◆朱の剛剣(3)
戦闘態勢を解除したブランシャール城塞は、なかなか賑やかでいいところだった。勿論国境の砦だから、詰めているのは兵士の男たちばかり、鋼鉄の設備は重苦しくもある。けれど人々は和気あいあいとして親しみやすかったし、司令官カルノーはじめ非常に仲が良いということが目に見えて分かった。長いことこの辺境に詰め、死線を乗り越えてきた兵士たちは、自然と絆を深めあっていたのだ。こうしてみると、弱小と揶揄されるサレイユ軍も捨てたものではない。アスールやジョルジュのような腕利きの騎士もいれば、カルノーのように人望ある指揮官もいるのだから。
カイやチェリン、クレイザ、ジョルジュは、ケクラコクマ陣営に向かったアスールとイリーネの帰りを城塞で待つことになった。クレイザとジョルジュは屋内で休憩しているが、契約主と離れたカイとチェリンはそうそう落ちつけない。城門の傍の広場に陣どって、遠く離れたイリーネとアスールの様子に異変がないか、神経をとがらせて確認している。
あれだけ盛大に反対したけれど、多分、大丈夫だろう――カイはそう内心では思っている。ただの直感だが、イル=ジナ女王は悪いヒトじゃないはずだ。あれは少し、ファルシェと似ている匂いがする。自分が信じることのために全力を尽くすタイプだ。アスールも警戒はしていなかったようだし、危険はないのだろう。
だからカイは、ある程度は落ちついている。広場の石段に腰かけて、少し離れたところで訓練をしているサレイユ軍の小隊を眺めていた。
――が、落ちつけないのはチェリンである。カイの隣に座ってじっと黙っているのだが、さっきから貧乏揺すりが止まらない。彼女にそんな癖はなかったし、非常に不安なのか苛ついているのか、どちらかだろう。アスールとイリーネがふたりだけで出かけることに何も反対しなかったくせに、実は相当心配していたようだ。
「チェリー、ちょっと落ちつきなよ」
「お、落ちついているわよ」
「さっきから足、動きっぱなしだけど?」
指摘した瞬間、ぱっとチェリンは貧乏揺すりを止める。その様子を見てカイは苦笑した。
「そんな心配しなくても、あのふたりに何かあれば俺たちは分かるんだからさ。そう構えなくて大丈夫でしょ」
「そうかもしれないけど! やっぱ心配じゃない。イリーネ、昨日の今日で……いきなり他国の王との交渉に行くなんて」
チェリンの心配は尤もだ。記憶が戻ったばかりで混乱しているだろうに――それも、父と義母が殺された記憶まで一緒に戻ってきてしまって。
受け入れたのか、それとも受け流したのか。それは分からないが、とにかくイリーネは表面上は元気だった。空元気のようには見えない。彼女なりにしっかり気持ちの整理はしたのだろう。
「大丈夫だよ、あの子は強い。アスールもフォローしてくれるし、潰れたりしないって」
思ったことをそのまま口に出すと、チェリンがまじまじとカイの顔を覗き込んできた。カイはやや驚いてのけ反る。
「……なんか変なこと言った?」
「いや、イリーネの記憶が戻った途端、あんたも変わったなと思って」
「そう?」
「遠慮しなくなったっていうか、ますます保護者じみてきたっていうかね」
そう言われてみても、自分では分からないものだ。
しかし、多少の自覚はある。オスヴィンでイリーネと会ってから、ニムでアスールと会ってから、彼らのことは対等のヒトとして接してきたつもりだ。過去はすべて忘れたつもりで、初めて出会った相手のように振る舞いもした。思いの外逞しく成長した彼らに、確かに一度は呆気にとられたのだ。本当に幼いころに共に暮らした、あの少年少女かと疑いたくもなった。
――だが、イリーネが記憶を取り戻したのなら、そんな小細工はもう必要ない。自分の記憶や心を隠すこともないのだ。やはりイリーネもアスールも、本質は幼いころと何も変わっていないことも分かった。となれば、カイにとってイリーネは妹のような存在だし、アスールは弟だ。最近は彼らを年下扱いして、やけに自分が年寄りじみていることを実感する。
「……今更何も隠すことはないしね」
