◇神の都へ(1)
夜通し馬を走らせたおかげで、夜明け前にはフェラーの街に入ることができた。この街はクレヴィング公領の最南端に位置し、西にメイザス伯領、南にヴェーデル子領と隣接する国境地帯である。すぐ隣のコロナの街で大騒ぎがあったというのに、フェラーの街は静まり返っていた。夜明け前のこの時間では、活動しているヒトなどそういない。口には出さなかったが、このフェラーにもメイナードの手が伸びているのではないかと危惧していたイリーネは、平穏なその様子を見てほっと一息ついたのだった。
街に入って真っ先にイリーネらが向かった先は宿屋だ。なにせ昨晩メイザス領の主都デュッセルを出発してから、ここまで不眠不休だったのだ。さすがに全員疲れていて、休憩が必要だった。早朝に飛び込まれて宿屋の主人には迷惑なことだっただろうが、満身創痍な旅人たちを見て邪険には出来なかったのだろう。すぐに部屋を用意してくれて、イリーネたちは旅装を解いてそのままベッドに飛び込めたのである。
そうして目が覚めたのは昼だった。一番最初に起き出したのは比較的疲労の少なかったアスールで、湯を浴びて身なりを整えてから、彼は宿の主人に人数分の食事の用意を頼み、ぐるっとフェラーの街の散策まで行ってくれていた。
アスールの気遣いに低頭しながら、イリーネたちはまず空腹を満たすことにした。半日ぶりの食事である。
「それとなく探ってきたが、やはり王領の封鎖は続いているようだ。商人や旅人がトロイの街で足止めを食らっているらしい。王領入りを諦めて引き返してきたという者も多かったな」
「検問ならともかく、今回は完全封鎖。身分を証明しても、何者も出入りできないということですか」
クレイザが若干寝癖の残る頭を振る。ニキータが欠伸をかみ殺しつつも、懸念すべき事態を口にした。
「この状況が続けば、王領内の都市は軒並み物資不足で倒れるぞ。あの辺は森ばかりで農耕ができないから、食料の大半は外からの輸入に頼っているんだろ」
「教会兵は教皇の指示で動いています。封鎖を解除させるには、教皇にその指示を出させるしかありませんね」
封鎖の理由がイリーネたちを捕え、逃さないようにするためだということは分かりきっている。神都には教会兵のみならず、王家直轄の正規軍も待機している。せめて教会兵くらいは押さえておきたいところだが、そう簡単にはいかないだろう。教会の守りは堅固だし、こちらは十人にも満たない戦力しかない。これでアスールが小隊でも率いられれば可能性はあるだろうが、ないものは仕方がないのだ。
「ここでぐずぐずしていてもどうにもなるまい。まずはトロイの街まで行って、様子を確認しようではないか」
アスールの提案は尤もだった。ヴェーデル子爵領の主都トロイ。街道を南に進めばそこにたどり着き、その街の先が王領、『王の森』だ。ヴェーデル子爵に接触しないということは、以前決めたとおりだ。
食事を終え、いくらかの物資を買い込んですぐに、イリーネたちはフェラーの街を出発した。封鎖の網に隙があればそこを突破するが、そうでなければイリーネが神属性の最終奥義を使うことになる。今のうちから心の準備はしておこう。
★☆
神都へ通じる大型街道を二本有し、商業で栄えるヴェーデル子爵領。領地の面積はメイザスやクレヴィングには遠く及ばないが、ヒトや物はどの街でも溢れかえっていた。ヴェーデル子爵本人もやり手の商人ということもあって、領地経営の巧みさは随一だ。メイザス伯領などで育った作物を買い取り、それを神都へ卸す――その中継地点として、トロイの街は重要な位置にあった。
元々ヒトの多い街ではあるが、それにしても混雑している。それがトロイの街に入った直後の、イリーネの感想だった。活気あふれる賑わいならばともかく、誰もが少なからず苛々して不機嫌な様子が伝わってくるから、より密度が高く感じる。人混みの苦手なカイは眉をしかめていた。
「これは、少し想定外だったな」
危うく肩がぶつかりそうになった対向者をひょいと避け、アスールが呟く。街の南、つまり王領との境界地点に向かえば向かうほどヒトは多くなり、不満の声が増加していく。封鎖する教会兵と、それに抗議する商人や子爵家の人間との間で、一触即発の状態が続いているようだ。
