいてね」
「あっ、ヒューティアさん……!」
止める間もなく、ヒューティアは廊下に出て行った。ぱたぱたと軽やかな足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。身を乗り出していたイリーネは、仕方なくそのまま椅子に座り直す。その心配そうな表情を見てか、クレイザは窓辺に寄りかかって笑った。
「大丈夫ですよ、イリーネさん。話の流れで、少し神経が過敏になっていただけですって」
「そ、そうですよね……」
「ヒューさんもいますし、何かあればカイさんが気付くでしょうから」
励ましてくれるクレイザに応えようと、イリーネも顔をあげる。そしてクレイザの方を見て――イリーネは凍り付いた。
クレイザの背後、窓の外にヒトがいた。地上二階、立つ場所もないというのに。
「後ろ――!」
イリーネが咄嗟に口にできたのは、その単語だけだった。はっとしてクレイザが後ろを振り向きかけた瞬間、けたたましい音を立ててガラス窓が割れた。粉々になった窓の破片を浴びたクレイザが、窓の傍から飛び退く。
「いったい何が……ぐッ!?」
クレイザの身体が吹き飛んだ。窓から飛び込んできた何者かが、クレイザを攻撃したのだ。壁に打ち付けられたクレイザは、そのまま床に倒れこんでびくともしない。壁にぶつかった時にした鈍い音は、きっと頭を打ち付けたに違いなかった。
そんなクレイザの元に駆け寄ることもできず、イリーネはただ後ずさりをするしかできなかった。室内に入ってきたその者――足取りは悠々としていて、立ち居振る舞いからは敵意も殺意も何も感じられない。だがそれこそがこの者の恐ろしさだということを、イリーネは知っていた。
金の髪、白い服。端正な顔立ちと、意志のない瞳。
「【獅子帝】……」
イリーネの背が、扉にぶつかる。開けて出て行けばよいのに、身体が動かない。こんな圧倒的な威圧感を放つ男と、カイやアスールはいつも死闘を繰り広げていたのか。
イリーネを追い詰めると、フロンツェは動きを止めた。じっとイリーネを見下ろしている。しばらくそんな状態が続いたが、ふとフロンツェは軽く頭を揺らした。今の今までフロンツェの頭があった部分を、紅茶のカップが通過する。クレイザがなんとか立ち上がり、カップを投げたのだ。だがあっさりと避けられたカップは、床に落ちて割れてしまう。
「……くっ」
テーブルにすがりながら、クレイザは呻く。頭を打って、意識が朦朧としているはずなのに。
――そうだ、イリーネも戦わなければならない。守られるだけでは、何もしないままではいけない。自分の命は自分で守らなければいけないのだ。
“止まる世界”を使おうと、イリーネは覚悟した。時を止めて、クレイザを連れて、外へ逃げる。少しでもフロンツェと距離を取れればそれでいい。一階にはヒューティアがいるし、このイリーネの心の動揺を、カイは既に感じ取っているはずだ。少しだけ時間を稼げば、それで。
だが【獅子帝】はそう甘くはなかった。イリーネが祈りの文言を唱えようと口を開けたその瞬間、イリーネの首を右手で掴んで壁に押し付けてきたのだ。緩慢な動作と対照的に、拘束する力は強い。息が詰まり、視界が霞んだ。
カイの名を呼ぶ暇すらなかった。