◆箱庭の姫君は笑う(3)
イリーネとアスールが持って来た冷たい水で足を冷やし、包帯で患部を圧迫しておく。処置してくれたのはカーシェルだ。普通このくらいの年齢の少年だと、包帯がうまく巻けないとかいう可愛らしい失敗をするものだろうに、カーシェルは手際が良くて非常に上手い。一国の王子様が応急処置を習得しているとは恐れ入った。
持って来てくれた果実も、さすがに美味だ。後のことはともかく、いまは大人しく怪我人ぶっていたほうが得できそう。どのみち足も満足に動けない以上、外に出ても危険が多すぎる。
「よし。これでしばらく安静にしていれば、そのうち治るはずだ」
カーシェルの言葉に、イリーネは嬉しそうに笑った。
「良かった!」
今日出会ったばかりのカイの怪我の治癒を、この姫様は自分のことのように喜んでくれる。動物が好きなのか。
「母上には俺が伝えておくから、イリーネはちゃんとその犬の面倒見るんだぞ」
「うん!」
「ただし、他のヒトにはこいつのこと喋るなよ。城の中で勝手に犬を匿っているなんて知れたら大問題だからな」
「うん!」
「……ほんとに分かってるのか?」
カーシェルは笑ってそう言う。分かっていないかもな――素性の知れない化身族を身辺に置いておく、その危険なんて。
ここまでの話を聞いているだけでも、カーシェルには随分な権力があるようだった。王城と言っても彼らが出入りしていた邸宅は小規模だったし、離宮のようなものだろう。「母上に伝える」と言った以上は王妃にあてがわれた場所なのだろうが、その全権はまるでカーシェルにあると言わんばかりだ。王子や姫が供も連れずに庭を出歩いていることも、王妃やカーシェルの力が働いているのだろう。
にもかかわらず、カーシェルがカイの滞在を許したのはなぜなのだ。諜報員だとか、よからぬことを企んでいるだとか、そんなことは考えなかったのか。
(……足を怪我して王城に迷い込む間抜けに、諜報なんて真似はできないよな)
そう自己完結してカイは自虐する。今までの人生で最大の汚点だ。ニキータに知れたら、笑い転げられるに決まっている。
「しばらく世話するんだったら、呼び名があったほうがいいんじゃないかな」
アスールがそう提案する。カーシェルが警戒していないから、アスールもカイに向けていた怯えや不安を消したようだ。
主体性のない奴――。
「呼び名ね」
カーシェルは何か言いたげにカイを振り返る。それから、視線をイリーネに転じた。
「イリーネ、何か名前を」
「んっとねー、じゃあ『ミルク』!」
もうちょっと悩んでくれよ、とカイは内心で溜息をつく。ミルクって、見た目まんまだろう。というかカイの体毛は白ではなくて銀だ。
いや、まあ五歳児に何を言っても仕方ないのだけれど。犬の振りをすると決めたからには、飼い主に従わないといけないのだけれど。
「まあいいか。それじゃミルク、しばらくよろしくな」
そんなこんなで、カイと王子たちの奇妙な共同生活が始まった。
カイが予想していた通りこの邸宅は離れで、元々はカーシェルの母である王妃のための場所だったそうだが、今はイリーネが使っているらしい。警備に当たる兵や侍女たちも王妃が実家から連れてきた使用人たちで、絶対の信頼が置けるという。
「あら、綺麗な毛並み。私はエレノアよ、よろしくね、ミルク」
そう笑顔で挨拶してくれたのは、王妃とは思えないほど優しく穏やかな女性だった。若々しくて美しい。目元などはカーシェルにそっくりだ。
彼女――王妃エレノアは元神姫だ。神姫は王族の未婚の娘が、数年間務める教会の役職。つまり、「王族の未婚の娘」がいないときは、神姫が空位の時代も当然のようにある。本来王族ではないエレノアだが、王族にも次ぐ高貴な家柄ということで特別に神姫に据えられたのが二十年ほど前。そののち、国王ライオネルへ嫁いだことをきっかけに神姫の座から下り、現在に至るまでその座は空位――ということらしい。
神姫というからもっと神々しいのかと思っていたが、案外普通のヒトだ。というか、カイのことを化身族だと気付いているだろうに、まるでそんなそぶりを見せない。もしかして分かっていないのか――と疑いたくなるほどだ。
カーシェルとイリーネは、正確には異母兄妹だった。もうひとりメイナードというイリーネの実の兄である王子がいるようだが、この実兄と実母とは、イリーネはうまく行っていないらしい。まあ、大方混血種であることが原因なのだろうけれど――イリーネは大して気にしている様子がない。カーシェルを兄と慕い、義母エレノアを母と慕う。ごくごく普通の、母子の関係だ。
アスールはというと、同盟国サレイユの第一王子だった。留学という形で、一年間リーゼロッテに滞在するのだという。つい先日到着したばかりだそうだが、イリーネには早くも懐かれているし、カーシェルも弟のように可愛がっているようだ。――弟のようにと言っても、カーシェルとアスールは同い年なのだけれど。毎日勉強に武術に遊びにと、楽しく異国生活を満喫しているようだ。
