◇その先に待つもの(4)
街道は使わず、神都周辺の森林地帯――通称『王の森』を突っ切り、神都へ向かう。ニキータの報告次第で進路を微調整することもあろうが、大筋は決まった。街道を使わないで『王の森』を突破するのは容易ではないが、イリーネも昔から幾度となく出歩いていた場所だ。それを追いかけてくれていたカイも、地理はそこそこ把握している。おそらく大丈夫だ。
イリーネより後に出かけたカイは、イリーネたちより先に屋敷へ戻っていた。ついでにアスールやクレイザの昼食を調達してきたらしく、イリーネたちが戻った時には遅い昼食を摂っているところだった。頼めばメイザス家の使用人たちが食事を作ってくれるのだが、カイたちだけでは頼みにくいのだろう。出かける前に自分が頼んでおけばよかったとイリーネは後悔したのだが、出店で買ってきた数種類の料理を思い思いにつまんでいる男性陣は楽しそうなので、それはそれで良かったのかもしれない。
イリーネとチェリンが土産に買ってきた菓子を食べながら、会議はゆるゆると再開した。そこで、改めてイリーネの魔術の使用について検討をはじめたのである。
「……魔術書は無事に調達できたよ。でも、これは神属性の最終奥義に属するものなんだ。売人のほうからも、くれぐれも注意しろと念を押された」
カイが手に持った書物を見せてくれる。重厚な革のカバーがかけられた、分厚い書物。多少くたびれて見えるそれが、時を止める魔術を学ぶための魔術書だ。
「最終奥義? それは、普段使っている魔術とは違うのか」
アスールの問いに、カイが頷く。
「違う。最終奥義は、各属性の魔術の中で最も威力の強い術のことだ。エラディーナが【竜王】との最終決戦で使用した魔術が、最終奥義と呼ばれている。俺が普段使っている技は、氷属性魔術の中のひとつにすぎないんだよ」
「カイは、それを会得しているんですか?」
そうイリーネが質問したのは、単なる好奇心からだった。しかしカイにとってはぐさりと来る質問だったらしく、彼は溜息をついた。
「……俺は使えない。ゼタから教わる前に、フィリードを出ちゃったから」
「へえ、長は最終奥義使えるのね。やっぱすごいんだ」
「あいつに教わらなくても、いつか自分で学ぶからいいんだよ!」
チェリンの素直な賛辞にむきになったカイの肩を、「どうどう」とアスールが宥める。まるで暴れ馬を抑えるかのようだ。
「お前のコンプレックスの話は今はいい。その最終奥義をイリーネは使えるのか?」
「触れただけで傷を癒せるくらいの力を持つイリーネなら、問題はないよ。魔術の使用自体はそこまで難しくないし。そこはあまり俺は心配していない」
「では何が問題なんだ?」
「強い術には、代償が付きまとう。当たり前のことさ」
カイはそう言って、視線をアスールからイリーネへ戻す。
「前から言っているよね、イリーネ。魔術は『願いと祈り』によって使うんだって。エラディーナがその魔術を行使したときの『願い』を借りて、『祈りの文言』を使っている」
「はい」
「俺たちは自然の力を借りているんだ。俺は魔術の研究者ってわけじゃないから詳しくはないけど、世界には自然の力を司る超常的なモノがいて、それに祈りを捧げることで魔術が具現化する、そういう仕組みらしい。祈りっていうのは、そういった存在には美味なものだそうでね。俺は祈った対価として、氷を司るモノに助けてもらって、物体を凍てつかせることができるってわけだ」
イリーネは頷く。その仕組みは、エラディーナの時代から変わらない。
そこでクレイザが口を開く。
「自然信仰の一種ですね。火や風や水を崇拝することによって、ヒトは自然の力を司るモノから力を借りられる。ところが近年は女神教が普及し、技術も発展したことから、自然現象を畏れるヒトが少なくなった……これが、魔術減少の理由だそうですね」
「さすが詳しい。それとも、ヘルカイヤでは一般常識?」
「お年寄りのぼやきを、たまたま覚えていただけですよ」
三千年前には、人間も化身族も多くのヒトが魔術を使えた。多くのヒトが、自然に感謝していた結果だ。しかしエラディーナが神格化され、人間は女神を信奉するようになった。そして現在、魔術が使える人間はいない。化身族の中でも魔術の原理を忘れ、信仰を捨てた者が多くなり、魔術を使える者は少なくなったのだ。
全属性の魔術を使えたエラディーナは、それだけ自然に感謝し、自然からも愛されていた。そういうことなのだろう。
