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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
7章 【女神微笑む地 リーゼロッテ】
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◇神の都へ(4)

 かつてこの神都カティアの中心地は、現在よりもやや東に存在していた。それが人口の増加に伴って西へ西へと森の開拓が進み、新しく造られた居住地に住民も移った。この新しい市街地と比較して、それまでの中心地は『旧市街』と呼ばれるようになったのである。

 現在でもこの旧市街地区には多くの住民が暮らしているが、人口のピーク時に比べればだいぶ減ったほうだという。数十年前から神都の人口は減少傾向にあるし、それでなくとも新市街のほうに多くの住人は移ってしまったから、旧市街はいずれ誰も住まなくなるだろう――そんなふうに、ハインリッヒは以前言っていたものである。その旧市街地に、ハインリッヒは住んでいる。


 旧市街の建物はどこも高層で、乱雑としていた。人口が急激に増えた時に、急遽増築したせいだ。新市街の居住区では整然と一軒家が並んでいるのだが、こちらは高層化した集合住宅ばかり。建物には年季が入っていて、塗装がはがれかかっていたり、壁の一部が崩れていたりと、アスールが好きそうな雰囲気で溢れている。

 程なくして到着したアスールらと合流して、ハインリッヒが案内してくれたのは、そんな集合住宅の一軒だった。聞けば、元々下宿屋として所有していた建物で、いまは他に入居している住人がいないから、丸々一軒好きに使えるとのことだ。


「旧市街には警備の目もそうそう届きませんからな。ひとまず安全だとは思います」

「ありがとうございます。本当に助かりました」

「イリーネ姫様に頼み事をされて、いったい何者が断れましょうか。何年も前に王城を辞した者のことを覚えていてくださって、私こそ嬉しかったのです」


 穏やかに微笑みながら、ハインリッヒは茶を出してくれる。それを受けとりながら、ニキータは無遠慮に室内を見回した。


「しっかし、王城お抱えの教師の家とも思えないな」

「私は平民の生まれですからな」

「王族の家庭教師ってのは、普通は貴族の識者が就く役職だろう?」

「まあなんの因果か、私の師は王家直属の研究員の方でした。その関係で、若いころは貴族の子女が通う学校で教師をしていたのです。そこで王城にお勤めの方に声をかけていただいた次第でして」


 最初こそ文官のひとりとして城勤めをしていたハインリッヒだが、その優秀な頭脳や穏やかな人柄が評価され、幼いカーシェルの家庭教師に抜擢されたというわけだ。カーシェルとの相性も非常に良かったため、その後はイリーネの勉強も任されていた。平民生まれの人間が王族の家庭教師に任じられるなど、奇跡としか言えない出世である。それでもハインリッヒは驕らなかった。給金で豪華な家でも買えただろうに、職を離れたあとに生まれ育った旧市街へ戻ったということが何よりの証拠だし、そういう穏やかなところをカーシェルもイリーネも好ましく思っていたのだ。


 と、そこでハインリッヒは急に溜息をついた。


「しかしいけませんなぁ、イリーネ姫様、お友達は慎重にお選びになりませんと。初対面の相手に敬語を使えないだけでなく、まだ名を教えてもらってもいないのにこちらの素性に踏み込んでくる。姫君のお友達としてはいささか遠慮がなさすぎる御仁のようですぞ」

