◆箱庭の姫君は笑う(4)
「おはよう、ミルク!」
カイの朝は、イリーネの元気な挨拶から始まる。
彼女が持って来てくれた朝食をもそもそと食べながら、カイはイリーネの話を聞く。大体は昨夜の話とか、今日見た夢の話とか、一日の予定の話などだ。狭い離宮の中でも、イリーネの世界は十分すぎるほど広いのだ。この外にどんな世界が広がっているかなんて、彼女は知らないのだから。
カイが朝食を食べている間に、少し離れた場所でカーシェルとアスールは木刀を持って向き合っている。ここに来てから、毎朝そうだ。朝食前の日課なのだろう。朝の運動というにはいささか激しい稽古のような気がするが、まあ何も言うまい。
「ほらっ、アスール脇が甘いぞ! もっとしっかり打ちこんで来い!」
「ちょ、まっ……手加減してよ、カーシェル! 痛い痛い!」
「泣き言を言うな。お前をこの一年でしっかり鍛えてくれと、ソレンヌ様から頼まれたんだからな」
「母上、いつの間にそんなことを……!」
木刀を軽々と振ってアスールを攻めるカーシェルの腕は見事なものだった。化身族の武力を頼るようになった現在、人間が自ら前線に立つということはそうなくなった。勿論軍隊などは別であるが、一般的なハンターの武装は猟銃である。剣を持つハンターはあまり見かけなかっただけに、カイには新鮮な武器だった。
貴族の子弟が、嗜みとして剣技を身につけることがあるとは聞いたことがあったが――カーシェルのそれは、明らかに実戦的なものだ。木刀をただ振り回しているだけではない。軽くではあるが、的確に相手の急所を狙っている。
「お兄様はね、すごいの! 毎年開かれるお城の剣術大会で、優勝するくらいなんだよ! 大人のヒトにも勝っちゃうの」
イリーネが我が事のように自慢する。それは、確かにすごい。頭がいいとは思っていたけれど、戦いもできるのか。
(……まあ、まだまだ俺には勝てそうにないけどね)
いささか大人げなく、カイは内心で十歳児と張り合っている。そんなことも知らず、カーシェルは気さくにカイに声を投げかけた。
「ミルクも一緒に訓練するか? お互い良い稽古相手になれそうだ」
「だ、だめだよお兄様! ミルクに怪我させたらどうするの!」
「はいはい、冗談だよ」
「僕としては代わってもらいたいんだけどなぁ……」
アスールは情けなくそう嘆くけれど、カイから言わせれば彼だってまるきり素人というわけではない。現に防戦一方ではあるけれど、しっかり防御は出来ている。剣の構え方や足運びもカーシェルのものと似ているし、そう捨てたものではないだろう。
(根性とか度胸が足りないんだよなぁ、この子は。そういう性格なんだろうけど、剣士としては優しすぎる)
そう分析したが、カイは根性も度胸も語れるような身の上ではなかった。何せいまカイがアスールに思ったのとまったく同じ言葉を、カイは故郷で散々父のゼタから投げかけられたのだ。
まあ、それでもカイはここまで強くなれた。アスールだって、諦めずに続ければそれなりになるだろう。――とはいえ十五年後にアスールがあんな傑物になるとは、このときのカイは知る由もないのだ。
「みんな、朝ご飯にしましょう。手を洗って、あがっていらっしゃい」
そのうち、離宮の窓を開けてエレノアが手を振ってくる。
今朝もいい感じにぼこぼこにされたアスールと、まるでストレス発散でもしたかのように爽やかなカーシェルは、その声で稽古を終わりにして引き上げる。イリーネもカイに手を振って邸宅内に戻った。これから彼女たちは食事を摂って、おのおの勉強に励むのだ。また昼頃になれば、イリーネは庭に出てくるだろう。彼女一人だけの時もあるし、カーシェルとアスールどちらか片方、もしくは両方ともが加わることもある。
それまで、カイは昼寝の時間だ。ヒトの姿でいるときはそうでもないが、豹の姿でいるときは極端に夜行性に傾いてしまうのだ。当然イリーネたちがそんなことを配慮してくれるわけもないので、休めるときに休んでおくに限る。午前中のこの時間は、もっぱら寝て過ごすのだ。
『どうもミルクは野良犬らしい。引き取り手も見つからないし放り出すのは可哀相だ。このまま自分たちで飼おう』――とでもカーシェルは説明したのだろうか。ずっと一緒にいられると知ってからのイリーネは、一層カイに懐いてきた。それまではカイの頭を撫でたり触ったりするのが関の山だった。しかし最近は、背中に乗ってみたり、カイの腹を枕代わりにして昼寝したり、良い御身分である。