「イリーネに魔術を使ってもらうにしても、もう少し封鎖地点まで近づかないと。止める時間が長ければ長いほど、イリーネの負担が大きくなってしまう」
カイはそう言ってくれるのだが、近づくことはできそうにないし、どうやってもヒトの目から逃れることができない。多少の無理をしてでも、離れた場所から時を止めて突破するしかないのではないだろうか。
そう提案すると、カイは渋面で首を振った。時を止めるだけならともかく、イリーネはカイたちの時間を止めてはいけないのだ。イリーネ一人だけが、時の止まった世界を動けても仕方がない。ここにいる仲間たちだけは切り取って、同じように動いてもらわなければならない。そんな高度なことを、長時間やらせるわけにはいけないと却下されてしまう。
「強行突破でも俺は構わんがね」
ニキータはむしろその方が良いと考えているようだが、【獅子帝】やメイナードと戦うための力を温存しておきたいのだ。教会兵に追い回されるような真似はしたくない。
ずっと何か考えていたクレイザが、ふと顔をあげた。そしてこう言った。
「とりあえず、酒場にでも行きませんか?」
この言葉には誰もがぽかんとした。チェリンが呆れたように頭を掻く。
「えっと……腹ごしらえしたいって意味?」
「あはは、もうすぐお昼ですもんね」
クレイザはにこやかに笑って否定はしなかったが、多分それが本意ではない。とにかく一度封鎖場所を離れようという意見は一致したので、イリーネたちはトロイの市街まで戻ってきた。そこで本当にクレイザが酒場を探しはじめたのだが、ニキータの口添えもあって、クレイザの後をついて行くことになった。思えばニキータはクレイザと付き合いが長いのだ。彼が何をしようとしているのか、知っているのだろう。
クレイザが入ったのは、トロイで最も大規模な酒場だった。真昼間だというのに、店内では足止めを食らった商人たちがヤケ酒をあおっている。どうもどの街でも酒場は居心地が悪くてイリーネは苦手だ。強い酒の匂いが鼻につくし、騒がしい。
それらのことに一切気を留めず、クレイザは店の中に入って店内を見回した。小柄で童顔のクレイザは、下手をすれば少年にすら見られてしまう。そんな若者が酒場に入ってきたのだから、場違いにも程があるだろう。幾人かの客は怪訝な視線を向けてきたが、すぐに視線を戻してしまった。
しばし観察していたクレイザは、店内の一角に向けてすたすたと歩み寄った。騒がしい店内にあって、一番奥の陰になっている席でひとり酒を飲んでいた男の元である。頬は痩せこけ、目も落ちくぼみ、つまらなさそうな顔でちびちびと酒を飲んでいる。近寄りがたい雰囲気が前面に出ていたのだが、クレイザはお構いなしだ。
「こんにちは」
親しげに声をかけると、男はちらりとクレイザを見上げた。クレイザはそのまま、男の正面に座る。そこで初めて男が口を開いた。
「何の用だ」
「神都へ行きたいんです。王領を突破する道を知りませんか」
なんとも直球に質問したクレイザだったが、すっと彼の手が卓上で動いた。掌で卓を撫でるような仕草だったが、遠くから様子を見ていたイリーネの目に、一瞬だけそれが見えた。クレイザの掌で隠されていたもの――金貨だ。
さりげない動作で、男は金貨を受け取った。双方ともいやに慣れた手つきだ。金貨の感触を確かめた男は、クレイザを見やる。
「太っ腹だな、兄さん」
「それはまあ、僕の誠意と貴方への信頼ということでね」
ヒトの良い笑みを浮かべるクレイザの傍には、大柄の偉丈夫ニキータが無言で佇んでいる。男は軽く肩をすくめて金貨をしまうと、酒のジョッキを脇に片付けてこう言った。
「人畜無害そうな顔をして、素人ではなさそうだ」
「ふふ……」
「いいだろう、教えてやる。王領への道だったな」
あっさりと男は、あるはずのない王領への抜け道について教えはじめたのである。
「王領の封鎖は二重態勢だ。『王の森』の入り口、つまりいま大勢の商人が足止めされているあの場所が第一陣。それを越えた先、エルモーの街の手前に第二陣。俺がなんとかしてやれるのは、第一陣の突破だけだ」
「十分ですよ。それで?」