「!?」


 思わぬ反撃を食らったニキータが、あわや茶のカップを取り落しそうになった。ぽかんと面喰っているチェリンに、そっとカイが説明した。


「この先生、礼儀とか言葉遣いとかにかなり厳しいよ。昔はよくイリーネとアスールが叱られて涙目になってたからね」

「へ、へえ……」


 歯に衣着せぬ物言いはニキータに通じるところのあるチェリンが、頬を引きつらせながら笑う。「先に口を開かなくて良かった」と心底安堵しているに違いない。


「礼儀って言うんならなぁ、年功序列ってもんがあるだろうよ、なあ? 俺はお前さんより百歳以上――」

「ニキータ、やめなって。ただでさえ無いに等しい品位が地に落ちるよ」


 普段は年寄り扱いを嫌うニキータがよりにもよって年齢を持ち出したところで、クレイザが穏やかに宥める。が、クレイザの言葉も大概ひどい。博識なハインリッヒはもちろん、ヘルカイヤの【黒翼王ニキータ】の勇名を知っている。そのためイリーネがすかさずニキータの素性を紹介すると、誤解を解いて納得してくれた。加えて、アスールやカイとの再会の驚きや嬉しさが大きかったらしく、ニキータの遠慮のなさで少し損ねた機嫌はあっさり直ったようだ。


 イリーネがここに来た経緯と目的をかいつまんで説明すると、ハインリッヒもさすがに穏やかではいられなかったようだ。彼が王城を去って、もう数年にもなる。すっかり市民に戻った彼には、王城の事情など遠いものだったのだ。メイナードの暴走も、王城の異変も、詳しくは知らなかった。


「カーシェル殿下がご病気で伏せられ、メイナード殿下が王権を代行している……我々の耳に入ってきたのはその程度で、特に生活に変化もなかったので誰も何も言わなかったのです。それが変わったのはここ最近のこと。イリーネ姫様がサレイユに拉致されたと発表があったあと、神都の城門は堅く閉ざされました。そのことに抗議するために、連日王城へ市民が駆けこんでいますが、相手にされていないようで」


 そう語ったハインリッヒに、カイが尋ねる。


「教会のほうは?」

「教会兵が大勢街の外へ出て行ったようですよ。それに、一般人の礼拝も禁止されてしまって、大聖堂に近づくことすらできないのです」

「ふーん……」


 カイは腕を組んで熟考を始めた。イリーネが思っているよりも、カイの思考はめまぐるしくて抜け目がない。彼が黙って何かを考え始めたら、邪魔しないのが吉だ。


 その時、玄関の戸がノックされた。おや、と首を捻りながらハインリッヒが立ち上がり、応対に向かう。何者かということについて、イリーネらは全員見当がついているのだが、それを説明する暇もなかった。

 扉の幅は、ヒトがひとり通れる程度しかない。ハインリッヒがそこに立ってしまえば誰が訪ねてきたのか、室内からは見えない。よって、イリーネに届いたのは訪問者の声だけだった。


「どなたかな?」

「わっ!? あ、えっと、僕はアーヴィンです。い、イリーネさんはいますか……?」


 初めて家に遊びに来た近所の子どものような挨拶だった。クレイザが思わず苦笑し、立ち上がってハインリッヒに声をかけ、アーヴィンを室内に引き入れてもらった。

 アーヴィンとエルケが他人の居場所を突き止めることができるというのは、どうやら本当のことだったようだ。でなければ入り組んだ旧市街の住宅の中で、ハインリッヒの自宅を見つけられるはずもない。だが、イリーネらの気配がこの住宅の中にあったことには、アーヴィンもさぞ驚いたことであろう。おっかなびっくりで扉を叩いてみて、出てきたのが見知らぬ男性だったのだから、肝が冷えたはずだ。クレイザの姿を見て明らかにほっとした様子で、アーヴィンは胸をなでおろしていた。


「お帰りなさい、アーヴィン。大丈夫でしたか?」

「ありがとう、僕もエルケも平気だよ」


 アーヴィンが笑う。そこでニキータが身を乗り出した。


「で、どうだった? カーシェルの居場所は?」

「それが……ごめん、見つけられなかった」


 笑顔が一転、少年は申し訳なさそうに俯く。これにはニキータも目を丸くしていた。空いていた椅子をハインリッヒが持って来てくれて、クレイザに肩を叩かれてアーヴィンはそこへ座る。


