◆箱庭の姫君は笑う(2)
この十年何をしていたかと聞かれると、カイの答えは「何もしていなかった」である。ニキータと別れてからカイはずっとフローレンツに留まっていた。年中涼しい気候も気に入っていたし、何より他人に構っていられないくらい厳しいフローレンツの生活というのが、カイへの注目を集めなかったのだ。二十歳を過ぎてから身体の成長が止まってしまったので、ひとつの場所に定住することもできない。ふらふらとフローレンツ国内を旅して回り、気が向いたらニムの山を越えてイーヴァンに行ったりもした。
そのうち、カイは独自の生活の仕方を見つけた。化身族であることを隠そうとはしなくなったのだ。ヒトとして街で暮らして働く時期もあり、そうして稼いだお金で食料を買って、獣としてしばらく過ごす時期もあった。そのふたつの生活を使い分け、カイはだらだらと生活したのである。
戦争が始まる数年前から、リーゼロッテとヘルカイヤはいよいよ険悪な関係になっていた。リーゼロッテの同盟国であるサレイユも兵を出すとかいう話も合って、カイはニキータの助言通りそれらの国には近付かなかった。これも、カイがフローレンツでくすぶっていた理由だ。
二年近く続いたリーゼロッテとヘルカイヤの戦争は、ヘルカイヤ公国の降伏で幕を閉じた。――らしい。風の噂で聞いただけなのでそれが全てではないだろうし、終戦から随分経ってから流れてきた話なのだ。
あのやたら強そうだったニキータが、負けたのか。そう驚きもしたが、別にニキータ個人が負けた訳でもないだろう。国同士の戦いなら、個人の武勇など関係ない。これ以上の戦闘継続が難しいからと、完全に負ける前に自ら白旗を上げたということだろう。
ニキータは生きているはずだ。死んだという話は聞かない。ヘルカイヤの家臣は散り散りになったというし、どこかで何とかやっているだろう。
(ちょっと、様子見に行ってみようかな)
柄にもなくカイはそんなことを思った。いや、ニキータを探しに行くつもりではない。ずっと暮らしていたフローレンツを出て、他国を見に行ってみようと思ったのだ。
終戦後すぐの今は、リーゼロッテもヘルカイヤも危険だろう。もう少し事が落ちついてほとぼりが冷めたころ、忌避していたリーゼロッテに入ってみようか。そんな風に考えて、カイはのんびりと移動を開始した。
★☆
のんびり、のんびりを心がけていたせいで、イーヴァンを抜けてリーゼロッテに入り、神都カティアに到着したときには既に、終戦から四年近く経っていた。どうも寿命が長いと、時間の流れに無頓着になる。故郷を出てもう十四年も経っているなんて信じられない。まだまだ子供だったあの時から、何か少しでも成長しただろうか。……している気がしない。ヒトとは必要最低限の会話しかしなかったし、名前を教え合うほど親しくなった人間なんて皆無といっていい。それでもなんとかやっていけていたのだから、まあいいか。
リーゼロッテ神国の神都カティア。豊かな森林に囲まれた、人口が大陸で最も多い都だ。歴史の古さを感じる重厚で貫録のある街並みと、それに相応しい紳士淑女たち。リーゼロッテは女神教の総本山だし、聖職者が多いのだ。息苦しい感じがして下町に降りてみると、こちらにはどこにでもある庶民の市場があった。身分ごとに生活区域が分かれているのだろう。
(……でも、化身族が嫌われているっていうのは本当なんだな。ハンター以外の化身族を見かけない)
あてもなく裏路地を歩きながら、カイは思う。フローレンツやイーヴァンでは、街で暮らす化身族もちらほら見かけたのだが――見事にこのカティアには化身族がいない。
化身族は、なんとなく相手が人間かそうでないかが分かる。ハンターとしてしか化身族が存在を許されないこの街で、ふらふらひとりで歩いている未契約の化身族を見つけたら――。
「おい、そこのケモノ!」
――呼び止められるに決まっている。
仕方なく振り向くと、そこにいたのは猟銃を構えた人間と、すでに鷲の姿になった化身族だ。
「見ない顔だが、相当強いケモノだな。どこかの貴族の奴隷でもなさそうだ」
奴隷。そんなものがリーゼロッテにはいるのか。……いるだろうな。化身族を『ヒト』だなんて認めてはいないようだし、鎖をつけて飼いならせば化身族の力は圧倒的なのだ。
「言っておくけど、俺には別に賞金なんてかかってないよ。狩っても無駄無駄」
「ほう? 名前はなんだ?」
「……カイ」
馬鹿正直に答えることもなかったかなと、答えてから思い直す。しかし予想に反して、ハンターの男はカイの名前に反応した。
「ハンターの情報網を舐めるなよ。【銀豹】……聞いたことがある。フローレンツを根城にしていて、【黒翼王ニキータ】の弟子だっていう噂も」
「俺はあいつの弟子じゃないんですけど」
訂正してから、それが男の知っている噂話を認めたことになると気付いた。男も確証を得てにやりと笑う。
「今やお前も、立派な賞金首だぜ。六十万ギルじゃ師匠の【黒翼王】には遠く及ばないけど、人間が生きるには十分すぎる金額だ」
「だから弟子じゃないってば」
カイの反論虚しく、問答無用で鷲が襲い掛かる。鷹より大きなトライブ・【イーグル】――ただでさえ飛べないカイに不利だと言うのに、その大きさのせいでさらに戦いにくい。
鋭い嘴の攻撃を避けたカイは、仕方なく化身して路地を駆けだした。とにかく広くて、ヒトのいないところへ。しかしそもそもいた場所が住宅密集地だったし、相手の鷲はそんなことお構いなしだった。地上を逃げるカイを上空から捕捉し、遠慮なく攻撃を加えてくる。
目の前に高い塀がある。住宅地と外の森を隔てる壁だ。木々の間に紛れれば、鷲も追いかけてこないだろう。できればあまり戦いたくないし、撒ければそれが一番だ。
数メートルはある塀を一息で飛び越える。木々に阻まれ、鷲は上空へ逃れた。背の高い木が多くて助かった。森の中に着地したカイは、鷲が追いかけてこないことを確認して化身を解こうとした――まさにその時、背後で激しく葉が擦れる音がした。ぎょっとして振り返ると、なんとあの鷲が森の中に突っ込んできたのである。
(しつこすぎ……!)
