◆箱庭の姫君は笑う(8)
神都カティアの西側に教会が建てられている。これが女神教の総本山、世界三大聖堂のうちのひとつだ。古風で重厚な趣のあった王城とは違い、教会は非常に清潔で美麗だ。丹念に磨き上げられた大理石の床に、様々な色に輝く貴重な硝子。そこに差し込む日の光と、照らされる美しい女神エラディーナの石像――そして、女神の代理人たる『神姫』の存在。大陸中の女神教教徒が、神姫との拝謁を求めてここにやってくる。神姫は悩める教徒の懺悔を聞き、微笑み、頷くのが役目なのだそうだ。そんなことのために、今日も今日とて拝謁のための長い行列が教会前に出来ている。
一般信者に立ち入りが許されているのは、礼拝堂など一部の場所だけだ。奥は教皇――教会の最高責任者であり、神国王に国政の助言をする人間――やその配下にいる司祭たちしか立ち入りを許されない。地上階は二階しかないが、噂ではかなり地下深くまで造られているらしい。
神都カティアが四方を森林に囲まれているのは皆知っているのだが、それだけでなく意外と高台に街は形成されている。市街地から少し離れた王城や教会は特に高い場所にあり、敷地の裏手は崖だ。これは政治の中枢として、敵に攻められにくい立地を選んだのだろう。
ということで勿論、崖下から直接教会に入る道など存在しない――はずなのだが。
教会には地下がある。そこに至るための隠し通路が、自然の洞窟のように見せかけて造られていたのだ。緊急時の脱出用の通路だが、その通路を逆走している者がいた。
光源のない暗い通路を、ランプを掲げて先導する者。それを追いかける、大きな袋を抱える者。ふたりの男が、急ぎ足で通路を進んでいた。
やがて通路の先から、光源がもう一つ現れた。それは白いローブを身につけた、典型的な司祭の格好だった。司祭はふたりの男をねぎらって、大きな袋に視線を送る。
「その中に姫様が?」
「ああ、要求通り怪我ひとつさせてないぜ。だから報酬は弾んでくれよ」
「約束は守りますとも。とにかく、教会まで参りましょう」
司祭の案内で、再び男たちは進み始める。
「……見つけた」
そんな彼らの背中に、ぽつりと声がかけられた。決して大きい声ではなかったが、狭いこの通路には反響してよく聞こえた。驚いて男たちが振り返る。
闇の中から姿を見せたのは、銀髪が特徴的な若い男。カイだった。それを見た袋を背負った男が、驚いて声をあげる。
「お、お前は……!?」
「久しぶりだね、あの時の鷲さん。ちょうど一年ぶりかな」
そこにいたのは、イリーネらと出会う直前まで散々追い回されたハンターのふたりだった。面白い偶然もあったものだ。
「どうしてここが……!」
「物騒な会話が聞こえたから追いかけてきただけだ。大型の鳥族がこんな狭い洞窟に入り込むなんて、愚の骨頂だね」
カイはゆっくりと距離を詰めていく。のんびりとした足取りだが、その姿に隙が一切ないことをハンターたちは察していた。鷲の化身族は後退しながら、持っていた袋を司祭に渡した。
「行け! 始末したら追いかける!」
司祭はうなずき、イリーネが入れられていると思しき袋を抱えて走り去る。ぴくりとカイが眉を動かしたが、この通路は男がふたりも立てば完全にふさがれる。
男は鷲に化身する。人間のほうも猟銃を構え、不敵な笑みを浮かべる。
「へっ……わざわざ狩られに出てくるなんてな! こちとら賞金額三桁の二級手配者、六十万ギル程度の【銀豹】が敵うわけ……」
「――誰が、それが本気だって言ったの?」
「は……?」
ハンターが間の抜けた声を上げているのも無視して、カイは化身と跳躍を同時に行う。この狭さのせいで十分に飛ぶことのできない哀れな鷲めがけて飛び掛かる。
