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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
5章 【過ぎ去りし日に】
114/202

◆箱庭の姫君は笑う(5)

 いつもは滅多に怒らないアスールに怒られ、家庭教師に怒られ、とどめに帰宅したカーシェルから大目玉を食らう――こうまでされるとイリーネが不憫だが、よくよく考えてみれば自業自得だ。エレノアは性格的に怒るのが苦手そうだと思ったが、その分カーシェルが雷を落とすようだ。

 まあ何はともあれ、何事もなくイリーネは帰ってこられた。騒ぎも公にはならず、内々で処理されることになったのは幸いだっただろう。姫の行方不明など、下手をすれば国外にまで影響を出す問題だ。


 夕方近くになって、今日の夕食を持って来てくれたのはアスールだった。そんなことは初めてだったので驚いたのだが、アスールもカイの驚きを察したのだろう。照れくさそうに笑って、食事の皿を地面に置く。


「イリーネはいまカーシェルからお説教食らってるんだよ。だから代わりに僕が」


 なるほど、と納得してカイは皿から直接料理を食べる。食事姿を誰かに見られるのは嫌だったのだが、獣の姿をしていると不思議とそんな羞恥心も湧かないものだ。と、その皿の端っこにアスールが何かを置いた。焼き菓子だ。それもふたつ。


「これ、カーシェルが出先でもらってきたお土産だって。本当はひとりひとつなんだけど、ミルクには今日のお礼でふたつ」


 可愛らしいお礼である。甘いものは好きだ。有難く頂いておく。


 カイが食べ終わるのを傍に座って待っていたアスールは、不意に口を開いた。


「ミルク、今日はありがとう。本当にイリーネを連れ帰ってきてくれるなんて、ちょっと驚いた」


 だろうな、とカイは他人事のように思う。犬の振りをするというのがカーシェルとの約束だったのに、自分から怪しまれるような行動を取ってしまった。そのことは迂闊だったと思うが――後悔はしていない。


「なのに、僕……僕は慌ててばかりで、どうすることもできなかった。カーシェルに留守を任されていたのに。情けないな、ほんと」


 膝を抱えて、アスールはそこに顔をうずめる。ちらりとそれを見たカイは、空になった皿をぺろりと舐めて顔を上げた。


「……僕さ、兄さんがいるんだ。ダグラスっていう、まあ双子みたいな感じなんだけど。堂々として、賢くて、格好いい――僕は少し、ダグラスが苦手なんだ」


 その姿勢のまま、アスールはカイにそう語り始めた。妙によく喋る。カーシェルやイリーネと仲良く話をしている姿は見るけれど、カイに向かって何かを語ることなど今までなかったのに。カイは行儀よく座って、少年の身の上話に耳を傾ける。


「一緒にいると、必ず比較される。僕がダグラスより優れているところなんて、殆どないんだ。僕はいつだって臆病になっちゃって、ダグラスみたいに大人を相手に喋ることもできないし、勉強もさっぱり。お祖父さまにも、もっとしゃっきりしろっていつも怒鳴られていたし……」


 なんだか、その怒鳴られていたという光景が目に浮かんでしまう。今のアスールの大人しさは、異国にいるという緊張からかと思っていたが、そういう訳でもなかったようだ。


「だから、リーゼロッテへの留学が決まった時、ちょっとほっとしたんだ。ああ、ダグラスから離れられる、って――でも、すぐ怖くなった。留学なんて言ってるけど、僕には頼りになる臣下のひとりもつけてもらえなかった。それって、本当はただの厄介払いなんじゃないかって」


(色々考えて、勝手に不安に陥るお年頃か。まあ分かる)


 とはいえ、確かに奇妙だとは思っていた。アスールと共にサレイユから来た使用人が、ひとりもいなかったのだ。大事な自国の王子を、いくら同盟国の城であろうと身一つで放り出すものだろうか。


「僕がここに来たのは、ミルクがやってくるほんの二週間くらい前だよ。僕はその時、初めてエレノア様と、カーシェルとイリーネに出逢ったんだ」


(そうだったの? 随分馴染んでいたから、てっきりもっと小さいころからの知り合いなんだと思ってた)


