◇朱の剛剣(2)
ブランシャール城塞から、馬でエルネスティ平原を南下する。大規模な衝突が起こらなかったため、平原はどこまでも平らで美しかった。よく見てみればところどころに綺麗な池があったり、大きな木があったりして自然豊かだ。
エルネスティ平原は、遥か昔から戦場として絶好の場所だったのだそうだ。それこそ、ケクラコクマ王国がレイグラン同盟という化身族の国であったころから、障害物のない平原は平野戦に使われてきた。だからここには、どれだけ血や死が滲みこんでいるか知れないのだ。
しかし地面には壊れかけた街道があるし、池には木製の橋が架けられている。平穏な時代には、当然のようにヒトの往来があった証拠だ。
ケクラコクマ陣営に向かうアスールに同行しているのは、イリーネだけだった。カイたちはブランシャール城塞で留守番だ。相手方を警戒させないために少人数で向かったほうがいいのだという。勿論カイは猛反対して、城塞を出る前にアスールと壮絶な論議を交わしたものである。
「まさかアスール、丸腰で行く気?」
「敵意も下心もないと示すには一番手っ取り早いのだ」
「だったら尚更、化身族は必要でしょ。人間には種族なんて分からないし」
「お前はもう女王に化身族だとばれているではないか」
「大体、なんでアスールがそんな下手に出る必要があるの」
「私は王子で、彼女は王。当然の誠意だ」
「こっちに誠意があっても、あっちになかったらどうするのさ」
「危険があればお前は分かるのだろう。化身して走ってきてくれ、たかが五キロ程度だ」
「ネコ科動物は持久力がないって」
「イリーネの危機にそんな悠長なことを言っていられるのか?」
「ぬぅ」
そうして何も言えなくなったカイは、イリーネの口添えもあって、結局素直に「気を付けて」と言って送り出した。昨夜あんな話をしたばかりだというのに、離れるのは甚だ不本意だったはずだ。
それにしても、腹心のジョルジュすら置いてきて、さらにアスールは本当に剣も身につけていないのだ。ナイフの一本くらいはあるのだろうが、あの女王や臣下たちを相手にすることはできないだろう。それで同行者がイリーネだけなのだから、いざという時どうするつもりなのだろう。
「あの……アスール。本当に良かったの……ですか?」
もごもごと問いかけると、アスールは隣を駆けるイリーネに顔を向けた。
「良かったとは、何が?」
「一緒に行くのが私で……イル=ジナ女王を刺激するだけなんじゃないかなって」
「その可能性もないわけではないが、どのみち説明は必要だ。我々に協力するということが、リーゼロッテの王太子と神姫を救うことに繋がる、ということをな」
もしその結果、イル=ジナが協力を拒んだら――そんな恐ろしい予感が襲ってくる。アスールはそれを見抜いたように苦笑を向けた。
「大丈夫だ、あの女王は猪突猛進なだけではないだろう。何かあっても、君だけは無事に逃がすよ……ところでイリーネ」
「は、はい?」
「どうしたんだ、そのぎこちない喋り方は……なんだか怯えられているような感じがして、少々話しにくいのだが」
ぎくりと身体を硬直させた反動で、つい掴んでいた手綱を引いてしまう。従順な馬はそれを合図と間違えて、急停止した。危うく前に投げ出されそうになって、慌てて態勢を立て直す。驚かせてしまった馬に謝ってから、もう一度進んでアスールと並ぶ。
話し方がおかしいことなんて、自分でも分かっていた。けれどどうにも直らない。
「わ……分からなくなちゃって、その、距離感が」
「距離感……? 私とのか」
「ちゃんと思い出したの、アスールと幼馴染だってことも、こ……婚約者だってことも。でも、敬語が抜けてくれなくて」
婚約者という単語を口にしたとき、アスールの表情が強張ったことをイリーネは知らない。イリーネにとっては小さいころから定められていたことだし、それに疑問を抱くこともなかった。
「アスールとどんなふうに話していたのか分かるのに、うまく話せなくて……」
「……ふむ。まさかイリーネに、本当の意味で敬語で話されることになるとはな」
「ご、ごめんなさい」
しょんぼりと俯いたのだが、よく考えてみればどうしてこんな風になってしまったのだろうか。そこでふとひとつの原因に思い当り、イリーネは反論に出る。
「そうだ、アスールがジョルジュみたいな物言いをしていたから……! きっとあれのせいで、よく分からなくなっちゃったんですよ」
「なっ、そ、それは関係あるのか!?」
「大ありです。今思えば、気でも狂ったのかと思うくらいだったもの」
「ああ、正体を隠すためだったとはいえ、あれは私も日々恥辱との戦いだったよ……よくジョルジュは素であんなことができるな」
ふたりしてジョルジュを散々にこき下ろしてから、アスールは片手で頭を掻いた。
「とにかくあれが原因で、私のイメージにずれが生じたということかな。だとしたら確かに私のせいだ、申し訳ない」