まさか追いかけてくるとは。こうなると森に入ったのは失敗だった。路地よりさらに戦いにくくなってしまったのだ。カイは本格的に逃走を開始する。
追いかけてくる鷲がどれだけの強者なのかは知らないが、こと飛ぶ技術に関しては卓越している。木々の枝など何の障害でもないように、すいすいと飛び抜けてくるのだ。カイも木の根やツタを飛び越えながら走るが、いつもの俊足を発揮できない。
ところで、いくら獣とヒトふたつの姿を自由に操れる化身族といえど、転んだり態勢を崩したりすることは当然ある。それは強靭な肉体を持つカイも例外ではない。特にこんな悪路を、頻繁にジャンプしつつ全力で駆け抜けるとなれば――。
(――痛っ!?)
足をぐっきり捻挫することもある。
つんのめって前に転びかけた態勢を、何とか戻す。その一瞬の隙を狙って鷲の鉤爪が襲ってきて、間一髪で回避する。しかし無理な動きが祟ったのか、捻った後ろ左足が激痛を発していた。本当なら今すぐ足を止めて安静にしなければならないのだが、足を止めたら鷲の鉤爪の餌食。止まることはできない。
すると、目の前にまた高い塀が見えた。あの向こうは何だろう。カティアの一部だとは思うが、街の地形図がすべて頭に入っているわけでもない。なんでもいいから、とにかく森を抜けたい。今更方向転換などしたくもなかった。
痛む足を無視して、カイは再び跳躍する。何とか塀を乗り越えて、向こう側の地面に着地する。どうやらどこかの家の庭のようだ。芝生が敷き詰められていて、多少なり足へのダメージが和らいだ。
しかしどうしたことだろう、鷲がついて来ない。ばさばさと大きな羽ばたきが、塀の向こうでするだけだ。やがてその羽ばたきは遠く小さくなってしまう。
(……逃げた? なんで急に……まあ、助かったんだからいいか)
カイはひとまず安堵の息を吐き、後ろ足を引きずりながらひょこひょこ歩く。この家の門はどこだろう。近くには見当たらない。もしかしたら裏庭だったのだろうか。
(けど派手に捻ったなあ、かっこ悪い……どこかで休まなきゃ)
塀に沿って目立たないように移動する。茂みもあることだし、化身を解かないで進めば身体が隠せそうだ。
(にしても、俺もいつの間にか賞金首になってたのか。割と戦いもしたし、仕方ないのかな)
横手に大きな住宅が見える。この規模は、貴族の邸宅っぽい。
(……っていうか、庭広すぎじゃない?)
さっきからずっと歩いているのに、門が見つかるどころか殆ど景色が変わらないのだ。貴族の邸宅にしても、こんなに広い庭があるものなのか。
なんだかまずいところに迷い込んだかもしれないと思いつつも、痛む足のせいで歩く速さを上げられない。もう一度塀を飛び越える力もないし、急いで敷地から出なければ。
そんな焦りと、絶えない激痛が、カイの集中力を散漫にさせた。
具体的に言うと、気配も隠していない幼子の無防備な接近にも気づけないほどに。
「あ!」
少女の甲高い声。ぎくりとして振り返ると、後ろに小さな女の子がいる。ふわふわと踊るような赤い髪を持った、可愛らしい女の子――まだほんの五、六歳に見える。
隣には少年もいた。少女より一回り年上のようだ。対照的な空色の髪と瞳を持つ男の子。だがカイの姿に驚愕して、言葉も出ないようだ。
「わんちゃんだ! かわいい!」
(……わ、わんちゃん?)