「こんなに早く打ち解けられたのは初めてだよ。本当に優しいんだ。僕のことを家族同然に扱ってくれて……最初はダグラスに似ていると思ったカーシェルも、実際は全然違った。カーシェルは僕を色々助けてくれるけど、カーシェルも僕を頼りにしてくれているのが分かるんだ。イリーネの面倒を見てくれって……僕には年下の兄弟がいないから、嬉しかったんだ。いまは、本当の妹みたいに思ってる」


(カーシェルだって、子どもだよ。大人びているけど、カーシェルが君と仲良くなったのは義務でも、ましてや同情でもない。君の人柄を知って、信頼できると思ったからでしょ。アスールがカーシェルを信頼したのと同じように。人付き合いは鏡なんだよ)


「うん……多分、僕は被害妄想が過ぎたんだ。これは確かに留学だ。サレイユにいたときみたいに、誰かの助けを期待していたらここでは生きていけない。だって、知り合いはひとりもいないんだから。僕は自分から声を上げて、カーシェルやイリーネと仲良くなれたんだ。あのふたりが何か特別に気を遣ってくれたわけじゃ、ない。……そのことが重要、なんだよね」


(それが分かったんなら、はるばるリーゼロッテから来た甲斐もあったってものだよ。ま、あとは自信持てって)


「自信はね、ちょっとついた。僕がこれまでダグラスに怯えていたのは、本当のダグラスと会話しようとしていなかったからなんだ。サレイユに戻ったら、ちゃんと向き合ってみるよ」


 ――まるで会話が成立しているようだが、実際には、それぞれが好き勝手に喋っているだけに過ぎない。つまり大きなアスールの独り言だ。我に返ったアスールが顔を上げ、恥ずかしそうに笑う。


「……あ、はは、僕なに言ってるんだろ。カーシェルやイリーネが、いつもミルク相手に何か話しているから、つい」


 イリーネはともかく、カーシェルは本当にカイと会話しているつもりなのだが――それを告げても仕方がない。


「とにかく、今回はミルクに頼っちゃったけど、次また何かあったときは僕もしっかりしなきゃ。震えて待っているだけじゃなくて、ちゃんとふたりのために――って、いたっ!?」


 カイは突如、アスールの背中に頭突きをかました。立ち上がりかけていたアスールはまともにそれを食らい、前へ倒れ込む。顔面から地面に突っ込むような間抜けは、さすがにしなかった。

 何するんだよ、とアスールが文句を言う。しかし途中でアスールは言葉をつぐむ。それからおもむろに、元のように行儀よく座り直したカイを振り返った。


「……もしかして、励ましてくれてる?」


(決意表明なんて、俺にしても仕方ないでしょ)


「……うん、そうだよね。行動で示さなきゃね」


(分かれば良し)


「ありがとう。なんか、話してたら気持ちが楽になった」


 アスールは皿を回収し、軽くカイの頭を撫でて去っていった。そんなところだけ犬扱いして、勝手なものだ。


(ダグラスとやらと比べて何も優れていないなんて、嘘だよ。俺は君が剣の稽古に励んでいるのを知ってる。この数か月でとても上達したことも。きっと、君は強くなれる)





 その日の夜、イリーネが庭に出てカイのもとへやってきた。夜着一枚で、見るからに寒そうだ。カイが何も言えないうちに、イリーネはすっぽりカイの隣に収まってしまう。


「えへへ。ミルク、あったかいね」


 イリーネはそう言って、カイの背中に顔をうずめる。えらく大人しい――さてはカーシェルにこっぴどく怒られて、ちょっと落ち込んでいるのだろうか。


「なんかね、眠れない」


(どれだけ強烈に怒ったんだろ、カーシェルは……眠れないほど落ち込ませるとか。それとも、あの奴隷商たちの記憶があるのか? だとしたら落ち込んでも仕方ない……)


「昼間からずっとどきどきしてるの。初めて外に出られたの、すっごく嬉しかったんだ」


(落ち込んで……)


「でも気付いたらおうちに帰ってきてたの。ミルクが連れ戻したんでしょ? ひどいよぉ」


(ぜんっぜん落ち込んでいないね、こりゃ)


