ある第二妃の独白
目の前に死体の山が築かれている。漂う血の臭気は強く、嗅覚はとうの昔に麻痺していた。私はその多数の死体と、その上に君臨する者の姿を見て、声を上げることもできずに震えることしかできなかった。
その者は私を見下ろして笑う。
――ああ。生まれたころから知っている、可愛いあの子の優しい笑顔。
それに変わりはないのに、返り血を浴びたその者の姿は、邪悪の根源にしか見えなかった。
「め、メイナード……お前は、お前は何をしたか分かって……?」
やっと声帯は声を出すことを許してくれた。そう問いかければ、その者は剣を振り、血糊を払い落とした。
「勿論ですとも。カーシェル義兄上と獣軍将の消息を案じて僕に詰め寄ってきた、愚かなケモノたち……そして、純粋な人間だと出自を偽って城内に潜り込んでいた汚らわしい混血種たちを、まとめて断罪したのです」
「……」
「あれ、てっきり母上なら褒めてくれると思っていました。昔のように、笑って褒めてはくださらないのですね」
無邪気なメイナードの言葉に、私は視線を逸らす。死体の山の頂上から地に飛び降りた彼は、剣を提げたまま私のほうへ歩み寄ってきた。
「昔は、王妃陛下やカーシェル義兄上やイリーネをどう追い詰めてやろうか、楽しそうに考えていたではありませんか。だからこうして神都を掌握し、邪魔者を適宜処分しているのです。これからはスフォルステン家の天下ですよ」
「これらの行いが、すべて……私やスフォルステンのためだったと言うの」
「ええ。僕の個人的な野望も、少々含まれていますがね」
断言しきったメイナードが、恐ろしかった。
地獄のような光景は、目の奥に焼き付いている。「見せたいものがある」とメイナードが私を王城の中庭へ連れ出したのは、ほんの数十分前のことだった。そこにあったのが、この死体の山。化身族と、化身族の血を引く者たちだけを、メイナードは時間をかけて少しずつ、しかし確実に虐殺していた。どのような方法を使ったのかは知らない。この子が凶行に走りはじめた時に、私は恐ろしくて、城内の部屋に隠れてしまったから――。
「……お前は変わってしまったわ。三年前、国王陛下とエレノアを手にかけたときから」
「母上も変わられました。思えばあれも大誤算でしたよ。政敵であるクレヴィング家の娘を始末して、母上の憂いも少しは減るものと確信していたのに。あれ以来母上は、僕を避けるようになられた」
歯を噛みしめる。邪魔だった。エレノアが、その息子カーシェルが、邪魔で邪魔で仕方がなかった。でも、死んでほしいと思ったことは、本当にただの一度もなかったのだ。エレノアのことは嫌いだったが、彼女がいたおかげで神国の民の心がまとまっていたのも事実。カーシェルの器量も手腕も、次期国王として申し分なかった。メイナードもそれを知っていて、自らが王になるという野心を微塵も見せず、ただ王太子の補佐を忠実にこなしていた。いずれは王弟、いや臣籍に下っても良いと、そう言っていた息子が、なぜ。
「二十五年ほど母上に育てていただきましたが、どうやら僕は思い違いをしていたようだ。貴方は、自分や他人が思っているほど、冷酷なヒトではないらしい。あれだけ憎んでいた者たちの死に、怒りを覚えておられるのですから。貴方はいたって小心で、まともな感性をお持ちなのですね」
そうだ。私は気が小さく、弱くて臆病だ。エレノアに何もかも敵わないことを知っていて、それでも憎まれ口を叩くくらいしかできなかった。不義の子を産んだと指差されるのが怖くて、イリーネを虐げた。それでも王族という立場にしがみついていたかった。教会の教え通り化身族を差別し、混血種を無視すれば、この国には居場所があったから。王子であるメイナードがいてくれれば、私はそれで一生を平穏に過ごすことができるはずだったのに。
(私はこの子のことを、何も知らなかった。この子が壊れていくのを、見逃していた)
