◇道は遠く(4)
一方その頃、イリーネとアスールはイル=ジナと共にいた。今日は会議室ではなく、景色のよい中庭に連れてこられた。暖かい気候のケクランでは、サレイユなどではとっくに散ってしまった花がまだ見事に咲いている。見覚えのある、リーゼロッテでも育つ花々も多く見られた。それだけで、イリーネは故郷が近いことを感じられる。
話の内容はもちろん今後の進路についてだったが、そこまで堅苦しい雰囲気にはならなかった。あえてイル=ジナがそうしているのだろう。今後の予定を詰めることはシャ=ハラやイオがやってくれているから、王族たちは交流を深めようということなのかもしれない。
傍に控えていたのはシャ=ハラだけだったが、しばらくしてシャ=イオのほうも中庭に出てきた。ここ数日で彼と顔を合わせる機会は多かったし、部下たちに指示を出している姿を遠目に見ることもあった。ハラの言う通り、二言目には「忙しい、面倒な」という言葉が飛び出していたが、それでもしっかり仕事をする姿は微笑ましい。
サレイユ軍と連絡がついたようで、イオはその報告を女王にしに来たのだ。その報告の中にジョルジュやカルノーの名が出て、少し嬉しく感じる。『数万の味方を引き連れて合流します』と笑っていたジョルジュは、約束を果たしてくれたのだ。
「……というわけで、サレイユ軍は現在、ヴェスタリーテ河上流にあるグラードの街の郊外に陣を張っています。我が軍が交戦に入ったのちに側方から奇襲する、という作戦については了解を得ました。ただ……」
「ただ、なんだい?」
「騎士隊の運用について、あちらから提案がありました。歩兵は河沿いにそのまま南下するとして、騎士隊は上流域から河を渡り、リーゼロッテ領を通過して敵の背後を突く、と。こうすることで二重の奇襲を行えますし、イリーネ姫たちの渡河を目立たなくすることができる……とのことですよ」
それを聞いたアスールが苦笑する。
「ジョルジュの考えそうなことだな」
「この作戦について、アスール王子のご裁可を頂きたいそうですけど」
「許可する。そう伝えてくれ」
危険な上流域を軍隊で渡り、敵領を通過するなど、あまりに無茶だ。だがそれを平然と口にするジョルジュの顔が目に浮かぶ。ジョルジュも、この提案を許可したアスールも、互いの力量を信頼しているのだ。ジョルジュが誰のために危険を冒そうとしているのかも分かっている。イリーネは心の内で、忠実なアスールの騎士に感謝した。
「ケクラコクマ軍とサレイユ騎士隊が盛大な囮になる間に、イリーネたちは秘密裏に渡河。ティリア大森林を抜け、メイザス伯爵領を通過して神都カティアへ向かう――こういう道のりでいいんだね?」
イル=ジナの確認に、イリーネは頷く。そのルートこそ、イリーネが考え出した道筋だった。ヴェスタリーテ河の中流から下流までを支配するアーレンス公爵――その領地を真っ直ぐ突っ切れば、その先はすぐに王が直轄する王領に出て、神都カティアに着く。しかし、アーレンス公爵は敬虔な聖職者であり、カーシェルとは何かと対立していた男だった。イリーネらの父である国王ライオネルによって信心深さを認められ、国境の一大領地を与えられたのだ。彼は二十年前のヘルカイヤとの戦争でも、積極的に戦力を提供していたという。化身族を好意的に思っているとは、とても考えられなかった。
そして中流域を治めるベルネット伯爵は、アーレンス公爵に追従する弱腰な男だった。頼りないが情け深い性格はイリーネも嫌いではなかったのだが、今回は当てにできない。
しかし、ギヘナとの境、上流域に領地を持つメイザス伯爵は違う。王妃エレノアの生家クレヴィング公爵領と隣接していることもあって、メイザス伯はカーシェルとの親交が深かった。カーシェルがしきりに彼を誉めていたのを、イリーネは覚えている。そして伯爵の子息たちとはイリーネも親しい。頼りになるはずだ。
