◆闇に燃える(2)
コロナの街の傍を通るこの川は、トリムハイム川というらしい。ベルツ山から始まって、リーゼロッテのほぼ中央部を縦断して、南の海上へ出る。国境ヴェスタリーテ河ほどではなくとも、大型河川に分類されるものだろう。
と、川の名前や種類などどうでもよいのだ。とにかく今この場に水場があることは、カイにとってはあらゆる意味で幸運なことだった。これだけ街に近ければ、水も使いたい放題だ。
チェリンと共に駆けてきたカイは、岸辺に降りたところで一度化身を解いた。火の手が特に強いのはコロナの街の南部――すぐ目の前だ。焼け焦げた臭いも煙も煤も、カイのもとまで届いている。コロナの街は木造建築が大部分で、しかも南部には住宅地がかなり密集して見える。一度どこかに火を放てば、面白いように延焼するのだろう。
「チェリー、君の持ち場はここだ。川の水を持ち上げて、火元に向かって放り込め。半端な量の水じゃ、火の勢いを増させるだけだからね。思い切りが肝心だよ」
そう伝えると、チェリンはカイにも分かるほど大きく生唾を飲みこんだ。これまでにないほど、がちがちに緊張しているらしい。カイは苦笑して、軽くチェリンの肩を叩く。
「いつもの威勢の良さはどこに行ったのさ」
「だ、だって……あたし、練習のときはせいぜいコップ程度しか持ち上げなかったじゃない! いきなりこんなもの持ち上げるとは思わないわよ」
「何言ってるの、前に俺を吹き飛ばして、あの象さんをひっくり返したでしょ。楽勝じゃないか、【剛腕の】」
そこまで言ったところでチェリンの右ストレートが飛んでくる。あえてそれを真っ向から受け止め、動きを封じた。
「これだけ元気なら大丈夫。頼んだからね」
「……分かったわ」
「俺は逃げ遅れたヒトを探しながら消火するよ。多少火の勢いが弱まれば、メイザス騎士も突入できるだろうしね」
チェリンが頷いてくれたので、カイはまず化身して川に飛び込んだ。毛の長い豹の姿で炎の中に突っ込むのだ。ある程度はカイ自身の冷気でなんとかなるが、気をつけなければあっという間に火だるまになりかねない。全身ずぶ濡れになると情けないくらいに身体が細く見えてしまうが、仕方ないことだ。カイは水を滴らせながら、コロナの街へと駆けだした。
街を取り囲んでいる濠を飛び越えて、カイは路地に入った。火元からは少し離れているはずなのに、それでも肌が焼けそうだ。かなりのヒトが逃げ惑っているらしい、路地をめちゃくちゃに駆けまわる人間の姿が多かった。
街の北側にはまだ炎は届いていないし、エーリッヒやイリーネたちが住民の避難誘導を行っているはずだ。そこまでたどり着いてくれればいい。そのためには何か目印が必要だ――。
“氷結”を発動させ、冷気を集めて氷の槍を創りだす。それをカイは、地面に打ち立てた。その氷の槍は淡く光り、強烈な冷気を発生させている。ちょっとやそっとでは溶けない、強い氷だ。
「う、うわあっ、ケモノ!?」
カイの背後でそんな悲鳴が聞こえた。振り返ると、何人かの人間がカイを見て立ちすくんでいた。
「なんでこんな場所に……」
「こ、こいつが火をつけたのか……!?」
「いや、このあたり涼しくないか? もしかして、味方……」
(――やれやれ。だいぶマシにはなったみたいだけど、相変わらずリーゼロッテはこんなものか)
いかにカーシェルが有能でも、いかにエーリッヒが温厚でも、民衆の末端まで考え方が浸透するには時間がかかる。リーゼロッテの民は、数百年にもわたって化身族を迫害してきたのだ。その認識をあっさり覆せるわけもない――いきなり敵意を向けられて、石を投げつけられなかっただけ、本当にマシだ。
以前なら無視をした。今日は言葉を交わしてみよう。そうしなければ何も始まらないと、言葉が通じれば話ができると、知ったから。
