◆箱庭の姫君は笑う(1)
「ったくよぉ、お前ほど阿呆な坊やは久々に見たぜ?」
「……」
「一目見りゃ、俺が只者じゃないってのは分かっただろうに」
「うるさい」
「俺の財布狙って、盗むならともかく真っ向から勝負してくるなんてな。渡すわけねぇっての。はははっ、今思い出しても笑えるぜ」
「うるさいって言ってるだろ!」
横を歩く黒衣の大男がいつまでも笑っているのが癪に障って、つい声を荒げる。緋色の隻眼は本当に愉快そうに笑っていて、つくづくむかつく。父親に対するのとは違う反発心だ。
「そんな阿呆な坊やに、食事と寝床を出してくれたのは何? 気まぐれ?」
「そうだな、大体は気まぐれだ。あとちょっとした親切心」
「親切とか自分で言うんだ」
「おいおい、どう見たって親切だろうよ。腹を空かせたあまり挑んできた愚かな坊やなんざ、普通は放っておくか叩きのめすか警備に突きだすだろ。ところが親切なニキータ様は宿の美味しい料理を奢り、ふかふかベッドで休ませてやった。ついでにこうして、次の街まで案内しながら人間社会のなんたるかを教えてやってる。こんなに俺が優しいなんて、レアなんだぜ」
そうやって言われてしまうと、まったく反論できない。金に困ってこの大男に挑んだ無礼は事実だし、呆気なく負けたのも事実。ついでに一宿一飯の恩があるのも事実。特に行くべき場所もなかったために、話の流れでこの男に同行させてもらっているのも事実――。
「レアな優しさが、なんで俺に対して発動したわけ」
そっぽを向きながら尋ねると、ニキータは顎をつまんだ。
「勇んでこの世界に飛び込んできた同族の若者を、みすみす死なせたくないのさ」
「死……って」
「いいかカイ坊。化身族にとって死は、いつだってすぐ隣にあるんだぜ。目立つと襲われる。魔術を使ったらさらに襲われる。この世界で生きていきたいのなら、まず魔術は簡単に使うな。化身もできるだけ控える。そうして慎ましく堅実に生きる者だけが、人間社会で存在を許されるんだ」
慎ましく堅実に――そんな穏やかな気性の化身族など、いるのだろうか。
「それが嫌なら、完全な獣になるしかない。街には寄らず、化身も解かない。襲ってくる敵を狩って、それを食らえばいい」
「……そんなの、嫌だ。気持ち悪い」
「なら、自己主張しない生き方を覚えろ。昨日俺に向かってきたお前は最初から化身して全開、魔力も使いたい放題。真っ先に狩られちまうぜ」
狩られる――ハンターに、賞金首として。よくこっそり出かけていたニムの街で、ヒトの生活は見ていた。ハンターたちは魔術を使う化身族に賞金をかけて、競って狩るのだという。そうして狩られた化身族たちはそのハンターの所属する国の軍に組み込まれたりなんなりと、散々な末路を辿るらしい。
それを避けるには、さっさと手頃な契約主を見つけるか、化身族だとばれないように暮らすか、誰が来ても返り討ちにできるくらい強くなるしかない。
そう思えば、フィリードの集落を出て最初に出会ったのがニキータで運が良かったかもしれない。人間の街では何をするにもお金が必要だということを知ってはいたが、カイにはそれを手に入れる手段がなかったのだ。だから傍を通りかかったニキータの後をつけ、路地に入ったところで襲い掛かったが、逆に誘導されていたと気付いたときには遅く、呆気なく伸されてしまった。あまりに無知なカイを、ニキータは放っておけなかったのだろう――確かに親切な親父だ。
「ニキータは、どうやって生きてるの?」
「俺か? 俺はこうやって街から街へ渡り歩きながら、こつこつ仕事をして稼いでるんだよ」
「仕事?」
「そ、日雇いの仕事。もっぱら重労働だが、人手なんかそこら中で欲しがっているからな。実入りは良いぜ」
つまりニキータは、化身族であることを隠しながらヒトとして生活しているのだ。
それは――カイの目指す道と、同じような気がする。
「やってみるか? 俺の生き方」
にやり、とニキータが笑って見せる。魅力的な提案だった。父親と伯父に啖呵を切って故郷を飛び出してきた手前、フィリードに帰ることはできない。ニキータについて行けば、ひとりでどうにか生きられるようにはなれるかもしれない。
「やってみたい」
「へえ、いいのか、そんなあっさり。本当は俺めちゃ悪い奴で、お前のこと騙してハンターに突き出しちゃうかもよ?」
「……あんたは、強いみたいだから。本当に力があるヒトは、卑怯なことなんてしない」
それはカイの本音だ。ニキータはぽんぽんとカイの頭を叩く。