 カイはがっくりと頭を落とす。周囲の心配も怒りもなんのその、イリーネにはまったく堪えていなかったようだ。反省の色すらない。なんと逆上する始末だ。

 ヒトの気も知らないで――もう少しで奴隷にされるところだったというのに。


「みんなずるい。お母様もカーシェルお兄様もアスールも、好きな時に出かけられるのに。私だけいつもお留守番で、つまんない」


 恨みのこもった声でイリーネは呟く。それはいいのだが、恨みのままにカイの毛皮を掴まないでほしい。中途半端につねられて、割と本気で痛い。


「だから、寝たくないの。寝たら明日が来ちゃうから。今日はこんなにわくわくしたのに、明日になったらいつもと変わらないでしょ。勿体ないから、寝ないんだもん」


 いや、完徹しても朝は来るけどね――。


 彼女なりに強い意志のもとで徹夜を敢行したのだろうが、彼女は健康な五歳児である。夜になれば眠くなるのは当たり前だった。最初のうちはカイに向けてお喋りをして眠気を飛ばしていたようだが、それも徐々に効果は薄くなり、彼女の口数は少なくなっていく。

 ここで寝られたら困るなあと思いつつ、全体重をカイの背中に預けてしまった小さな女の子を振り落すわけにもいかない。


「……あのね、ミルク」


 イリーネがそう呼びかける。もう半分夢の中なのではないかと思うほど、微かな声だ。


「お兄様は、いっぱい知ってるの。色んな国の、色んな事……アスールも、サレイユの綺麗なところ、たくさん教えてくれるんだよ。……私、いつか見に行きたいの」


(もっと大きくなったら、見に行けるよ、きっと)


「今すぐ行きたい。ねえ、連れて行ってよ、ミルク。私を背中に乗せて」


(無茶言うなぁ。それじゃ俺、王女誘拐の極悪人になっちゃうんだけど)


 緩んでいた毛皮を掴む手に、力が入る。だが今度はつねるような掴み方ではなく、まるでカイに縋るような力具合だ。


「大きくなったら、世界中旅したいの」


(うん)


「ミルク、連れて行って。お願い」


(そういうことはまずカーシェルにお願いしたらいいのに……)


「お兄様は聞いてくれない。優しいけど、お外に出してくれないの。だからミルクと行きたい」


(――俺と?)


 どうして。俺はただの、犬なのに。たかだか数か月一緒に暮らしただけの、迷い犬。


 どうせカイは長くは共にいられないのだ。頃合いを見て、姿を消すつもりだった。そんなことを察知したわけでもないだろうが、イリーネは確かにカイに縋っているのだ。言葉がなくとも、伝わっていると信じて疑わない。子どもならではの無垢さと――イリーネの純粋さが混じっているように感じる。


「ね、約束」


 混血だということを隠すために、ずっと離宮で暮らす女の子。それでも楽しそうだ、満足そうだと思っていたのは、カイの間違いだったのか。本当は辛いのか。いつも兄たちを見送るだけで、変化のない日常が。美しいこの離宮の景色を見飽きて、息が詰まって仕方がないのか。

 不憫だとは思っている。でも、それだけだ。いずれカイはここを出て、きっと二度と出会うことはない。ほんの少し重なっただけの縁、深く肩入れする必要などどこにある。エレノアやカーシェルが、きっと彼女の待遇を良くしようと頑張るだろう――そう他人事のように思っていたのに。


(……逃げたいか、イリーネ? 退屈だけど平和な日常を捨てることになっても、外に行きたい?)


 カイにはそれができる。彼女が望むなら、今すぐ後ろ襟を咥えて塀を飛び越えられる。

 問うても、イリーネの返事はない。当然だ、カイはこの姿のとき喋ることができない。


「ミルク」


 イリーネがカイの毛皮に顔をうずめる。ここで返事をよこせと言うのか。こんな、カイにとっては重大な決断を、数秒で下せと。


(……分かった。約束しよう)