「信心深ければ深いだけ、高度な魔術を使える。逆に、いくら本人に膨大な魔力があったって、祈りが足りなければ弱い魔術でも使えない。簡単に言えばそういうことだね」
カイのその説明を聞きながら、イリーネは思う。膨大な魔力を持ち、強力な魔術をいくつも行使できるカイは、実は結構信心深いのだな――と。
「最終奥義も同じだよ。祈りを捧げて、祈りに応じて力を貸してくれる。……でも、ヒトが行使するには大きすぎる力を借りることになるから、ヒトはその代償を払わなきゃいけない」
「代償って、たとえば命と引き換えとか……?」
恐る恐る尋ねると、カイはあっさり頷いた。
「そういうのもあるらしい」
さすがに血の気を失ったイリーネだったが、カイは安心させるように諭した。
「命と引き換えにしなきゃならないほどの術は、殆ど攻撃系の魔術だ。神属性はそうじゃないから、平気だよ」
「そ、そうですか……」
「第一、そんなのだったら俺が許すわけないでしょ」
確かに、とその場にいる誰もが声もなく納得した。
「時を止められる範囲は狭くて限定的。となると、術者の周囲とそれ以外の場所とで、僅かに時間のズレが生じるんだ。そのズレを埋めるのが、術者の代償となる」
「具体的には……?」
「寿命が縮む、ってことだね」
その言葉をイリーネが理解するより早く、アスールが眉をしかめて反論しようとしていた。それをカイが押さえて、さらに言葉をつづける。
「数時間……もしかしたら、数分で済むかもしれない。寿命なんて目に見えないし、体感できるものでもないけど、とりあえず今日明日にイリーネの身に何かが起こるってわけじゃないよ。その数分を長いと思うか、短いと思うかは、イリーネ次第だ」
それを聞いて、イリーネは思わずほっとしてしまった。十年くらい寿命が縮むのかと思っていたのだ。自分が何歳まで生きられるのか、そもそも病気もせず天寿を全うできるのかも分からないからには、そんな将来を恐れているわけにはいかない。代償としては、かなり軽い方なのではないか。だとしたらそれは、とても幸運なことだ。
「私、やります。教えてください」
「……いいんだね?」
「はい」
どのみち、カイやチェリンより長くは生きられないのだから――。
★☆
神暦二十六年。ア・ルーナ帝国とレイグラン同盟の長い戦いは、この年にひとつの終結を迎える。
戦場はギヘナ大草原――かつてはレイグラン同盟が接収し、その本陣が置かれるただの真っ平らな平原だった場所だ。王女エラディーナを擁するア・ルーナ帝国軍と、【竜王ヴェストル】を擁するレイグラン同盟軍が、平原で真っ向からぶつかる。これが「ギヘナ平原の決戦」だ。
ここに至るまで、ア・ルーナ帝国は同盟相手に勝利を重ねて、士気も高く勢いもあれば数でも敵を上回っていた。真正面からぶつかるとなれば、数が物を言う。化身族の火力も数に押され、やがて退却を余儀なくされた。
そこで人間たちは、追撃網を工夫して、敵を狭い渓谷地帯へと追いやった。ギヘナ大草原を横断したときにキョウという娘が言っていた、ギナの谷だ。谷底に閉じ込められた同盟軍の兵士は、崖上から射かけられた矢や魔術によって多くが倒れたという。
谷底を脱出した同盟軍は、戦場を再び平原へと移した。そこで、同盟一の強者だった【燐光のジャハル】が率いる一軍が、捨て身の突撃を帝国軍へ仕掛けた。それによって、帝国軍は真っ二つに分断されてしまった。エラディーナが自ら率いる部隊と、大騎将ヘイズリーの率いる騎馬部隊だ。
分断されてなお、帝国軍の数の優位は揺らがない。エラディーナもヘイズリーもそれぞれ敵を倒し、どうにか合流を果たそうとしていた――しかし、それは達成されなかった。自軍の劣勢を見て戦場に飛び込んできた【竜王ヴェストル】がヘイズリーの部隊の後背を突き、奮戦虚しく大騎将は戦死を遂げたのだ。
そうしてエラディーナが目にしたのは、地に倒れて動かぬヘイズリーと、ヘイズリー渾身の最期の一太刀によって、胸に剣を突き立てられた【竜王】の姿だった。竜の硬い鱗は、鉄器を容易く通さない。かつては一度弾かれた刃を、最期にヘイズリーは突き立てることに成功したのだ。それでも、【竜王】にとっては小さな傷に過ぎない。
密かに思いを寄せていたヘイズリーの死を目の前で見たエラディーナの悲しみは、どれほどのものだっただろう。エラディーナは、決戦の二年前のヴェルン山での戦い以来、【竜王】と真っ向から対峙したのである。親や兄弟、多くの兵士、そして思い人の仇を取り、戦いを終わらせるために。