「俺はメイザス伯に協力している者だよ。街の北側に伯爵や騎士団がきている。君たちはそこへ逃げて、こっちの様子を伯爵に伝えて応援を頼むんだ」
化身を解いたカイの姿を見て、人々は逃げ腰だった態勢を元に戻した。じっとカイを見つめて、カイの話に耳を傾けている。
「この氷は熱気を弾くから、ここら一帯は安全地帯だ。良ければ使って。悪いけど付きっきりで護衛はできないから、自力で逃げてくれ」
そう告げた時には、人間たちはカイのことを一応は信用してくれたようだ。氷の槍の周辺が確かに涼しいというのも、カイの言葉に偽りがないという証拠だ。それに、魔術を扱う化身族は強力な存在だと、誰もが知っている。素直に従ってくれた方が、カイとしても有難かった。
「……なら、俺はここに残って、これから逃げてくる奴らにあんたの話を伝えるよ」
「俺も、北へ逃げろって呼びかける。それくらいなら手伝えるだろ?」
意外なことに、協力まで申し出てくれた。火からは距離があるし、しばらく留まっていても平気だろう。いちいち同じ説明を繰り返すのも手間になるし、任せた方が良さそうだ。
そう思ってカイは男たちに誘導を頼み、改めて燃え盛る住宅街へと飛び込んで行った。取り残されている住人は多いようだ。火の臭いのせいで鼻も利かないから、あらゆる音を聞く聴覚と、夜を見通す視覚を頼りにするしかない。
カイに向けて、炎に包まれた巨大な柱が倒れてきた。すぐさま氷の楔を打ち込んで柱を粉砕し、改めて木片を凍結させる。
(倒壊が始まってる。急がないと)
少し焦りも出てくる。遠方から見た時より、はるかに火災の状況は大規模だった。それとも、僅かな間でここまで延焼したのか。カイが空気を凍結させて酸素の供給を断つにしても、これでは埒が明かない。
その時、突風が吹いた。あわや身体が浮きそうになったカイは、はっとして上空を見上げる。黒々とした光る物体が、宙に浮いてゆっくりと動いていた。水だ。大量の水が巨大な球を成して、常識外の力によって浮いているのだ。
カイの真上で水球が弾けた。力の干渉を失った水は、重力に引きずられて地上へ降り注いだ。否――降り注ぐなどという優しいものではない。滝のごとく落下してきた。
一瞬でカイはずぶ濡れになった。危うく呼吸が止まるところだった――息を吐き出しながら顔をあげると、周辺の炎はすべて消されていた。ちらほらと、同じくずぶ濡れになった住民たちが見える。みな何が起こったのか分からずに呆けているようだ。
重力を操るチェリンの地属性魔術、“重力操作”。本来これは、神属性魔術と同じように、攻撃的なものではない特殊な魔術だ。勿論、重力で相手を押さえつけたり、叩きつけたりすることはできよう。しかし、術そのものに殺傷能力はない。だからこそ、“重力操作”は戦闘以外でも使えるのだ。
チェリンが使ったのは、魔術とは呼べぬような基礎中の基礎の動作だ。対象物を操り、“上昇”させ、標的の真上で制御を解く。たったそれだけのことだが、インパクトも効果も抜群だ。
消火はチェリンに任せて、カイは人命救助に本腰を入れた。鎮火した家屋から生存者を助け出し、北へ向かうようにとだけ伝えて逃げさせる。倒壊した柱の下敷きになって息絶えている住人もいた。こればかりはどうしようもない。とりあえず柱をどかして助け出し、あとで見つけやすいような場所に安置しておくしかなかった。
そうしている間にも、チェリンが放つ巨大水球が別の場所の火を消してくれていた。この頃になるとメイザス騎士団も駆けつけてきてくれたので、生存者の発見がぐっと楽になる。
(そういえば火を放った教会兵に出くわさないな。ニキータも近くにはいないし……全部始末できたんだろうか)