「? 何か隠してたわけ?」
「チェリーが今言ったんでしょ。もうあの子たちに対して、他人面するのをやめたの」
そっか、とチェリンが横で呟く。それきり無言のまま、ふたりは兵士の訓練を見つめていた。行進、隊列、剣の型――軍隊の戦い方は、予め決められた通りに動くものだ。だから覚えることもたくさんあるのだろう。だが、隊列なんてものは経験を積めば自然と身につくだろうし、歩き方まで指定されるとは面倒なものだ。ひとたび不測の事態が起きてそれが崩れたら、再起は難しいのではなかろうか。
――まあ、そういう時のために、臨機応変な対応のできる指揮官がいて、部下の兵士はその指示を忠実に実行する。数で対抗する人間の軍隊には、それが一番大事なのだ。
「分かってはいたけど、軍隊の訓練って地道だね。俺たちはとにかく強いやつからぼこぼこにされて、自分で戦い方を学んだし」
「あんたはやっぱり、長にぼこぼこにされてきたの?」
「……いや、ゼタに教わったのは魔術の扱いだけ。体捌きなんかは、全部ジーハのほうだ」
「ジーハ!? あのヒト、戦うの!?」
チェリンの反応に、カイは思わず笑ってしまう。
驚くのも無理はないのかもしれない。カイの母の兄――伯父のジーハは、化身族としてはおかしいくらいに穏健なヒトだった。もっぱら義弟のゼタの補佐をして、こまごまとした雑用を請け負うことが多かった。そうでなくとも、集落の者に混じって畑仕事をしたり、食料を調達に行ったり、時に人間との交渉の窓口に立ったり――文人気質のヒトだった。彼が戦う姿を想像できないというのは、カイにも分かる。
ゼタが自らカイを鍛えなかった正確な理由は、いまだにわからない。だがジーハがにやにやしながら言うには、「息子を傷つけたくなかった」そうだ。余計なお世話だし、中途半端な親ばかで困ったものだ。稽古で怪我をするのは当然で、そんなのはカイの自己責任だというのに。
「一通り教わったあとの相手は、殆どファビオだよ。あいつ俺の顔を見ればすぐ挑んできてね。狼のくせに猪頭なんだから」
「ぷっ、今のままじゃない。三十年間進歩なしなのね」
カイの比喩が笑いのツボを押してしまったのか、チェリンはしきりに『猪頭』と呟いて笑っている。あまり連呼されると、最初に言ったカイが恥ずかしくなってくる。
「でも、なんだかんだ仲良かったんじゃないの? ファビオはしょっちゅうカイの話をしていたし」
「どうせ恨み言ばっかりでしょ。俺たちは年も近かったし、比較されることが多かったんだよ。……それはともかく、前から聞こうと思っていたけど、チェリーはファビオと親しかったみたいだね?」
ニムで再会したときから感じていたことだ。チェリンはファビオを思いっきり罵倒していた。あの時は気付かなかったけれど、チェリンはよほど親しい相手でないとそんな口を利かない娘だ。だとすれば、ファビオとの親交もそれなりにあったはずだ。
「小さいころ、兄貴みたいに面倒見てもらっただけよ。戦い方とか勉強とか、ちょくちょく教えてもらっていたの」
「兄貴分? ファビオがチェリーの……?」
というか、狼が兎の兄貴分? それは捕食関係では――って、まあそんな野蛮な化身族はいないけれど。
ファビオにもそういう面倒見のいいところがあったのか。カイはそこに驚いたけれど、考えてみればカイとファビオは万年ライバルだったのだ。顔を合わせれば必ず喧嘩になったし、カイのいないところで彼がどうしていたかなど知らない。それに、面倒見が良くなければ集落の防衛班長など任されないだろう。
「言っておくけど、あたしだけじゃないわよ。子供たちの面倒は、まとめて防衛班が見てくれたからね。たまたまあたしの場合は、それがファビオだったってだけよ」
「へえ……俺がいない間に、随分変わったんだね」
さっきから、本当にカイとチェリンは同一人物について話しているのだろうか。そんな気分にすら陥るのだが、カイがこの三十年で変わったように、ファビオも何かしら変わったのだろう。チェリンにはそう思えないらしいが。
(もうあそこは、俺の帰るべき場所じゃない)
