◇乾いた風の吹く先は(1)
エルネスティ平原を越えた先、日が沈み始めたころに到着したその街は、ファボールという名前だった。『街』とはいうものの実態は軍事施設というべきもので、暮らしているのは軍備に従事する職人たちとその家族が大半。サレイユのブランシャールのような城塞設備を持っていないケクラコクマ軍にとって、このファボールの街が最前線に当たるのである。剣や槍、弾薬はファボールで造られてすぐさま前線へ届けられるし、怪我人はこの街で休めることができる。だからこそケクラコクマは長期戦を戦い抜くことが可能なのだ。
完全にケクラコクマ王国の勢力圏に入り、人種の違うイリーネたちは大層目立ったのだが――シャ=ハラが同行してくれたおかげで、ちょっと奇異の目で見られるくらいで済んだ。もしかしたら、先にここを通過したであろうイル=ジナが、何かお触れを出していてくれたのかもしれない。
一応外部の観光客――そんな酔狂を起こす者はそういないらしいが――のために施設も整っており、その日は宿に泊まることができた。宿というより下宿施設のようなもので、戦時には怪我人を収容する野戦病院に変化するという。そういう側面があるためか、部屋は清潔だけが取り柄の質素なものだった。それでも快く出迎えてくれた宿の主人や、大急ぎで人数分の夕食をこしらえてくれた女将には頭が下がる思いだ。
「この先しばらくは穏やかな気候が続きますが、徐々にラクール大砂漠の範囲に入っていきます。気温もぐんと高くなりますから、体調管理は気を付けてくださいね」
夜、寝る支度をしながらシャ=ハラがそう言った。いつもイリーネとチェリンがふたりで使うには広いと思っていた部屋でも、今日から三人で使えると思うと少し嬉しい。少々無骨で堅苦しかったシャ=ハラでも、夜になれば結っていた金髪を下ろして梳き、肌の手入れをする。れっきとしたひとりのうら若い女性の姿だ。
気温が高くなると聞いて真っ先に思い出したのはカイのことだ。夏真っ盛りのイーヴァンでへとへとになっていたカイのこと、きっと砂漠の暑さにも弱いだろう。イーヴァンは湿度が高くむしむしした暑さだったが、ケクラコクマの気候はからっとしている。湿気がない分少しはマシかもしれないが――湿気がないということは、カイが氷結させるべき水分もないということだ。暑さで弱っているわ、魔術の威力が落ちるわで、カイには散々な土地かもしれない。
「国土の半分くらいが砂漠なんでしょ? ヒトが住むところも限られていそうね」
チェリンの言葉に、シャ=ハラも頷く。
「この国で何よりも大切なのは水源です。サレイユやリーゼロッテのような巨大河川は、ケクラコクマにはありませんから。数少ない水場の傍に、人口は集中します。その集団を、ここでは『街』ではなく『部族』と呼びます」
「砂漠に住むヒトは?」
「いないこともありません。豊かなオアシスがあれば、その近くに集落が作れます。道中、いくつかのオアシスを経由していく予定です」
事務報告のような口調で説明されて、チェリンも苦笑した。イリーネも別の質問を投げかけた。
「ハラさんはどんなところで育ったんですか?」
「……ラクール大砂漠の東部です。大きなオアシスの傍で、石の住居をこしらえて生活していました」
シャ=ハラ、そしてイル=ジナは砂漠に住む部族――『ダンカル』というらしい。元々は民間人が砂漠を渡るときの案内人として生計を立てていた者たちが、いつの間にか自然と身を寄せ合い、砂漠に住みついたのだという。長い歴史の中では部族同士の争いも頻繁に起こり、ダンカル族は仲間内の結束を高めるため、他の者たちとは違う名を名乗り始めた。それが現在にまで残る、『シャ=ハラ』や『イル=ジナ』という特徴的な姓名だ。
「ですから、私にとって砂漠は慣れ親しんだ場所です。道中お任せ下さい」
「わあ、頼もしいです」
しかし、ダンカル族の歴史はかなり古いようだ。そんなに古くから、砂漠は存在したのか。それを口に出してみると、シャ=ハラは形の良い顎を軽く摘んだ。