身を守るため、鷲は翼を羽ばたかせた。並みの相手ならその翼ではたき落とされただろうが、カイは怯まない。そのまま真っ直ぐ突っ込み――翼を食いちぎる。
「なッ!?」
片翼をもがれて墜落した鷲の喉を、容赦なく引き裂く。化身が解けてヒトの姿に戻った男は、もう息をしていなかった。カイがもいだ左の翼は、胴体から離れた腕となって地に落ちる。
「う、嘘……だろ」
人間のほうは、瞬殺された相棒を見つめたまま動けない。銃すら構えられない有様だ。
人間たちは知らない――化身族の力を。圧倒的な力や技術を持つ化身族の本気など、誰も見たことがない。それは当然だ、ハンターたちがやっている『デュエル』は、所詮ただの『決闘』。本気の殺し合いなどではないし、化身族にだって良心や理性はある。好き好んで敵を殺すような残虐な化身族はそうはいないし、まして人間相手に全力など出さない。――そんなことをすれば、人間の貧弱な身体など木端微塵になるからだ。
けれど一度すべての躊躇いを捨てれば、化身族は凶悪な虐殺者と化す。
カイの賞金額が低かったのは、彼がこの十五年、目立たないように生きてきたからだ。ひとつの場所に留まらず定期的に住む場所を変え、化身族だとばれないように暮らす。ばれて襲われても、魔術は使わずやり過ごす。たまに危機に陥って魔術を使わざるを得なくなったこともあったが、術のすべてを明かしたわけでもない。人間がカイの表面だけを見てつけた数字など、あてになるものか。
カイの強靭な牙が、ハンターの人間を引き裂いた。ほぼ即死した男が倒れるのに目もくれず、カイは先に逃げた司祭を追って通路を駆けだす。
暗がりも見通す獣の目が、少し先を走る司祭の後姿を捉えた。速度を上げると、あっさり司祭に追いつく。その背中に体当たりをかますと、司祭は潰れた蛙のような呻き声を上げて地面に顔面から突っ込む。イリーネの入った袋も傍に投げ出された。
「ひ、ひぃっ……お、お助けを……!」
尻餅をついたて後ずさりしながら、みっともなく命乞いをする司祭を、カイは冷たい目で見下ろす。
――生かしておいてはおけない。口封じは、しなければ。
右腕の爪が、司祭の心臓を貫き通した。
腕に伝わった生々しい感触に眉をしかめつつ、カイは化身を解く。袋の口を開けて中を確認すると、そこにはやはりイリーネがいた。袋から出してよく見てみると、どうやら気絶しているだけのようだ。怪我もない。ひとまずほっと息をつき、カイはイリーネを背負って来た道を戻る。
「……君はよく攫われるね。今はまだカーシェルたちが守ってくれるけど、そろそろ君も警戒とか覚えたほうがいいよ」
ハンターたちの死体の傍を通り過ぎたが、カイは意図的にそれを無視した。強い血の匂いが、鼻孔につく。
「この先きっと、君はたくさんの悪意を向けられる。こんな風に危険な目に遭うこともあるんだろうね」
ここからしばらく、暗闇の中を延々と歩くことになる。ランプも何も持っていないから、人間の目には真っ暗に映るだろう。
「アスールも帰っちゃうし、もう……俺も傍にいてあげられないんだから。しっかりしないと……」
そう呟いて、カイは束の間黙り込む。それから盛大に溜息をついた。
「……格好悪いなぁ……カーシェルに大口叩いたのは良いけど、結局これが限界だなんて」
幼い彼らのために身を引く。彼らのために自分を犠牲にする。聞こえは潔くて良いかもしれないが、実態は違うということをカイ本人がよく分かっていた。傍にいて、これ以上巻き込まれるのが嫌なだけだ。ずっと一緒にいるなんて確約できないことを、安易に口に出したくない。口に出したが最後なのだ。「彼らのために」なんて、都合よく引き合いに出して責任を押し付けているだけだ。