「街を出て少し西へ向かうと、トリムハイム川に出る。そこを封鎖している教会兵に合言葉を伝えろ。そうすれば奴らは船を出してくれる。第一陣の封鎖に大部分の兵力が割かれているから、第二陣の封鎖はたいしたものじゃない。隙を突いてエルモーの街に入れば、神都までは真っ直ぐだ」
合言葉を教わったクレイザは、にっこり笑って礼を言い、席を離れた。遠くからその様子を見守っていたイリーネたちの元へ戻ってきた彼は、平然と報告する。
「お待たせしました。これで王領に入れそうですよ」
「あ、あの、今のヒトは……?」
イリーネが恐る恐る問いかけると、酒場を出ながらクレイザは説明した。
「情報屋みたいなものです」
「情報屋……?」
「広い王領を完全封鎖なんて、できるわけがないんですよ。ヒトが行うのなら尚更。どこかに必ず綻びが生じ、抜け道ができます。それを教えてくれるのが、さっきのあのヒトです」
「お知り合いだったんですか?」
「いえ。でも、どこにでもいるものなんですよ。こういう場合は金が物を言いますから……教会兵と結んで、この機に金儲けしようという魂胆なんでしょう」
闇取引だ。金銭と引き換えに不正を働く――クレイザの言う通り、それがヒトであるならば必ず起こりうること。何せここは商業都市トロイだ。金になるものはなんだって取引の対象となる。
あの男を情報屋と見抜き、話を持ち掛けた者だけが、抜け道を通って王領に入ることができる。だが、情報屋と見抜く時点で大体の人間は挫折する――クレイザはそれを一発で見抜き、慣れた手つきで交渉を成立させたのである。
何とも言えなくなったイリーネの様子を見て、クレイザは少し困ったように微笑む。
「……まあ、不正規の取引に大金を投じてしまったのは確かですね。すみませんイリーネさん、気を悪くされましたか」
「い、いえ……! 私こそ、真っ先にお礼を言うべきだったのに……」
クレイザは旅の資金ではなく、彼がイリーネらと出会う前に自ら稼いでいた金銭を使ったのだ。後ろめたかったからであろう。そうまでして手立てを探ってくれたのは封鎖の突破法が思いつかなかったせいだし、イリーネの負担を軽減するためでもある。クレイザを咎めることなどもってのほかだった。
「でも……あんまり危ないことはしないでくださいね。大丈夫だって言われても、心配ですから……」
そう言うと、クレイザは妙に驚いたように目を丸くした。それから照れたように頭を掻き、「ありがとうございます」と微笑んだ。
アスールはちらりと、先程の男を振り返った。クレイザが話しかける前と同じように、酒をちびりちびりと飲んでいるようだ。彼も放浪者として長く旅をしていたし、かなりシビアな感覚を備えているはずだが、それでもアスールは情報屋などと繋がりはなかったらしい。少々胡散臭く感じているようだ。
「あの男が我々の情報を漏らすということはないのでしょうか」
それに答えたのはニキータだ。
「そりゃ大丈夫だろう。クレイザが出したのは、情報を得るには法外な額だ。口止め料も込みだっていうのを、あいつは悟っている。多くの金を出した奴を簡単に売りはしないさ」
「はあ、そういうものですか」
「そういうもんだ。俺の姿を見たうえで裏切るなら、いっそあの男を尊敬するよ」
クレイザの傍に無言で佇むニキータの威圧感は、とんでもないものだっただろう。只者でないというのは確かにすぐ分かるし、手は出してこないはずだ。
二十年前にヘルカイヤを追放されてから、クレイザはどんな生活を送ってきたのだろう。ここまでの彼の様子を見ていても、過度にニキータに頼るという姿を見たことがない。きっとクレイザは、クレイザ自身の才覚によって生き延びてきたのだ。竪琴を弾きながら詩を吟じるだけの優雅な生活ではない、血反吐を吐くような経験もたくさんしてきたのではないだろうか。クレイザはきっと、イリーネもアスールも、カイですら知らない、世界の最も暗い部分を知っている。知っていながら、それに染まることはなく、日の光の下を歩き続けているのだ。
本当は隠しておきたかったそういう一面を、クレイザは晒してくれた。彼が用意してくれた道を、イリーネは進むだけだ。
「行きましょう。街の西、トリムハイム川の岸辺へ」
クレイザの言葉に、イリーネはしっかりと頷いた。