「砂漠自体は古くからあったようですが、今ほど大規模なものではなかったのだと思います。信憑性のほどは私には分かりませんが、かつては木々が生い茂り、都市も多数存在した――と記す書物もあります」
「気候変動や人々の生活のせいで、砂漠化が進んだってことでしょうか」
「おそらく。その証拠に、ラクール大砂漠の砂の下から、いくつか古い遺構も見つかっているのですよ」
「過去の生活の名残かぁ……アスールが聞いたら喜びそう」
思わずそう呟いて微笑むと、ベッドに寝転んでいたチェリンが頭を持ち上げてこちらを見た。すっかりリラックスムードだ。
「変態紳士の振りの一部かと思っていたけど、アスールが歴史好きなのは本当だったのね」
「はい。勉強は好きじゃないくせに、遺跡や歴史の話だけは『ロマンがある』って言って熱心に調べていたんですよ。カーシェルお兄様相手に熱弁を奮って、よくお兄様に呆れられていました」
「へえ、カーシェルのほうはそういうの得意じゃないんだ?」
「得意じゃないというか、アスールのあまりの熱心さに若干引き気味だったというか。『その熱意を少しは政治や剣術の勉強に回せ』って、よく言っていました」
今でこそ王子らしく教養も剣術も――剣術に至っては神業の域だが――習得したアスールだが、昔はとにかく気が弱くて勉強もできなかった。また、特に夢中になって打ちこめる趣味を持っていなかったため、母であるソレンヌやレティシアなどには心配されていたものだ。そんな趣味探しの一環で幼いころはあちこち歩き回っていたのだが、あるときアスールは、ふと立ち寄ったリーゼロッテの地方都市の小さな教会を見てえらく感動したのである。女神教の経典でも美しい石像でもなく、――教会の建築様式に対して。
聞いてみれば、その街の教会は国内でもかなり古い部類に入り、現在の教会とは建築方法も装飾もどことなく異なるのだという。柱などは建築当時のものであるから、ざっと数百年前のものである――というような説明に惹かれたアスールは、それから各地にある古い教会を訪ね歩くようになった。次第にアスールが興味を持つ年代はどんどん古いものへと遡り――今ではトレジャーハンターの仕事をしながら、未発見の遺跡を嬉々として探すようになったのである。
アスールの趣味を見つけるという目的は達成されたものの、それが原因で国を空けがちになったのだから、ソレンヌはさぞ「こんなつもりではなかった」と頭を抱えたものだろう。しかし、そうやって各地を練り歩いた結果、彼は地理も対人能力も生活力も身につけたのだ。そういう意味では、きっとソレンヌもアスールの変化を良いものとして受け止めていたに違いない。
ひとしきりそんな話を終えると、少々意外そうな表情をしていたシャ=ハラがふっと微笑んだ。アスールの幼少のころの話は、現在の彼しか知らない者にしてみればまるで別人の過去のようなものだろう。
「……戦いを避けようと奔走していた陛下が、イリーネさんやアスール殿下、カーシェル殿下に接触しようとしていた理由が……分かった気がします」
「え?」
「きっと貴方がたは、ただ王宮に住むだけの紳士淑女ではないのでしょう。気になることがあれば自ら赴き、自分の目と耳で人々の暮らしを見てくれる。庶民の近くにまで来てくれる。生活感もあって、血の通った人間なのだということを実感できる……そんな姿を、陛下は好ましく感じたのだと思います」
そう言ってから、シャ=ハラは我に返った。イリーネとチェリンに注目されていることに今更気づいて、僅かに赤面して俯く。
「す、すみません! 私ごときが、知った風な口を」
「……そんなことないです。ありがとう、とっても嬉しい」
もっと、もっと早くイル=ジナの本来の姿を知っていたら。敵将同士としてではなく、ひとりのヒトとして少しでも言葉を交わせていれば。
願いは同じなのだから、こんなにすれ違うことなどなかったかもしれない。