いつもだったら恐縮して謝り返してしまうところだが、イリーネは笑った。こんな生真面目な青年が軟派の振りをしていたなど、考えるだけで面白い。
「慣れるまで、もうちょっと敬語でいます」
「そうしたほうがいい」
「一見淑やかな私も、案外悪くないでしょう?」
「……や、やめてくれ、本気で返しに困る」
「ふふ」
くすくすと笑いが収まらないイリーネに、「まったく君たち兄妹は」と場違いな恨み言をアスールは吐く。生真面目で気の小さい幼馴染を、昔からカーシェルと一緒にからかっていたものだ。
前方に小さく、天幕や鉄柵、土嚢が見えてくる。ケクラコクマ陣営だ。警戒する兵士の姿もちらほら見えてきて、イリーネも警戒感を増す。
「交渉は私がする……が、言いたいことがあれば言ってくれて構わない。サレイユが神姫を担ぎ出しているなどと誤解されたら、たまったものではないからな」
アスールの指示にイリーネは頷く。ほどなくしてふたりは、陣の外の警戒に当たっていた兵士に停止を求められた。しかし驚いたのは、アスールが名乗っただけであっさり陣内へ通してくれたことだ。妙なことをしないよう監視する兵士もいない。事前に女王から指示があったようだ。
案内されたのは陣のほぼ最奥だった。周囲には物資補給のための輸送車と、兵士が寝泊まりする天幕が密集している。もしかして女王は一般兵と共に寝起きしているのだろうかと首を捻ると、天幕がない区画が突如として現れた。柵で四方を囲まれた、ちょっとした広場だ。
おそらく訓練のために設けられた場所なのだろう――そしてそこには、大量の兵士が打ち倒されているという無残な光景が広がっていた。
「お、来たね。待ちかねたよ」
で、死屍累々――死んではいないが――の山の真ん中に悠然と立っていたのは、イル=ジナ女王そのヒトだった。手にした木剣を肩に担ぎ、額に浮かべた汗を拭っている。疑うまでもなく、イル=ジナが兵士たちを叩きのめしたのだろう。なんだか生き生きしている。
「……お取込み中でしたか?」
一瞬虚を突かれたものの、アスールはすぐに笑みを浮かべて尋ねる。木剣を側近らしき女騎士に渡したイル=ジナは、代わりにタオルを受け取って肩に引っかける。
「いいや、丁度終わったところさ。一日でも剣を握らないと、勘が鈍るからね」
「それにしても自軍の兵に容赦がありませんね」
「否定はしないが、いつ来るか知れないあんたを待って、平原のど真ん中で待機していなきゃならなかったんだよ。暇じゃないか」
「それは失礼」
アスールとイル=ジナが朗らかに会話を交わしている横で、ぶちのめされていた兵士たちがそそくさと起き上がって退散し、代わりに側近たちが豪華な絨毯を地面に拡げた。巨大な傘を差して日除けにし、茶も出してくれる。即席で作られた茶会の席に、どっかりとイル=ジナは腰を下ろした。
「戦場のど真ん中だからね、これで我慢しておくれ。あんたたちの間には、地べたにそのまま座るなんて文化はなかっただろうけど」
「慣れていますから平気ですよ」
「へえ。神姫もかい?」
ごくごく素朴な好奇心からの質問だろう。問われたイリーネは頷く。
「はい、ここしばらくはずっと旅暮らしだったので」
「お姫様が旅暮らしとはねぇ……とにかくまずは、状況を詳しく教えてくれないか。なんだってメイナード王子が襲ってきて、サレイユが神国と縁を切るようなことになったのか」
勿論アスールはそのつもりだった。むしろここまでよく何も聞かずに我慢してくれたものだ。
絨毯に座ってイル=ジナと向かい合う。ほんの数分で、アスールは事情を語り終えた。一言も口を挟まずに聞いていたイル=ジナは、深い息を吐き出して胡坐を組み直した。
「【獅子帝】に『王狩り』、それに王太子軟禁か……あの国の暴走は、もう大陸中の脅威になっているということだね」
「ええ」
「それならあんたたちが戦う理由も分かる。私もメイナード王子のやり方は気に食わないし、協力はするよ。もうサレイユを襲ったりしないし、ケクラコクマ国内を通過して神国に向かうっていうなら、その旅路の安全を保障する」
ケクラコクマの女王が、リーゼロッテの神姫とサレイユの王子に向けた言葉としては、まず間違いなく最上級の好意に満ちたものだった。こんなにも融通を利かせてくれたことなど、他に一度もない。
しかしアスールは「ありがとうございます」と礼を言ったきり、沈黙してしまった。それに気づいたイル=ジナが、溜息と共に燃えるような赤い髪を掻き上げる。
「……それだけじゃ足りないって顔だね。まさか、サレイユとイーヴァンの連合に加われとでも言うつもりかい?」
「そうして頂けると心強いのですが」
「冗談やめてくれ。あんたたちの目的は神国をぶっ潰すことじゃなくて、王太子を助けることなんだろう? 私たちが敵の総大将を助ける戦いに加わるとでも?」
