◇道は遠く(2)
入浴して汗と砂埃をしっかり落とし、用意してもらった衣服をまとう。ケクラコクマの女性が身につける伝統的な衣装であるらしく、細長い一枚の布を腰に巻き、余った部分を肩に引っかけるというものだ。女官たちが金色に輝く首飾りやアンクレットをつけてくれて、イリーネもチェリンも優美で豪華な装いとなった。特にチェリンなど、衣装のせいでいつものように元気に歩くこともできず、自然「しずしず」という歩き方になって女らしさが増している。少々露出の多い格好だが、チェリンは抜群の肢体の持ち主だ。あまりの似合いっぷりを見て、食事の席で再会した男性陣が一斉に目を逸らすという、面白い光景が出来上がってしまった。
その男性陣の方も、長衣を帯で締めた姿に替わっていた。見慣れない姿だが、大柄なニキータなどはよく似あっている。細身のカイやクレイザなどは少々だぼっとした印象だ。ケクラコクマ人は総じて背が高く、ガタイが良いのだ。本当は頭にターバンも巻くそうだが、カイたちは異国人であるし、提供してくれたイル=ジナたちダンカル族にはその習慣がないそうなので、今回は省略である。
軽い食事を終えると、いよいよイリーネたちは女王のもとへと案内された。通された部屋は玉座の間でも、厳かな会議室でもない。大きな窓から美しい中庭を臨む、王宮の中では小ぢんまりとしたサロンだった。床にクッションがいくつも並べられ、そのうちのひとつにイル=ジナが座って片胡坐をかいている。左右にはシャ=ハラとシャ=イオの姉弟も控えていた。
現れたイリーネたちを見て、イル=ジナがにんまりと笑う。戦装束を解いてはいるものの、どこか「戦士の女」という印象を禁じ得ないのは、鍛え抜かれた肉体を惜しげもなく晒し、無骨な剣を傍に置いているからだろう。
「数日ぶりだね、御一同。遠路はるばるようこそ。たいしたアクシデントもなかったようで、何よりだ」
勧められた席につくと、イリーネたちの前に女官が茶を出していく。それが終わると、女官は退出してしまった。見張りらしき兵士もいないし、イオが言っていたようにこれは私的な会談だということだろう。
イリーネやチェリンの姿を見たイル=ジナが、感心したように顎をつまんで唸る。
「いやあ、それにしてもよく似合っている。私の目は確かだったね。こんなにその衣装が似合う美姫、ケクラコクマにもそういないよ」
「あ……ありがとうございます、素敵な衣装を貸していただいて」
「礼なんていいんだよ、私の趣味だから。むしろそんなに見事に着こなしてくれてありがとう。ふふふ、やっぱり艶やかな衣装は美人に着てもらわないとねぇ」
なんだか喜びようが異様に思えたのだが、女王が二の句を次ぐより早くシャ=ハラが大きく咳払いをし、シャ=イオが音をたてて床に地図を広げた。姉弟の連携は完璧だ。それを見たイル=ジナは我に返ったらしく、茶を一口飲んで声を改めた。
「ええと……さて。それじゃ本題に入ろうか。サレイユ、イーヴァンと連携して神国に向けて兵を出すってことについては、あんたたちが到着するまでに議会で承認された。今は出撃の準備をしながら、他二国からの合図を待っている状況だ」
「! 早いですね」
アスールが驚いたようにそう言う。イル=ジナがこの王都に戻ったのは、ほんの数日前だろう。それで既に承認を得たということは、ほぼ即日許可だったということだ。サレイユでの決定もかなり早かったが、ケクラコクマのそれは桁違いだ。
「私も想定外だったよ。だが、老臣たちは案外今回のことに乗り気でね」
「名目がどう変わろうと、我々がすることは同じですから。それどころか、普段は戦いに消極的な女王が自ら開戦を訴えて、みな大喜びですよ」
イオがしれっとした表情でそう説明する。
「サレイユやイーヴァンが、我が国以上にリーゼロッテと渡り合えるとは思えませんしね。かくなる上は、王太子カーシェルの救出に全力を挙げ、その後十分な報酬を頂きますよ」
「――とまあ、イオも協力する気は満々だ」
「協力かなぁ、それ」
ぼそりとカイが呟く。協力という名の利用だろう。が、おそらくシャ=イオの言葉は半分以上が冗談のはずだ。彼はイル=ジナにだけ忠実で、イル=ジナが望まないことを実行するとも思えない。口ほどにイオの本性は冷酷ではない、……とイリーネは信じたい。
「それでサレイユのほうはどうだい、アスール王子?」