まあ、一日中することもないのだ。ある意味では運動になるし、日頃は鍛錬などしないカイでもさすがに足腰の衰えは気になってくる。犬らしくイリーネが投げたボールを取りに行ったり、彼女と一緒に庭を散歩したり――。
「う、うわぁッ!? なんで僕を追いかけてくるんだよ、ミルク!?」
「アスール、頑張って逃げろよ」
「見てないで助けてよ、カーシェル!」
「ミルクは手伝ってくれてるんだよ、お前の基礎訓練を。走り込みだと思ってしっかりやれ」
「そんなの頼んでないッ」
半ば強引にアスールを追いかけ回し、彼の訓練を手伝ったりもした。
戦いの気配など微塵も感じない、平穏な世界――居心地は良い。一度この感覚を覚えてしまうと、他には行きたくなくなるような中毒性はあった。可愛らしいお転婆姫と、その面倒を見るふたりの王子。そんな三人を優しく見守るエレノア。彼らを見ているのは、そうそう悪くもない。
カーシェルが言っていたように、イリーネがいつか混血種や化身族を知るまで――あの子の穏やかな生活を守ってやりたい。カイも自然、そんなふうに思うようになった。契約まではしないが、それでも彼女を仮初の主と仰ぎ、傍にいてやることはできるだろう。
★☆
ところが、お転婆姫のほうはカイたちの温かい見守りなんて気付いてはくれない。
「み、ミルク! 大変だ、イリーネがいない!」
アスールがカイに飛びついてきたのは、カイが離宮で暮らし始めて三か月ほど経った頃だ。
今日エレノアとカーシェルは、公務があるとかで一日留守にしている。この時間なら、アスールもイリーネも勉強に励んでいるはずだ。
だというのに、イリーネがいない? どういうことだろう。
「家庭教師がちょっと目を離した隙に逃げ出したんだって! 使用人さんたちが必死で探しているけど、離宮のどこにもいなくて……もしかしたら、城の外に出ちゃったのかも」
さっきから屋敷の中がばたばた慌ただしいと思ったら、そういうことか。アスールも散々あちこち探し回ったのだろう。その末にカイのところへ来たのだろうが――。
(いやいや、犬にヒト探し頼まないでしょ、普通……)
そのくらい切羽詰っているのかもしれないけれど、さすがにどうなんだ。カーシェルがカイを犬扱いしていなかったから、アスールもてっきり話が通じていると思っているのかもしれない。通じているから良いようなものの――。
(もしかして、勘づいてるのかな。俺が化身族だって)
隣にカーシェルがいるから気が付かないだけで、アスールだって頭の回転は悪くない。イリーネを嗜める姿は、ごくごく常識人だ。勘づいていてもおかしくない。
「ミルクなら匂いでイリーネを追えるかなって、そう思ったんだけど……無理?」
ともかく、アスールは必死だ。それもそうだろう、イリーネがどこかで迷子になって怪我でもすれば、カーシェルも悲しむ。怪我程度で済めばいいが、もし悪人に連れ去られでもしたら――。
カイは立ち上がり、離宮の庭を壁沿いに歩きはじめる。アスールも後ろからついてきた。
イリーネが徒歩で離宮を出た可能性はない。何せ、カイは離宮の入り口の庭にいつも陣取っているのだ。出ていくイリーネを見たら、すぐに止めていた。つまり、彼女はまだ離宮のどこかに隠れているか、別の場所から外に出たかだ。
とはいえ離宮は高い塀で囲まれているし、外に出てもそこはカイが追い回されたあの森林だ。どうにかして塀を乗り越えたとしても、子供の足でどこまで行けるか。
丁度離宮の真裏に来たところで、妙なものを見つけた。塀の傍に庭仕事の用の道具が置かれていたのだが、明らかに引きずった痕が地面に残っている。高所の木の枝を切るための梯子や、わざとずらして積まれた箱の類は、何者かがそれを足場にして登ったことを物語っていた。
上を見上げる。ここから塀をよじ登ったのか? ……まあ、平素から木登りやらなんやらを楽しむお姫様である。登れないことはないだろう。彼女の運動神経を、あまり甘く見てはいけないのだ。
「もしかして、イリーネはここから……って、ミルク!?」