「実に化身族っぽい考え方だが、まあいいさ。一人旅もいい加減飽きてきたところだ。そんじゃまあ、これからよろしくな、カイ坊」
「坊やじゃないからっ」
素直に頷けなくて、カイはニキータの手を振り払う。ニキータはにやにやと笑みを浮かべたままだ。
「いくつ?」
「……二十歳過ぎたところだけど」
「なんだよ、まだ成長期じゃねぇか。百歳以上離れてたら坊やに決まってんだろ」
「え、嘘、おっさんだとは思ってたけど百歳超えてるの……? うわ、超おっさんだ……むしろおじいさん……」
「てめっ、おっさんって言うな! 鳥族は獣族より長命なんだから、俺はまだまだ若い方だぞ!」
どうやらニキータに一矢報いることができたらしい。
人間社会での生活の幸先は、結構良さそうだ。
それからカイは、一か月半ほどニキータと行動を共にした。
その時になってやっと気づいたのだが、カイはニム大山脈の西側、フローレンツ王国に来ていたらしい。山中の集落を飛び出して登山道を適当に降りてきたので、果たしてイーヴァン王国に来たのかフローレンツ王国に来たのか、さっぱり分かっていなかったのだ。そのこともまたニキータに笑われる話のタネとなってしまい、憮然とする。
ニキータはさすが年寄り――本人に面と向かって言ったら割と本気で殴られた――なだけあって、人間の街に詳しかった。というか、カイが世間知らず過ぎただけだ。日雇いの仕事の探し方、宿の探し方、食事の頼み方、買い物の仕方――そしてヒトとの会話の仕方。ニキータはいつも実践でそれを教えてくれた。おかげでカイも、すぐひとりで大体の用事をこなせるようになったのだ。カイのように若い力はどこの仕事でも重宝されたし、なんだかんだカイは要領が良かったのである。
生きていくのに必要なことだけではなく、時間があればニキータはもっとたくさんのことを教えてくれた。地図や各国の世界事情、歴史など、ニキータはそういうことに精通していたのだ。簡単な料理の作り方とか、重労働を終えた後の酒の美味さとか、生身の時の護身術とか、フィリードにいては絶対に教えてもらえなかったことだ。ニキータを「師」なんて呼ぶのは絶対御免だけど、内心では様々な知識を授けてくれるニキータに感謝していたつもりだ。
ただひとつ分からなかったのは、ニキータの旅の目的だ。街に着いて数日して、やっと生活に落ちついてきたと思った頃にはすぐ次の街へ旅立つのだ。かといって明確な目的地があるわけではなく、フローレンツ国内をあっちに行ったりこっちに行ったり。後にカイが『迂回』とか『二度手間』とかを嫌うようになった原因のひとつは、間違いなくニキータとの旅のせいだ。
とはいえカイはただの同行者。ニキータの旅の目的を問うてみる気もなく、逆にニキータもカイの素性について質問してくることはなかった。そういう関係なのだと割り切っていたので、カイは別にニキータの目的に興味を持つこともなかったのである。
そしてこの日、到着したのはフローレンツ王国の王都ペルシエだ。フローレンツは全体的にどこも貧しかったが、さすが王都はヒトも物資も多い。またここで仕事をしながら宿暮らしが始まるのだろう――そう思っていた矢先のことであった。
「見つけたぞ、【黒翼王】! ヘルカイヤの【目】!」
「あ?」
大声で背後から呼び止められて、ニキータはすっとぼけた声をあげて立ち止まった。カイも後ろを振り返る。
王都の城門近くにごった返していたヒトの群れが、わっと掻き分けられた。そうして現れたのは若い男と、巨大な獅子だ。トライブ・【ライオン】。
カイは困ったように頭を掻くニキータを見上げた。
「【黒翼王】って二つ名? かっこいいね」
「おい、棒読みじゃねぇかよ」
ニキータが強力な化身族で、賞金もかけられているというのはなんとなく悟っていた。しかし改めて白昼堂々呼びかけられるのを見ると、その予想が事実だったことを実感する。
契約していない賞金首を狩る――ハンターにデュエルを仕掛けられたら、大体の化身族は応じるものだ。だからてっきりニキータもそうするのだと思っていたのだが。
「カイ坊、掴まれ」
「はあ? 嫌だよ、なんでおっさんに抱き着かなきゃいけないのさ」
「つべこべ言ってねぇで、ほれ」
カイの拒絶など無視して、ニキータはカイの襟首を掴んだ。カイだって小柄な訳ではないのに、そんなことをされてしまうのだから、ニキータは大柄すぎる。
抗議の声を投げかける暇もなかった。ニキータは瞬きする間に化身してしまったのだ。