「ってことは、なんだ。カーシェルは城にはいないってことか?」

「いや、そうじゃない。いるにはいる……んだと思う、気配は感じたから。ただ、上空に強い魔力の壁みたいなものがあって……細かい場所の特定ができなかったんだ」


 熟考を中断したカイが顔をあげる。


「霊峰ヴェルンと同じかな。強い魔力のせいで、こっちの感覚が麻痺する。エルケの探索も、それに妨害されてうまく行かなかったんだろうね。たぶん、その壁を越えて飛ぶことはできない」

「【黒翼王】殿に対抗するために、新たに造られたのかもしれぬな」

「厄介だな。飛べないニキータなんて、ただのおっさんだよ」


 カイはそうぼやいて嘆息する。アスールが「まったくだ」と同意しかけて、あやうく口をつぐんだ。らしからぬ失態だ。幸い、ニキータは見ていなかった。

 確かに厄介だが、誰がその壁を作ったのか分からない以上は避けるしかない。もし地上も同じような魔力で満ちていて、霊峰ヴェルンの時のようになっていたら――カイは無力化され、ニキータの動きは鈍る。これからはチェリンもヒューティアもアーヴィンもエルケも魔力の影響を受けるし、あの時は神属性の魔力が満ちていたから影響がなかっただけで、イリーネも被害に遭うかもしれない。そうなれば、まともに戦えるのはアスールだけではないか。

 味方が魔術を使えるのは心強いが、敵も魔術を使うとこんなにも面倒なのか。人間が盾にするものといえば塀や扉、土嚢くらいだ。氷の壁や土の壁だなんて、人間には対処のしようもない。


「地上がそんな様子ならやっぱり、さっきの地下水路から行くしかないんじゃないの?」


 チェリンがそう言うと、クレイザは微妙な表情で首を捻る。


「確かにそれはそうですが、こうも地上の出入り口が封鎖されているとなると、地下水路へ誘導されているような気もしますね。敵がうじゃうじゃと待ち伏せている可能性もありますよ」

「うっ……」


 チェリンは反論できずに黙り込んだ。アスールは苦笑しつつ、一同を見回した。


「これは、一度確かめに行ってみないと仕方ないようだな。王城、大聖堂、地下水路……一通り回ってみようか」


 反対する者はいなかった。ハインリッヒも、拠点としてこの下宿を好きに使っていいと申し出てくれたので、ありがたくお言葉に甘えることにしたのだった。





 その日は夕方近くになっていたので、偵察に出るのは明日に持ち越されることになった。さすが元下宿屋を営んでいただけあって、大人数に膨れ上がったイリーネの仲間たちがひとりひとり泊まれるだけの個室が用意されていた。一階部分はハインリッヒの居住スペースになっていたので、イリーネたちは二階と三階部分を間借りすることになった。

 食事はイリーネとチェリン、そしてヒューティアが用意した。ヒューティアは意外なほど手馴れていて、包丁捌きも味付けも文句なしだった。ここまで必死で努力してきてやっと人並みに料理ができるようになったイリーネより、よほど料理上手だ。聞いてみれば、


「ファルシェくんが王さまになる前はね、ハンターとしてあちこち飛び回っていたから野宿ばっかりでね。保存食に飽きたから試しに簡単な料理をしたら、ファルシェくんが美味しいって褒めてくれたの。嬉しくて、いっぱい練習してたら、自然とできるようになったんだよ」

「今でもファルシェさんに手料理を?」

「うん、たまに。ファルシェくんはね、ハンバーグが大好物なんだよ。それも、ソースはケチャップじゃなきゃダメなの」

「ふふ、そうなんですね」


 ファルシェの食の好みを知ってしまったのは不可抗力だが、誰かのために作る料理は上手くなるはずだ。機嫌よく鼻歌交じりに料理をするヒューティアからは、新妻感が滲み出ていた。この家庭的で穏やかな女性が賞金ランキング第六位の大虎に化身するのだから、見た目で判断するのは恐ろしいものだ。