問われたアスールが、地図に指を置いた。自然、一同はその地図を囲んで円形になる。アスールが指差したのは、ケクラコクマ北の国境、エルネスティ平原だ。そこからやや東寄りに指を南下させ、西の国境であるヴェスタリーテ河まで直線で結ぶ。それはちょうど、ラクール大砂漠を迂回し、ギヘナ大草原の領域にぎりぎり入るか入らないかといった微妙なラインだ。
「騎兵が五万、歩兵が九万。サレイユ軍は砂漠を迂回しながら、国境地帯を目指して南下中です。同時に、海軍も王都を出発しています。ヴェスタリーテ河を遡行し、全軍の渡河を援護させます」
「騎兵五万、歩兵九万って……ほぼ全軍じゃないか。いいのかい?」
「敵の兵力が分からない以上、持てるすべての戦力を投入するのは当然のことです。それに、全軍といってもケクラコクマ軍には数で到底及びませんから」
軍事面で弱小なサレイユが動かせる兵力のすべてが、カルノーとジョルジュの指揮のもとこちらへ向かっている。それだけサレイユが本気であることを、イル=ジナも悟っただろう。ひとつ頷いて、イル=ジナは視線を地図に戻した。
「おそらくリーゼロッテの正規軍は出てこない。奴らの仕事は神都の守備だし、よほどの負け戦をしない限り援軍でも来ないだろう。となれば、初戦の相手はこれまでどおり、河向こうの諸侯の軍だ」
「アーレンス公爵、ベルネット伯爵、そしてメイザス伯爵……ですね」
リーゼロッテ神国は封建社会国家だ。国土がいくつかの領地に分けられ、その土地ごとに領主たる貴族を戴く。貴族は王から与えられた領地を荘園として経営し、領民から税を徴収することも、独自の裁判権を持つことも許されている。その見返りとして、有事の際は王を守るために戦う――そういう構造なのだ。
イリーネが挙げた三貴族は、リーゼロッテ最西部、ヴェスタリーテ河沿いに領地を持つ有力貴族だった。ケクラコクマとの戦いの際には、この三家が兵を出す。国境地帯の激戦区ということもあり、これらの貴族の力は絶大だ。特に司令官たるアーレンス公爵家の騎士たちは勇名を轟かせている。長い闘争の歴史の中で、ケクラコクマの侵略を食い止め、一度として神都カティアへ進軍させたことがないということが、その証拠だ。
「歩兵の多いケクラコクマ軍が渡河できる場所は、下流域の一部に限られている。当然、敵方もここを警戒して、兵を多く配置するはずだよ」
イル=ジナが言いながら、ヴェスタリーテ河の下流部分を指差す。対岸はアーレンス公爵領で、ここには巨大な城塞もある。
「けど、あんたたちは寡兵だ。上流域でも十分渡河できる。対岸に兵はいるだろうが、あんたたちの敵じゃないだろう?」
にやりと笑った女王が、胡坐をかきなおして身を乗り出す。イリーネやアスールをじっと見て、言い聞かせるように告げる。
「作戦はこうだ。まずはケクラコクマ軍が正面からリーゼロッテとぶつかる。時間差でサレイユ軍が側面から攻撃を仕掛ける。……つまり私たちは囮だよ。あんたたちは、その隙に上流域から河を渡って、国境を越えるんだ」
「何十万という兵を囮にして、か。なかなか大胆な作戦だな」
ニキータが苦笑する。まったく、大胆だ。いまだかつてないほどの兵を動員しての全面戦争をしておきながら、本命の戦力はたった六人だなんて。
「それだけに効果的だとは思います。ただ、問題は神国に潜入した後、いかに神都に近づくかでしょうね」
シャ=ハラの懸念はもっともだった。イリーネはリーゼロッテ神国の王女であり、教会の象徴たる神姫。幼いころは離宮に隔離されていたとはいえ、近年では公式行事や教会の祭事への参加が増えている。貴族はみなイリーネの名も顔も知っているし、民衆の間でも有名だ。いかに正体を隠しながらでも、選ぶ道筋を間違えれば一貫の終わりだ。
「リーゼロッテの貴族は、王室派と教会派で割れています。その教会派の中でも、いくつかの派閥がある。メイナードお兄様が教会の後ろ盾を得ているのなら……高位の聖職に就いている貴族の領地は、避けなければなりませんね」
「判別がつけられるかい?」
イル=ジナの問いに、イリーネは顔をあげる。横に座るアスールはじっと押し黙っていた。いくら物知りな彼でも、他国の勢力図を完全に把握できているはずがない。力になれないと、申し訳なく思ってくれているのだろう。
しかし、イリーネが考えなければならない。リーゼロッテは祖国なのだ。なんでもかんでも、アスールに押し付けるわけにはいかない。
「大丈夫です。スフォルステン家に所縁のある諸侯を弾けばいいのですから……ルートを考えてみます」