巨大な黒鴉――なるほど、【黒翼王】の名前の通りかもしれない。
その鴉の鉤爪に掴まれたカイの身体が、ふわりと浮く。ニキータの羽ばたきごとに、ぐんと地上が遠くなる。なんとも不安定な態勢で、慌ててカイはニキータの足に掴まる。
「敵前逃亡だよ、ニキータ」
カイがそう突っ込むが、化身したニキータが返事をできるはずもない。とにかくニキータが安全だと思う場所まで、下ろしてもらえそうになかった。
到着したのはペルシエの住宅街の先にある、巨大な時計塔の上だった。一般のヒトはまず上がって来られないほどの高さだ。カイを下ろして化身を解いたニキータは、やれやれと溜息をついて時計塔の縁に腰かけた。
「いやあ、参ったね。まさかばれちまうとは」
ニキータはそう言って苦笑する。カイも隣に座った。
「ヘルカイヤの【目】、か……なるほど」
「なんだよ?」
「ニキータの旅の本当の目的って、諜報活動だったんだね」
指摘すると、あっさり黒衣の大男は頷いた。
「お前って、ぼんやりしている割に頭の回転は速いのな」
「まあね」
謙遜もせずに頷く。これで夕日でも照っていれば雰囲気も出たものを、生憎時刻は昼時。賑わっている市街が遠くに見えるだけだ。
「空を飛べるのにわざわざ徒歩で移動していたのは、そのためでしょ。ついでに俺を連れていたのも、二人旅だと注目を浴びないから」
「ふふん、全部お前の言う通りだ。俺はヘルカイヤ公国の諜報員で、国の指示を受けてフローレンツの国情を調査中だった」
ヘルカイヤ公国は、大陸の南東部に位置する小国だ。だから情報が何よりも大事で、各国の国情を仕入れるのが重要な仕事なのだという。
「諜報員がハンターごときに正体ばれちゃ駄目でしょ」
「いやあ、まあ、そりゃそうだわな。いつもはこんなヘマしないんだが、徒歩だったのがいけなかったな。どうしたって顔は見られるし。だが、徒歩じゃなきゃ聞けない話もたくさんある」
ペルシエで素性の割れたニキータは、これ以上諜報の仕事は続行できないだろう。違う国に行くか、ヘルカイヤに戻るしかない。
「……カイ坊。一緒にヘルカイヤに来るか?」
唐突にそんな提案を持ちかけられ、カイは顔をあげる。
「俺と一緒にいたのを見られたせいで、今後巻き込まれることもあるかもしれないしな。ヘルカイヤはいいところだぜ。人間と化身族が、仲良く暮らしていける――お前にとっては理想郷みたいなところだ」
少なからずニキータは、カイに情をかけてくれているようだ。そりゃあ、最初は成り行きと計画だったとはいえ、一か月以上共に旅してきたのだ。
だからこその提案だっただろう。ニキータが暮らす国で、ニキータの庇護を受けて暮らせる。何の心配もいらない暮らし――。
(……そんなの、退屈)
カイはニキータを見やり、一言告げた。
「気が向いたら」
「言うと思ったぜ。国に属すのは嫌だとか、退屈だとか思ったんだろ、どうせ」
よく分かっていらっしゃる。カイは小さく苦笑して、頷いた。
「ひとつだけ言っておくぜ。大陸の南部には近寄らないほうが良い。特にリーゼロッテ神国は危ないな。元々化身族に厳しい国だし、ヘルカイヤとの関係も絶賛悪化中だ。いつか絶対に全面衝突が起きる。巻き込まれないようにしろよ」
「ん、そうする。……色々教えてくれて、ありがと」
「へえ、別れ際は素直だな、カイ・フィリードくん」
その言葉に、カイはぴくりと反応した。「どうして知っている」――と思わず言葉が出かけたが、寸前でそれをつぐむ。ニキータは諜報員だ、閉鎖されたフィリードの集落のことだって知っていておかしくない。ニムの麓で出会ったということと、妙に世間知らずなカイを見た時から、ニキータは気付いていたのかもしれない。
「フィリードの戦士だからね。礼儀くらい知ってる」
「そうかい、そりゃ何よりだ。次会う時は、もっと立派な戦士になってろよ」
「そっちこそヘマして死なないでよね」
「余計なお世話だ」
この日、カイとニキータはペルシエで別れた。別れがあっさりしていたのは、長命な化身族ならではかもしれない。
いよいよ、カイひとりの生活が始まったのだ。どこに行くのも、何をするのも自由。お金や荷物はニキータが全部置いて行ってくれたし、しばらく悠々と過ごす余裕くらいはある。
さあ、どこに行こうか――?
★☆
ニキータが懸念していた通り、リーゼロッテ神国とヘルカイヤ公国が衝突し――公国が滅亡したと聞いたのは、それから十年後のことだった。