ふとそんなことを思ったが、ニキータのことは心配するだけ無駄だ。雑念を振り払ったところで、視界の端に、北とは真逆の方向へ向かっていく女性の姿が映った。顔を向けると、女性は今なお炎上している家屋に飛び込もうとしているところだった。
慌てて駆け寄って、その肩を掴んで引き留める。
「待って、何してるの」
「放して! まだ家の中に娘がいるのよっ」
「やみくもに飛び込んだら死んでしまう。落ち着いて!」
「いやよッ、お願い、放して! カリンッ……!」
「ああ、もう……っ」
女性がかなりの力で暴れるので、カイも割と本気で女性を押さえつけた。両手首を掴んで、女性と目を合わせる。発声練習をするかのように、カイは一言ずつ大きな声で言い聞かせた。
「俺が、探しに行くから! だから君は先に逃げて。それが嫌なら、せめて離れて待ってて。ここはまだ危険だ」
女性はその時、初めてカイのことを認識したようだ。やっと抵抗するのをやめたので、カイもそっと手を放す。
落ちつくと同時に、彼女は自宅の惨状をも再認識していた。必死なときはともかく、改めて飛び込もうとするには躊躇うほどの炎上っぷりだったのだ。そこに、見ず知らずの若者が行ってくると申し出た。さすがの女性も不安げな表情だ。
「娘さん、どの辺にいる?」
「……二階の寝室で寝ていたの。階段付近が一番火が強くて、二階にあがれなかった……」
「分かった。じゃあ、外から登ろう」
カイはそう言いながら、掌の中に氷を創りだした。それを女性に握らせる。彼女はあちこち火傷をしていたのだ。
「それで火傷、冷やしてて」
「あ……!」
女性が何か言いかけたが、じっくり聞いている暇はない。カイは一息で住宅の屋根へ飛び乗り、窓付近の炎を“氷結”で消し止めた。そしてそのまま、窓から室内へ滑り込む。
飛び込んだ部屋にはベッドがあったが、子どもの姿はない。別の寝室だろう。廊下に出ようと扉を開けた瞬間、猛烈な勢いで炎が襲い掛かってきた。慌てて冷気をぶつけて霧散させたが、煙もかなり充満している。急がなければ、子どもは勿論、カイ自身も危険だ。
扉の前に氷の槍を突き立て、退路を確保する。そのままカイは廊下を進み、手近な部屋を覗いて回った。そしてふたつめの扉の先で、人形を抱きかかえて部屋の隅でうずくまっている少女を見つけたのである。
「君がカリン?」
意識はあるようだ。声をかけると、その少女は泣きはらした目でカイを見上げた。カイは自分が着ていた上着を少女にまとわせ、意図して冷静に話しかける。
「助けに来たよ。煙吸わないように、しっかりそれを巻き付けて……」
だが、パニックに陥った少女は、助けに来てくれた者に縋りつくのが精いっぱいだったようだ。カイの指示をまともに聞かず、ひたすらカイの足にしがみついて離れない。さすがにこれにはカイも困った。これでは歩けないのだが、邪険に振り払うわけにもいかない。
「あっ、ちょっと、離してくれ……いくら俺でもこのままじゃまずいって」
そう諭すのだが、カリンは聞く耳を持たない。仕方なく、引っぺがして担ぎ上げてしまおうと、彼女の肩に手をかけて――カイは踏みとどまった。
イリーネだったら、きっとそんなことはせずに、この怯えた少女の心を溶かすことができる。アスールも、チェリンも、クレイザも、不本意ながらニキータだって、子どもの相手はお手の物なはずだ。彼らならどうするだろう。
その時、炎に煽られた棚がカイの方向へ倒れてきた。少女が声にならない悲鳴を上げ、半瞬遅れてカイもそれに気づく。
倒れこんでくる棚が凍り付く。間髪入れずに、カイは自らの拳を突きだした。深部まで凍結した木材は呆気なく粉々になって床にちらばる。カイの右拳は少々ひりひりする程度だ。
この荒業を見て、カリンはつい恐怖を忘れたようだ。カイはひらひらと右手を振って、少女に笑いかける。