――とまあ、ここ数日でカイが仕入れた情報はこの程度だ。自ら探ったわけではない、暇を持て余したイリーネが勝手にカイに向かって喋ってくれるのだ。そんなに口が軽くていいのかなあと思いつつ、カイは黙ってイリーネの話を聞いている。
イリーネが暇になるのは仕方ないのかもしれない。兄たちとは違って、彼女は女の子でまだ幼い。学ぶことと言っても、彼女が家庭教師から習っているのは文字の読み書きと楽器の演奏と踊りくらいなものだ。これでも庶民からすれば大変だが、楽器も踊りも遊び感覚でイリーネはやっているらしい。いつも新しく覚えた歌や踊りがあると、一番にカイに見せてくれるのだ。
「ほら、くるくるーってね、回れるの! 前はここで足がつっかえちゃったんだけど、もう大丈夫になったんだよ。先生も褒めてくれた」
嬉しそうに、イリーネは舞う。カイは「すごいね」と褒めてやることもできないのだが、ただ自分の踊りをカイが目で追ってくれるだけでも、彼女は幸せなのだ。言葉なんて、必要ないのかもしれない。
勿論、遊んでいただけではない。イリーネはきちんとカイの世話をしてくれた。主に食事の世話であるが、いつも決まった時間に食べるものを持って来てくれる。食事の中身はおよそ犬に与えるものではないのだが、イリーネは特に疑問に思っていないらしい。カーシェルはカイが肉類が苦手だということも察して、それを避けた食べ物を持って来てくれる。一番のお気に入りのメニューは、サラダパスタだ。化身したままでは少々食べにくいが、味は文句なしである。
カーシェルは『犬の振りをしろ』と言ったくせに、カーシェル本人がカイを犬扱いしないのだ。そのおかげで惨めな思いをしないで済んでいるのは確かなのでフォローは有難いのだが、なんというか複雑である。
(なんか、この豪華な生活に慣れちゃいそう)
夕食を終えると、そこから夜の時間はカイにとって静寂の時となる。イリーネたちは部屋に戻り、外出は禁止だ。カイのほうは、離宮の裏庭でまったりのんびりと過ごすのだ。イリーネは一緒に室内で休もうと言ってくれたが、さすがにそれはカイもカーシェルも反対だった。犬は犬らしく、外飼いするべきだ。
毛布を一枚もらって、カイは大きな木の下の茂みに丸くなる。いい具合に空間があって、茂みのおかげで夜風も防げる。それに、位置的に離宮の出入りが一番よく確認できるのだ。何があっても、すぐ反応できる。
足の具合は、もうだいぶ良い。走る分にも影響はないだろう。ただ、せっかく見つけた安住の地をむざむざ捨てると言うのも、勿体ない気がする。城から出てもどうせすぐハンターに見つかってしまうし、それも面倒臭い。とはいえずっとここにはいられない。どうしたものか。
すると、邸宅の扉が開いた。正面の玄関ならともかく、その扉は庭に出る裏口だ。夜間そこが開くことは滅多になかったので、何事かとカイは顔をあげる。
ランプを持って庭に出てきたのはカーシェルである。真っ直ぐにカイが寝そべっている大樹まで歩いて来て、丁度カイと木を挟んで背中合わせになるように座る。カイの視界の端で、ランプの仄かな灯りだけがちらつく。
「結構寒いな。毛布一枚で大丈夫か?」
背後からカーシェルが問いかけてくるも、カイには答えようがなかった。それに元々カイには豊かな体毛があるし、毛布がなくてもこのくらいならなんてことはない。
わざわざこんな時間に、カーシェルはカイのところへ来たのだ。しかも、姿が見えない位置に座って。何か話があるに違いない。
「君がここに来て、十日経ったな。よほどの重傷じゃなきゃ、そろそろ捻挫は治っていると思うけど」
(ああ、それか。ま、やっぱり出ていくしかないよなぁ)
このしっかり者王子は、うやむやにはしてくれないらしい。覚悟を決めて立ち上がりかけたのだが、次のカーシェルの言葉を聞いてカイは耳を疑った。
「ここが気に入ってくれたのなら、このまましばらく生活を共にしてくれないか?」
背後を振り返っても、そこにあるのは茂みと木の幹のみ。
――そうか、だからカーシェルは、カイと背中合わせに――。
カイは数日ぶりに化身を解いた。月夜に輝く銀髪を掻き上げて、木の幹に背をもたれる。
「どういうつもり?」
唐突に返事をしたカイに驚くでもなく、向こうにいるカーシェルの声が返ってくる。
「傍にいてほしいんだよ。イリーネの傍に」
「番犬として? 悪いけど、契約具をくれてやる気は――」
「分かっている。勿論、契約を強いるつもりはない。嫌になったら、いつでも出て行ってくれて構わない」
カーシェルの言わんとしていることが分からない。十歳児の思惑に翻弄されるなんて、やっぱりなんだか複雑だ。
