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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
6章 【熱砂の炎獄 ケクラコクマ】
118/202

◇朱の剛剣(1)

「――ッ!」


 目を閉じていたイリーネは、脳裏に映っていた風景が消えたところでぱっと目を開けた。そして握っていたカイの手を下ろす。長い長い、夢を見ていたような感覚。だがそれを見ていた時間は、実際にはほんの数秒だった。その数秒であまりにもたくさんの情報が流れ込んできて、イリーネの頭はごちゃごちゃだ。ずっと目を閉じて立っていただけなのに、全力疾走をしたあとのように呼気が荒い。


 あれは紛れもなく十五年前にあった実際の出来事だ。イリーネがカイと出会ったのも、離宮の庭で遊んでいたのも、記憶通りのこと。けれど今の映像の中には、イリーネの知らないことが多すぎた。カイがカーシェルやエレノアと会話していたこと、頻繁に城を抜け出していたイリーネを後ろから見守っていてくれたこと、誘拐されかけたときに助けに来てくれていたこと――イリーネたちの憂いごとを引き受ける形で、カイが姿を消したこと。


 ミルク――もといカイがいなくなってしまった時のことはよく覚えている。アスールの見送りをしていたら『馬車の事故』が起こって、カーシェルやアスールが怪我をしたのだ。イリーネもそれに巻き込まれて気を失ってしまって――目が覚めたら、カイはもうどこにもいなかった。カーシェルは「そのうちひょっこり帰ってくるだろう」と笑っていたけれど、結局二度とカイは帰ってこなかった。


(でも、カイとアスールは「殺されそうになったから逃げた」って説明してくれた……あれも、私のための嘘だったのね)


 どれだけイリーネはカイやカーシェルに守られて、何も知らずに生きてきたのだろう――?


 けれど、あの映像はなんだったのか。カイの見ている夢か。それともカイの記憶を、イリーネが垣間見てしまったのだろうか。どうして急にそんなことができたのか――記憶を失う前には同じことはできなかった。ということは、原因はカイのほうにあるのか?


 その時、ずっと眠っていたカイが僅かに身じろぎした。カイの紫の瞳がうっすら開いている。イリーネは思わず笑みを浮かべて、カイの手をもう一度握る。


「カイ! 目が覚めたんですね!」

「イリーネ……」


 寝起きが良いはずのカイは、珍しくまだ意識がはっきりしていないらしい。それでも無理に起きようとするので、イリーネが肩を支えてやる。


「大丈夫ですか?」

「平気……ちょっと頭軽いけど。俺、ずっと寝てた?」

「魔術の使い過ぎだろうって、ニキータさんが」

「うわ、情けない……」


 カイは額に手の甲を当てる。熱を測るような仕草だが、その態勢のままカイは動きを止めた。何か茫洋と考え込んでいるような横顔だ。

 どうしたのかと問うてみると、カイは首を振って微笑した。


「……なんか、夢を見ていた気がしてね」


 イリーネはぎくりと身を硬直させる。それから、恐る恐る問いかけた。


「それって、昔の夢とか……?」

「そうだったかも。あんまり覚えてないんだけど、懐かしかったなぁ」


 やはり、イリーネが見たのはカイの夢だったのだ。イリーネはカイを支えていた手を放す。


「あの……私、さっきカイに触れた時、その夢の風景が見えました」

「……どういう?」

「カイがニキータさんと出会ったころの様子とか、私とアスールとカーシェルお兄様と過ごした一年間の思い出とか……」


 詳しく話していくと、カイの表情が苦々しいような照れたようなものに変わっていく。すべて話し終えたころには、眠気も消えてカイはすっかり目を覚ましたようだ。


「確かに、それは俺の記憶だ」

「ご、ごめんなさい。カイの記憶を覗き見するような真似を……」

「いや、不可抗力でしょ。俺が相当弱っていて、警戒する余力もないくらい油断して寝込んでいたせいだよ。記憶が流れ出して、魔力の強いヒトはそれを読み取ることができちゃうんだ」