イリーネが国民の生活を目で見て確かめていたのは、じっとしていられない性格だったからだ。だからきっと、イル=ジナやシャ=ハラは買い被りをしているだけ。でもカーシェルやアスールは違う。彼らはそうあろうとして、それを実践していた。敵国の王にさえ認められる兄たちが、イリーネには誇らしい。
カーシェルに教えてやりたい。どんなに彼のために動いてくれるヒトが多いかということを。そんなヒトたちが傍にいてくれたから、イリーネは辛くてもここまで来られたのだと。
(だから、どうか無事で。お兄様)
★☆
ファボール周辺は緑豊かな草原地帯が広がっていたが、南下するにつれて徐々に草が見えなくなっていった。柔らかかった土はいつの間にか赤っぽく硬い地面となり、風に煽られて細かい砂埃が舞い上がる。そこら中でごつごつした巨大な岩がむき出しだ。生命の気配を感じないという点では、フローレンツのオスヴィン地方に通ずるものがある。ただし違うのは、ケクラコクマのこの場所には、力強さや雄大さを感じるということ。雨や風によって削られた岩壁には、自然の力を思い知らされる。長い年月をかけて形成された天然の渓谷を歩きながら、イリーネはその光景に見入っている。
高くなっていく気温と見事に反比例して、低くなったのはカイのテンションである。景色の変わらないこの渓谷――バルドラ渓谷を、かれこれ数時間は歩き続けている。気持ち的に参ってきたのもあるだろうけれど、雪豹のカイには何より気温が問題だ。風は吹いているし、曲がりくねった高い岩壁のおかげで日差しも多少遮られているけれど、吹く風は生温かいし、地面から伝わる熱はかなりのものだ。おまけに迫りくる巨大な岩壁は空気の逃げ道を狭め、熱は上空へ逃げてくれない。空気がこもって、あまり快適ではなかった。
「暑い……もう残暑も終わって冬になるっていうのに……めちゃくちゃだ……」
「はは、ケクラコクマは年中こんな気温だよ。この国の冬は夜の間だ、と言うのもそう大袈裟ではない」
アスールがぱたぱたと掌で自分を煽いでいるけれど、たいして効果はない。サレイユでは少し肌寒い日もあったからコートを着ていたのだが、アスールの勧めで置いてきて正解だったかもしれない。日除けの布を被って――少々蒸し暑いけれど――水分をこまめに取りながら進むのが一番だ。
ケクラコクマは一年を通して、気温の高い日が続く。一方で、昼と夜の寒暖差はかなり大きい。昼の暑さが嘘のように、夜は涼しくなるのだ。気温は年較差より日較差のほうが大きいから、『砂漠の冬は夜』なんて言葉もできたのだろう。
「ほんっとに、この大陸はどうなってるんだよ……そうたいして大きい陸地でもないのに、フローレンツは凍えるほど寒いわ、ケクラコクマは焼けそうに暑いわ。だというのにお隣のリーゼロッテは湿気も少なくて快適。意味わかんない。ねえ、どうしてなのニキータ」
「土地によって魔力の偏りがあるからに決まってんだろ。ケクラコクマは火の力が強いんだ」
「うるさいな、そんなこと最初から分かってる」
「てめっ……だるい絡み方をするんじゃねえ、きびきび歩け! こっちまで疲れるだろうが」
カイの体調を懸念していたけれど、まさかこんなに早くカイがばてるとは。相当暑さに弱いらしい――イリーネだって強くはないけれど、さすがにまだ額に汗をかく程度だ。
うだうだと面倒臭い絡み方をするようになったカイを振り返って、シャ=ハラが困ったように説明する。彼女はまだまだ元気そう――というより、この程度の暑さは何の問題でもないようだ。
「実はこのあたりも既に砂漠の範囲内なのです。砂漠といえば砂の大地を思い浮かべるとは思いますが、このように極端に水が少なく岩だらけの土地も、砂漠と呼ぶのですよ」
「……何の準備もなしに、いつの間にか砂漠に入っちゃってたわけ?」
チェリンがやれやれと肩を落とす。シャ=ハラは微笑み、視線を前方に戻した。このバルドラ渓谷には分岐路がいくつもあったけれど、彼女は迷いなく道を選んでいる。よく知った土地なのだろう。