アスールの言葉の途中で、カイは体当たりしてその足場を崩した。けたたましい音をたてて梯子が倒れ、木箱も落ちる。
(アスールに追いかけて来てもらっちゃ困るし、君はお留守番ね)
内心でそう告げて、カイは軽々とジャンプして塀を乗り越えた。常識離れの跳躍を見て、塀の向こうでアスールは腰を抜かしたかもしれない。
着地点には枯葉がうず高く積まれてあった。おかげでたいした受け身を取らなくとも、衝撃は少ない。……ここまで想定してイリーネが脱走したのだろうか? さすがに考えすぎかもしれない。
(というか、本当にイリーネが外に出たのか確証はないんだよな……アスールは匂いで探せって言うけど、ネコ科動物はイヌほど鼻が利かないんだっての)
とりあえず歩いてみるか、と足を踏みだしたところで、カイは地面に目を送った。そういえば昨日は、夕方くらいまで雨が降っていた。この森は木々が生い茂って日の光が殆ど地表に届いていないし、枯葉が腐食して柔らかい地面を形成している。さらに雨でぬかるんだ地面には――足跡が残るものだ。
じっとよく見てみて、小さな一対の足跡を見つけた時、あまりに事が単純に運びすぎていることに笑いそうになってしまったものである。
とにかくイリーネのものと思わしき足跡を追いかける。特に迷った様子もなく、一直線に森を突っ切ろうとしているようだ。離宮から出ることを許されない彼女からすれば、好奇心と探求心で胸いっぱいだったはず。迷いなんて、冒険の初めにはないものだ。カイもそうだった。大体我に返って冷静になる瞬間があるが、それはもう少し後のこと。
途中で足跡は途切れたが、気にせずカイは直進する。やがて神都カティアの居住区の城壁が見えてきた。そういえばあそこから鷲に追いかけられたのだったか。まだそんなに経っていないのに、随分昔のように感じる。
しばらくすると森は終わった。代わりに現れたのは、下町の市場に続く城門――神都にいくつかある、出入口のうちのひとつだ。住民くらいしか使わないのだろう、首都の入り口にしては寂れている。
城門に、数人の男がたむろしていた。見るからに屈強で柄が悪く、良い印象がない。化身族ではなく、純粋な人間のようだ。
その集団のうちの一人が、イリーネを背負っていた。眠っているのか、身動き一つしない。なんて無防備なんだ。
森の中で化身を解いたカイは、ゆっくりとその男たちへと近づいた。気配は殺し、足音も立てずに。そして男の真後ろで、突然声をかける。
「ねえ」
「うおっ!?」
男が飛び上がった。他の男たちも驚いて身構える。カイは真っ直ぐ、眠っているイリーネを指差した。
「その子、俺の連れなんだ。もしかして迷子になってた?」
「あ……ああ、そうだぜ。なんかひとりで泣いてたから、負ぶってやっていたら寝ちまってよぉ……」
男が引き攣った笑顔で答える。まったく信用ならない。現に他の男たちが、じりじりとカイを包囲していくではないか。
「そう。迷惑かけて悪かったよ。返してもらえる、その子を?」
この男たちの間に漂う、妙な匂い――眠り花の匂い。
真後ろから、男がカイを羽交い絞めにしてくる。口元に白い布を持ってこられたところで、やっぱりかと確信する。寸前、肘で男の腹を突いてそれを逃れる。
「ぐえっ」
「……奴隷狩り、ってところ? 化身族だけじゃなくて、人間の女の子にまで手を出すんだ?」
カイのその言葉で、男たちは演技をやめた。カイを包囲する男たちは、それぞれ手にナイフを持っている。
「このお嬢ちゃん、貴族の子だろ? 人間でもな、貴族の子供は高く売れるんだよ。久々の上玉だから、邪魔しないでくれねぇか、兄ちゃん。そうしたら兄ちゃんには何もしねぇよ」
「またまたぁ。俺が引き下がったところで、どうせ口封じするんでしょ?」
「へへっ、話が早くて助かるぜ。……やっちまえ!」
古臭い合図とともに、男たちがカイに突っ込んでくる。全員同時に攻撃してきたのは、先程の鮮やかなカイの手並みを見たからだろうか。
横からナイフを構えて突っ込んできた男の腕を、カイは片手でつかんだ。そのまま男の手からナイフを奪い取る。同時に蹴りを叩きこんで、ひとりめを伸した。
ふたりめが振り下ろしたナイフの速度は、遊びかと思うほどに遅い。多分彼らは、狩る対象を眠らせて運んでいたのだ。だから戦いはからきし、でかいのは図体だけ。