 カイはひとこえ小さく鳴いた。イリーネは顔を上げ、微笑んだ。


「ありがとう、ミルク。約束だよ。いつか、外に連れて行ってね」


 半分寝かけた、子供の譫言だ。本気にするべきではないのだろう。

 それでも、カイの心にそれは届いた。だってその願いは、故郷を飛び出す自分の願いそのものだったから。閉鎖された故郷だけでなく、世界を見たいと飛び出したのはカイ本人なのだ。気まぐれに出した言葉などでは、ない。


(君が忘れなかったら。君の『外に出たい』が、『逃げたい』に変わったら。君がそれを、俺に打ち明けたら。……その時は)


 叶えてやろう。カーシェルに詰られても、アスールを怒らせても。

 契約具を渡して、主と仰ぐ。命をかけてでも守る。カイにとって命を捧げる相手は、この幼い姫君だったのかもしれない。


 カイの覚悟は決まった。だから、それを実行させてくれるな。イリーネに『辛い』なんて言わせるな、とカイはカーシェルに念を送る。何が幸せなのかは分からないけれど、多分、イリーネは城にいるべきだと今は思うから。


 そんなことを考えているうちに、イリーネはすっかり夢の世界の住人になっていた。仕方ないと諦めて、カイはもぞもぞと寝直す。イリーネの小さな身体を、豹の大きな躰ですっぽりと包みこんだ。これならそれなりに暖かいだろう――朝になって「身体が痛い」と言っても、知ったことではない。





★☆





 まったく懲りた様子のなかったイリーネは、やはり夜が明けても懲りていなかった。それどころか、カイと交わした約束を覚えているのかすら怪しかった。約束し損である。

 しばらくは反省したふりをして大人しくしていたものの、少しカーシェルたちの警戒の目が緩むとすぐにイリーネは脱走した。少し遅めの第一次反抗期がやってきたのだろうか――とカーシェルは怒るのも諦めて首を捻っている。まるで父親みたいに見えるが、そういうカーシェル本人だってそろそろ思春期の第二次反抗期が来る――とは思えないな、うん。


 そうはいっても、裏庭の足場はカイが崩してしまったため、イリーネが脱走する場所はひとつしかない。堂々と門から出ていくのだ。カイが昼寝しているのを見計らってそっと出ていくが、生憎カイにはばれている。

 最初のうちはその時点でイリーネを捕まえていたが、何度失敗しても懲りないイリーネの執念に負けて、一度は見逃してやることにした。まんまとカイを出し抜いたと喜ぶイリーネは、未知の世界をあっちに行ったりこっちに行ったり。明らかに迷子になっているのに、それでも泣いたり喚いたりしないイリーネは素直にすごいと思う。

 頃合いを見計らって、当然尾行していたカイが姿を見せて、彼女に『今日の探検』の終了を告げる。そこまで好きにさせるとイリーネも満足するのか、抵抗もせずカイの背中に乗って、上機嫌で離宮へ帰る。時折その尾行にアスールも加わるようになり、ふたりではらはらしながら小さなお姫様の探検をこっそり見守るのだ。ヒトの姿と獣の姿を使い分けることもできるが、アスールがいれば『犬の散歩』を装うこともできる――多少無理はあるけれど。


 必ずカイがイリーネについて行くので、今のところ大騒ぎに巻き込まれるようなことはない。そもそもイリーネは民衆に顔も知れていないし、彼女の足ではそう遠くまでは行けない。探検といっても、規模は些細なものなのだ。

 カーシェルはカイを信頼してくれているから、イリーネには小言を言うくらいで済ませているようだ。だが、さすがに任せきりもまずいと思ったのだろう。彼は時々、イリーネを連れて王城内やその周辺を散歩するようになった。面白いことに、そうするとイリーネの脱走は目に見えて回数が減ったのである。


(寂しかった、のかな)


 多分、そうなのだろう。このまま状況が良くなれば、イリーネが脱走することはなくなるかもしれない。


 しかし、イリーネを離宮に留めておくよう指示を出したのは、勿論カーシェルではない。だというのに、イリーネを離宮の外へ連れ出しているカーシェルの行動は、完璧に独断だ。いくら王太子といえど、イリーネを隔離することを指示した人間には気に食わない行動のはずだ。

 そうした輩から直々に「お咎め」がきたのは、カイが離宮に住みついてから十か月ほど経った頃のことだ。

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