◇神の都へ(2)
世界は色を失っていた。雲一つなかった青空も、茂っていた木々の葉も、踏みしめる土も、すべてが灰色をしていた。辛うじて濃淡はあったが、ただそれだけだ。黒の絵の具一色で描かれた絵画の世界に、突然放り出されたような感覚だ。風にそよいでいたはずの草はその姿のまま動きを止め、いままさに大空へはばたこうとしていた小鳥は翼を広げて動かない。それどころか風そのものも、暑さも寒さも感じられない。
まさしく、この空間は時の流れから切り離されたのだ。
イリーネは自分の姿を見下ろす。自分の色は失われてはいなかった。髪の色も肌の色も、衣服の色もちゃんと分かる。指も動くし、足も動いた。
仲間たちも同じだ。カイは物珍しそうに灰色の世界を見回し、アスールは自分の身体が動くかどうかを確認している。チェリンはあまりの変化にぽかんとしているようだ。
「初めてだってのに、見事なもんだ。よし行こうぜ。今のうちに街に入るぞ」
平然としていたのはニキータである。その声で我に返り、イリーネたちはただちに行動を開始した。もはや身を隠す必要もない。木々の陰から出て、一目散にエルモーの街へ向かう。教会兵たちもまた灰色の彫像と化しており、その横を悠々とすり抜けることができた。
封鎖網のすぐ背後に、エルモーの門があった。門をくぐってすぐは商店が並ぶ大通りになっており、住民が買い物をしていた。カイに手を引かれ、一行はヒトのいない裏路地に入った。そしてそこで、イリーネは時の制御を解いたのである。
何事もなかったかのように世界は色を取り戻し、時の流れに沿って動きはじめた。騒ぎが起きている様子もない。無事街の中へ潜り込めたようだ。
一安心して肩の力を抜いたイリーネだったが、不意に息が詰まるような圧迫感に襲われた。小さく咳き込むと、チェリンがそっとイリーネの背をさすってくれる。
「大丈夫?」
「ありがとう、チェリン。大丈夫です」
これが最終奥義の代償なのだろう。ほんの少し息が詰まって咳が出る――この違和感で、どれだけの寿命がなくなったのか。カイは数分から数時間だと言っていた。イリーネはそれを、たいしたことではないと思った。実際、たいした変化はない――だからこそ、使用者は代償を軽く見て乱用してしまうのかもしれない。
カイを見ると、彼は黙って頷いた。安心させるためでもあり、成功を讃えてくれるための頷きのように見えた。イリーネはそれだけで十分だ。
「さて、ここまで来れば神都カティアは目と鼻の先だ。このまま突っ込んでも良いが、当然のこと神都の城門は閉ざされている。どう潜入する?」
ニキータの問いに、路地に立ち尽くしたまま一行は考えることになった。なにせエルモーの街は封鎖され、旅の者などひとりもやってこない状況だ。そんな中で宿屋に泊るのは危険すぎる。街を出て、少し落ち着ける場所を探したほうが良いかもしれない――そんな場所が『王の森』にあるのかは置いておいて。
「西の崖下に抜け道があるけど、その先は大聖堂に繋がっているから危険だ。トリムハイム川から水を引く水路が地下にあるから、それを辿るのが無難じゃないかな。下町に出れば教会兵はあまりいないだろうしね」
抜け道をいくつか把握しているといっていたカイは、本当に詳しかった。ひとまずその道で行こうと、イリーネたちはエルモーの裏道を移動し始めた。街の中や、南口の出入り口に教会兵がいることを懸念していたのだが、姿は見られなかった。商人が来ないために物資不足になりつつあったが、エルモーの周辺の森には食物になるものがあるにはある。それを食べて、この街の人々は生を繋いでいるようだった。当分は大丈夫だろうが、だからといって放っておいていいということでもない。早い封鎖の解除が必要だ。
人目につくのを避けるため、神都へ向かう街道から外れた森の中を歩く。エルモーの街からでも、神都カティアの大聖堂の屋根や王城の塔が見ることができる。それほどにエルモーと神都の距離は近いのだ。
見覚えのある道。見覚えのある建物。フローレンツでの首脳会議に出席するために神都を発ったのは、冬の寒さが終わりを告げ、春の花が顔を見せたころだった。それから夏と秋が過ぎ、いまリーゼロッテ神国は冬を迎えようとしている。あと数か月で、丸々一年経つのだ。