あまりのことに呆然とするカイに、少女がとことことと近づいてくる。そこで少年のほうが慌てて引き留めた。
「い、イリーネ! 危ないからむやみに近付いちゃ……!」
「平気だよ! わんちゃん、おうちはどこなの? それともノラ? お腹空いてたり……」
そこまで言いかけた少女が、ふと言葉をきる。そして急に心配そうな表情になって、そっとカイの頬を触ってくる。小さな手だ。
「怪我……してるの?」
カイは自分の身体に視線を落とす。そういえば捻挫だけを気にしていたから気付かなかったが、森を駆け抜けた際に多数の傷ができていた。主に枝か何かが引っかかったのだろう。言われてみれば地味に痛い。
「じっとしててね」
少女はそんなことを言って、カイの傷に触れてくる。そんな無遠慮に――というか、獣の傷や血を素手で触るなんて。
「イリーネ、駄目だって!」
少年が止めるけれども、やっぱり少女は制止を聞かない。何をするんだと首を捻った瞬間、イリーネという少女が触れていた部分が急に暖かくなった。
(!? ……治癒術だ)
イリーネは次々と、カイの小さな傷を癒していく。話には聞いていたけど、こんな術を見るのは初めてだ。
(でも、この子は人間……化身族じゃない。ってことは、混血種ってやつか……)
ものの数秒で傷をすべて癒してしまったイリーネは、得意げに胸を張る。
「もう痛くないでしょ!」
普通なら忌避するはずのその力を、彼女は誇っている。よく分かっていないのか、それとも理解したうえでのことなのか。
何にせよ助かったのは本当だ。お礼の意味を込めて、イリーネに頬をすり寄せる。少女は嬉しそうに笑った。
――が、残念ながら一番なんとかしたかった捻挫は治っていない。治癒術は外傷を治すものだから、仕方ないのは分かっていた。足を引きずっているのに気付いたのは、後ろにいた少年のほうだ。カイに敵意がなさそうなのを見て、おずおずと近づいてくる。
「あれ……足も怪我してる?」
「そうなの? 痛い?」
頷こうとして、それはさすがにやめておく。どうにもこのふたりは、カイを犬だと思っているらしい――犬が人語を理解して頷いたら、おかしいだろう。
「イリーネ、アスール、何をしているんだ? そんな隅の方で」
すると、また別の人間が現れた。それを聞いたイリーネが、ぱっと表情を明るくする。
「カーシェルお兄様! あのね、わんちゃんがね、怪我しちゃっててね」
「は?」
ひょっこり顔をのぞかせた、アスールとほぼ同年代の少年――カーシェル。
(カーシェルって……あれ? どこかで聞いたような)
何かが引っかかったのだが、思い出せない。そうしているうちにカーシェルはカイの前まで進み出て、しゃがみこんだ。そしてカイを見て苦笑する。――十歳程度の少年が浮かべる苦笑いでは、なかった。
「わんちゃんって……まったく。ちょっと触るぞ」
カーシェルはそのまま、カイの左足に触れる。ぴくりと目元を動かしたカイを見て、カーシェルは立ち上がった。
「軽く捻ったんだろう。たいしたことはなさそうだけど……」
「だめよ! ちゃんと治してあげないと」
「そんなこと言って、イリーネはこの犬と遊んでみたいだけなんじゃないのか? 犬を飼いたいっていつも言っていたしな」
「違うもん! ちょっとはそうだけど、でも違うもん」
むきになるイリーネの頭をぽんぽんと叩き、カーシェルは笑う。
「分かった、分かった。ふたりとも、厨房から冷たい水をもらっておいで。あと包帯も」
「うん! あ、何か食べるかな?」
「犬用の餌なんてさすがにないよね。ミルクとか?」
(犬用の餌!? ミルクって……本当に犬じゃん、それ)
小腹は確かに空いて来たけれど、あんなカリカリを食べたいとは思わない。味覚は普通の人間と同じなのだから。
子どもたちの好意を全力で拒否したいのだが、化身を解くわけにもいかずもどかしい。もういっそ化身解くか。そうしたら全部片付くのに。
するとカーシェルが首を振る。
「いや、そういうんじゃなくて……そうだな、俺たちが今朝食べた果物が残っていたはずだから、それがいいよ」
「分かった! ちょっと待っててね、わんちゃん!」
イリーネがアスールを引っ張って、あの大きな邸宅の中へ入っていく。残ったカーシェルは、さて、とカイに向き直る。
「悪いな。妹はどうも本気で、君のことを犬だと思っているみたいだよ」
(この子……俺が犬じゃなくて、しかも化身族だって分かって話してる)
「その足じゃ動けないだろう。怪我が治るまで犬の振りをしてくれるなら、ここを使っていいぞ。……というかあの調子じゃ、動けるようになるまでイリーネが放してはくれなさそうだけどな。観念してくれ」
唐突に思い出す。カーシェルという名と、その名の意味を。
(そりゃあ……あの鷲さんも、追いかけてこられるはずがないよね)
彼はリーゼロッテ神国王太子、カーシェル。ここは彼らが住む王城。
一番近づいてはいけないところに、カイは迷い込んでしまったようだった。