本当は傍にいてやりたいのに。傍にいてほしいとカーシェルたちも願ってくれたのに。自分の気持ちも彼らの気持ちも無視するやり方しか思いつかないなんて、心底格好悪い。
(でも、もういい。……決めたことだから。ここで決意を曲げたら、今度こそ俺はダメダメになっちゃう)
洞窟が終わり、暖かな春の日差しが森に差し込んでいた。その眩しさに目を細めつつ、一歩二歩と森を進む。どこか適当な場所で、イリーネを王城のヒトに預けなくては。しかしどこで誰に――そんな考え事をしながら歩いていると、前方から複数の人間が接近してくる音が聞こえた。顔を上げ、カイは足を止める。
あっという間に、カイはその人間たちに半包囲されてしまった。深い緑を基調とした制服に、金属の胸当てや籠手などを身につけている。多分、森林の緑に紛れるための服なのだろう――と、どうでもいいことを考えてしまう。
街の憲兵隊かとも思ったが、憲兵がそんな鎧を着こんでいるとは思えない。神国軍――その中の近衛か何かか。姫君の誘拐事件とあっては、そのくらいの大物が動いてもおかしくない。大々的に人員を割くこともできなかっただろうし、精鋭中の精鋭だ。カーシェルが差し向けたのだろう。教会の裏手に目をつけるとは、やはりカーシェルも鋭い。
彼らはカイに向けて槍を構えている。最初から戦闘態勢だ。しかし、武力と言えば化身族の爪や牙を頼るようになった人間たちだ――その槍の腕前はいかほどのものか。
「そこのお前! その背に負っている方を下ろせ!」
随分と短気な奴らだ。カイはイリーネを悪人の手から取り戻したというのに、それを確かめもせず高圧的に接する。まあ、彼らも焦っているのだろう。珍しくカチンと来たが、なんとか怒りを我慢する。
(ごめんね、イリーネ。今から最低なことを、俺はする)
背負っていたイリーネの身体を前に持って来て、兵士たちにも見えるように抱え込み――空いている右手に持ったナイフを、眠っているイリーネの首元に突きつける。
兵士たちが緊張感を高めて、槍をいっせいに向けてきた。カイは彼らを見渡して告げる。
「状況が分かってないみたいだね。ヒトに命令する前に、自分たちが武器を置いたらどう?」
「き、貴様……! その御方をどなただと……っ」
「――……おっと、動かないで」
カイの横手から後ろに回り込もうとした兵士の動きを、目線でカイは牽制する。と、彼らの足元の地面から巨大な氷の棘が突き出した。あわや足裏を貫かれそうになった兵士たちが、慌てて飛び退く。カイと兵士たちの間に、凶悪な氷の棘の柵が完成する。
「魔術……ケモノか!」
「化身もしないで……!?」
恐れ戦いているのがよく分かる。指一つ動かさず、カイは強力な術を行使できるのだ。魔力量だけなら、賞金ランキング上位の者にも負けないだろうという自負もある。ヒトの姿を保ったまま術を使うくらい、カイには容易いことだった。
「俺の名はカイ・フィリード。誇り高い化身族の里、フィリードの戦士だ。俺は人間が嫌いでね、この娘が何者かなんて、俺にはどうでもいい。あまり俺を怒らせないほうが良いよ」
少々芝居がかっているだろうか――慣れていないのだから、仕方がない。自分で言っておいて、「誇り」とかいう言葉に失笑を漏らしそうになる。誇りなんて口にするヒトは、幼い娘を人質にとったりしないだろうに。
「そ、そのフィリードの戦士が、なんだってこんな場所にいる!? 目的はなんだ!?」