痛感した。幼いころから過激な子ではあった。しかし子ども特有の残酷さだと、諭す程度で済ませていた。ずっと傍にいたのに、この子がヒトの心を失う瞬間を、見過ごしていた。
「……面白い話をしてあげましょう、母上。遡ること三千六百年前、エラディーナが生きていた時代。その頃は人間もケモノも分け隔てなく魔術を扱うことができた。当のエラディーナこそが魔術の大成者でした。ご存知でしたか」
首を横にも縦にも振れなかったが、知らなかった。教会の教えに、そんな事実はなかった。魔術は化身族にしか使えないというのが当たり前の現在、過去にはみなが使えたのだということは、隠されてしまっているのだろう。
「つまりその時代には、魔術を扱う人間がごろごろいたわけです。誰もが素質を持ち、血は薄まりながらも、確実にその能力は現在まで受け継がれている。ケモノのほうが魔術を使いやすい、というだけのことです。……お分かりになりますか? イリーネが魔術を扱えるのは、ケモノの血が混ざっているという理由だけではないということですよ。彼女はただ、古代のヒト並みに魔術を扱う素質があっただけです」
ならば――私は今まで、言い伝えだけを信じて、イリーネを虐げてきたのか。スフォルステン家の祖先がどこかで化身族と交わって、その印がイリーネに突如現れたのだと、そう信じて。
「もうひとつ、こんな話もあります。千年前、リーゼロッテという国を拓いた開祖……彼には人間の正妻の他に、ケモノの妾がいたらしい」
「!?」
「別にそうおかしなことではありません。その当時は、両種族が友好関係を築いていた時代。異種族の婚姻はごく当たり前……つまり今の時代を生きる僕たちには、多かれ少なかれケモノの血が混じっているということですよ。誰の例外もなく。汚らわしいことですね?」
それが真実なら――ならば、この子の野望は。
「すべてのヒトを、殺し尽くすつもり?」
大それた望み。まず不可能な野望。それでも――やってのけてしまいそうで、私の声は震えた。
「だって、気持ち悪いじゃないですか。そんな半端者が、自分の傍にいるなんて」
メイナードはまた、優しく笑う。
「ああ、母上は別です。僕の邪魔さえしなければ、生かしておいて差し上げます」
「……イリーネのことも、殺すのね」
「今更なんです? 向こうはもう、貴方のことを母とは思っていないでしょうよ。生きようが死のうが、母上が気になさる必要は……」
「それでも……ッ!」
そう叫んで、護身にと持っていた短剣を引き抜く。メイナードの顔に、初めて驚きが浮かんだ。私は短剣をメイナードに向ける。
私はふたりの子どもを不幸にした。身勝手な考えで娘を捨て、溺愛していたはずの息子の暴走を止められなかった。
このままだと、きっともっとたくさんのヒトが不幸になる。私が愛してやまない、メイナードの手で。――それだけは。
「臣下や民を、それだけの理由で虐殺する……そんなことを許すわけにはいかないわ。私だって王族の端くれで、領民の命を預かる領主の娘……私もお前も、恥を晒すわけにはいかないのよ」
「貴方は父上と王妃陛下を殺したのが僕だと知っていながら、それを三年も黙っていた。既に立派な共犯ですよ?」
「分かっているわ。償いは、私があとでしてあげる。だからお前は潔く死になさい!」
剣の心得などない。メイナードがどれだけ武芸を会得しているか分からない。私の刃は届かないかもしれない。それでもこれが、今の私にできる精一杯だった。
駆け寄って、がら空きのメイナードの腹部に短剣を突きこむ。メイナードは避けなかった。大人しく刺されるつもりなのか、それとも受け止めるのか。……なんでも構わない。これでイリーネに許されようなどとは思わないけれど、きっとメイナードと戦うことになる、あの子のためにできることを。
