◇神の都へ(3)
広場のベンチを陣取って、慌ただしく情報が交換された。といっても、主に報告することがあったのはヒューティアとアーヴィンのほうだ。
ケクラコクマ、サレイユの連合軍と、国境の諸侯との間で戦端が開かれたのとほぼ同時期に、イーヴァン王国軍がハリマ山を越えてリーゼロッテへ侵攻した。相対したのはゴトフリート伯爵というヒトで、クレヴィング公とともに北の国境を預かる領主のひとりだった。しかし今現在、クレヴィング公が動く気配はない。当然だ、メイザス伯からの連絡で、公爵はイリーネが何を成そうとしているのかを知っている。身内であるカーシェルが安否不明になっているいま、メイナードの指示に従うはずもない。
業を煮やしたゴトフリート伯爵は、イーヴァン王国軍を押し返そうと躍起になった。猛攻を加え、逃げる敵を追撃し、ついにはイーヴァンの国内にまで押し返すことに成功した。――巧みに山岳地帯へ誘導されているとも知らずに。
「そういうわけでいま、ゴトフリート伯爵軍は狭い山道で袋の鼠状態だよ。当面の間は一切領外で軍事行動をしないっていう条件で、ファルシェくんは講和を取りつけるつもりだって」
「……ちょっと待て、まさかファルシェが前線に出ているのか?」
「そうだよ? ファルシェくんは結構強いから、心配しなくても大丈夫」
「それはそうかもしれないが……まあ、ゴトフリート伯爵も強硬な開戦論者で、聖職者として高位にあるからな。足止めは有難いことだ」
アスールが半ば呆れつつそう言うと、チェリンが肩をすくめる。
「国境地帯の貴族って、どうしてそういうタイプばかりなのかしらね」
「隣国と手を組み、リーゼロッテと敵対する恐れのあるような人物を、国境になど派遣できぬだろう。アーレンス公が良い例だ。彼が忠誠を尽くすのは個人ではなく、国家だ。ゆえに王権を握る者に服従する。握っているのがメイナードだろうがカーシェルだろうが、彼には関係のないことなのだろうよ」
リーゼロッテという国家に対する忠誠心だけなら、アーレンス公の右に出る者はいない。味方であれば心強いが、メイナードの悪行を白日の下に晒し、カーシェルを救い出さない限り、アーレンス公と分かり合うことはできないだろう。
一方、アーヴィンのほうは西の国境、つまりケクラコクマ、サレイユ軍と国境二諸侯の様子を見てきてくれていた。アーレンス公領の主都ホフマンに押し込まれた諸侯の軍は辛抱強く籠城を続けたが、状況不利と見たベルネット伯爵が降伏し、アーレンス公爵も抵抗を断念したという。
「メイナード王子がサレイユ国王を暗殺させたという事実を聞いて、さすがにアーレンス公も考えざるを得なかったみたいです。公爵も阿呆ではないから、こちらの話を聞く耳は持っていたようだ……と、ジョルジュさんが言っていました」
「アーヴィン、ジョルジュさんと親しかったのかい?」
「あっちが僕の顔を覚えていて声をかけてきたんです。アスール王子に戦況を報告してくれと」
クレイザの素朴な質問に、アーヴィンが困ったように答えた。その様子を見ると、かなり大量の報告を口頭で持たされたようだ。「不躾な臣下で申し訳ない」とアスールが頭を掻いて詫びていた。
「アーレンス公は、ケクラコクマ、サレイユ両軍の撤退と引き換えに、今後の戦において中立を貫くことを約束しました。どちらに義があるにせよ、決定的な事態が起こらない限り、アーレンスが動くことはないだろうとのことです。取引に応じて、連合軍のほうもヴェスタリーテ河の向こうまで撤退するようですよ。主だった軍幹部に損害はないそうです」
アーレンス公は、王権を握る者としてのメイナードに疑念を抱きつつある。その疑念が確信に変わった時には、もしかしたら彼はイリーネらに味方してくれるかもしれない。イリーネが失敗して殺されでもしたら、その時は改めてメイナードに忠義を尽くすのだろう――リーゼロッテ王家を絶やさないために。
とにかく、西の国境の安全は確保できたということだ。北の国境はファルシェが押さえてくれている。後顧の憂いはない。イリーネらはカーシェルの救出に全力を傾けることができるのだ。
それが分かったところで、腕を組んで聞いていたニキータがアーヴィンのほうを見やった。
「アーヴィン、お前、王太子カーシェルを見たことがあるか?」
「ああ……遠目になら」
「なら良い。エルケと共に王城へ行って、カーシェルの居所を探してきてくれ。以前と同じ場所にいるとは思えねぇし、俺は一度メイナードの奴に見つかっちまったからな」
「分かった、行ってくる」
ニキータから王城の地図の写しを受け取って、あっさりと頷いて踵を返しかけたアーヴィンを、慌ててイリーネは引き留めた。諜報のプロであるニキータが一度失敗したことを、アーヴィンとエルケが行えるのだろうか。
「そ、そんな簡単に。大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ、イリーネさん。危なくなったらすぐ逃げるし、ニキータみたいに複雑な諜報活動をするわけじゃないから」