 恐ろしいといえば、ハインリッヒはイリーネが包丁を持っていることに戦々恐々していた。離宮にいた時は料理などしなかったし、包丁すら持ったことがなかったのだ。だからハインリッヒの不安も当然だったのだが、案外まともに食材を切ったり皿に盛りつけたりするイリーネを見て、感心したようだ。


「あれだけ剣を自在に扱うカーシェル殿下も、包丁の扱いだけはてんで駄目でしたからな。エレノア様は御自ら台所に立たれることがありましたが、カーシェル殿下にもイリーネ姫様にも決して手伝わせようとはなさらなくて……」

「……まあ、料理ができる男のようには見えぬな」

「それを思うと、アスールは万能になったものだよね。料理、洗濯、掃除に金の管理まで」

「ふっ、生活力だけならカーシェルには負けぬよ」


 そう胸を張ったアスールだったのだが、確かにアスールほど世渡り上手な王族もそういない。アスールなら剣一本で生きていけるだろうし、立派に生きていけるだろう。

 しかしながら、ハインリッヒはアスールの情けない幼少期も知っているのである。面白がったチェリンやニキータがアスールの幼少時代の話を聞きたがり、ハインリッヒもほいほい応えてしまうものだから、口封じにアスールは躍起になることになったのだった。


 場違いなほど賑やかになったのは、やはり相手がハインリッヒだからだろう。イリーネとアスールの幼少時代を知り、カイとも交友のあった家庭教師。特にカイがハインリッヒを信頼していることは大きく、チェリンやクレイザもまた警戒せずに済んでいる。ぼんやりと黙っていることも多いカイだが、その存在が与える影響は大きかったようだ。


 アスールが過去の失敗について弁解しようとしている横で、イリーネは正面に座るハインリッヒにある問いを投げかけた。ここにやってきてからずっと気になっていたことだ。


「先生、あの、ご家族は……?」


 ここは、元々ハインリッヒの妻が営んでいた下宿屋。数年前にその妻が病気になり、その看病をするためにハインリッヒは城勤めを辞めたのだ。王族に仕える者なら、そのような理由で職を辞することは許されない。だが理由を知ったカーシェルもイリーネも、ハインリッヒの願いを尊重した。二人の口添えで、ハインリッヒは多額の報酬をもらい、この下町へ戻ってきたのだ。

 だというのに、その妻の姿が見当たらない。――やはり、もう。


「妻は昨年、亡くなりました。娘の家族はいま、仕事の関係でクレヴィング公領に住んでおります」

「そうでしたか……」

「はい。……イリーネ姫様、ありがとうございます。姫様と殿下のおかげをもちまして、私は最期のその時まで、妻の傍にいてやることができました」

「いえ、私は何も。先生はこれからもずっとこちらに?」


 寂しくないだろうか。そう思って尋ねると、ハインリッヒは満足そうに笑って頷くのだ。


「思い出深い家ですので、なかなか手放せないのですよ。娘夫婦はよく会いにきてくれますし、近所の方々とも親しいので、そんなに寂しくありません。いまは孫の成長を見るのが楽しみなのです」

「……そう……良かったです。先生、ずっとお元気でいてくださいね」


 ついそんな言葉が口から出たのは、最後に見た時にはなかった白髪やしわを、たくさん見つけてしまったからだろうか。年寄り扱いされて怒るかと思ったが、ハインリッヒは「イリーネ姫様にそんな心配をされる年になってしまった」と笑う。家庭教師としての彼は厳しくて、イリーネのお転婆にもしょっちゅう頭を悩ませていたけれど、愛情を持って教育してくれた恩師だ。すっかり穏やかになって、家族を大切にするただのお祖父さんになったハインリッヒには、ずっとずっと元気でいてもらいたい。唐突に、そんな風に思ったのだ。

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