私の短剣は呆気なく防がれた。メイナードにではない。私とメイナードの間に割り込んだ何者かによって、短剣を握る手首を掴まれてしまったのだ。
その者は私を庇うように立って、メイナードの腹部に蹴りを叩きこんだ。突然のことに、メイナードが受け身を損なって吹き飛ばされる。私はそこで初めて、庇ってくれた者の姿を見た。国王と同じ緑の髪。同じ色の瞳――。
「か、カーシェル……!」
「……ご無事ですか」
行方不明になっていたカーシェルが、なぜここに。最後に見た時よりだいぶ痩せ衰えてはいたが、確かにカーシェルだった。瞳は光を失っていないし、立ち姿はいつものように堂々と背筋が伸びている。
態勢を立て直したメイナードが、呆れたように乾いた笑みを浮かべた。
「部屋を抜け出したのか。防御魔術もすり抜けて……馬鹿みたいな体力だね、義兄上」
「あれだけ毎日同じ魔術を見ていれば、抜け道のひとつやふたつは作れるさ。今日は、あの白服の妙な男も傍にいないようだしな」
カーシェルの手には、私が手にしていたのとほぼ同じ長さの短剣が握られていた。大陸異数の剣士であるはずのカーシェルが、短剣しか持っていないなんて。同じ城内に、カーシェルは閉じ込められていたのだろうか。
「お下がりください、シャルロッテ殿」
私を庇って、カーシェルが手を広げる。メイナードがそれを見て笑い声をあげる。
「本当に義兄上は面白いね。あれだけ嫌な思いをさせられてきたのに、それでも母上を庇うのか。お優しいことだ」
「お前には容赦しない。覚悟しろ」
滑るような足取りで、カーシェルは一歩前進する。私は、カーシェルが守る価値のある人間ではないのに。ある程度の礼節をもって私には接してくれたけれど、彼はいつだって私に怒っていた。イリーネを虐げる私を軽蔑していた。それなのに守ってくれるのだ。どこまでこの若者は優しく正義感に溢れ、勇敢なのだろう。
カーシェルは寡黙だった。元々口数が多い子ではない。きっとすべて覚悟してきたのだ。彼の目にも、あの死体の山は見えているはず。全員、カーシェルを慕っていた臣下たちだ。メイナードは必ず討つと、カーシェルの瞳は決意を湛えている。
振り下ろされたカーシェルの短剣を、メイナードが長剣で受け止める。圧しているのはカーシェルのほうだった。剣術において、カーシェルを凌ぐものはそういない。得物がたとえ短剣であっても、だ。メイナードの表情が歪む。
「お前の本当の目的はなんだ?」
問いかける言葉も恐ろしいほど静かだ。答えるメイナードの声には、そこまでの余裕がない。
「聞いていたんじゃないのかい……全人類の滅亡さ」
「『本当の目的』を聞いている。私やイリーネを生かして、父上や母上を殺した、その違いはなんだ」
「……僕に勝ったら聞かせてあげるよ」
「では遠慮なく、聞かせてもらおうか」
カーシェルはメイナードを押し切った。メイナードの手から剣が吹き飛び、地面を滑っていく。あまりに呆気ない、分かりきっていた勝利だ。
素手になったメイナードを、カーシェルはそれ以上追撃しなかった。ただ一歩、彼の方へ踏み出しただけだ。
「――ほら、やっぱり義兄上は僕を斬れない。剣を弾き飛ばしただけで、僕に勝ったとでも?」
「!? なにっ」
カーシェルの足元から、突然眩い光が噴き出した。離れていた私の目にも相当眩しかったのだ、カーシェルが目に受けた光は私の比ではない。カーシェルは束の間視力を失って、その場に膝をついた。
その間にメイナードは剣を拾い上げて、身動きのできないカーシェルを容赦なく斬った。背中に一太刀――剣士の風上にも置けない卑怯な一撃だ。倒れ伏すカーシェルを、メイナードは冷ややかに見下ろす。
「ほら、本調子じゃないのに無茶をするから。そろそろ懲りたらどうなんだ、義兄上? 僕と戦う時は、殺すつもりじゃないと……ね」
「貴様……今の光は……」
カーシェルの声は呻きのように聞こえた。身体を震わせているのは痛みではない。きっと、強い強い怒りだ。