「……ほら、お兄さん強いから。大丈夫、俺がちゃんと外に出してあげるよ。だから俺の言うこと聞いて、ね。お母さんが外で待ってる」
ニキータに見られたら笑われるような台詞だった。幸い、傍には誰もいない。以前、イーヴァンの王都オストでは子どもの怯えを解いてやれなかった。チャンバの街でシャルマとカリナに対して攻撃的な態度しか取れなかった――実は、ずっとそれを気にしていた。ヒューティアやイリーネがいとも簡単に子どもたちと心を通わせたのに、カイときたら。器量が小さくて、疑り深い自分が情けなかった。
だが、今度こそは。
カイの笑顔に安心したのか、カリンもまた小さくはにかんだ。両手を差し伸べると大人しくやってきて、カイは軽々と彼女を抱え上げることができた。
「よし、それじゃ出発」
軽い足取りで、カイは廊下へ出た。相変わらず火の勢いは強かったが、不思議と炎はカイを避けている。熱気は伝わってくるが、衣服や肌は焼けることがない。無論、カイが身にまとう冷気が守ってくれているのだ。
退路確保のために設置していた氷の槍は、高温にさらされてさすがに融けかかっていた。けれどもその槍のおかげで、室内には炎が回っていない。攻撃に特化した“氷結”の奥義が攻撃以外で役に立つとは、カイも驚きだ。
窓に近寄って外を見る。女性はカイの指示を守って、少し離れた場所でじっとこちらを見守っていた。氷の結晶を握りしめて、祈るように。
カイは身を乗り出して屋根の様子を確かめる。まだ焼け落ちていない、足場にして下りられるだろう。
「カリン、俺に掴まって。目も瞑るんだよ」
そう声をかけると、カリンは頷いて目を瞑った。それを見て、カイは窓枠を乗り越えて屋根に降りた。そのまま一息に地上へ飛び降りようとして――上空に気配を感じて、夜空を見上げた。カイの真上にあったのは、黒々とした巨大な物体。水の塊だ。
水球がカイの頭上で弾けると同時に、カイも屋根を蹴って地上へ飛び降りた。大量の水が周囲の炎を一瞬で消し去っていく。避けようもなくカイもカリンもずぶ濡れになったが、なんとか地上に下りて開けた場所まで逃げることができた。
もっと早く火を消してくれれば良かったのに――などとカイは嘆息したが、チェリンは街の外にある川辺にいるのだ。そんなところから、カイがどこで何をしているかなど分かるはずもない。ただ火の勢いが強い場所に、片っ端から水球を落としているだけなのだ。責めることなどできようか。
「カリン、ああ、カリン!」
女性が泣きながら駆け寄ってくる。カイがカリンを下ろしてやると、少女は満面の笑みで母親に抱き着いた。恐怖などどこかにいってしまって、カリンは楽しそうだ。母親の心配も知ったことではないらしい。
「ありがとうございます、本当に……! なんとお礼を言ったら良いか……」
「良いよ、お礼なんて。たいした怪我もなさそうで良かった」
街の北へ逃げるように言って、カイは女性たちと別れた。別れ際に、母親に抱かれたカリンが「お兄ちゃん、ばいばい」と手を振ってくれた。子供に懐かれたのが初めてだったから、なんとなく嬉しかったものだ。そんな風に思っている自分が奇妙に思えて、カイは濡れた自分の銀髪を掻き回した。
街の火災は殆ど収まっていた。事情を知らない住民たちは『突然の豪雨』を浴びて首を捻りながらも、騎士団の誘導で落ち着きを取り戻しつつあった。コロナ南部の住宅地は大なり小なり焼けてしまったが、命には代えられない。駆けつけたのが速かったのと、チェリンの豪快な消火作業のおかげで、人的被害は少ないはずだ。
もう大丈夫だと思うと同時に、どっと疲労が押し寄せる。座り込みたくなる気持ちを抑えて、カイは歩き出した。おそらくカイ以上に疲れはてているであろうチェリンを、迎えに行ってやらねばなるまい。