メイザス伯爵領には、ティリア大森林という場所がある。ヴェスタリーテ河上流域に形成された、ギヘナの影響を色濃く受ける密林だ。この深い森があるために、メイザス領とアーレンス、ベルネット領の通行は容易ではない。一度潜り込んでしまえば、追撃兵はついてこられないはずだ。
イリーネは、この大森林を歩くコツを、メイザス伯爵から教わっていた。きっとみなを連れて、無事に街まで出られる。神都へ向かうには少し遠回りになるが、仕方がない。
「メイザス伯爵家の兵は、少数ですが精鋭ぞろい。騎兵が大半なので、神出鬼没に戦場に現れては我が軍を攪乱していきます。しかも、毎回伯爵本人が陣頭に立っている。まあ、さすがに王太子カーシェルの信任篤い男というか、教会から嫌われている者同士というか……敵としては憎らしいですが、味方となれば頼もしいでしょうね」
イオが辛辣にそう評するが、内容はメイザス伯を褒め讃えていた。イオの太鼓判も頂けたので、イリーネとしてはほっとした気持ちだ。
ケクラコクマ軍はこのあと、王都を出て一路東へ。途中でイリーネらは隊列から外れ、上流にあるグラートの街でサレイユ軍と合流する。そしてサレイユの騎士隊が渡河を始めた時、別のところからイリーネらも渡河する――その頃には下流域でケクラコクマとリーゼロッテ軍がぶつかっている、ということになりそうだ。
「私たちやイーヴァン軍の目的は、リーゼロッテ軍を破って神国内へ進軍することじゃない。有力諸侯の足を止めさせ、神都カティアの防備を薄くすることが目的だ。突撃しては退き、退いては突撃するという戦法を繰り返すことになる。そう長くはできないから、行動は迅速に頼むよ」
イル=ジナは明るくそう言うけれど、それがどれだけ危険で大変な戦い方であるか、イリーネは知っている。もし神都で異常が起きたことを知れば、諸侯は軍をそちらへ向ける。そうなればイリーネらが神都で行動を起こしにくい――そうならないために、イル=ジナは尽力してくれるのだ。勝つためには敵を倒さなくてはいけないのに、それをしない。消極的な戦いをするが、しかしリーゼロッテ軍を逃がしはしない。短期間に苛烈な攻撃を好むケクラコクマ軍には、苦行ともいえる戦いになるだろう。
シャ=イオがぺらりと持っていた報告書をめくる。
「……ところで、【黒翼王】から調べ物を依頼されていましてね。結果はイリーネ姫とアスール王子にも伝えるよう頼まれていたんですが」
「調べ物?」
「【獅子帝】のことについてです」
その言葉に、イリーネとアスールが目を見張る。
「できるだけ古い記録を、片っ端からです。僕も忙しいと言うのに、まったく。城の書庫をひっくり返して、おかげで腰が痛いですよ」
「でも、調べてくれたんですね? ありがとうございます!」
イリーネがそう謝すと、イオは一瞬言葉に詰まった。それからひとつ息を吐き出し、イオは尋ねる。
「現在、賞金のかけられた強力な化身族にはそれっぽい二つ名があるでしょう。あれがどのようにつけられているか、ご存知ですか」
「容貌から狩人協会が名付けることもあるが、そうでないときは過去に実在した化身族の名を使い回しているそうだな」
アスールの答えに、イオは頷く。過去――歴史書の中には、多くの化身族が登場する。その中には【氷撃】と呼ばれている者もいたし、【黒翼王】と呼ばれた者もいた。同じような魔術や戦い方をするなど、特徴が似通った者は、その名を歴史書から引っ張ってくるのだという。誰が最初に言いはじめるのかは知らないが、いつの間にか二つ名は定着していく。いずれカイがいなくなり、【氷撃】の称号が空けば、未来の誰かがその称号を引き継ぐということだ。