「バルドラ渓谷は間もなく抜けます。そこにチャンバという街があり、その先がいよいよラクール大砂漠です。装備はチャンバでしっかり整えますから、ご心配なく。……」
不自然に言葉を切ったシャ=ハラに、イリーネが首を傾げる。
「どうしました?」
「……いえ……チャンバの住人たちは、その、少々曲者でして」
「曲者?」
「ええ。……何事もなければいいのですが」
意味深な彼女の様子をもう少し問い詰めたかったのだが、タイミングを逃してしまった。威圧感のあった両側の岩壁が徐々に低くなりはじめ、渓谷の終わりが見えてきたのだ。バルドラ渓谷を抜けた先、岩場に囲まれた街――見えてきたのが、チャンバの街だ。
「止まれ!」
チャンバの街の入り口まで来たところで、早速シャ=ハラの不安が的中したらしい。
街の衛兵なのだろうか、門の前に立っていたふたりの男がイリーネたちの行く手を阻んできた。しかしながら、衛兵の割には武器らしいものを持っていない。剣や槍は勿論、ハンターがよく構えている猟銃もないようだった。ふたりともケクラコクマの民らしく浅黒い肌を持ち、引き締まった体躯――素人ではなさそうだ。
「人間ども、そこを動くな。ここから先に入ることは許さぬ。引き返せ!」
「私はケクラコクマ王国軍近衛兵団長シャ=ハラ。女王陛下から既に通達は届いているはずだ。こちらの方々は陛下の客人……それと知っての狼藉か!」
シャ=ハラの一喝は、並みの男なら身を竦めるほどの威圧感に満ちていた。だが対する屈強な男たちは、鼻でそれを笑い飛ばす。
「さあ、どうだったかな? 俺たちはしがない門番でね、上の方の交渉なんざ知らされていないのさ」
「貴様が本当にあのシャ=ハラだったら、女王の傍を離れたりしないだろう。名を騙る偽物の可能性もある、通しはしないぞ」
偽物呼ばわりされたシャ=ハラは怒るでもなく、あくまでも淡々としていた。ただ静かに告げる。
「話にならん……長老殿と会わせろ。会えば分かることだ」
「断る。下賤な人間どもを長老さまに近づかせるわけにはいかない」
「陛下の客人を邪険に扱ったとして、あとで処罰されるのはお前たちだぞ。従ったほうが身のためだと思うが?」
「ふん、人間からの処罰など恐れるまでもないわ!」
カイとニキータが、さりげなくイリーネたちを庇うように前に出た。ぴりぴりした緊張感が漂う――戦いの前のようだ。
「イリーネ、下がって。こいつら化身族だ」
カイがぽつりと呟く。そう言われてみれば、確かに。武器を一切持っていないことや、こちらを『人間』呼ばわりすることも納得だ。カイたちは匂いだけでそれが分かったのだろう。化身族同士は不思議と種差を認識できるという。
ニキータもまた説明した。
「チャンバはな、化身族だけの集落なんだよ。フィリードほど閉鎖的じゃないが、人間にはあたりがキツい。特にこの場所はラクール大砂漠の玄関口だからな、『通行料』とかいう言い分で人間から大金をせしめるんだそうだ」
「何よそれ。やっていることが賊そのものじゃない」
チェリンがむっとして男たちを睨み付ける。屈強なあの立ち姿、トライブ・【ベア】か【タイガー】か……迂闊には手を出せない。
軽く身構えているアスールが、ふと顎をつまんで首を捻った。
「しかしおかしいな。チャンバの長老は穏やかなヒトだと聞いていたのだが……」
すると、化身族ふたりの視線がカイとニキータ、チェリンに向けられた。
「おい、獣の同胞たち! そんな人間どもに従う必要はないんだぞ!」
「あん?」
ニキータが眉をしかめる。その反応がよほど意外だったのか、初めて男たちがたじろいだ。
「む、無理矢理契約させられたんだろう!?」
「んなわけないだろ。主は自分で決めた。他人にとやかく言われる筋合いはねぇ」
「絆されたというのか!」
「化身族の誇りはどうした、恥知らずが!」
ぴきん、とニキータのこめかみに青筋がたった。言われっぱなしだったカイとチェリンも、これには頭に来たらしい。
「――なんだと?」
一番怒らせてはいけない面々を、相手の男たちは怒らせたようだった。