「そんなことが起こるんですか?」

「話には聞いたことがある。魔力同士の共鳴反応……不思議なもんだよね……」


 そこまで言ったカイは、はっと顔色を変える。顎をつまんで、窺うように傍に立つイリーネを見上げる。


「……つまり、俺があのころ裏で何をしていたか分かっちゃったってことだよね。っていうか、『カーシェルお兄様』って――もしかして全部思い出した?」


 勘のいいカイに問われて、イリーネは頷く。するとカイは優しく微笑んでくれる。


「そっか。それじゃあ、本当の意味で俺たちは再会できたね」

「は、はい。あの時のミルクと話しているなんて、ちょっと実感ないですけど」

「俺も、あの時のお転婆姫がこんなお淑やかになるなんて思わなかった。本当に、人間の十五年は長い」


 イリーネは自分のベッドに腰を下ろす。自然と二人は向き合う形になった。そこで小さく息を吐き出したイリーネは、思い切って口を開く。


「……カイ。私の話、聞いてくれますか?」

「うん、なに?」

「私とカーシェルお兄様は、ずっとメイナードお兄様の術中にいたみたいです。お母様が病気で亡くなったのも、お父様が喪に服しているのも嘘……本当は、三年も前にふたりともお兄様に殺されていました」

「! 記憶操作、か……」

「私がここまですべての記憶を失っていたのも、術の影響でした。メイナードお兄様は……私を餌にして、カイをおびき出そうと考えていたんです」


 それを告げても、カイの表情は変わらない。顔に出ていないだけか、それとも驚くほどのことではないのか。カイのことだから、ある程度は想像していたのかもしれない。


「危険な旅に巻き込んで……ごめんなさい」


 深くカイに頭を下げる。しばらく沈黙が続いた後、カイのベッドが僅かに軋んだ。身を乗り出したカイが、イリーネの頭を軽く小突いたのだ。驚いて顔を上げると、カイは笑った。


「俺の記憶を夢で見たなら分かるでしょ? 俺は、君たちと一緒にいるのが本当に好きだったんだ。言葉はなくても、俺のことを家族のような存在として受け入れてくれたのが、嬉しかった。楽しくて仕方がなかったんだよ」


 あの時のイリーネは、カイのことを犬だと信じて疑わなかったから――遊び相手が増えて、イリーネも喜んでいた。だから背中に乗ったり枕代わりにしたり、耳を思い切り引っ張ったり泣き言をぶつけたり、散々なことをしてしまった覚えがある。

 けれどそれらすべてをひっくるめて、カイは「楽しかった」と言ってくれる。彼は自分の感情を偽ることをしない。それが分かるから、イリーネも黙ってうなずく。


「そういうわけで俺は、イリーネたちが困っていたらお節介でもなんでも焼きたくなっちゃうの。イリーネが途方に暮れていたら手を差し伸べたいし、アスールが悩んでいたら相談に乗ってやりたい。カーシェルが窮地にあるなら、助けに行ってやりたいんだよ」


 例えるならそれは、みなを見守る兄のような視線。カイにとってはカーシェルもアスールも、年端のいかない弟分なのだろう。外見も内面も成長したイリーネたちでも、カイからすれば本質的には昔のままだ。


「もう十五年前のように、格好悪く身を引いたりしない。君に渡した契約具がその証明だ。今度こそ必ず、君を守るよ」

「カイ……」

「だから『巻き込んだ』とか言わないで。そんな風に思われるのは悲しい。イリーネが迷惑じゃないなら、一緒に行かせてほしいな」


 イリーネは唇を噛んだ。そうでもしないと、涙があふれそうなのだ。ぼやける視界を無視して、イリーネは首を振る。


「迷惑なんて、そんなっ……そんな罰当たりなこと言いません……!」

「良かった。ここで放り出されたら俺、本気でどうしようかと思った」


 呑気に笑うカイは、イリーネの頭をぽんぽんと撫でる。


「イリーネ。この先どうしたい?」

「私は……」

「周りのヒトが、君はお姫さまだって言うから、ここまで流れてきたでしょ。記憶を取り戻した君は、何をしたい?」


 そう。実感もないのに、カイやアスールやダグラスが、『君は神姫だ』と告げるから。イリーネはそれを受け入れて、演じて、やるべきことをやるためにここまで来た。周囲に流されていたと評するカイの言葉は、何も間違っていない。

 このままいけば、イリーネはきっとサレイユとイーヴァンの連合軍の大義名分になる。神姫イリーネを擁する連合軍に正義があると、諸国に示されるだろう。女神教が浸透したこの世界では、神姫の名は絶大な効果を発揮するのだ。