攻撃を躱すまでもない。真っ向から奪ったナイフで受け止め、足を払って転倒させる。後ろから斬りかかってきた男には、顎下から肘鉄を食らわせた。
あっという間に手下は片付いた。残るはイリーネを抱えたひとりのみ。ナイフをその場に捨てて歩み寄ってくるカイに、男はすっかり怖気づいている。そのままイリーネを解放すればいいものを、彼はナイフをイリーネに突きつけた。
「こ、これ以上近づくと、刺すぜ」
ぴたりとカイが足を止める。それで優位に立ったと思い込んだ男が、次の要求を出そうと口を開いた瞬間――男の足元が凄まじい速さで凍結を始めた。
「なっ!?」
足が氷に包まれて固定される。冷気はそのまま上昇し、男の左腕、そしてナイフを持つ右腕までもが完全に凍ってしまった。カイが溜息をつく。
「どうぞ、刺してみて」
「お、お前……賞金首!?」
カイは悠々と男の後ろに回り、イリーネをひょいと抱き上げる。小さなお姫様は、呑気に眠りこけているようだ。
「ま、待て! お前、どこの貴族の奴隷だ!? 賞金首を抱えている貴族なんて、よほど地位が高いだろ……!」
身動きの取れない男は、顔面蒼白でそう喚いた。
「頼む、見逃してくれ! 俺たちが悪かったから……!」
奴隷になるということは、貴族の所有物になるということ。魔術を使える化身族を奴隷として飼うことができるのは、本当に身分の高い者たちだけだ。大変な家柄の娘に手を出してしまったと、今になって恐れたのだろう。
カイは奴隷ではない。きっとカーシェルはそんなことを許さない。家族だと、友人だと言ってくれるはずだ。
――けれど、傍から見れば、カイもカーシェルたち『王家』に飼われている奴隷に見えるのだろうか。
「俺は奴隷じゃないし、それを報告する義務のある貴族もいないよ」
「は……? じゃ、じゃあなんで人間の娘を助けたりするんだ」
「……なんでだろうね。その氷はそのうち融けるから。それじゃ」
それだけ言ってカイは再び来た道を戻り始めた。警備に突きだそうとか、カーシェルに報告しようとかいう気は、なぜだか微塵も起きなかった。あまりの化身族の待遇の悪さが、妙に虚しい。
自分がカーシェルやイリーネの傍にいるのは、自分の自由意志だ。カーシェルもそれを強制することはなかった。彼らはこんなにも自分を対等に扱ってくれるのに、あの離宮を一歩出た途端に、がらりと世界は一変する。化身族は、奴隷としてしか生きられないのか。自由意思を持つことはあり得ないのか。損得勘定や命令でしか動くことができないような、誇りのない存在に成り下がったのか――。
「……情が移ったんだ。受け入れてくれて、頼ってもらえたのが嬉しかった。それに見合うだけの働きをしたかった。それは、俺の本当の気持ちだろ?」
自分に問いかけるように、カイは呟いた。足場の悪い森林を、イリーネを背負ったままカイは歩く。化身しても良かったのだが、久々に化身を解いたので少し身体を伸ばしたかった。
慣れないことは考えるものではない。ひとつ溜息をついて、カイは肩越しに振り返った。イリーネの赤い髪の毛が視界に入る。
「まったく。困るよ、お姫様。好き勝手に出歩いて……ちゃんとアスールや使用人さんたちに謝って、カーシェルに叱られておいでね」
眠っているイリーネにそう説教を垂れて、ずり落ちかけた少女を背負い直す。
「――でもさ、仕方ないよね。『出るな』って言われると出てみたくなっちゃう。俺だってそうだった」
王城の城壁が見えてくる。こうして歩いてみると、たいした距離はない。
「あまり心配かけないようにね」
それだけ告げて、カイは化身する。背中に乗ったイリーネが落ちないように細心の注意を払いながら、カイは塀を飛び越えた。
屋敷の入り口まで行くと、そこでアスールが待っていた。アスールの驚いた声を聞いて、使用人たちもばたばたと走ってくる。カイのことは彼らにも伝わっているので、隠れなくてもいいのは楽だ。
とにかくイリーネをそこで使用人たちに引き渡して、カイは所定の位置に戻る。庭の大樹の根元の茂み――そこに敷いた毛布の上に寝そべり、落ち着きを取り戻しつつある屋敷を見守っていた。
――証明してみせようじゃないか。契約せずとも、命じられずとも、人間と共存できるということを。