「理由なんて……特にないよ。暇だったんだ。初めて人間の世界に出てきたものの、どいつもこいつも弱すぎ。リーゼロッテの兵士は大陸一だって聞いていたけど、たいしたことないんだね? こんなに大人数いるのに、俺一人仕留められない――無力だね、人間ってのは」
違う、人間は無力などではない。力は化身族に及ばないけれど、その分カイたちにはできないことをできるのだ。ひとりでできないなら、隣にいる誰かと協力して。喜びも悲しみも、みんなで共有して。誰かのために必死になれる、そんな人間の姿は、カイの心をも温かくしてくれる。だから――カイは、人間が嫌いになれない。化身族には短すぎる一生の、瞬間瞬間を必死に生きる、彼らの姿は羨ましい。
「弱い者いじめは、趣味じゃないからね。退いてくれれば攻撃はしない。……かかってくるなら、一人残らず引き裂いてやる」
冷静に考えれば分かるだろう。カイが、イリーネを傷つけるつもりがないことを。彼女の身柄と引き換えに何も要求していないことを。
これだけ挑発して、それでもなお引き下がらない兵士たちの気概は見事だ。退きもしなければ、突撃もしてこない。ただ包囲の輪をじりじり縮めているだけ。そうして隙を伺い、同時に援軍の到着を待っているのだ。よく訓練されている。
しかしこれ以上時間をかけるのは避けたい。相手が増えれば、なるべく傷つけず殺さずという目標の達成が難しくなる。さっさとこの場を離れたほうが良さそうだ。
カイは地面に転がる石ころに視線を落とした。何の変哲もない道端の小石に魔力を注ぎ、念意操作する。カイが得意とする下級氷魔術――“凍てつきし礫”。
宙に浮遊した氷の礫が、意志を持つ弾丸として打ち出される。兵士たちが持っていた大盾もあっさりと貫通した。本来は命中すれば人体も容易く貫くが、そこはカイの巧みな威力制御が働いている。頭に当たっても、少しの間昏倒するくらいだ。
「……だ、だめだ、一時撤退! 態勢を立て直すぞ!」
「強すぎる!」
「カイ・フィリード……そんな賞金首、聞いたこともないぞ……!」
さすがに勇敢な兵士たちも退避した。分散して森の奥へ駆けていく彼らを見送って、カイは肩をすくめる。
盛大に名乗りを上げた甲斐があった。彼らはカイの名を神都中に触れ回ってくれるだろう。
(名もない謎の化身族が、出来心でリーゼロッテのお姫様を誘拐して逃亡――宗教的理由も、政治的理由もなく。それでいい……それでいいんだ)
浮遊させていた礫を地面に下ろして、カイは再び歩きはじめる。もう少し王城に近いところで、イリーネを誰かに託そう。離宮のヒトなら、カイのことを知っている。都合よく見つかってくれればいいのだが――。
しかし、歩き出していくらも経たないうちにまたカイは呼び止められることとなった。しかも、飛んできたのは声ではない。
首筋を嫌な風が通り過ぎた。カイの本能が、それを「危険」だと判断する。
振り向きざまに“凍てつきし盾”を発動させる。カイの身体の前面に現れた氷の壁が、飛んできた何かを防いだ。スパンと小気味のいい音がする――次の瞬間、分厚い氷が真横に両断されていた。ずり落ちた上半分の氷が地面に打ち付けられ、そして消える。
(俺の氷を、斬った――風の魔術か)
カイが初めて緊張して構える。
森の木々の間から、新たにヒトが姿を見せた。今度はひとり――二十代後半くらいの見た目の男だ。だが彼も化身族だとしたら、見た目通りの年齢ではないだろう。
身構えるカイに向けて、その男は片手をあげて制する。
「待て。俺は敵ではない」
「……誰?」
「カヅキ。神国軍の獣軍将を務めている」
「【迅風のカヅキ】……!」
その名は聞いたことがある。賞金ランキングは第三位――つまりニキータより強い相手。
「気配だけはこの一年ずっと感じていた。お前だろう、カーシェル殿下らの傍にいたのは」