色々なことがありすぎた。嫌なことばかりではない。楽しいこともたくさんあった。カイやアスールに再会できたことや、チェリンやニキータ、クレイザと出会えたことは、この上ない幸運だったと断言できる。だがそれでも、ここに来るまで長かったと、そう思うのだ。
エルモーから伸びる街道は、神都の東門に繋がっている。その街道に並行するような形で水路が敷かれていた。この水路は緩やかな傾斜がつくられており、今は地上に出ている水路は、やがて都市の地下へと潜り込む。カイはその道を辿ろうというのだ。神都の城壁内に入る地点には鉄でこしらえた扉が設けられているが、そんなものはこの面々の間にはなんの障害にもならないだろう。
しかし、そう簡単にはいかなかった。水路に沿って移動していたところで、ニキータがその歩みを止めさせた。神都の城壁まではかなり距離があるが、ニキータの並外れた視力ではしっかり確認できる。水路の扉のところに、かなりの人数の教会兵がいると教えてくれたのだ。
「さすがにこっちの侵入経路は押さえられているか。ここまで来たらもう強行突破で良いんじゃねえか……」
ニキータがまたも強硬論を口にしたのだが、その言葉は尻すぼみに消えてしまった。全員の耳に、異様な音が聞こえてきたからである。
それは獣の鳴き声だった。イリーネらがいる場所とは別の方角から、しかしかなり近い場所で、その声があがった。獰猛な大型獣の咆哮――これは。
「虎のようだな。エルモーに入るときに目撃されたものと同じかもしれない」
アスールが耳を澄ませる。イリーネは不安げにあたりを見回す。
「神都にこれほど近い場所で、虎が出たことなどそうないのに……」
神都の周囲は常に神国の正規軍が巡回していた。まず獣は近寄ってこなかったし、来たとしても戦い方を知っている正規軍は獣を追い払うことができた。いまこの場には正規軍がいない。いるのは、戦闘経験の浅い教会兵だ。それでも猛獣を放置することはしない。民衆のためというより、放置すれば教会兵たちの身の安全が危うくなるからだ。
水路を守っていた教会兵のうちの大部分が、声がした方向へ走って行ったとニキータが告げる。残っているのはほんの数人、これなら強行突破が有効だ。カイやアスールもその気になって、水路に向けて歩みを再開する。
「運がいいわね。敵の数が多くて困っているときに限って、獣が出るなんて。しかも二回も」
チェリンが感心したように言ったが、隣にいるカイは同意しかねるようだ。微妙な表情で頭を掻く。
「俺は意図的なものを感じるなぁ」
「そうなの?」
「なんかいたじゃない。どこかに、泣き虫な虎のお姉さんがさ」
その言葉にチェリンははっと息を呑んだが、それを確かめる術もない。もし本当に彼女だったのなら、囮を買って出てくれているのだ。この隙に侵入しなくては、この騒動が水の泡だ。
水路の入り口を警備しているのは四人。少し離れた木の陰に身をひそめたカイが、氷の礫を相手のこめかみに向けて投じる。かなり力を抜いた一撃だということは、男たちが昏倒したのを見れば分かる。カイが本気ならば、人間の身体など簡単に撃ち抜かれてしまっていただろう。
見張りの男が水路の鍵を持っていたので、ごく平和的にイリーネたちは地下水路へと侵入することができた。さすがに外側から鍵はかけられなかったが、内側から錠を取り付ける。後方からの追っ手はしばらく大丈夫だろう。
地下水路はひんやりと冷たい空気で満ちていた。灯りなど一切ないため、一歩踏み出すだけでも恐ろしい。道を踏み外せば、冬の冷水の中に真っ逆さまだ。
見張りたちが目を覚ますまで、まだ時間はある。追っ手がかかるより前に、地上へ出なければならない。手持ちのランプに火をつけてみると、ぼんやり周囲の様子が見えてくる。何の舗装もされていない無個性な壁と床と柱が果てしなく続き、あちこちへと道が分岐している。神都の全域まで水を供給しているのだから、複雑に水路が張り巡らされているのは当然だった。気が遠くなりそうな迷路だ。
「大丈夫、道なら分かるよ。こっちだ」
すたすたと歩きはじめたのはカイである。目印など何もない、どこを見ても同じ景色にしか見えない通路を進み、迷いなく角を曲がる。通路が狭いためにひとりずつしか歩けないため、先頭はランプを持ったカイ、最後尾には同じくランプを持ったニキータが固めた。