任せておけ、と頼もしく胸を叩いて、アーヴィンは先程まで隠れていた大木に飛び乗った。その跳躍力はカイやチェリンには及ばずとも、人間の少年としては驚くほどのものだ。しばらくして、黒い影が木から飛び立った。姿が見えないと思っていたエルケは、ずっと木の幹の上で葉に隠れて待機していたらしい。反化身族の風潮の強いリーゼロッテ神国の神都ともなれば、化身した者を見るだけで住民は大騒ぎだ。それを懸念して身を隠していたのだろう。
アーヴィンは大丈夫だと言っていたが、イリーネは少々心配だ。しかし、クレイザは彼を止めなかった。クレイザのほうを振り返ると、彼は穏やかに笑って、エルケが飛び去った方角を見上げた。
「心配はいりません。あのふたり、特にエルケのほうには特殊な力があるんです。一度認識した者の気配を探し出し、居場所を突き止めることができます」
カイの超敏感な聴覚や、どこまでも見通すニキータの目のように。エルケは世界の風を読み、特定のヒトの気配だけを追い続けることができるのだという。ニキータのように、建物の構造やヒトの話し声などを聞き取って情報を得ることはできないが、ヒトを探すことだけは誰よりも迅速に行うことができるのだ。
「ああ、なるほど。だからあの子たち、いつも迷わず俺たちを探し出すことが出来ていたんだね」
カイがそう感心したように呟いた。そう言われてみれば、特に必死で探し回った様子もなく、アーヴィンとエルケはイリーネらの前に現れていた。この広い大陸で、デュエルをしようと追い回していた時も、ファルシェからの情報をもたらしてくれた時も、むしろ彼らは先回りをしてイリーネらを待ち構えていたではないか。イリーネらの進路を聞くことなど、一度もなかったというのに。
「ふたりならカーシェルさんの居場所を突き止めてくれますよ。無茶をするほどアーヴィンも愚かではありませんし、エルケが無茶をさせないでしょうから。とりあえず僕たちはどこかに落ちついて、王城への潜入経路を考えましょう」
アーヴィンのことをよく知っているクレイザがそう言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。どこかに落ちつこうというのも尤もな意見だ。いつまでも広場でたむろっているわけにもいかない。堂々と宿に泊まることも考えたが、用心するに越したことはない。どこか適当な空き家を見つけて、一晩の宿としよう――そう考えをまとめたイリーネが口を開きかけたその時、イリーネらの傍をひとりの男性が通った。彼はヒューティアに目を留めると、安心したように口元をほころばせて声をかけてきた。
「ああ、お嬢さん。連れが見つかったのか、良かったね」
「あ……!」
ヒューティアが男性に気付いて顔をあげる。ニキータが怪訝な様子でそちらを振り向いた。
「知り合いか?」
「えっとね、さっきみんなが来る前に声をかけてくれたの。ヒトを待っているのって言ったら、お話し相手になってくれて」
「いい歳して迷子だと思われたんだな……」
あんな隅っこでぽつんと座っていたら、何があったのかと心配になって声もかけたくなるだろう。容易に想像つくことで、ニキータは肩を竦めている。
温和で優しげな初老一歩手前ほどの男性だ。茶色の髪には若干白いものも混ざっているが、老人と呼ぶには憚るほど姿勢も良いし、表情も声もはっきり明るい。笑ったときの目じりにできる皺が、ヒトの良さを物語っているようだ。神都の下町の広場にいるにしては服装もきちんとしているし、医者か知識人かもしれない。
そう思ったイリーネだったが、はたと首を捻った。その男性に見覚えがあったのだ。見覚えだけではない、その声も、傍にいるときにふわりと感じた匂いも、確かに知っている。
「……ハインリッヒ先生?」
ぽつりと呼びかけると、男性がイリーネを見た。視力があまりよくないのか、じっと目をすぼめて――そして大きく目を見開いた。
「イリーネ姫様……!?」
「ああ、やっぱり! お久しぶりです、先生」
イリーネが駆け寄って、ハインリッヒの手を握る。随分と皺の多い、細い手だ。
カイとアスールが、「そういえば」とお互い頷き合う。チェリンやヒューティア、そして人脈の広いニキータとクレイザが珍しくも、事情を把握できていない。説明を乞われ、カイは一言で済ませた。
「イリーネの家庭教師だったヒトだよ、確か」
「うむ、ハインリッヒ・コンラート先生だな。私も留学中はお世話になった」
「俺も何度か夕飯のおこぼれをもらった気がする……」
「先生は犬がお好きだったからな」
「いや、どう見ても大人の目には犬に見えなかったと思うけどね?」
再会の感動もそこそこにして、イリーネは表情を改めた。
「先生、突然で申し訳ないのですけれど、どこか身を隠せる場所をご存じではありませんか?」
イリーネがサレイユに拉致されたということは公表されている。おそらく一般市民にも知れ渡っているだろう。その当の本人がここにいるのだから、只事ではないのだとハインリッヒも気づいた。驚きも動揺も押さえて、彼は頷く。
「この大人数では目立ちます。二手に分かれて移動しましょう。旧市街地の入り口で合流です」
迅速な判断だった。イリーネ、カイ、ヒューティアの三人はハインリッヒと共に目的地へ赴く。アスールが神都の地理に詳しいので、彼の先導でチェリン、ニキータ、クレイザの四人が少し遅れて続く。そういう段取りが特に考え込むこともなく採択され、実行に移されたのである。