「……」
「なぜ『イリーネ姫を助けたのは自分だ』と声を上げない? なぜわざわざ自分に敵意を集中させる。調べれば教会関係者の犯行だとはすぐに分かるはずだ。お前の無実――いや功績は、きっと讃えられるぞ」
黙っているカイに向けて、カヅキは静かに、しかし熱く語る。そうか――このヒトは、カイの名誉を守ろうと説得してくれているのだ。
「考え直せ、同胞。さっきの人間たちに、俺は顔が利く。俺が誤解だと言えば、奴らも――」
「たとえ俺の無実が証明されても、この事件の真相は公にはならない。教会と王家の対立なんて醜聞は誰もが避けるだろうし、その政治権力の均衡も崩されるべきじゃないから。……そうだろ?」
カヅキが何か反論する前に、カイはさらに言葉を紡ぐ。
「でも、『犯人』が無関係の化身族で、国外に逃げたとすれば話は別だ。真相をうやむやにして、『犯人』の追跡に神国軍やハンターは全力を挙げられる。ついでに王家は、教会に対して貸しを作れる」
「……それは冤罪で、罪の揉み消しだ」
「そんなのは俺の知ったことじゃない。それが最善で、誰も傷つかない。そう考えただけだ」
「お前は傷つく。これから凶悪犯として世界中で手配されることになるぞ」
カイはふっと笑う。なぜこんな状況で笑えるのか、自分でも分からない。
「俺は犯人じゃない。そう信じてくれるヒトが、あんたを入れて五人になった。……それで十分だよ」
「……酔狂な。どうしてそこまで、王子や姫に心を砕く?」
「それは前にも聞かれたけどね。友達を助けるのに、理由がいるの?」
答えながら、カイはイリーネをカヅキに差し出した。すやすやと呑気に眠るイリーネの頭をそっと撫でて、カイは背を向ける。
「お前は――馬鹿な奴だな。もう少し他に考えられなかったのか」
「フィリードの戦士は考えることが苦手なんだ」
「ふっ。フィリードの名は知っているぞ。少々排他的なところはあるが、心を許した者には義理堅く、人情に厚い化身族の群れだ。お前もその通りらしい」
「……別の群れと勘違いしているんじゃない?」
先程撤退した人間たちが、数を増やして戻ってきたようだ。カイも、おそらくカヅキも気づいた。もうあまり時間はない。
「王子や姫のことは任せておけ。俺が見ておく」
「獣軍将なんて重役が、直々に?」
「重役だからこそできることもある。お前の想い、同胞として無下にするわけにいかん」
「……信頼しておくよ、カヅキさん」
「死ぬなよ」
「死なないよ。色々、約束があるからね」
銃声が聞こえる。飛来した銃弾を、カイは身体を横にずらして躱した。カヅキの抱えるイリーネをもう一度だけ振り返り――そして化身して一目散に駆け出す。
「いたぞ、こっちだ!」
「イリーネ姫は奪還した、構わず撃て!」
「獣軍将殿、お怪我は!?」
好き勝手に人間が騒いでいる。森の木々を利用して敵の目を攪乱しながら、カイは逃げる。今度こそ、足を挫くなんてヘマはしないように。
とにかく神都の外へ。リーゼロッテ以外の土地へ。盛大に引っ掻き回して、逃げてやろう。
(アスール。この一年で君は立派になったんだから、サレイユに帰ってもお兄さんに気圧されるなよ)
最初はうじうじして煮え切らないと思ったこともあったが、それが優しさの裏返しでもあることも分かった。その優しさは捨てずに、顔を上げて堂々としていればいい。
(カーシェル。君が間違ったことなんて一度もなかった。君はそのまま、信じる理想を貫けばいい)
いつだって毅然としていたカーシェルは、本当は家族思いで心配性で、抱え込みがちな普通の男の子だった。きっと彼は、この先もっと強くなる。そんな予感があった。