「……もしかしてカイ、この地下水路の地形を全部把握しています?」
イリーネが『まさか』と思って問いかけると、カイはあっさり頷いた。
「離宮の庭に貯水池があったでしょ。あそこからこの地下水路に入れてね。この水路一本で神都中どこにでも行けるって気付いてから、しょっちゅうお世話になった」
「い、いったいいつの間に……? カイはずっとお庭で寝ていたじゃないですか」
「夜だよ、夜。あのときはがっつり夜行性だったし、昼に寝ちゃってたから、夜になると目が冴えちゃって。暇つぶしに散歩していたんだ」
確かに夜中カイが何をしているか、イリーネは知らなかった。カーシェルやアスールはともかく、日が落ちてからはカイに食事を持っていく以外に外へ出てはいけなかったからだ。
そうだとしても、ただの暇つぶしで神都の地下水路をくまなく散策できるものなのだろうか――いや、カイは一年もの間、化身も解けず話すこともできず、狭い離宮の庭で生活していたのだ。ひとりになりたいことも、外に出たいことも、化身を解きたいこともあったはずだ。
イリーネの後ろを歩くアスールも、カイの夜の動向は知らなかったらしい。呆れたような感心したような笑みを浮かべて口を開く。
「食べるのに困ったら、ファルシェのもとで諜報員でもしたらいいのではないか? 重宝されるぞ」
「嫌だよ、こういうのは趣味でやるから楽しいんだ」
「……それは、まあそうだな」
アスールにも思い至るところがあったのだろう、何も言い返せずに黙ってしまった。中途半端にふたりの会話が途切れてしまい、なんとも言えない沈黙が舞い降りてきた。クレイザが後ろの方で小さく笑った声が一度だけ聞こえただけだ。
いくつもの通路を曲がり、ひたすら歩き続ける。最初のうちは柱の数を数えてみたり、建設するときに便宜的につけられたのであろう柱番号を読んでみたりして現在地を把握しようとしたが、それもすぐに諦めた。カイについていくことしかできないのは全員同じようだ。もしカイの好奇心が乏しく、この水路をすみずみまで散策していなかったとしたら、全員で遭難していたのではないだろうか。
遠くの方で水音がしている。もちろんすぐ横手に水が流れているのだから、せせらぎのような音は聞こえていた。しかしながらいま聞こえるのは、大量の水が滝壺へ落ちるような轟音だ。
「王城の噴水とは違って、下町のほうでは水を自動で汲み上げる設備が整っていないんだ。だから自力で汲み上げているんだけど、その水を溜める場所がこの先にあってね。もう一段深く掘り下げられているから、滝みたいになっているんだよ」
つまり城下の住民共用の井戸がこの先にあるということ。管理者のための出入り口も近いということだ。
真っ平らだった道が、徐々に傾斜をつけはじめた。水路は下降し、ヒトの歩く通路は上昇する。通路は間もなく行き止まりに当たり、壁に取り付けられた梯子を登ると、目の前に鉄の扉が現れたのだ。
鍵がかかっているのではないかと思ったが、すんなりと扉は外側へ開いた。途端に日の光が目に突き刺さり、眩しさに目を閉じる。明るさに目を慣らして外に出ると、そこは市街地から少し離れた広場だった。何人かの住民が大きな井戸の中に木の桶を放り込み、桶に括り付けてある縄を引っ張って水を汲んでいる。過ごしやすいリーゼロッテの冬の気候の中で汗だくになっているのと、周囲にいくつもの水の入った桶が並んでいることから、その住民がどれだけ重労働をしているかが一目瞭然だ。
神都カティア。城壁の内側。イリーネが生まれ育った街。
――帰ってきたのだ。
「……うわっ!?」
イリーネがそんな感慨にふけっていたとき、先頭で外に出たカイが振り返ってそんな驚きの声をあげた。カイが声を上げるほど驚愕することなど、滅多にない。イリーネもはっとして振り返ると――。
「……」
扉の横の壁にもたれて、小さく膝を抱えて体育座りをしている女性がいたのだ。長い金髪を頭のてっぺんでお団子にまとめ、綺麗な髪飾りをつけた美しい女性。イリーネがよく言われる可憐さや、チェリンのような瑞々しさとはまた違う。艶やかで魅力的な大人の美しさだ。