情報屋の男が言った通り、トリムハイム川には数人の兵士が配置されていた。コロナの街の傍を流れていたときは上流域で、まだ大きな岩がごろごろしているような川だったが、トロイまで南下するとその流れは穏やかだ。
顔を見られてはいけないイリーネは、ローブのフードでしっかりと顔を隠した。交渉に出てくれたクレイザの姿を見て最初こそ警戒し、追い払おうとしていた教会兵だったが、クレイザが告げた「合言葉」を聞くと態度が一変した。川辺の茂みに隠してあった小舟を持って来て、それを川に浮かべてくれたのだ。簡素な造りだがかなり丈夫で、イリーネらが全員乗ってもびくともしなかった。
最後にクレイザは、教会兵にも金銭を差し出した。紛うことなき口止め料だ。教会兵は口元をほころばせて、「気前のいい旅の御方に幸いあれ」と仰々しく送り出してくれる。
この封鎖を主導している指揮官はトロイの街で盛大に抗議を受けているから、末端まで指揮系統が伝わっていないらしい。だからこんな不正がまかり通るのだが、今はそれに感謝するしかなかった。船頭役を買って出たのはアスールで、さすが水の国の王子は船を漕ぐのもお手の物だった。櫂はただの長い木の棒だが、巧みに船を操っている。
川を下ると、次第に周囲の景色は一変した。それまでは広大な平原だったが、樹木が増え、やがて完全に森の中に突入した。『王の森』、つまり国王直轄の王領に入ったのだ。柔らかな冬の午後の陽ざしが木々の間から差し込んで、つい森林浴でもしているような気分になってしまう。特にこの『王の森』は国内でも有数の森林地帯で、この美しさや自然を保つためにヒトの手入れを極力避けるよう決められている場所だ。森の恵みも豊富に手に入り、ここらの土壌が清めた水は神都の民の主水源となる。神都カティアの豊かさを支えている森だった。
王領はイリーネの暮らしていた場所だ。『王の森』あたりまでなら、幼いころ何度もカーシェルやアスール、時にはゲルダと共に訪れた。その地理はきちんと把握している。適当な場所で船を捨て、上陸したイリーネたちは、河沿いにそのまま南下を続けた。そして、封鎖部隊の第二陣を遠くに発見したのである。
確かに人数はそう多くない。だがそれは、トロイの街の厳重な封鎖に比べて、というだけのことだった。それに状況がトロイとは違う。あの時は封鎖地点で大勢の旅人が足止めを食らっていたが、今回は侵入してはならない場所で封鎖部隊と真っ向から向き合うのだ。言い逃れなどできようはずもない。見つかったら最後だ。
ならば取るべき手段はただひとつ。敵の視野に入らないところで時を止め、一気に封鎖を突破するのだ。
「……ん? ちょっと待った」
心を落ち着かせるようにイリーネが深呼吸した隣で、不意にカイがそう制してきた。チェリンが小声で問う。
「どうしたの?」
「封鎖部隊の中で騒ぎが起きたみたい。……野生の獣が出たとか、なんとか」
「数は少ないが、この森には虎や豹もいるからな。猪程度ならば良いのだが」
アスールの言葉に、チェリンが表情をひくつかせる。化身族とはいえ兎は兎、チェリンは大型獣が苦手のようだ。
封鎖部隊の様子を確認したニキータが笑う。
「その獣の退治のために、部隊が移動を始めたぞ」
「ってことは、街の入り口は無人?」
「いや、さすがに数人は残っているな」
「俺たちは誰にも見つからずに進みたいんだ、無人以外は等しく有人なんだよ。……イリーネ、やっぱり君の出番だ」
カイがそう言って振り返る。イリーネは頷いた。
「止まった世界で、俺たちだけは動けるようにしてね。難しいことじゃない、願えばいいんだ。落ち着いて」
「はい」
イリーネは目を閉じて、思い出す。カイが教えてくれたエラディーナの物語を、そしてそのとき自分が感じた暗い感情を。
怒りと憎しみと悲しみ。それらの気持ちをいっぱいにして必死になるエラディーナに、時を司る存在は手を貸してくれた。時を止めて、彼女の復讐の手助けをしてくれたのだ。
いまイリーネが、ここで失敗したらどうなるだろう。きっとカーシェルを助けられない。メイナードを止められない。カイたちを危険に晒して、死なせてしまうかもしれない。
――そんなことは、絶対に駄目だ。
(だから、お願い。力を貸して)
イリーネは瞳を開く。そして祈りの文言を口にした。
「“止まる世界”」
その瞬間、世界は灰色に染まったのだ。