それにしても、こんな場所でフィリードの里の話をするなんて。山を下りてから故郷の話をしたことなど一度もなかった。話す相手がいなかったというのが一番の理由だが、フィリードの情報は門外不出なのだ。しかし、同郷の相手ならそんな掟も関係ない。案外、故郷の話でも盛り上がれるものだ。
「……ねえ、カイ。あたしと戦ってくれない?」
「え?」
「話していたら、懐かしくなってきたわ。毎日毎日ファビオと戦ってぼこぼこにされたこととか」
唐突にチェリンからそんな要求をされ、カイは目を見開いた。それから銀髪を掻きまわす。
「何? 俺にぼこぼこにされたいって話?」
「なんでそうなるのよ。稽古つけてほしいって言ってるの」
「いや、いまの話の流れは確実にそうだったでしょ……」
ぽつりと呟いてから、カイは腰かけていた石段から立ち上がる。そして軽く腕を伸ばした。
長いこと共に旅をしてきたが、手合せや稽古などということは今まで一度もしてこなかった。旅が割と平穏だったこともあるし、何より稽古は面倒臭かったのだ。化身族に特効を持つアスールと戦うのは御免だったし、ニキータなどもってのほかだ。
だが、この先そんなことを言っていられるだろうか。相手はあの【獅子帝】――少しでも強くならなければ、生き残れないかもしれない。
そのためにはカイも強くならなくてはいけないし、味方が強くなる手伝いもしなくてはいけない。カイが手伝うことができる相手なんて、チェリンくらいのものだ。彼女が自信をつけるためにも、やる価値はあるだろう。
「……分かった、やってみよう」
「ほんと? ありがと!」
何やらチェリンは嬉しそうだ。
石段を降りた先のちょっとした広場で、ふたりは化身して向かい合う。黒い兎姿のチェリンと向き合うことなど初めてだ。――言われてみれば、どことなくファビオと同じようなたたずまいだ。
ぼこぼこにするのは簡単だが、彼女は女の子で、旅の仲間。さすがにそこまでする度胸がないので、基本的にはカイが攻めてチェリンが守る。隙があったら反撃。そこで攻守を入れ替える――という形でやってみることにする。
魔術だろうがなんでも使え、と要求されてしまったので、お望み通りにする。地に落ちている小石に冷気をまとわせ、チェリンに向けて飛ばす。威力は勿論抑えているが、弾速は普段と遜色ない。
(よく避ける。速さは俺以上かもしれないな)
さすが兎、カイの氷礫はことごとく回避される。大抵の相手は回避が間に合わずに防御するのだ。――まあ、魔術を使えない彼女は避けるしかないのだけれど。
足から地面に冷気を流す。チェリンの足元から巨大な氷の槍が突き出た。“凍てつきし槍”の応用だ。似た技を【獅子帝】も使ってきたし、練習にはなる。
直前に異変を感じたチェリンがその場から飛び退く。いい反応だ。咄嗟の行動でも、敏捷性は殺されていない。
だがその時既に、カイは自らチェリンへ飛び掛かっていた。カイが振り下ろした爪が、チェリンの顔すれすれをかすめる。反撃の足蹴は見事なキレがあったが、カイには当たらない。
その後もカイは魔術と体術を絡めてチェリンに攻撃を加える。チェリンも必死でそれを避け、隙あらば反撃を試みるが、ことごとくカイは防御して回避する。そんな応酬を何度も繰り返せば、チェリンの体力も残り少なくなっていく。女の子だし、単純な種差としてチェリンがカイに敵わないのは当然なのだけれど、戦場でのスタミナ不足は避けたいところだ。回避のキレもなくなってきて、被弾するようになっている。
(……足ふらついてるじゃん。そろそろやめた方が良さそうだ)
カイがそう思って攻撃の手を止め、距離を取ろうとしたのだが、どうもまだまだ戦意を失っていないチェリンは大きく踏み込んできた。どこにそんな力が残っていたのだと思えるほど強烈なチェリンの一撃を、氷の壁で受け止める。普通なら防がれた時点で距離を取るものなのだが、ここまでやられっぱなしで業を煮やしたのだろう、氷の壁を破ろうとさらに力を加えてきた。
(そんなムキにならなくても……!)