「焦って飛び込んでも意味がない。こっちの準備もまだあるし、ゆっくり考えな。ハラ、帰還早々で悪いが出撃準備を進めてくれ。兵の選出は任せる」
「はい」
「イオはサレイユ、イーヴァンとの連携の窓口に立て。それと、イリーネたちのお世話もするんだよ」
「……前者はともかく、後者は僕の仕事じゃないと思いますよ。まあ、承りました」
口数の少ない姉と、不満たらたらの弟という対照的な構図ながら、ふたりはさっさと働きはじめた。それを見たニキータが口を開く。
「少し時間があるなら、国境あたりを偵察に行ってこよう。なんなら、サレイユ軍との連絡係に使ってくれてもいいぜ?」
「そりゃ頼もしいけど、いいのかい?」
「じっと待っているのは性に合わんからな」
「ほんと、いい歳して落ち着きがないんだから」
これはカイの言葉である。ケクラコクマにも鳥族の兵はいるだろうけれど、元々ニキータは諜報や偵察活動の専門家だ。サレイユ軍に近づくことも、顔が知られているから容易だろう。本当に役に立つ男だ。
大筋の流れが決まったところで、その場はいったん解散となった。アスールやイル=ジナは実際に兵を指揮する者として打ち合わせを続け、ニキータは早速国境地帯へと出かけていくという。正直イリーネは、休憩をもらえたことに安堵していた。リーゼロッテという国に、どういうルートで侵攻していくか。どういう方法で、国境地帯の諸侯に勝利するか。慣れ親しんだ土地と、親交のあった人々が傷ついていく――そのための作戦会議は、聞きたくなかった。虫のいい話だとは分かっているが、どうしてもイリーネは、耳を塞ぎたくなってしまう。誰も傷つかずに済む方法はないのかと言って、アスールたちを困らせてしまいそうになる。そんな迂闊な言葉を口に出さないようにと、イリーネは必死に黙ってきていたのだ。
地図をもらって、イリーネは客室へと戻った。リーゼロッテの詳細な地図で、これをもとにイリーネはこれからの進路を考えなければならない。イル=ジナはゆっくり考えろと言ってくれたが、きっとそんなに時間はない。覚悟を決めるしかないのだ。
「イリーネ。……イリーネ?」
そう声をかけてくれたのはチェリンだ。部屋に戻ってから地図を見つめてじっと黙っていたイリーネは、二度も名を呼ばれたことにようやく気付き、振り返る。
「あ、はい。すみません、ぼうっとしちゃって」
「少し休んだほうが良いわよ。お茶でも頼んで来ようか?」
「大丈夫です、そんなに疲れてないですから……」
「駄目よ、何十分地図と睨めっこしていたと思ってるの。待ってなさい、飲み物もらってくるから!」
「あっ、チェリン……!」
チェリンはそう言って部屋を飛び出していった。問答無用で休憩させるなら、わざわざ最初に聞いてきたのはなんだったのか。イリーネは苦笑して、持っていたペンを置いた。地図上には、避けた方が良さそうな領地や道につけた印が溢れかえっていた。
しばらくして戻ってきたチェリンがもらってきてくれたのは、温かいケクラコクマ伝統のお茶だった。暑いからといって冷たいものばかり飲んでは身体によくないという、彼女らしい心遣いだ。
「イリーネ、あたしにできることがあったら何でも言って」
チェリンは身を乗り出して、そう告げる。真剣な目だ。
「食べたいものでも、行きたい場所でも、やりたいことでも。あたしにできることだったら、なんでもするから。イリーネには立場があって、自由にできないこともたくさんあるだろうけど……だからこそ、あたしには気を遣わないでいいのよ」
「チェリン……でも、本当に大丈夫」
「あんたの『大丈夫』は信用ならないわよ」
「ふふ、酷いですね……」
「強がらなくていいの。友達なんだから、ね」
立場上言えないこと。責任上言ってはいけないこと。みっともないから言いたくないこと。信頼するカイにも、幼馴染のアスールにも聞かれたくない、見られたくない弱い姿を。
――チェリンにだったら、話せるだろうか。不安も、恐怖も、葛藤も。きっとカイもアスールも優しく受け止めてくれる、それが分かっているから口に出せない言葉を。チェリンだったら、どんな意見をくれるだろう。それは違うと、叱咤してくれるだろうか。弱気になるなと、背を押してくれるだろうか。
「……ありがとう、チェリン。今日だけ……弱音を聞いてもらっても、良いですか?」
「ええ、勿論」
チェリンは微笑む。イリーネも笑みを浮かべて、広げたままだった地図を折りたたんだ。今だけは、考えるのをやめようと思うのだ。