勝利したのはエラディーナだった。何かぽっかりと心に穴が開いたような、どこか空虚な勝利だったという。
「……」
カイの説明を、イリーネは目を閉じて聞く。アスールとチェリン、クレイザも、黙って耳を傾けていた。
決戦の時のエラディーナは、二十六歳。現在のイリーネより年上だ。だが立場はよく似ている。イリーネもエラディーナも一国の姫君であり、親を殺された。それでも支えてくれる者がいるから、戦うことができた。彼女は憎い敵を討って本懐を遂げた。愛しいヒトと引き換えに。
「エラディーナは剣に光魔術を施して、それで【竜王】を貫いてとどめを刺した。その剣は、ヘイズリーのものだったそうだ。……ヘイズリーの剣は、【竜王】の身体に突き刺さったまま。【竜王】の懐に飛び込んで、どうにかしてそれを一度抜かなければいけない。並大抵のことじゃなかっただろうけれど、それでもエラディーナはヘイズリーの剣を使いたかったんだね」
想像する。自分の目の前に、大きな竜が――書物でしか見たことのないような、あの幻の竜がいる。きっととても大きいのだ。その竜の胸には一振りの剣が突き刺さっていて、傍にはヘイズリーが倒れている。ヘイズリーが命を懸けた、最期の一撃。心臓まで届かなかったのなら、自分の手でそれを押し込んでやりたい。これまではただ優しい姫君だと思っていたエラディーナが、本気で怒って悲しんだ。そんな姿を想像する。
「【竜王】の懐に飛び込む隙なんてない。エラディーナは連戦続きで疲労困憊だったし、長期戦は明らかに不利だ。ただ、【竜王】もヘイズリーとの戦いでいくらか消耗して、動きも鈍っていた。エラディーナは、一瞬の隙に懸けた。今まで実戦で使用したことのない神属性の最終奥義を使って、時を止めることに成功したんだ」
既に魔力も尽きかけていたエラディーナが止められる時間は、そう長くはない。それでも、エラディーナには十分だったのだ。
「【竜王】の胸に突き刺さるヘイズリーの剣を、イリーネは引き抜ける?」
カイが静かに問う。抜けば血が出る。血を止めなければ死ぬ。それを知っていながら、その剣を抜けるか。引き抜いた剣に光の魔術をまとわせて、もう一度自分の手で同じ場所へ突き刺せるか。
エラディーナはそれをやった。イリーネは、できるか。
――やる。自分に置き換えれば、答えなどすぐに出る。もし、【竜王】によってカイやアスールやチェリン、大切なヒトが殺されるのを目の前で見たら。そんなことになったら、話し合いなんて方法は絶対にとれない。気が収まらない。きっと、誰だってそうなるはずだ。
身体に突き刺さった剣の柄。それを握って、引き抜く。女の力では難しいかもしれない、しかしやるのだ。中途になった大切なヒトの攻撃を、完遂させるために。
相手の顔を拝もうと顔をあげる。【竜王】がどんな姿をしているかなど、イリーネは知らない。だからそれもすべて想像上の顔なのだ。――それなのに。
見上げた相手の顔は、メイナードだった。
「……ッ!」
イリーネはぱっと目を開ける。カイが顔をあげて、イリーネを見やる。
「イリーネ?」
「わ……私……」
震える唇から、それ以上声が出ない。代わりに出てきたのは涙だった。ぎょっとしたようにカイが立ちあがる。
「どうしたの、大丈夫……!?」
少し離れて見守っていたアスールたちも、心配そうに歩み寄ってくる。イリーネは涙を拭い、頭を振った。それから笑みを浮かべる。
「ごめんなさい、なんでもないの……ちょっとだけ、エラディーナに感情移入したら、悲しくなっちゃって」
「……ふふ、ヘイズリーの立ち位置にカイを入れて想像でもしたのか?」
アスールがその場の空気を和ますようにそう言った。イリーネの言葉の真偽はともかく、話に乗ってくれたのが救いだった。その証拠に、喜んでいいのか悪いのか、カイは複雑な表情で押し黙ってしまう。チェリンも苦笑して、イリーネにハンカチを差し出してくれた。
ヘイズリーにカイを重ねたのは間違いではない。だがそれよりも、【竜王】にメイナードを重ねてしまったことのほうが、イリーネは恐ろしかった。メイナードは兄だ。あちらがそう思っていなくても、イリーネにとっては兄だった。できれば話をしたいし、非道はやめてくれと頼みたい。メイナードが剣を向けてくるならばイリーネもそうするが、それでも戦いたくはない。それがイリーネの本心のはずなのに。