チェリンとカイの間で、激しい力比べが起こる。これでカイが引こうものなら、確実にチェリンの追撃が来る。彼女の気を済ませるためにわざわざ負けてやるのはチェリンのためにならないし、カイも悔しいので嫌だ。仕方なくチェリンを弾こうと力を入れたのだが――異変はその時に起こった。
(……なに!?)
がくん、とカイの足が沈む。地面に、カイの四肢が沈み込んだのだ。大地が陥没し、徐々にめり込んでいく。
どんな馬鹿力だ、とカイもさすがに焦る。怪力の化身族――たとえば熊とか――でも、魔術を使わねばこんなことにはならない。
チェリンが生み出す圧力は、さらにカイを押し込んでいく。反撃なんてもってのほかだ。カイほどの化身族が、氷の盾を維持するだけで精一杯。気を抜けば、多分地面に叩きつけられて立ち上がれない。
(これは……とんでもない重力が、かかってる?)
それを生み出しているのは、チェリン以外にいない。彼女の身体から、一瞬だけ強い魔力が立ち上った気がした。
次の瞬間には、カイの氷の壁は叩き壊され、カイ自身も吹き飛ばされていた。カイの化身はそこで解け、背中から地面に叩きつけられる。息が詰まって咳き込みながら、カイは身体を起こす。
「やった! カイに勝った!」
カイから少し離れたところで、チェリンがそう喜んでいる。カイは立ち上がり、服についた埃を払った。
「けほッ……まったく、無邪気なもんだよなぁ」
「あ、ごめんカイ、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。それより、一体何したの?」
そう問いかけると、チェリンはきょとんとして首を捻った。
「何って……『全部あっさり躱してばっかりで、いい加減ちょっとはやられなさいよ』って思って力加えただけよ」
「うわ、そんなこと思ってたのか、怖――って、そうじゃなくて」
まさか、無自覚だったのか。あれだけ馬鹿みたいな怪力を発揮しておきながら。
ちらりとチェリンを見やる。確かに見えたはずの強い魔力は、もう彼女の身体からは感じられなかった。それでも、カイを吹き飛ばすほどの圧を生み出す力を持っているのは、間違いない。
「……チェリー、君はきっと魔術使えるよ」
「え?」
「俺が保証する。絶対使えるはずだよ」
重力を操る魔術――地属性。
魔術書を探して調達しておくべきかなぁ、と先走って考えたところで、チェリンがカイの腕を引いて注意を促した。何かと思って周りを見てみると、いつの間にか周囲にヒトだかりができていたのだ。休憩中の兵士たちだろう。ずっと見物されていたらしい。
その中にはジョルジュとクレイザ、そしていつ戻ってきたのかニキータも混ざっていた。にやにや笑いながら黒づくめの大男が近付いてくる。
「よう、いい吹き飛びっぷりだったぜ、カイ坊」
「うるさい、言うな」
「まあまあ、むくれんなよ。兎のお嬢、良い動きだったぞ。速さは間違いなくカイより上だな」
「そ、そう? ありがと」
照れたチェリンがそっぽを向く。傍にジョルジュたちもやってきて、兵士たちは自然と解散していった。広場で急に化身族同士の戦いが始まったら、見物してしまうのも無理はない。
「えらく早かったじゃない、ニキータ。いつもは小一時間くらいぶらぶらしてくるのに」
「ぶらぶらじゃねぇ。ちょっと予想外のことが起こったんだよ」
「予想外のこと?」
ニキータが指でつまんでひらひら振っていたのは、白い封筒に入った手紙だった。そこに書かれた差出人名を見て、その場にいる全員が眉をひそめた。