「逃げてもいいんだよ」

「カイ……!」

「ふざけてるんじゃない。本気で言ってる。神姫だからって使命感だけなら、俺は君をこの先に行かせたくないんだ。辛いなら、そう言って」


 カイの目は真剣だ。辛いと言ったら、カイはイリーネを連れて逃げる――それがイリーネと交わした約束。イリーネが辛いときは、必ず助ける――それがカーシェルとの約束。

 イリーネは微笑んだ。そして目を閉じる。


「ありがとう、カイ。でも、大丈夫。辛くないと言ったら嘘になる……それでも、お兄様たちに会いたいんです。カーシェルお兄様は強いから、私たちの助けなんて必要ないのかもしれないけれど」

「ふふ、そうだね。もうとっくに自力で脱出していたりしてね。……メイナードにも、会って平気なの?」

「真意を聞きたいんです。それだけじゃ、アスールの気が収まらないでしょうけど……幻じゃない本物のメイナードお兄様と言葉を交わしたいんです。まだ何か、届く言葉があるかもしれない」

「分かった。君とメイナードが話をできる機会を、俺たちが作るよ」


 あっさりとカイは頷いてくれた。イリーネが望むのなら、今すぐに出発することも辞さないといった様子だ。例えではなく、おそらく本気だ。

 それを悟ったイリーネは、くすりと笑って顔を上げた。


「ありがとうございます。でも、まずは身体を休めないと駄目ですよ」

「はいはい、分かってますって」


 まだ日付が変わったばかり、夜明けまではたっぷり時間がある。心配だったカイも目を覚ましてくれたし、イリーネも少しは眠れるだろう。心配事は尽きないし、黙っていればあれこれ考えてしまうけれど、休息は必要だ。いつかクレイザが言っていたように、目を閉じてじっとしているだけでも身体は休まる。

 素直にカイは枕に頭を乗せ、毛布を引き上げる。眠らなくとも多少の無理はできるらしいカイだが、本人は眠ることが大好きだ。十五年前もしょっちゅう寝ていた姿を思い出す。


 イリーネも自分のベッドに潜り込んだ。

 目を閉じて最初に考えたのは――カイのサラダパスタ好きは、カーシェルが原因だったということだ。茹でたパスタに乗せる野菜やドレッシングの組み合わせは多種多様だし、地域性も出る。それを気に入ったカイに気付いたカーシェルは、事あるごとに食事でサラダパスタを出してやっていたのだ。手軽さや日によって変化する味は、飽きが来なくて良かったようだ。

 カイが事あるごとにサラダパスタをちゅるちゅる啜っていたのは――思い出の味だったからだろうか。


 そんなことを考えて、声に出さずに微笑む。不思議とそれだけで穏やかな気持ちになって、イリーネは目を閉じた。





★☆





 翌朝、イリーネたちは全員ローディオン家の屋敷の食堂に集まった。王宮などと比べれば小さいが、それでも一貴族の屋敷の食堂としてはかなりの規模だ。大きなテーブルには三十人は座れるだろう。

 イリーネがこの屋敷に来たのは初めてだった。アスールですら、年に一度来るか来ないかという程度なので当然だ。ローディオン家は今や王家に連なる者。生まれてからずっと王都のグレイドル宮殿で育ったアスールには、リゼットは遠い場所だ。


 全員で朝食を摂り、食後のコーヒーをもらって、そのまま食堂は会議の場へと早変わりした。きちんとした会議室があるだろうに、多分移動が面倒臭かったのだろう。


「カイのためにもう一度説明するが、メイナードの襲撃のあとサレイユとケクラコクマは双方とも軍を引いた。かの国のイル=ジナ女王も、サレイユと争っている場合ではないと考えたようだ。必要ならばと助力まで申し出てくれた。いまはエルネスティ平原の南部に陣を張って留まってもらっている」


 アスールの説明を受けたカイが「ほう」と感心したような声をあげる。あの女傑の物分かりの良さに対しての感心だろう。


 イル=ジナ――【(しゅ)剛剣(ごうけん)】とも呼ばれる剣豪だ。

 そもそもケクラコクマ王国は、他のどんな国とも違った政治体制を持っている。国主は世襲ではなく、「その国で一番強い者」が王座に座るというしきたりがあるのだ。化身族の社会と酷似した実力主義の国家なのである。

 イル=ジナはそんな国の王になった。ケクラコクマで一番の剣の使い手だということだ。女性が王になるのは史上初で、その当初は反対も多かったらしいが、彼女の手腕は見事なものだった。あっという間に反乱分子を叩き伏せ、国内を平定したのだ。今では支持率も高い人気の王だという。