(イリーネ。……君のお転婆やいたずらには手を焼かされたけど、なんだかんだ俺も楽しかったよ)
小さなお姫様は、太陽みたいな存在だった。彼女が笑えば、周りもぱっと明るくなる。閉ざされた離宮の中は、使用人たちも含めてみんな笑顔だった。それを失いたくない――カーシェルの言葉に、カイも深く同意する。
(願わくば、君に少しでも幸せな未来がありますように)
旅に出るという約束はお預けだ。いつかイリーネが大人になってカイのことを覚えていて、少しの間逃げたいと思ったなら、手を引いて逃げてやろう。
――もしそうでないなら、カイは忘れたふりをしていよう。
神都の周囲を囲む森林地帯を抜ける。すると空から鳥族の部隊が追いかけてきた。あれはハンターではない、カヅキの部下だ。手の込んだ演技だ――まあ、追跡している本人たちは演技なんてことを知らないだろうけれど。
人間たちを撒くのとは訳が違う。カイは氷の礫を操作し、上空の鳥たちにそれをぶつける。
(フローレンツに行こう。できるだけヒトのいない、静かな場所へ。そこをねぐらにして、もう動かない)
何もしないで待つのは慣れている。古巣に戻って、また生き方を変えよう。
神国からの追跡部隊やハンターたちに、この先何度も襲われるだろう。神国を出たらもう容赦しない、襲ってくる相手はすべて斃す。そうすれば賞金額も跳ね上がるはずだ。名前も世界中に知れ渡る。
それがカーシェルたちの耳に入れば――間接的に、カイの生存を伝えられる。
死ぬつもりはない。なんといっても、カイはフィリードの戦士なのだ。ニキータやカヅキ並みの相手でなければ、そう簡単に死ぬものか。
仲良くなったたった三人の人間のために、自分の平穏を捨てるなんて馬鹿者のすることだ。
そう言われるかもしれないけれど、別にいいのだ。だって、そんな風に大切に思えるヒトがいるなんて、幸せだと思うから。――事情を知るカーシェルなどには、心配をかけてしまうだろうが。
(次に会う時、あの子たちはすっかり大人になっているんだろうな)
後は老いるばかりのカイには、人間の成長ほど時の流れを実感するものはない。大人になった彼らは、どんな姿になっているのだろう。劇的に見た目が変わっていたって、構いやしない。カイには、分かる自信があるから。
カイの“凍てつきし礫”を回避した猛者が、急降下して鉤爪を向ける。カイは真っ向からそれに立ち向かい、鋭い氷槍でその鳥族の翼を貫いた。あまりに呆気ない。神国の化身族部隊はこんなものか。
速度を落とさず、前方に立ちはだかった鳥族に体当たりして撃墜する。もうそれが鷹なのか鷲なのか、考える暇もなかった。
やがてカイは、神国軍が管轄する神都の領域を、完全に脱したのだった。
この日を境に、カイ・フィリードの名は神国中に知れ渡った。
やがてフローレンツのオスヴィン半島に住みついたカイの二つ名は、素っ気ない【銀豹カイ】から【氷撃のカイ・フィリード】に更新された。いかにカイが、氷の礫で敵を撃退したかがうかがえる。カイもいちいち数など数えていなかった。
フィリードの名を明かしたことが、掟に触れて後で怒られるのだが、それはまた別の話だ。
最初は神国王城への侵入とイリーネ姫の誘拐未遂で手配されていたものの、時が過ぎればそんな罪状は人々の記憶から消えていく。
彼は高額賞金首としてハンターに追われるだけとなり、それもすべて打ち負かしたことでさらに賞金額を上げた。
いつしか彼はフローレンツ最強の名を手に入れ、賞金はあの【黒翼王ニキータ】に次いで高い九八〇〇万ギルに達したのだ。
カーシェルたちと別れたあの日から、実に十五年の歳月が流れていた。