「百五十年近く前に、フロンツェという獅子の化身族がケクラコクマ軍に在籍していた――それは確かなようです。しかしその容姿について記録は一切ない。姿を実際に見た者も少なく、とっくにどこかで死んだのではないか。それがここ数十年の、協会の認識です。つまり、もう殆どいないものとして扱っているんですよ。いつか強力な獅子の化身族が現れれば、その者に【獅子帝】の名は引き継がれるでしょう」
「……」
「とまあ、こんな風に、歴史上に同じ二つ名を持つ化身族はごろごろいるわけです。【黒翼王】が百五十年前に見たという青年と、いまメイナード王子と共にいる青年は、単なる別人か、もしくは子孫か何かでしょう――と言いたいところなんですが」
「何か分かったのか?」
姉に問われた弟が、答えようと口を開いたその瞬間、シャ姉弟は何かに気付いて顔を上げた。
一瞬遅れて、イリーネやアスールにも聞こえた。
足音。鞘走る音。空を切る音。
そして、強烈な敵意。
「イル=ジナ、覚悟――っ!」
そんな叫び声が中庭に響き渡る。花が綺麗に植えられた花壇を踏み越えて、ひとりの男が駆けてきていた。手には抜き身の剣がある。その突進は、先日のシャ=ディグの突進の勢いにも似ていた。
イル=ジナは絨毯の上に座り、クッションに身を預けて胡坐をかいていたのだ。剣はすぐ横に置いてあるが、さすがにそんな態勢ではすぐに抜剣はできない。
代わりに剣を抜いて、振り下ろされた刺客の刃を受け止めたのはシャ=ハラだった。イル=ジナと刺客の間に身を滑り込ませ、間一髪防いだ形である。女王の近衛兵団長は、誰よりも早く事態を悟り、動いていたのだ。それでもこれだけ、シャ=ハラは切羽詰った形で対応せざるを得なかった。
しかし、驚くべきことが起きた。刺客は、シャ=ハラを力づくで払いのけたのである。敵の刃だけは身をよじって回避したシャ=ハラだったが、床に叩きつけられてしまう。一瞬の出来事だった。
シャ=ハラを払いのけた勢いそのまま、剣はイル=ジナの脳天を叩き切る――寸前、女王の前に飛び出したのはシャ=イオだった。
「イオ!」
背中をばっさりと斬られたシャ=イオは、イル=ジナの上に倒れ込んだ。あっという間に、鮮血がイル=ジナの衣服を染め上げる。いつだって不敵な笑みを浮かべていた女王の顔に、初めて吃とした怒りが現れた。
その時には、アスールが刺客と剣を交わしていた。アスールを払いのけるのは至難の業だ。逆にアスールの重たい一撃を食らって、刺客は二歩ほど後退する。女王並みの雄敵と見たようだ。アスールが剣を構えながら問う。
「王の居城に剣を構えて入り込むとは、とんだ無礼者もいたものだ。どのような国であろうと、王者の前で武器を構えることは許されぬ。それを知っての狼藉か」
「そのような決まり事、この国には存在しないさ! 自分が王になるためには、今の王を倒すしかない。それこそが最強の証! こんなところで仲良くお喋りをしているから悪いのだ!」
刺客の言葉を受けて、アスールが滑るように前進する。それを止めたのは、他ならぬイル=ジナだった。
「アスール、すまないが剣を退いてくれ。狙いは私だけだ、他国の人間を巻き込むわけにはいかないよ」
女王はすっかり落ち着いていた。イオの治療をシャ=ハラに命じて、彼女は剣を抜いて進み出た。アスールはちらりとイル=ジナを横目で見て、口を開く。
「聞いたことはあります。ケクラコクマの王は最も強き者でなくてはならない。王の交代とはすなわち、敗北と死を意味する――王座を賭けた決闘が、どのような場合でも許されていたのでしたね」
「ああ、この男は私から王座を奪わんとする挑戦者だ。私はそれに応じなきゃいけない」
「――お言葉ですが」