道行く男がみな目を向け、思わず生唾を飲みこむほどの美貌の持ち主は、しかし――捨てられた仔猫のように身体を丸め、ぽつんとひとりで座っていたのだ。カイが気付かないほど、気配を殺して。この存在感のなさはなんだろう。
【光虎ヒューティア】。イーヴァン国王ファルシェのパートナーだ。
遅れて地下水路から出てきた仲間たちも、彼女の存在に気付いて一様に飛びのいた。動揺をおさえつつ、カイが声をかける。
「えっと……何しているの?」
「待ってたの」
ヒューティアの声は暗い。彼女は抱えた膝に顔をうずめて、「しくしく」という擬音語が聞こえてきそうなすすり泣きをした。
「なのに、みんな遅いよぅ……ファルシェくんもいないし、いっぱい兵隊さんがいるし、知らない街だし、ひとりぼっちで死んじゃうかと思った……!」
「あっ、そ、そうか。遅くなってごめん。君でしょ、俺たちのために囮になってくれたのは。いやあ、本当に助かったよ」
うろたえているカイが慌ててそう取り成す。事情を聞くよりもまず彼女の機嫌をとることを優先したらしい。ヒューティアをあまり知らないイリーネは唖然として、ニキータなどはくつくつと笑っている。
涙目のヒューティアを立たせて、イリーネがハンカチを渡す。ヒューティアは目を真っ赤にしながら微笑んで、「ありがとう」と言った。そっと涙を拭っている彼女に、クレイザが問いかける。
「ヒューさん、貴方がここに来たのは、やっぱりファルシェの指示ですか?」
「うん。神都に入るなら、戦力は多いに越したことがないし……きっとイリーネちゃんたちは大変だから、手伝ってあげてって」
そこまで言うと、またじわっとヒューティアの眦に涙が盛り上がる。
「ファルシェくんに言われたからってだけじゃないよ? わ、私もね、イリーネちゃんたちのお手伝いしたかったから……だから、怖かったけど、頑張ったの」
「ヒューティアさん……ありがとうございます。私たちが教会兵の封鎖に引っかからないように、何度も助けてくださったんですよね」
エルモーに入るときも、地下水路に入るときも。あの時虎の姿に化身して、兵士の目を逸らしてくれたのは彼女だったのだ。ヒューティアの性格からして、それはどれだけ勇気のいる行動だっただろうか。
礼を言うと、ヒューティアは慌てて首を振った。顔を赤らめて恥ずかしそうに微笑む。
「たいしたことはしていないよ。ちょっと吠えただけ……でも、えっと、どういたしまして」
その時、すぐ傍にあった木ががさがさと揺れた。リーゼロッテの樹木は冬でも青々と茂っている。しかし、風で煽られた程度の揺れ方ではなかった。驚いてそちらを見ると、小さな影が木の中から飛び出して、身軽に地上に着地した。
「クレイザ様! ご無事で……!」
「アーヴィン……! そうか、君たちも一緒に来てくれたんだね」
久々の再会に、クレイザの頬がほころんだ。確かサレイユで会って以来だ。メイナードの『王狩り』を警戒して、ずっとフローレンツ王の護衛についていてくれたはずだ。
ヒューティアが先回りしていた理由が分かった。鷹のエルケが、彼女を運んでくれたのだろう。
「イリーネさんも、大丈夫? 怪我してない?」
「はい、大丈夫ですよ……!」
「そ、そう……それなら良かった」
そそくさとアーヴィンは挨拶を済ませ、顔を背ける。久々の再会で恥ずかしいのだろうか。
「フローレンツもようやく事態の重さに気付いて、国軍を動かしはじめたよ。僕もお役御免になったから、こっちに加勢することになった。できることがあれば、何でも言ってくれ!」
それを聞いたカイが、ぽつりと一言。
「それは頼もしいね」
「ぐっ……心にもないことを……!」
「え? いや、割と本気でそう思っているんだけど」
「分かっている、力不足は僕が一番分かっているんだ……!」
「誠意って伝えるのが難しいなあ」
これはカイのせいというより、アーヴィンの劣等感がそうさせているようだった。クレイザが困ったように、アーヴィンの肩を叩いて慰めている。
その光景を見て、ニキータが小さく息を吐き出した。
「大丈夫かね、こいつら」
「まあ、大丈夫なんじゃないでしょうかね」
答えたアスールの声もまた、苦笑を含んでいたのだった。