 性格は気さくで豪快。実力は文句なし。頭も悪くない。ひとりのヒトとしてイル=ジナは信頼できるが、問題なのはリーゼロッテとの関係だ。ケクラコクマ人のリーゼロッテへの反感は強い。イル=ジナも例外ではなく、神国が絡んだ問題で彼女が譲歩や妥協をしたことは一度もなかった。少しでも態度を軟化してくれたら交渉の余地があるのだが――と、昔カーシェルが頭を抱えていたことを思い出す。


「敵の敵は味方。それを信じてくれたってことか」

「というか、これは優先順位の問題だろう。彼女の敵は神国とそれに連なるもののみ。サレイユと神国の間の同盟が切れていると分かった以上、サレイユを相手にする必要はないだろうよ」

「単純なもんだねぇ」


 カイは軽く肩をすくめた。単純というより、割り切りがいいというか――物事に必要以上こだわらないのは、立派な素質だと思う。


「とにかく、女王は我々に協力的だ。この状況ならケクラコクマ国内を通過することが可能だろう。我々としてはすぐにでもリーゼロッテへ向かい、カーシェルの救出を試みたいところだが……」

「サレイユから出ないで待っていろって、ダグラスが言っていたわね」


 チェリンの指摘に、アスールは難しい表情で頷く。


「その通りだ。今はダグラスとファルシェの間で様々な調整が行われている頃だろう。下手には動けないな……」


 国同士の話し合いは非常に繊細なものだ。アスールは悔しそうだが、こればかりは仕方ない。


「時間があるのはいいじゃねぇか。このあとの対策も練れるし、身体も休められる。有意義に使おうぜ」


 前向きな意見を出したのはニキータだ。確かに慌ただしく出発するのは危険だし、焦っても仕方がないのだ。アスールも同意した。

 ニキータはコーヒーを飲み干した。彼が持つとお洒落なコーヒーカップもやけに小さく見えてしまうからおかしなものだ。そうして立ち上がったニキータに、クレイザが声をかける。


「え、どこに行くの、ニキータ?」

「偵察だ。そんなに遠出はしないから安心しろ」


 さっさと食堂を出て行ったニキータの後ろ姿を見送って、クレイザは呆れたように苦笑した。


「対策を練ったり、身体を休めたりするんじゃなかったのかな」

「そういうの、柄じゃないんでしょ、あのおっさんは。ニキータが警戒してくれれば安心できるのは確かだし、好きにやらせておけば?」


 突き放しているように見えて、実はニキータに全幅の信頼を置いている言葉をカイが口に出す。クレイザも「そうですね」と頷く。

 チェリンがイリーネたちを見やって片手を広げる。


「それじゃ、あたしたちはどうする? 話し合う? 休む?」


 チェリンの視線はこの場に残った全員に向けられていたが、自然とイリーネたちの目はアスールに集中した。いま仲間たちの進路を定めているのはアスールなのだ。

 視線を受けたアスールは苦笑して、口を開く。


「実は、私もひとつやりたいことがあってな」

「というと?」

「ケクラコクマの女王を口説く」


 大胆な発言にぱっと反応したのは、それまで壁際で忠実に控えていたジョルジュだ。心持ちうきうきしたように、ジョルジュが笑顔を見せる。


「アスール様っ、ついに貴方もそんなことを仰るようになったのですね! いいでしょう、不肖このジョルジュ、アスール様に女性を口説くときの極意を伝授してさしあげ――」

「そういう意味ではないと分かっていながらふざけるな、ジョルジュ!」

「えっ、そんなぁ。誤解を招くような言い方をしないでくださいよー」

「いいから黙りたまえ」


 相変わらずのジョルジュの様子に、イリーネは思わず笑ってしまう。本当に、どうしてこの強烈な人柄を見てイリーネは記憶を取り戻せなかったのだろう。子供のころに初めて会った時から、ジョルジュは女性とあれば年齢も身分も見境なく口説いて回っていたものだ。主筋だからか、イリーネに対してはそこまでではなかったが。


 可哀相に、雰囲気を台無しにされたアスールが咳払いを挟む。そして今度こそジョルジュに誤解を与えないように言い直した。


「イル=ジナ女王に、私から直接協力を頼みに行こうと思う。状況の報告にも出向かねばならないしな。味方にすれば、かの国は心強いはずだ」

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