普段なら大人しく引き下がるはずのアスールが、反論をした。これにはイル=ジナも、イリーネも驚きだ。
「この場にいる者は、この先誰ひとり欠けてはならないヒトばかり。ここで貴方の一騎討ちを認めたばかりに、貴方がたを損なう危険を冒したくはありません」
仮にも王になろうと目論む刺客だ。かなりの実力者には違いない。イル=ジナがいくら武勇を誇っていても、万が一ということもあるだろう。怪我でもされて、それがこのあとの戦いに響いたら大事なのだ。
「何をごちゃごちゃと……邪魔をするなら、貴様から死ね!」
業を煮やした刺客が、一気に間合いを詰めて斬りかかってきた。アスールは余裕を持ってその斬撃を受け止める。
「何より、私はこれまで自分に剣を向けてきた相手を、他人に譲ったことはない」
幼いころのアスールは臆病で泣き虫だった。それが変わったのはいつだっただろうか。多分、十五、六歳のときにはすっかり彼は変わっていた。優しいことは優しいけれど、ずっと下を向いていたのが嘘のように、顔をあげて堂々と立つ姿に、最初はカーシェルも喜んだものだ。「やっと王族らしい威厳と自覚が出てきたようだな」と――しかし違う。カーシェルとイリーネが知らない間に、彼は政略争いに巻き込まれ、変わらざるを得なかったのだ。身内からは利用され、対立する勢力からは命を狙われる。生き残るためには剣を研ぎ、神経を張りつめるしかなかった。
そういう事情を知った時、イリーネは言葉を失ったものだ。事情を知っているから、今のアスールの言葉も心に刺さる。ケクラコクマの事情は知ったことではないと言いながらも、同じように戦い抜いてきたのはアスールではないか。
アスールにとって、目の前にいる刺客は、王座を手に入れようとする挑戦者ではない。ただの暗殺者で、賊でしかないのだ。「公正な決闘」などにアスールが価値を見出しているとは思えなかった。
「……慣習を曲げるのは結構まずいが、私も王座をくれてやる気はないからね。借りておくよ、アスール」
「ええ」
アスールとイル=ジナが肩を並べて剣を構える。こうなれば、刺客の男の行く末は見なくても分かる。イリーネは倒れ伏すシャ=イオの傷を癒しはじめた。シャ=ハラが止血を試みていたが、出血の勢いは止まらない。応急手当としてとりあえず傷全体を塞ぎ、それから本腰を入れて丁寧に治癒を試みる。
「イリーネさん、傷の様子は……」
シャ=ハラは青白い顔でそう問うてくる。一応武芸の心得はあるようだが、それでもシャ=イオは戦士ではない。女王の補佐をする輔弼官なのだ。戦士にとってはたいした傷でなくても、イオにとってはそうではない。
「傷は深いですが、致命傷ではありません。今は痛みと衝撃で、一時的に気を失っているだけですよ」
「そうですか……良かった……!」
ハラが安堵の息をついたところで、イオがぴくりと動いた。イリーネは治癒の手を止めずに、俯せになっているイオの顔を見る。目を開けたイオは、しかしまだ痛みがあるようで、すぐに顔をしかめた。
「イオ!」
「イオさん、目が覚めましたか?」
「姉さん……それにイリーネ姫……」
イオは首を捻って、自分の背でイリーネが何をしているのかを見やった。イリーネの手から溢れる光が傷を消していくのを見て目を見張ったイオだったが、次の瞬間にはハラが弟の頭を床に押さえつけてしまった。
「大人しくしていろ、身を起こすな馬鹿者め!」
「いたっ、顎打ったんだけど……」
姉の乱暴な手つきに悶絶したシャ=イオは、それから小さく呟いた。
「……当代の神姫は不思議な力を持ち、歴代の神姫に比べて絶大な人気があると聞いていたが……成程、こういうことか……」
そう言ったきり、イオの言葉は途切れた。ほっとしたのだろうか、彼は再び意識を手放していたのである。