「『敵の総大将』という表現は適切ではありませんね。開戦を推し進めていたのは教会であって、王家はその牽制をしてきたのです。貴方が憎むべきは教会関係者ですよ」
アスールの言葉に、イル=ジナが一瞬反論できずに黙ってしまう。そこでアスールがさらに言う。
「メイナードは昔から教会と繋がっていた可能性があります。かつて彼らが結んで、イリーネ姫を誘拐しかけたのは紛れもない事実です。今回のことにも絡んでいるかもしれない」
「……」
「貴方は、本当は戦争などしたくないのでは?」
イル=ジナは驚いたようにアスールを見つめる。傍にいた彼女の側近の女騎士も、僅かに身動きする。
「カーシェルも同じように、開戦を止めたいと動いていた。もしかして貴方は、そんなカーシェルと密に接触を図ろうとしていたのではありませんか? だとすれば利害は一致すると思いますが」
「……アスール王子、あんたは外交関係の情報戦には疎いと聞いていたんだけどね」
「ただの勘です。その分だと、的を射ていたようですね」
にっこりと微笑んだアスールに、イル=ジナも諦めたようだ。茶を一息で飲み干して、イル=ジナは口を開く。
「国内で一番強い者が王になる――といっても、私の意見がすべて通るわけじゃなくてね。臣下の中には会戦を主張する者どもが多い。残念ながら、民衆もまだまだそっち寄りだ。……馬鹿みたいだよねぇ。レイグラン同盟の存在した場所に建国したからって、あの国とは関係ないのに。昔の慣習にとらわれて神国を敵視するなんてさ、暇人のすることだよ。国内の統率もままならないっていうのに」
ばっさりと言い切ったイル=ジナだが、側近の女騎士は制止したりはしなかった。彼女も同じ考えだということだろうか――なんだか、アスールとジョルジュの関係のようだ。
イル=ジナは難しい表情を捨てて、ずいっとアスールに身を乗り出した。
「でも、あんたよく分かったね? 表向きには私も、戦いたくて仕方ない女を演じてきたつもりだったんだけど」
「貴方が王になってから六年――ケクラコクマ側から戦いを仕掛けてくることが、少しずつ減っていました。それに戦場に出た貴方は、その気になれば一個中隊くらいひとりで壊滅できるだろうに、そうはしてこなかった。だからもしかして……と、出来のいい兄が言っていましてね」
「なんだ、ダグラス王子のほうかい。感心して損したよ」
朗らかに笑うアスールの隣で、イリーネも拍子抜けする。ダグラスの調査や根回しは、いつもながら抜かりない。
気を取り直したイル=ジナは、視線をイリーネに向けてきた。
「神姫。ケクラコクマの民は女神教の信者ではない。多くは太陽神を崇め、少数だが水や草木を崇拝している者もいる。私たちは、あんたを女神みたいに崇めることはできないよ」
「私に対してそんなことをする必要はありません。信仰は強制されるものではありませんし、『神姫』なんて肩書だけですから」
「歴史的敵国であり異教徒でもあるケクラコクマが戦線に参加して、教会から咎められるのはあんただよ。それはいいのかい?」
「覚悟はしています。リーゼロッテに対して攻勢に出ると決めた時から――今や世界の敵となったメイナードを止めるため、力をお貸しください」
深々と頭を下げたイリーネの顔を上げさせて、イル=ジナは静かに問う。先程まで豪快に喜怒哀楽を示していた女性とは別人のような厳かさだ。
「ひとつ約束してくれるかい。すべてが片付いて、王太子カーシェルを無事に助け出せたら……休戦の方向へ便宜を図ってもらいたいんだ」
「はい、勿論……! 兄も喜んで賛同してくださいます」
「――良し、分かった!」
にっと満足げに笑ったイル=ジナが、自らの膝を掌で叩いた。
「ここいらでリーゼロッテに恩を売っておくのも面白い。うまく行けば終戦して、ヴェスタリーテ河の利権の一部くらい譲ってくれるかもしれないしね、ふふふ」
何やら物騒な独り言が聞こえたが、アスールもイリーネも苦笑して聞き流す。落ちつかないように立ち上がったイル=ジナは、両手を座ったままのふたりへ差し出した。そして笑みを浮かべる。
「私はあんたたちが心底気に入った! 協力させてもらおうじゃないか」
差し伸べられた手を取り、アスールとイリーネは立ち上がる。そしてそのまま、固く握手を交わした。
ケクラコクマ王国と手を結ぶことになる日が来るなど、想像したことすらなかった。だが、今現在の世界情勢と、イル=ジナの人柄ゆえに、それは成る。話してみるものなのだと、イリーネは心の底から実感した。
隠密行動や情報収集に長けるイーヴァンと、豊富な物資を提供できるサレイユの連合軍に、実戦経験豊富なケクラコクマが加わる。これまではいかに正面からぶつからずに勝利するかを考えてきたが、これによって真っ向から神国とぶつかっても勝算が出てきた。
イル=ジナは、心強い味方となってくれたのだった。