(私は、メイナードお兄様を……殺したいほど憎んでいるのかもしれない)
そんな暗い感情を抱いたのは初めてだった。もしかしたら自分は、兄が死んでも悲しくないのかもしれない。まるで、王と王妃を殺して平然としていた、メイナードのように。あれが兄の本性だとしたら、その妹である自分は、どうなのか。
――そんなことを思ったら、怖くて仕方がないのだ。
「……俺、君に後のこと全部任せて死ぬような、そんな無責任なことしないから。心配しないで」
カイがそう慰めてくれる。ハンカチを握ったまま、今度こそイリーネは心から笑みを浮かべた。心配などしていない。カイが約束を破ったことなど、一度もないのだから。
★☆
メイザス伯のお誘いを受けて、イリーネたちは伯爵一家と夕食を共にした。メイザス伯家の使用人たちはイリーネのこともよく知っているので、今宵の料理はイリーネの好みのものばかりだ。懐かしい故郷の料理。フローレンツでの首脳会議に出席するために神都を発って以来、久々に口にする味である。自分のことを知ってくれているヒトがいるのは、嬉しいものなのだ。そんなことを今更イリーネは実感する。
和やかに夕食は進み、最後に新鮮な果物を出してもらったところで、にわかに騒ぎが起こった。給仕をしてくれていた使用人の女性が、窓の傍を通りかかったところで驚いたように悲鳴を上げたのだ。エーリッヒが顔をあげる。
「どうしたのだ?」
「あ、旦那さま、窓の外に何か……」
カイとアスールが緊張して腰を浮かしかける。その時、外側から窓が勝手に開けられた。突風と共に飛び込んできたのは黒い塊――何度目の登場だろう、ニキータである。
「だから、なんでいつも窓から登場するのさ」
椅子に座り直したカイが、そう苦言を呈する。化身を解いたニキータは何も言わずにどかどかと歩いてきた。何やら鬼気迫る様子で、さすがのカイも口をつぐむ。いつもなら軽口のひとつやふたつが返ってくるはずなのに。
「早かったね、ニキータ。何かあった?」
クレイザが問うと、ニキータはカイが口をつけていなかったワインのグラスを持ち上げ、一息で飲み干してしまった。水か何かと勘違いしているのかという飲みっぷりだ。――しかし、よくよく見てみると、ニキータの額にはじんわり汗がにじんでいる。水を飲む暇もないほど、急いで戻ってきたらしい。
グラスを置いたニキータは一息ついて、みなに告げた。
「緊急事態だ。お前ら、荷物をまとめて出かける準備をしろ!」
「どういうこと?」
「メイナードの奴は、俺たちがメイザスに匿われていることを知っている! 教会兵がメイザス領の街を襲いに来るぞ!」
ゲルダが悲鳴をあげかけた。彼女が父を振り返ると、エーリッヒは冷静だった。
「やはり、強硬手段に出てきましたね。……神都に最も近いのは、山向こうのコロナの街です。おそらく最初の標的はそこでしょう。教会兵が既に神都を発っているのなら、明日には到達されてしまう」
そう言って部下を呼びつけると、エーリッヒはメイザス騎士団の出動を命じた。それから彼は、イリーネを見る。
「イリーネ姫様、こうなってしまっては一刻の猶予もありません。メイザス領からの脱出をお願いします。隣のクレヴィング公領ならば、まだ安全でしょう」
「メイザス伯はどうされるおつもりですか」
「私はコロナへ向かいます。教会兵が我々に剣を向けるならば、それを打ち払うのみ。姫様方は、どうかお逃げください」
それを聞いたイリーネは、ちらりとカイやアスールを見やる。彼らは、イリーネのやりたいことを尊重すると言ってくれた。ならば、イリーネの気持ちも分かっているはずだ。――ふたりとも、頷いてくれた。
「クレヴィング公領へ行くには、コロナは通り道です。私たちも行きます」
「イリーネ姫様……」
エーリッヒはしばし黙り込み、それから深々と頭を下げた。その様子を見て、ゲルダも自分のやるべきことを思い出したらしい。イリーネたちの馬の鞍を用意してくると、彼女は食堂を飛び出していった。
その隙に、立ちながら素早く腹ごしらえをしていたニキータが、パンを水で流し込んでにやりと笑う。ようやく落ち着いてきたようだ。こんな時でも笑う余裕のある不敵なニキータは、まったく頼りになる司令塔だ。
「事情は歩きながら話す。行こうぜ」
イリーネは頷き、荷物を取りに客室まで駆け戻ったのだった。