「イリーネはこの離宮から出ることを許されない。どうしてだか、分かるか?」
「……混血種だから、でしょ」
「そう。けれど、数年したら出なければならないんだ。神姫として」
神姫――リーゼロッテに存在する、女神教の崇拝の対象。女神エラディーナそのヒトとして信仰を集める、平和の象徴。
「母上以降、十年近く神姫はいない。いずれイリーネが成長したら、その座を継ぐことになる。そうなったらあの子は、毎日大勢の見知らぬ者に囲まれるんだ。普段は教会で暮らして、ここに戻って来られることもそうない。俺も、兄だからといって簡単には会えなくなる」
カーシェルの声は、ひどく静かだ。カイの鋭敏な耳ですら、感情は読み取れない。
「君はどう思う? 混血について」
そう問われて、カイは考える。混血種――人間と化身族の混血。どちらの特徴をより受け継ぐかはヒトによってまちまちだが、イリーネのように魔術まで使える混血は珍しい。……人間にとっては、喜ぶべきことではないと思うけれど。
「どうも思わない。人間と化身族の血をどっちも継いでいるだけだよ。そのことを指摘して差別するのは、暇人のすることだ。気にすることじゃないさ」
率直にそう答えると、カーシェルがくすりと笑ったのが聞こえる。
「まったく同意だ」
「……リーゼロッテは、反化身族の気風が強いでしょ。君はそういうことはないの?」
カイから質問をぶつけると、カーシェルの返事はすぐに返ってくる。
「それこそ馬鹿馬鹿しい。人間も化身族も、同じ世界に暮らす同じヒトだ。変わりなんてない」
「気が合うね」
「これは俺個人の話だよ。この国は確かに化身族に厳しい。先のヘルカイヤとの戦争で、尚更。イリーネが君を犬だと思い込んだのは、単純に化身族を見たことがないからなんだ」
ずっとこの離宮で暮らしているのなら、それも仕方ないだろう。この十日間、この離宮を訪れた者はいなかった。イリーネの世界はこの離宮のみ――暮らす住人は、エレノアとカーシェルとアスールとカイ、そして数人の使用人たちのみ。小さな箱庭だ。
「イリーネはいずれ知ってしまう。混血種と呼ばれることの意味と、魔術が使える理由――そして、君が化身族だということを」
「そうだろうね」
「だから、君にイリーネの傍にいてほしい。君はイリーネの治癒術を知って、それでもあの子を恐れないでくれた。きっと後々のイリーネにとって、君という存在は大きく、特別になる。俺はあの子の優しい治癒術を失いたくないし、化身族に対する偏見も持たないでほしいんだ」
人間だけでなく、化身族の中にも混血種を嫌う者は多い。そういう意味で、イリーネの治癒術を見たカイの反応は特異なものだったが――カイのように「嫌わないでくれた」人物がいたということは、イリーネにとってどれだけ大きな意味を持つだろう。
「そのために俺は、君を利用したい」
いつかイリーネが真実を知って傷ついても――カーシェルやアスール、カイと過ごした時間を思い出せるように。
――それだけ深く、イリーネに関われとカーシェルは要求してきているのだ。カイにとっては、かなり大きな決断だった。ここで暮らすのは苦ではないし、賑やかなイリーネたちも気に入ってはいるが、そこまでする覚悟はそう簡単にはつかない。
しかも、イリーネがカイを『犬』だと信じている間は、カイも犬として振る舞わなければならないのだ。色々加減が難しそうだ。
「俺はこのお城に迷い込んだ、間抜けな化身族だよ。そんな俺が、可愛い妹ちゃんの傍にいていいの?」
「これでもヒトを見る目はあるつもりだよ」
「……君さぁ、実は二十歳超えてたりしない? 俺、だんだん誰と喋ってるのか分からなくなってきたよ」
「はは、ただの子供の背伸びだよ。これでも内心びくびくしているんだ。正直、それが良い方法なのか分からないし」
その言葉が本当だとしたら、たいした役者だ。
「どうだろう? ここにいる間の生活は保障する。ハンターも入って来られないし、外敵はまずいない」
――リーゼロッテ神国は、ヘルカイヤ公国を滅ぼした。カーシェルたちは、ニキータの敵だ。
だからこそ、カーシェルたちに味方するのも面白いかもしれない。そんな僅かな皮肉が、カイの中に浮かんだ。
流れに身を任せるのも、悪くはないか。
「ずっと旅暮らしをしてきたけど、それも飽きた。どこかに定住しても良い頃合いかもしれない」
「それじゃあ……」
「匿ってくれた恩もある。君の望み通りにするよ。イリーネの傍にいるし、あの子を守る。……ただし、何かあった時にはすぐ斬り捨てろ。あまり俺に情をかけちゃいけない。それが権力者ってものだよ、カーシェル」
それだけ告げて、カイは再び豹の姿に化身した。それを察して、反対側でカーシェルが立ち上がったのが見えた。
「ああ……分かっている。ありがとう、ミルク」
カイは毛布を敷いた地面に寝そべり、静かに目を閉じたのだった。