どうすることもできずに、私はただ立ちすくんでしまう。そこへ、地響きのような音が聞こえた。二十人近い男が、一斉に中庭に現れたのだ。その先頭に立つのは、獣軍将【迅風のカヅキ】。彼もまた、カーシェルと共に軟禁状態を脱したのだ。彼が率いているのは、化身族だけで構成される獣軍の構成員だ。
「カーシェル……ッ! 王太子を救出する、かかれ!」
カヅキの言葉に応じて、次々と男たちはそれぞれの姿へ化身してメイナードへ突進した。だが、彼の口元に笑みが浮かんでいるのを、私だけが見ていた。咄嗟に、私は化身族の男たちへ向けて叫ぶ。
「だめよ! 逃げて――」
遅かった。メイナードの腕が動くと同時に現れた光の槍は、寸分たがわずに化身族たちの身体を串刺しにした。ただの目くらましだったカーシェルとは違って、一瞬で二十人近い化身族が倒されてしまう。これにはカヅキも思わず言葉を失っていた。
もう間違いない。メイナードは光属性の魔術を使っている。あんなにも混血種と魔術を憎んでいたメイナード自身が、やはり混血種だったのだ。
「カヅキ。一歩でも動いたら、君の大事な主君の首が飛ぶよ」
「……くっ」
カヅキは唇を噛みしめる。それからメイナードは、再び視線を足元に倒れるカーシェルへ向ける。気を失ってはいないが、立ち上がる力はないようだった。
「ふふふ。ケモノをいつもより多く処分できて気分が良いから、特別にさっきの質問に答えてあげるよ。僕はね、別に全人類の滅亡なんて望んじゃいないよ。ヒトが迷い、恐れ、混乱する様を見たいんだ」
「な、に……?」
「義兄上は、今までまともだった僕がこんな行動を起こすことに混乱している。僕はそれが見たかったんだ。だから王を殺してみたり、その死を隠蔽したり、イリーネを追放したり、色々試しているわけだよ」
「狂ったか、メイナード……ッ!」
「そう、僕は狂っている。今更気づいたのかい? 僕はずっと、ずっと前から、狂っていることを楽しんでいる」
メイナードは微笑みながら、カーシェルの背の傷に剣の鞘を押し当てた。激痛にカーシェルが苦悶の声をあげる。死んでしまう。早く手当てをしなければ、カーシェルが死んでしまう。カーシェルまで失ったら、この国はどうなるのだ。
「メイナード、やめて……お願い……お願いよ……」
「……母上、残念ですよ。母上だけは、僕の味方でいてほしかったのに。結局誰も、僕を理解はできない」
そう言ったメイナードが、ふと視線を上にあげた。見つめる先は、少し離れた場所にある大木――なんのへんてつもない、緑に覆われたただの木だ。思わず私もそちらを見てしまったところで、メイナードがくすりと笑う。
「さすが諜報の専門家、いつから聞いていたのかな。……丁度いい、イリーネに伝えてくれよ。『国境守備の義務を放棄したメイザスを焼き滅ぼす』、『巻き込まれたくなければ早く神都へ来い』とね」
メイナードが伸ばした腕から、光の矢が発射される。それと全く同じ軌道の光が、その大木から放たれた。しかしメイナードのものとは違う、その矢は殺人的な雷撃をまとっていた。
メイナードの矢と、何者かの矢が真正面からぶつかり合い、派手な音と共に術は相殺された。間髪入れず、大木から黒い影が上空へ飛び出していった。あっという間に小さくなったあの影は、鳥だろうか。ぱたりと地に落ちたのは、黒く太い羽だった。
「さて。義兄上とカヅキにはまだ使い道があるから、ご苦労だけどもう一度虜囚生活に戻ってもらうよ。もうすぐ本物のイリーネやアスールに会える……楽しみだなぁ」
台詞だけなら、妹やその幼馴染との再会を心待ちにしているように聞こえた。実際、メイナードは楽しみにしているのだろう。イリーネとアスール王子が苦しみ、絶望する顔を見ることを。
だれか、この子を止めて。
もう私には、それを願うことしかできない。